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君と創る明日・1-10     月桜可南子
           act.1
 冷夏とはいえ八月に入った途端、猛烈な暑さの日が続いていた。これで三十度を超えていないというのだから、信じられない。
 クーラーのない倉庫の中は、まさに蒸し風呂状態で、商品の数量チェックをしている英夏は、今にも倒れそうだった。それでも、数量チェックの終わった商品をトラックに積み込んでいる者達にくらべたら英夏の作業などラクといわざるをえない。
 倉庫主任が、右足に障害のある英夏を気遣っての担当割り振りだ。ありがたいといえばありがたいのだが、心ない者は英夏を妬んで陰で嫌味を言ったり、英夏を仲間はずれにしたりした。
 彼らが表だって英夏をいじめないのは、英夏が社長令息の友人だからだ。およそ肉体労働に向かない英夏が、このアルバイトに雇ってもらえたのもひとえに社長令息の推薦あってのことだった。
 終業時間まであと一時間。英夏は暑さで目が回りそうなのを必死で耐えていた。ここ数日の疲れが重くのし掛かってきて、身体は鉛のようだ。覚束ない足取りで段ボールを数えていると、後ろに人の気配を感じた。
「阿川くん、休憩だ」
 肩をたたかれて振り返ると、倉庫主任の田口がポカリスエットを差し出した。
「営業一課の須賀さんからの差し入れだよ」
「ありがとうございます」
 受け取ったポカリスエットはよく冷えていて、英夏はボトルに頬を寄せると、その冷気を楽しんだ。
「向こうに行こう。少しは涼しいと思うよ」
 促されて皆がたむろする倉庫の北側に行くと、何人もの若者に取り囲まれて須賀が談笑していた。
 陸上で鍛えたという精悍な身体と少し影のある甘いマスク。入社一年目にして女子社員のファンクラブができたという逸話もうなずける。
 社長令息の伊能成利が忌々しそうに教えてくれたことを、英夏はぼんやりと思い出した。
 繊細な気配りと卓越した営業センスに、男性社員も一目置く若手ホープ。老獪な専務の覚えもめでたく、来年の人事異動では、エリートコースである海外事業部の係長に、二十七歳という若さで抜擢されるだろうと噂されている。
 父や兄とは違う『大人の男』に、英夏は強い憧れを抱いていた。


「三日で根をあげると思ったのに、ずいぶん頑張ってるね」
 成利は、英夏のシャンプーで濡れた髪を優しく拭きながら笑った。育ちの良さを感じさせる品の良い笑顔だ。
 決して揶揄されているわけではないとわかっていても、英夏はドキリとせずにはいられなかった。胸の奥に芽生えた須賀俊輔への恋心を成利に悟られたくない一心で、英夏は、わざとつっけんどんに言った。
「バカにすんなよ。絶対、契約満了までやり遂げてみせるからな!」
 アルバイト期間は、七月二十六日から八月二十五日まで。正社員が交代で夏期休暇を取るためだ。今日でその半分が過ぎようとしていた。
「英夏が、可愛い顔に似合わず強情で意地っ張りなのは知ってるけど、過労で倒れたりしたら、英夏のお母様に申し訳ないからね」
「可愛いって言うなっ!」
 ドライヤーに手を伸ばしながら英夏が頬を膨らませる。しかし成利は、英夏の怒りなど意に介した風もなく、悠然と英夏の身体を引き寄せた。
「だめだよ、もう少しタオルドライしてからでないと。ドライヤーの熱は髪を傷めるんだから」
 少し癖のある柔らかい髪を、成利は愛おしむようにタオルで包み込んで水分を拭っていく。英夏は成利のするがままになりながら、昼間のことを思い出していた。


 脚を引きずる無様な姿を須賀に見られたくなくて、英夏は田口の影にそっと身を潜めようとした。そんな英夏に、須賀は屈託のない笑顔で自分の隣の椅子を示した。
「阿川くん、ここに座るといい。ちょうど風の通り道なんだ」
 誰かがどこかから拾ってきたらしい粗末なパイプ椅子に、須賀は自分のハンカチを広げて英夏を手招く。まるでドラマのワンシーンのようなキザなことも、須賀がやるとなんの違和感もなく自然なことに感じられる。
 英夏は身体が弱いこともあり、周囲から大切に育てられたので、こういった労りには慣れているのだが、こと相手が須賀となると気恥ずかしさが先に立って、うまく御礼が言えなかった。



       act.2
「英夏、ドライヤーをかしてごらん。タオルドライはもう済んだから」
 成利の声で、現実に引き戻された英夏は、手にしたドライヤーを洗面台に放り出すと成利に抱きついた。
「早くベッドに行きたい」
 須賀のことを考えているうちに火が点いてしまった欲望を、成利に宥めて欲しかった。セックスをねだる恥ずかしさを誤魔化そうと、英夏は額を成利の胸に押しつける。こうすれば成利に顔を見られずに済むからだ。
 英夏が、軽井沢の別荘が隣同士で、物心ついたときから友達だった成利と身体の関係を持ったのは高校一年の時だった。英夏は、放埒に遊び慣れた成利に乞われるまま身体を許してしまい、封建的な旧家で育った無垢な身体は瞬く間に快楽を覚え込んだ。
「英夏の体力温存のために我慢してたのに」
 成利が、小さな子供をからかうように呟く。英夏は顔を上げると甘えるように微笑んだ。
「優しくしてくれるんだろ?」
「僕は、いつだって優しいだろう? 英夏の願いを叶えなかったことは一度もないじゃないか」
 英夏が、成利と同じ大学に一年遅れで入学したのをきっかけに、大学近くのマンションで一緒に暮らすようになって、かれこれ一年半になる。外面の良い成利は、英夏の両親から絶大な信頼を得ていたので、成利が英夏の両親を説得したのだ。
 英夏は当初、一人暮らしを希望していたのだが、過保護な両親が許すはずもなく、渋々、成利との同居を選んだ。ひとり暮らしなどすれば、心配性の母親が足繁く通ってきて実家にいるのと変わりない、と成利に諭されたからだ。
 家事は通いの家政婦が、身の回りのことは成利がすべてやってくれるので、暇を持て余した英夏は、アルバイトをしたいと言い出した。それも、母親の目が届かぬことをいいことに、「事務職ではなくガテン系のバイトをしてみたい」と成利にねだった。
 身体のハンディがある英夏のために、成利が見つけてくれたのが、倉庫の商品を在庫管理するアルバイトだった。倉庫主任の田口は、成利から何やら言い含められているらしく、まるで壊れ物のように英夏に接した。
 しかし、同年代のバイト仲間は、粗野で荒っぽく、妙なところで優しかったりと、英夏が今まで接したことのないタイプばかりで新鮮だった。正直、身体はキツかったが、皆と協力してこなす仕事は楽しかった。
 英夏が、営業一課に籍を置く須賀俊輔に出合ったのは、アルバイトを始めて二日目のことだった。コンピュータ上の在庫数が工場からの出荷数と合わないということで、現物を調べるため倉庫にやって来たのが須賀だった。
 アルバイトの何人かが須賀の作業を手伝うことになり、英夏もエクセルができるということで仲間に加わった。
 仕事が終わった後、須賀に夕食を御馳走になった彼らはすっかり意気投合した。植村と木戸は、食事の後、二次会と称して須賀のアパートで朝まで飲んで泊まってしまったほどだ。
 それからも、須賀は三日に一度は外回りの途中、差し入れに来てくれるようになり、気がつくと英夏は須賀の顔を見るのを心待ちにするようになっていた。


 昨夜、久しぶりに成利とセックスしたせいか、英夏は酷く身体が怠かった。電車に揺られるのが辛くて、バイト先の倉庫まで成利に車で送ってもらったほどだ。仕事をこなすのが精一杯で、須賀の姿を探す余裕など全くなかった。だから、須賀に声を掛けられたときは、本当にビックリした。
「ごめんよ、驚かせてしまったようだね」
 須賀は、いつもと変わらぬ爽やかな笑顔で話しかけてきた。
「い、いえ。何かご用ですか?」
 怠さも暑さもたちまち忘れて、英夏は胸をときめかせながら須賀を見つめた。
「ここの仕事はもういいから、事務所で俺の入力作業を手伝ってもらえないかな」
「入力?」
 英夏は思わず眉を顰めた。アルバイトの契約は商品の棚卸しと発送作業で、事務は契約に入っていない。
「阿川くんは、パソコンが得意だろう? 手伝ってもらえないかな。倉庫主任の田口さんには許可を取ってあるから」
 困惑した英夏が視線を泳がせると近くにいた植村と目が合った。
「阿川、須賀さんを手伝えよ。なんかおまえ、今日は身体怠そうで、力仕事じゃ、役に立たねーよ」
 植村の言うとおり、英夏はいつもの半分も作業をこなせていない。このまま皆の足手まといになるよりは、得意のパソコンで須賀の手伝いをした方がずっと役に立てる。英夏はおとなしく肯くしかなかった。


 終業を告げるベルに、英夏は小さな溜息を吐いた。クーラーの効いた事務所は快適を通り越して肌寒く、身体の弱い英夏にはそれが辛かった。
「お疲れさん。手伝ってくれて本当に助かったよ」
 何も知らない須賀が、ニコニコと労いの言葉を掛けてくれる。英夏は、それに愛想笑いを返しながらも内心、途方に暮れていた。身体が冷え過ぎたため、脚の古傷がズキズキと痛んで歩くこともままならない。立ち上がることができなくて、英夏は唇を噛みしめた。背広にネクタイの須賀には、快適と感じられる温度設定が、英夏には凶器になるのだ。
「英夏っ! 真っ青じゃないか!」
 鋭い声が耳に飛び込んできた。英夏がのろのろと視線を向けると、成利が大股で歩み寄ってくるのが見えた。そういえば今朝、仕事が終わる時間に迎えに来ると言っていたっけ……。英夏は、ぼんやり思い出した。
 成利は、呆気にとられている須賀を睨みつけると、手早く英夏に自分のジャケットを着せかけた。そして、親鳥が雛を温めようとするかのように英夏を抱き締める。
 英夏は成利の体温にホッとした。成利の温もり、成利の匂い、すべてが心地良い安心感を与えてくれる。もう、大丈夫……、そう思った途端、英夏の意識はぷっつりと途絶えた。



      act.3
 羊水にたゆたうようなまどろみの中、ゆっくりと意識が浮上する。気がつくと英夏は、全身を温水に浸されていた。
「あったか…い……」
 思わず呟いて目を開けると、気遣わしそうに英夏を見つめる成利がいた。英夏は、湯船に下着を身につけたまま横たわっていた。見慣れたマンションの浴室には、乱雑に剥ぎ取られたシャツやジーンズが散らばっている。
「良かった、英夏が生き返った」
 成利は安堵して笑い、英夏の唇に小さなキスを落とした。
「もう少し暖まったら、脚をマッサージしようね。血行が良くなれば、痛みも和らぐから」
「うん、ありがとう……」
 たぶん今夜は痛みで眠れないだろう。昼間、身体を冷やし過ぎたツケだとわかっていても、英夏は須賀を恨む気にはなれなかった。むしろ少しでも須賀の助けになれたことが嬉しい。
 英夏の無邪気な笑顔に、成利は喉まで出かかっていた叱責の言葉を飲み込んだ。可憐な外見からは想像もできないほど英夏は意地っ張りだ。「クーラーが効き過ぎで寒い」と言えば、大好きな須賀に、病弱な身体を気遣われたり、脚の障害を同情されるのが耐えられなかったのだろう。成利は、英夏の矜持がいじらしく、そしてたまらなく愛しかった。
「ミルクが温まりましたよ」
 遠慮がちに声を掛けてきたのは田口だった。成利と一緒に英夏をマンションまで運んでくれたのだ。
「ありがとう。もう大丈夫ですから、帰ってください」
 成利は、田口からホットミルクの入ったカップを奪い取ると、浴室のドアを閉めてしまった。英夏は、成利の無礼を咎めようと思ったが、口を開くのも億劫なほどの倦怠感を覚えて諦めた。


 覚悟はしていたが、その夜の英夏の苦しみは酷いものだった。明け方になって少し眠ることができたものの、ほぼ一昼夜、苦しみ続けた。夜になり、やっとスープを口にすることができて、その回復の兆しに成利は狂喜した。
「あーあ、一日欠勤しちゃったなぁ」
 窓の外を眺めながら、英夏は悔しそうに呟いた。
「もうお母様の誕生日プレゼントを買えるくらいは働いたから、無理しなくたっていいじゃないか」
 成利が、英夏をなだめるように言った。
 英夏は、親からもらう小遣いではなく、自分で働いたお金で、母親に誕生日プレゼントを買いたいからと、アルバイトをすることにしたのだ。甘やかされて育ってはいても、英夏なりに親からの自立を考えるようになっていた。五歳年上の、すでに社会人として自活している兄への対抗心もあるのだろう。
「母様へのプレゼントだけじゃなくて、成利へのプレゼントも買いたいんだ」
 その言葉に成利は絶句し、英夏は恥ずかしそうに毛布を目上まで引き上げた。
「成利の誕生日、九月だろ……いつも、面倒かけてるからさ……」
 毛布に隠れて表情はわからないが、英夏の耳が赤くなっているのが隙間から見える。成利は思わず目頭が熱くなるのを感じた。
「僕は、プレゼントなら英夏がいいな。首に赤いリボンを巻いてさ、ベッドでたっぷりエッチなことしてくれたら最高なんだけど」
 わざと冗談めかして応えると、英夏が毛布から顔を出してアカンベをした。
「そんなプレゼント、一生やらないっ!」


 英夏は生まれつき、ひ弱な子供だった。あの夏の日、あの大怪我でよく生きながらえることができたものだと思う。
 事故は、成利の目の前で起きた。その日、自転車の後輪が取れたばかりの英夏と、成利は自転車の遠乗りに出かけた。別荘から十五分ほど離れた山道を、ふたりは自転車で競って駆け下りた。幼い子供の、むこう見ずな競争。滅多に車の通らない山道に、ふたりは油断していた。
 英夏が派手に転んだその時、実に運悪く背後から車が来たのだ。英夏が車に跳ねとばされるのを、成利は為す術もなく見ていた。
 自分の愚かさを、どれほど呪ったことか……。悔やんでも悔やみきれない悪夢の瞬間だった。
 危機的状況を脱出した英夏を初めて見舞った時、英夏は痛みに耐えながら成利に笑いかけてくれた。
「心配かけて、ごめんね。だいすきだよ」
 その一言に、成利は心底救われた。一生、英夏を支えていこうと誓った。二度と英夏を傷つけたりしない。必ず英夏を守り抜くと。
 英夏のリハビリは、文字通り血を吐くかのように辛いものだった。成利は週末ごとに片道1時間、電車に揺られてリハビリ施設に通った。ともすれば投げやりになりがちな英夏を慰め、励まし、時には叱咤して英夏のリハビリを我慢強くサポートしたのだ。
 英夏の母親は、成利に深い感謝と絶大な信頼を寄せている。「英夏が歩けるようになったのは本人の努力より成利の献身あっての賜物だ」と。
 だから成利は、未来永劫、二人は一緒に生きていくのだと信じて疑わなかった。英夏が自分以外の誰かに心を奪われることなど、あってはならないことだったのだ。



       act.4
「バナナケーキが食べたい」
 おかゆのレンゲを放り出した英夏が、甘えるように言った。しかし時刻は夜の七時。近所のケーキ屋は閉店している時間だ。
「ねっ、成利。お願い!」
 英夏はそんなことなどお構いなしにおねだりする。二日間、ベッドで過ごしたことで体力が回復し、食欲が出てきたのだ。
「こんな時間にケーキだなんて、我が儘だなぁ」
「まだ『ロコロコ』なら開いてるよ」
 『ロコロコ』は、喫茶も兼ねたケーキ・ショップで、二人はドライブの途中によく立ち寄る。英夏は、この店のバナナとナッツを練り込んだケーキが大好物なのだ。
「あそこまで車で往復すると一時間はかかるよ。その間、ひとりで大丈夫なのか?」
 まだトイレまでひとりで歩くことができない英夏を気遣って、成利は躊躇した。
「一時間だって二時間だってへっちゃらさ! それに、バナナケーキを食べないと今夜は眠れない」
 力説する英夏に、成利は苦笑すると車のキーを手にした。


 マンションの地下駐車場から出ようとしたとき、成利はサイドミラーに映った見覚えのある人影に急ブレーキをかけた。
「須賀…俊輔……」
 忌々しくその名を呟くと車を降りる。須賀は、成利に気づくと軽く会釈した。
「こんばんは、成利さん」
「何しに来たんですか?」
 詰問するような成利の口調に、須賀は少し面食らった表情を浮かべた。
「阿川くんの見舞いです」
「英夏をあんな目に遭わせておいて、よくノコノコと顔を出せたものだ」
「それは……」
 須賀は絶句し、当惑したように成利を見た。
「あなたは、英夏に謝罪すれば自分の中の罪悪感を消すことができるが、英夏は違う。きっと自分の身体が弱いことを責める。いい歳をして、そんなこともわからないんですか?」
 成利の言葉に、須賀はたじろいだ。
「見舞いだなんてとんでもない。帰ってください!」
 憎しみさえ感じさせる怒りに、須賀は驚き、やがて納得したように呟いた。
「君は、あの子を愛してるんだな……」
 それは、成利に向けられた言葉ではなく、須賀自身に向けられた言葉だったが、成利を動揺させるには充分だった。成利は無言で身を翻すと、車を駐車場に戻して、マンションの部屋に駆け戻った。
「忘れ物?」
 テレビゲームに興じていた英夏が、不思議そうに尋ねる。
「やっぱり英夏が心配だから、ここにいる。ケーキは敏宏さんに頼んだから、二時間もすれば買って持ってきてくれるよ」
「兄さんに? オレ、あの人、苦手なのに……」
 商社マンである英夏の兄・阿川敏宏は、幼い頃から利発な成利を、弟以上に可愛がっていて、成利を夜の街へ連れ出して良からぬ遊びを教えたのも彼だ。年の離れた弟をからかうのが大好きで、顔を合わせる度に英夏を怒らせていた。
「玄関で帰ってもらうから大丈夫だよ」
 穏やかに微笑む成利に何か不穏なものを感じて、英夏は押し黙った。


「阿川くん、無理しないようにね。具合が悪くなったら、ちゃんと教えてよ」
 くどいほど田口から繰り返されて、英夏は情けなかった。作り笑いで礼を言い、迷惑を掛けたことを詫びる。
 結局、バイトを三日間も休んでしまったが、その分、身体を休めることができたので溜まっていた疲れが取れた。皆に迷惑をかけた分、しっかり働かなくてはと、英夏は張り切っていた。
 一方、須賀は何日経っても倉庫に顔を出さなかった。何かあったのだろうかと日々、心配が募っていく。一週間が過ぎ、たまりかねて先輩アルバイトの植村に尋ねると、「大阪への栄転が決まって、引き継ぎで忙しいんだ」と教えてくれた。
「阿川は須賀さんに可愛がられてたからなぁ。淋しいのはわかるけど、あの若さで営業主任に抜擢されたんだ。祝ってあげないとな」
 植村は、優しい声で諭すように言った。
「もちろんです。今度会ったら、ちゃんとお祝いを言います」
 英夏は自分に言い聞かせるように応えたが、内心は複雑だった。
「それなら今度の土曜に、みんなで送別会をやることになってるから、阿川も来ないか?」
「えっ…、いいんですか?」
 弾かれたように顔を上げた英夏に、植村はちゃかすように言った。
「泣いたりすんなよ」
「はい!」



       act.5
 白い肌が桜色に染まって絶頂を迎えようとしていた。成利は、英夏の身体に負担を掛けないよう慎重に追い上げていく。
「ひっ、……アッ…あ、ぁん」
 横臥位で背後からゆっくりと抽送を繰り返し、英夏のペニスを丁寧に愛撫すると英夏は甘い声で啼く。解放を求めて無意識に腰を揺らす英夏が、成利は愛しくてたまらない。淫らな身体と初心な精神。アンバランスで可愛い英夏。
 英夏を誰にも渡したくない。そのためには、どんな汚いことだって平気できる。
 英夏の父親、阿川雅俊氏は、成利の父親のビジネス・パートナーでもあった。資産家の阿川氏は、INOHコーポレーションの大株主なのだ。
 成利は、父親をうまく言いくるめて、須賀俊輔を東京から追い出すことに成功した。大阪支店への栄転という名目でだ。
 英夏も、東京と大阪という距離ができれば、やがて須賀のことなど忘れてしまうだろう。英夏の飽きっぽさ、忘れっぽさは、幼い頃から一緒にいる成利にはたやすく想像できた。
 だから、須賀の送別会に出席するという英夏を、成利は笑って送り出したのだ。それが人生最大の誤算になるとは思いもしないで……。


 須賀の送別会の翌朝、英夏が目を覚ましたのは須賀のアパートだった。窓越しに蝉の鳴き声が聞こえる。
「須賀さん、どこ?」
 須賀の返事はなく、英夏は心細さにタオルケットを引き寄せた。英夏にベッドを譲って、リビングのソファーで休んだはずの須賀はどこへ消えたのか……。
 やはり、酔ったふりをして抱いて欲しいと頼んだのが拙かったのだ。おそらく須賀は、英夏を持て余して、友達のところにでも泊まったのだろう。
 枕元の時計を見ると午前九時だった。無断外泊したことを、成利が怒っているのは容易に想像できた。英夏は、成利との関係を須賀に悟られたくなくて、ついに成利へ電話することができないまま眠ってしまったのだ。
 英夏が惨めな気持ちで寝返りを打った時、アパートの玄関ドアが開いて須賀が顔を出した。
「おはよう、コンビニで朝食を仕入れてきたから一緒に食べよう」
 コンビニのビニール袋を掲げて微笑む須賀を、英夏は呆けたように見つめてしまった。須賀は、逃げ出してはいなかったのだ。
「ひとりで心細かったのかい? すぐ戻るつもりだったから置き手紙もしなくてごめんよ。頼むから泣かないでくれ」
 困惑した須賀の声に、英夏は自分が泣いていることに初めて気づいた。
「だって、嫌われたかと……」
 須賀は、英夏の涙を指先で拭うと、真剣な表情で囁いた。
「酔った勢いで君を抱いたりしたくなかったんだ。だから言ったろう? 酔いが醒めても君の気持ちが変わらなかったら……しよう…って」
 英夏は嬉しくて夢中で須賀にしがみついた。
「もう、酔ってなんかいない。だから抱いて……いっぱい抱いて!」


 成利は、パニックになりそうな自分の心を必死で押さえつけて、まんじりともせず夜を明かした。英夏の携帯は切られたままで、成利が何度コールしてもメールしても返事はなかった。とはいえ、あちこちに英夏の安否を尋ね回れば、英夏の無断外泊が英夏の両親の耳に届いてしまう。
 成利は、朝食も昼食も摂らず、ひたすら英夏からの連絡を待った。ようやく英夏から成利の携帯メールがあったのは、その日の夕方になってからだった。
『これから、須賀さんに送ってもらって帰る』
 英夏が直接、電話を掛けてこないのは、成利の小言を疎んじてのことだろう。一晩一睡もしていなかった疲れがどっと押し寄せてきて、成利は崩れるようにソファーに身を横たえた。
 何はともあれ、英夏は帰ってくるのだ。二人で暮らすこの部屋へ。英夏が須賀と寝ようが、誰と寝ようが、そんなことは構わない。最後に帰る場所が自分の胸なら……。


 カラカラに渇いた喉の不快感に、成利は目を覚ました。キッチンのシンクで水を汲み、立て続けにグラス三杯の水を飲み干して、やっと人心地ついた。ふと、寝室の奥に人の気配を感じて覗くと、そこでは英夏がボストンバッグに荷造りをしていた。
「えいか……」
 掠れた声は、恐ろしい予感に震えていた。
「ただいま、成利。よく寝てたから起こさなかったんだ」
 寝室のブラインドの向こうには暗い闇が広がっていた。
「どこかへ…出かけるのか? 旅行……?」
「旅行じゃない。須賀さんのアパート」
 英夏は荷作りの手を休めることなく答えた。
「なんで、そんなところへ……」
「あと十日で大阪へ転勤だから、せめてそれまで一緒に暮らそうって、二人で決めたんだ」
「ふたり?」
「うん、須賀さんと……オレ」
 少し照れくさそうに英夏は笑った。 
「十日したら、戻ってくるのか?」
「もちろん! だって大学があるじゃないか」
 英夏が、大阪まで須賀に付いていくと言わなかったことに、成利は救われた。最悪のシナリオは回避されたのだ。少し長い旅行に出かけると思えばいい。英夏は自分の元に戻ってくるのだ。
「荷作り、手伝うよ」
 成利は、床に投げ出されていたポロシャツに、のろのろと手を伸ばした。 


act.6
 須賀は、英夏と一緒に荷物を運び込んできた伊能成利に仰天した。てっきり英夏が成利の留守を狙って荷物を纏めてくると想像していたからだ。
 経営者一族に生まれた者の性なのか、成利にはどこか他人を威圧するところがあった。
「英夏を宜しくお願いします。転勤の日に迎えに来ますから」
 そう言って冷ややかな視線を投げて寄越した成利に、須賀はショックを受けた。まるで、おまえなど一時の遊び相手だ、と言われたかのような気分だった。恋の勝者は自分であるはずなのに、この苛立ちは何なのか……。
 須賀は、屈辱のあまり成利を睨みつけるのが精一杯だった。


「やっと、二人きりになれた!」
 成利が玄関ドアを閉めた途端、須賀の胸に飛び込んできた英夏は、無邪気そのものだった。須賀と成利の間で交わされた視線の刃など、これっぽっちも気づいていない。その無神経さに、須賀は苛立った。
「よく、許してもらえたね。彼は君の恋人だったんだろう?」
「え…?」
 不思議そうに、さも心外だと言わんばかりに英夏は須賀を見つめた。
「成利が俺に『愛してる』なんて言ったこと、一度もないよ?」
「でも、彼は君を愛してる」
「そうなの? けど、俺が愛してるのは俊輔さんだから」
 英夏は子ども独特の残酷さで成利を切り捨てて見せた。それが須賀の愛情を手に入れたい一心からとわかっていても、須賀は何か薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。英夏の精神は、あまりにも未成熟だ。
 胸に広がる暗雲を払拭しようとするかのように、須賀は英夏に微笑んでみせると、その甘い唇を奪った。


「お代わり」
 成利は、その夜、6杯目の水割りをオーダーした。この六本木のバーは、父親が愛人に持たせた店で、成利は実の母親より、愛人の方に懐いていた。
 店のママ・頼子は、勝ち気で気位の高い母親とは正反対の、静かなおっとりとした女性だ。成利は、父が頼子と別れられないのがわかる気がする。
「成利さん、マンションまでお送りしますから、もうそれくらいになさったら?」
 やんわりと声を掛けられて振り返ると、頼子が心配そうに立っていた。薄紫のドレスが、頼子を歳よりずっと若く見せている。
「たまには酔いつぶれてみたいんだ」
「可愛いお友達のお世話はいいんですか?」
 成利の隣の席に滑り込みながら、頼子が訊いた。
「英夏なら、旅行に出かけていないよ。だから、こういう時くらいハメをはずして飲みたいんだ」
 成利がキザにグラスを掲げて見せると、頼子はうっすらと微笑んだ。
「それなら、いいんですけど。成利さんの背中……泣いているように見えたから」
「ママは、俺が泣いてたら慰めてくれる?」
 成利はからかうように頼子を見た。どこか淫靡なその瞳に、頼子は思わずたじろいだが、相手が親子ほども歳の離れた青年であることを思い出し、口元を綻ばせた。
「何か食べに行きませんか? ステーキでもお寿司でも、お好きなものを御馳走しますよ」
「チャーハンがいいな。親父が、頼子さんの作るカニ・チャーハンは絶品だって自慢してたから」
 悪戯っぽく笑う成利は、頼子が愛した男の面影を色濃く映し出していた。


 英夏は幸せだった。天にも昇る気持ちとはこういうのを言うんだろうと思う。夜ごとに激しさを増す須賀との情事で、失神したのも一度や二度ではない。
 昨日で夏休みのアルバイトが終わったので、今日からは須賀のために夕食を作ることにした。書店で購入した『簡単にできる家庭料理』という料理本を見ながら食材を刻んでいく。図らずも自分の指まで切り刻んでしまい、両手がバンドエイドだらけになったが、恋人のために料理を作るのは楽しかった。
 あと一週間で、須賀は大阪へ転勤してしまう。だから、英夏は精一杯、須賀のために何かをしたかったのだ。
 昨夜は、須賀のために生まれて初めてフェラチオをした。いつも成利が英夏にしてくれるようにはできなかったが、須賀は悦んでくれた。明け方近くまで須賀に愛された記憶が蘇って、疼き始めた身体に、英夏は舌打ちした。いつから自分はこんなにも淫乱になってしまったのだろう。
 身体の火照りを冷ますため、シャワーを浴びることにする。陽は高く、まだ午後三時だ。須賀が帰宅するまで時間はたっぷりある。
 頭のテッペンからぬるめのシャワーを浴びてさっぱりすると、英夏は身体を拭こうとタオル入れの引き出しを開けた。ところがタオルは一枚も入っていなかった。仕方なく脱衣カゴの中に放り込まれた洗濯されていないタオルの中から、きれいそうな物を選んで使う。成利と暮らしていたときには決してあり得なかったことだ。
 マンションでは、家政婦や成利によって家事の一切合切が完璧にされていた。タオルが切れるなどということは一度だってなかった。英夏は、そんな状況を想像すらしたことがなかったのだ。
 生活するということがいかに大変で面倒なことか、英夏は須賀と暮らして初めてわかった。そして、自分がどれほど恵まれた生活をしていたかということも。
 英夏が、ドライヤーで髪を乾かしてキッチンに戻ると、見知らぬ中年の女性がいた。物珍しそうに英夏が作ったシチューの鍋を覗き込んでいる。
「あ、あの……」
 玄関には鍵がかかっていたのだから、女性が合い鍵を使ったのは容易に想像が付いた。合い鍵を持っているということは、須賀の家族か親族だろう。恐る恐る声を掛けると女性は驚いて振り返った。
「誰なの、あなた?」



       act.7
 成利は薫り高いコーヒーの芳香に目を醒ました。窓から差し込む光の強さで、すでに昼近いことが伺える。ノロノロと起き上がりキッチンへ行くと、水色のワンピースを着た頼子がコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、成利さん」
 スッピンの頼子は年相応の38歳に見えたが、成利は歳など気にならなかった。無言で頼子の手からコーヒーカップを奪い取り、口を付ける。
「コーヒーなら今、淹れますから」
 苦笑する頼子に、成利はゆっくりとキスをした。口移しで苦いブラックコーヒーを飲ませる。頼子の目元が、少女のようにうっすらと染まった。


 成利が頼子のマンションに転がり込んで四日目の午後だった。成利は、観るとはなしにテレビを眺めながら、頼子が買い物から戻るのを待っていた。
 父親は、成利が頼子と関係を持ったと知ったら怒るだろうか……。頼子は利口な女だから、二人の関係を悟られるような愚かなマネはしないだろうが、自分から父親に暴露してやりたいという自虐的な誘惑に襲われる。
 英夏のいない生活は、ひどく退屈だった。酒も女も、どんなバカ騒ぎも、すべてが虚しくて堪らない。
 もしかしたら、英夏を永遠に失ってしまうのかもしれないという不安が、日に日にどす黒く胸の中に広がっていく。『英夏が他の誰かと幸せになる』ということが、成利にはどうしても納得できなかった。何より、自分以上に英夏を理解し、愛している人間がいるとは思えない。
 成利が、疲れを感じてソファーにゴロリと横になった時、携帯が鳴った。英夏からの電話であることを知らせる着信音に心臓が躍る。
「英夏?」
「お願い…来て……すぐに……」
 英夏のただならぬ気配に、成利は思わず携帯を握りしめた。


 英夏が待ち合わせ場所に指定してきたのは、須賀のアパートではなく、アパートから一番近い私鉄駅のロータリーだった。
 成利が愛車で駆けつけると、英夏は真っ赤な目で唇を噛みしめていた。すでに、かなり泣いた後のようだった。紙袋に、これ以上ないほど乱雑に押し込まれた教科書やレポート用紙が、いかに慌ただしく須賀のアパートを飛び出してきたかを物語っている。
「英夏、どこか痛むところはないか?」
 成利は、英夏が須賀と喧嘩して暴力をふるわれたのではないかと心配だったのだ。しかし 、英夏は大きく首を横に振った。
「うちに帰ろう」
 囁くように声を掛けると、意外にも英夏は素直に助手席に乗ってくれた。
 成利は、英夏をマンションに連れ戻ると、パジャ マに着替えさせた。英夏は放心したようにされるがままだ。注意深く英夏の身体を観察したが、殴られた痕や外傷は一切見つからなかった。思わず安堵の溜息が零れる。
 何も語ろうとしない英夏に、成利は敢えて何も訊かなかった。興味がないと言えば嘘になるが、何があったにせよ、英夏は自分のところに戻ってきたのだ。それだけで充分だった。


 深夜11時、成利の予測したとおり須賀がマンションを訪ねてきた。
「英夏は、ここに戻っているのか?」
「さっき入浴を済ませて眠ったところです。話があるなら僕が伺います」
 苦渋に満ちた須賀に、成利は憐れむような視線を向けた。
「いや、無事ならいいんだ。明日、出直すよ」
 あっさりと背を向けた須賀に、成利は拍子抜けしてしまった。しばらく逡巡した後、須賀を追いかける。何があったのか、英夏に聞くより須賀に説明を求めた方が得策だと判断したからだ。
 須賀は、マンションの側に待たせていたタクシーに乗り込むところだった が、追いかけてきた成利を見て、タクシー運転手にもうしばらく待ってくれるよう声を掛けた。
「説明してもらえませんか? 英夏が泣いていた訳を」
「明日、英夏に会わせてもらえるなら、君に俺の秘密を話すよ」
 須賀は、成利の懐を探るように言った。
「秘密……?」
 成利は、須賀の物言いに苛ついたが、おとなしく肯いた。
「今日、俺の留守中に母親がアパートへ来たんだ。当然のことながら英夏と鉢合わせした。母は、英夏の名前を聞いてすぐに“あの時”の子どもだと気がついたそうだ」
 成利を見据えていた須賀の瞳が静かに伏せられた。
「俺の父親は、子どもの自転車を避けようとして、崖から車ごと転落して死んだんだよ」
 夫を失った妻が、半狂乱でその原因を作った英夏を罵ったであろうこと は、成利にも容易に想像がついた。
「それじゃあ、明日十時にまた」
 須賀は、絶句している成利を残してタクシーに乗り込んだ。成利は、タクシーが走り去った後も、茫然とその場に立ちつくしたままだった。



       act.8
 成利が部屋へ戻ると、眠っているとばかり思っていた英夏は、窓際に立って外を見ていた。成利は、英夏が泣いているのかと心配したが、白い横顔は無表情で何の感情も読み取れない。
「帰ったんだね」
 ポツリと零れた言葉が、須賀のことだと気づくのにしばらくかかった。
「明日十時に来るってさ」
「……そう」
 成利が告げても、英夏は振り向かなかった。
「眠れないのか?」
 成利が尋ねると、やっと英夏が振り返った。
「オレ、捨てられるんだね」
 少女を思わせる可憐な顔が悲壮にゆがめられ、次の瞬間、大粒の涙が頬を伝った。哀しみに打ちひしがれる英夏は、目を瞠るほど美しかった。成利は、不謹慎だと思いつつも、その美しさに見とれていた。しかし……
「あの時…あの事故で死んでしまえば良かったっ!」
 血を吐くように紡ぎ出された言葉に、成利は凍り付いた。
「英夏は悪くないっ!」
 確かに須賀の父親が亡くなったのは不運なことだが、英夏は充分にその代償を支払った。重い後遺症が残り、右脚は今も引き摺っている。歩くことがやっとで走ることなど到底できないし、体調が悪いときは眠れないほどの痛みに苦しめられているのだ。
「事故だったんだ、仕方のないことなんだよ」
 成利が、英夏を抱き締めようと伸ばした腕は、激しくはね除けられた。
「オレは……人殺しなんだ」
「違う! 誰がなんと言おうと英夏は人殺しなんかじゃないっ!!」
「でも……」
 成利は、なおも言い募ろうとした英夏の口をキスで塞いだ。強引に舌を割り込ませ貪るように口腔を犯す。英夏は、すぐに溺れる人のように成利に縋り付いてきた。
 いつになく性急に英夏のパジャマを剥ぎ取り、成利は英夏のペニスを口に含んだ。細い脚の付け根に散ったキスマークを見つけて、須賀に対する怒りがこみ上げたがグッと堪える。焦らすようにペニスの裏筋を舐め上げると、英夏はいい声で啼いた。
「いじめな…いで、成利……。いじめないでっ……」
 啜り泣く英夏の脚を大きく開かせ、奥に息づく蕾にそっと触れる。そこはローションの助けもないまま、吸い付くように二本の指を飲み込んだ。毎晩、あの男に愛されていた証拠だ。
「んっ……、ああっ!」
 嫉妬を押さえきれず、成利が三本目の指を乱暴に押し込むと英夏の喉がヒュッと鳴った。慌てて指を二本に減らしローションを垂らす。成利は、英夏のペニスを唇で扱きながら、巧みに後腔を攻め立てた。
「やっ、ダメぇっ……イクッ…イッちゃうよぉ…」
 英夏は泣きながら成利の頭を外そうとする。
「ヤダ、イキたくない……成利ので…いっぱい突いてっ! メチャクチャにしてっ!!」
 可愛いおねだりに、成利はようやく愛撫の手を緩めた。正常位で英夏の内部にゆっくりと侵入する。
「ひっ、……あああっ!!」
 英夏のそこは、いつにも増して貪欲に成利の剛直を飲み込んでいった。成利が、ピッタリと腰を重ねて甘く絡みついてくる内壁を味わっていると、焦れた英夏が腰を揺らした。それを合図に、成利は捏ね回すように腰を使い始める。
「あっ、あっ……ああん……」
 英夏は感じるままに声を上げ、成利の動きに合わせて放埒に腰を振る。
「英夏…ダメだっ……そんなにしたら、保たない」
 蠢動する内壁に吸い付くように締め付けられ、成利は瞬く間に解放へと駆け上がった。どれほど自分が英夏に飢えていたか思い知らされた気がした。
「ううっ!!」
 ドクドクと大量の精液を英夏の奥深くにまき散らしながら、軽く二度、三度と突き上げて、最後の一滴まで注ぎ込む。成利が荒い呼吸を整えながら、英夏の内部から自身を引き抜こうとすると、英夏が抗議の声を上げた。
「いやっ! 抜かないでっ」
 見ると英夏はまだ達することなく、勃起したまま透明な先走りを滴らせている。
「ごめん、今、手でイかせてやるから」
 いつも英夏の逐情に合わせて射精している成利は、自分だけ先に達してしまった羞恥に赤くなりながら、急いで英夏のペニスに手を伸ばした。
「やだよ、このまま……もう一回して」
 英夏が、こんなにも貪欲に欲しがるのは滅多にないことだった。体力のない英夏は、いつも一回でぐったりしてしまうからだ。
「お願い……もっと奥まで、もっと深く突いて……」
 甘い声でねだる英夏は、成利の知らない淫靡な微笑みを浮かべていた。あの男が変えたのだ。不意に、男に組み敷かれ獣のようにまぐわう英夏の姿が脳裏を掠め、成利は激しく欲情した。放ったばかりの分身がみるみるうちに硬さを取り戻していく。
「あっ……んんっ」
 体内で大きく形を変えたモノに、英夏は小さく喘ぐと、より深く繋がろうと成利の腰に脚を絡ませた。成利は、細い腰を押さえつけるとギリギリまで剛直を抜き出し、そして一気に最奥まで突き入れる。
「ヒィアアッ……! スゴイっ、成利! 気持ちいい!!」
 唇を震わせて英夏が訴える。成利は、嫉妬と劣情に突き動かされるまま、英夏を壊すかの勢いで挿抜を繰り返した。
 先ほど、成利が英夏の奥で放ったものが、二人の結合部をしとどに濡らし、グチャグチャと卑猥な音を立てている。その音に、成利はさらに煽られて夢中で腰を振った。



       act.9
 翌朝、須賀は十時きっかりにやって来た。ひげも剃っていない成利のパジャマ姿を見て、少し驚いたようだが何も言わなかった。
 成利は、須賀に情交の跡を見せつけてやりたくて、わざと英夏に襟元の開いたドレスシャツを着せた。成利の企みなどまったく気づいていない英夏は、出された着替えに何の疑いもなく袖を通した。成利も、アルマーニのシャツとジーンズに着替える。
 八月の終わり、眩しいほど強い晩夏の日差しが差し込むリビングで、三人は向かい合った。須賀は英夏の真向かいに座し、英夏の背後には成利が守護するように立っている。互いに敵意を剥き出しにする須賀と成利に比べ、英夏だけが落ち着いていた。
「英夏、母が心ないことを言って、すまなかった」
 最初に口を開いたのは、須賀だった。身を乗り出すようにして英夏に謝罪する。
「オレのこと、嫌いになったんでしょう……」
 英夏は、膝の上で握りしめた拳を小さく震わせていた。
「まさか! 俺は何もかも承知の上で、君を好きになったんだ」
「えっ?」
 驚きに、英夏の瞳が見開かれた。
「人事課の先輩に、君の名前を聞いたんだ。社長の息子さんの友人が、バイトに入ったって。名前を聞いて、すぐにわかったよ。君が“あの事故”の子どもだって……。『英夏』という名前は珍しいからね」
「それでストーカーみたいに、英夏のバイト先へ押しかけたわけか」
 成利が軽蔑したように言ったが、須賀は静かにその言葉を無視して続けた。
「障害が残ったと聞いていたから心配だった。一度だけ会って、名乗らずに別れるつもりだったんだ」
 須賀の目が切なそうに細められた。。
「覚えているかい? 君は俺が手渡した缶ジュースをほっぺたにくっつけて『気持ちいい』って笑ったんだ。あの瞬間、俺は恋に落ちた」
 それは成利もよく知った英夏の癖だった。高熱を出した時、氷枕に頬を寄せたり、風呂上がりにカルピスのグラスに気持ち良さそうに頬を寄せる英夏を、成利は幾度も見てきた。
「俊輔さんは……、オレを恨んでないの?」
「恨んでなんかいない。愛しているよ」
 須賀は蕩けるような微笑みを浮かべた。成利でさえドキリと見惚れてしまう魅力的な微笑みだ。英夏が心を動かされないはずがない。
「英夏、大阪についてきてくれないか? 君は俺が一生、守るから。お袋には何も言わせない。俺達のことに口を出すなら、親子の縁を切ると宣言してある」
 英夏は、須賀のプロポーズに絶句した。成利は、恐怖と怒りのため取り乱しそうになる自分を押さえるのに必死だった。
「あんた、頭おかしいよ、のぼせすぎだ」
 吐き捨てるように言った成利を、須賀は挑むように睨みつけた。
「俺の気持ちは遊びじゃない。『大人の本気』だ」
 ――この男は狂っている。英夏という麻薬に溺れている。成利は、必死で英夏を引き留めようと、その肩を掴んだ。
「成利……肩、痛いよ。俊輔さんのこと、怒っているの?」
 不思議そうに英夏が振り向いて言った。その頬は、幸福に朱く色づいている。絶望という毒が、ゆっくりと成利の体内を回り始めた。


 その後の騒ぎは、霞のかかった向こう側のことのようで、成利はほとんど憶えていない。英夏の母が泣き崩れた時、英夏が助けを求めるように成利に向けた視線。そして母親の涙に流されまいと、気丈に口元を結んだ英夏の固い表情。成利が憶えているのはそれだけだ。
 大人達の間で、どんな話し合いがされたのか、成利は英夏の兄・敏宏から聞いた。
「須賀なんてクビにするって、君の親父さんは怒鳴っていたけど、僕がなだめたんだ。経済的に困窮すれば英夏の身体に負担がかかるのは目に見えてるからな。取り敢えず、英夏は大学を休学ってことにして様子を見ようってことになった。うちの親も須賀家とはこれ以上揉めたくないというのが本音だし」
 そう語った敏宏自身、弟のスキャンダルはかなり堪えているようだった。いつも酒には強い男が、珍しくバーボン二杯で酔っている。
「君は、あの二人のこと、どう思う?」
 突然投げかけられた質問に、成利は当惑した。
「どう…って……」
「須賀って男はかなり英夏に惚れ込んでるみたいだが、英夏はどうかな? あいつの熱しやすく冷めやすい性格は、君が一番良く知っているだろう?」
 敏宏の怜悧な視線が、成利を静かに捕らえていた。何もかも見透かされているような不安に、成利はそっと目を逸らす。
「僕は、もって一年。下手をすれば半年でダメになると思う」
 まるで予言者のように敏宏が宣告した。
「ええっ!?」
「だから、英夏を諦めるなってことだよ」
 敏宏はウインクすると、悪戯を企むワルガキのように口元を引き上げた。



       act.10
 英夏を失った淋しさを埋めようとするかのように、成利は頼子に溺れていた。成熟した身体はいつも存分に成利を楽しませてくれる。成利の父親も、うすうすは二人の関係に気づいているようだった。
 英夏とは、毎日のようにメールを交換していた。だが、それはひどく表面的で、「大切にしてもらっている」「彼を愛している」といったありきたりで、厚いベールがかかったように英夏の心情を読み取ることが難しいものだった。
 成利が、遊び仲間に誘われて、冬休みにアメリカ縦断旅行に出かけたのは、気が狂いそうになるほどの虚しさを何とか紛らわせたかったからだ。気の置けない男四人で気ままな旅をするのは、たまらなくスリリングだった。外国という緊張感と日本にはない開放感が窒息しそうだった精神をリフレッシュしてくれた。
 だから帰国した時、頼子のマンションがもぬけの殻になっていても、成利は驚かなかった。頼子とは、秋の終わり頃から口喧嘩が絶えなくなり、別れ話に発展することさえあった。成利は、黙って消えた頼子に、感謝さえした。いかにも彼女らしいやり方だと……。


 旅行土産を渡す、という口実で英夏と会うことになったのは、正月気分もすっかり抜けた一月の終わりだった。新幹線ホームまで成利を迎えに来てくれた英夏は、驚くほど痩せ細っていた。
「英夏、このまま僕と東京へ帰ろう!」
 あまりの痩せように、成利は人目もはばからず、英夏を思いきり抱き締めて叫んでいた。
「成利ってば、こんな人混みでジョーダンやめろよっ」
 英夏は、藻掻いて成利の腕を擦り抜けると、唇を尖らせて抗議した。
「オレ、時間ないんだ。5時までにアパートに戻らないと、夕食の準備が間に合わない」
 昼食を摂るため、レストランで向かい合って、成利は再びショックを受けた。手袋を外した英夏の手はあかぎれだらけだったのだ。コップひとつ、スプーン一本だって、自分で洗ったことのない英夏が、家事をしているという事実に、成利は打ちのめされた。
 食い入るように荒れた手を見つめる成利に、英夏は苦笑した。
「洗剤とかお湯とかって、手が荒れるんだよね。もともとの体質もあるんだろうけどさ」
 さらに照れくさそうに付け加える。
「好きな人の身の回りの世話をするって、メチャクチャ楽しいよ。凄く幸せな気持ちになれるんだ」
 その時初めて、成利は須賀に負けたと思った。そして、自分は永遠に英夏を失ったのだと否応なしに思い知らされたのだった。
 

 成利が、後ろ髪を引かれる思いで東京に戻ると、母親から電話があった。正式に離婚することになった、という報告だった。
 両親の仲は遠の昔から冷え切っていたので驚きはしなかったが、やはり悲しかった。母親から何度も一緒に暮らそうと言われたが、成利はきっぱりと拒絶した。母親の後にちらつく恋人の影を敏感に感じ取ったからだ。
 淡々と、成利は日々を重ねていった。ロボットのように哀しみも怒りも、喜びさえも忘れて、朝起きて顔を洗い歯を磨き、大学に通って友人達と馬鹿話に興じて、酒の力を借りて眠った。時折、猛烈な淋しさに襲われて、英夏の不在に居たたまれなくなったが、それでも英夏に電話したりメールしたりしなかったのは、成利に残された最後の矜持ゆえだった。


 父親から呼び出されたのは、初夏を感じる六月中旬になってからのことだった。離婚以来、母親からは頻繁に電話があったが、父親からの連絡は一切なかった。今さら一体、何の用なのかと思ったが、無視することもできず、成利は指定されたレストランへ出かけた。
「お久しぶりです、成利さん」
 父親の隣に座っている頼子に、成利は仰天した。
「来月、頼子と入籍することにした。身内だけの小さな式を挙げるつもりだ。おまえにも出席してもらいたい」
「えっ?」
 恐る恐る頼子に視線を移すと、彼女は何か吹っ切れたように静かな微笑みを浮かべていた。


 父親の言ったとおり、挙式も披露宴もごく身内だけでシンプルに執り行われた。唯一の例外は、英夏の父・阿川雅俊氏が出席していたことだ。
 成利は阿川氏と共に、ハネムーン先のフランスへ飛び立つ父親を空港まで見送った。しかし、父親にはとうとう聞けずじまいだった。成利が頼子と関係していたことをどう思っているかを……。
「成利君、疲れただろう? マンションまで送るよ」
 優雅な口調で話しかけられ、成利は現実に引き戻された。
「ありがとうございます。でも、僕の方こそ、大切なお客様をホテルまでお送りしなくては、父に叱られてしまいます」
「無理しなくていいよ。顔に疲れたと書いてあるじゃないか」
 そう言って笑う阿川氏は、労るような優しい目をしていた。その目元があまりに英夏とそっくりで、成利は食い入るように見つめてしまった。愛した者は皆、成利の腕を擦り抜けていった。それでも、未だ英夏だけは諦めきれない。
「英夏は……どうしてますか? 元気ですか?」
 口にしてから、成利はしまったと後悔した。阿川氏が、英夏を勘当したのは成利もよく知っていたのに。阿川氏の顔がみるみる曇っていく。
「す、すみません! 馬鹿なことを訊いてしまって……」
 不用意な質問で相手を傷つけたことに、成利はすっかり動転してしまった。途方に暮れて顔を伏せると、頭上で深い溜息が聞こえた。
「いや、いいんだ。君はとっくに知っていると思っていたんだが……。英夏は今、入院しているんだ」
        
          To be continued
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