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ラヴィアンローズ     月桜可南子
           act.11
 その後の晰夜の行動力は凄まじかった。翌日には智幸を東京に連れ帰り、月曜には不動産屋で二人の新居を決めていた。
 精神的に参っている智幸を一人にするのは心配だったし、考える猶予を与えたら、智幸は同棲を承知しないとわかっていたからだ。智幸が衣類を晰夜に送り返す準備をしていたのをいいことに、智幸に荷造りの時間さえ与えなかった。
 智幸は晰夜に押し切られるまま、吉崎繊維に退職願を出して引継ぎをし、一週間後には晰夜が用意したマンションに移り住んでいた。「心機一転、東京でやり直したい」という智幸を、美保も笑顔で送り出してくれた。
 勢いだけで始めてしまった同棲だったが、意外に快適だった。掃除や洗濯、食事などの家事一切は、通いの家政婦が手際よく片づけてくれる。晰夜は自分が束縛を嫌う分、智幸の自由も尊重し、きちんと個室も与えてくれた。
 この辺りまでは、晰夜の言いなりになっていた智幸だったが、晰夜が、吉崎繊維を買い取ろうとしたのには、さすがに反対した。
「藤原さんに吉崎繊維を買い取りたいって頼んだそうだね。なんだってそんな無謀なことを?」
 普段は大人しい智幸から厳しい口調で詰問されて、晰夜は面食らった。
「智幸の喜ぶ顔が見たかったんだ。吉崎繊維は智幸の大切な心の拠り所だったから……智幸が塞ぎ込んで、食事もまともに受けつけなくて、夜もほとんど眠れないみたいで……オレ…心配で……」
「でも、潰れかかった吉崎繊維を、自分のブランドの片手間に経営するなんて無茶だよ。時間も労力も、資金だって大変だ」
 拒食症で体力が落ち、本当は立っているのも辛いほど弱っているのに、智幸の凛とした怒りは、晰夜を萎縮させるには充分な迫力があった。
「プロの経営コンサルタントを招けばいいし、資金はイタリアの不動産を売却すれば大丈夫だ。智幸が心配することはなんにもないから」
 晰夜は日本円にして20億近い財産を父親から相続していたので、それくらいは“はした金”だった。しかし、生真面目な智幸は、きっと晰夜に義理立てして別れられなくなる、という下心もあった。
「晰夜、僕は君と対等な立場で恋愛をしたいんだ」
 智幸に毅然と告げられて、晰夜は渋々、吉崎繊維を諦めた。
 このことがきっかけで、智幸の不安定だった精神が落ち着きを取り戻し始めた。一時は、『ラヴィアンローズ』を流して、ぼんやりと座り込んでいるか、晰夜とのセックスに逃避していた智幸だったが、徐々に食事が普通に摂れるようになり、夜も夢遊病のように徘徊することがなくなった。何より、晰夜のジョークに声を立てて笑えるようになった。


「仕事は慣れたのか?」
 智幸が食べ終わった朝食の皿を洗っていると、昨夜、午前様だった晰夜が起きてきた。
「なんとか、少しずつね。ごめん、起こしちゃった?」
 年が明けてすぐ、智幸はハローワークの紹介で、アパレルメーカーのテキスタル部門に、契約社員として就職した。晰夜の母親の手前、いつまでも無職でいるのは躊躇われたからだ。
「いや、智幸の顔を見たかったんだ。あんまり、無理するなよ」
 晰夜は心配しているが、テキスタルの仕事は智幸の性に合っているようだ。通勤に片道二時間近くかかるので、晰夜と過ごす時間は減ってしまったが。ちょうど晰夜も、アイドルのコンサート衣装という大きな仕事が入って忙しくなり、三日と空けずしていたセックスも、気がついたら週一ペースに落ち着いてしまっている。
「晰夜は今夜も遅くなるのか?」
「ああ、なるべく早く帰るから。でも、夕食は先に済ませてくれ」
 頭ひとつ分、智幸より背の高い晰夜が、屈み込んで智幸の頬にキスをした。
「うん、そうさせてもらうよ」
 無精髭のくすぐったさに誘われて、身体に甘い痺れが走り、智幸は焦った。
「愛してる」
 吐息に載せて晰夜が甘く囁く。それに対して、智幸は「僕も」と返せない。一緒に暮らして、かれこれ五ヶ月近くになるというのに、未だかつて晰夜に「愛してる」と告げたことがないのだ。うっかりそれを口にしたら、晰夜に囚われて逃げ出せなくなるようで怖かった。
 智幸は、視線を泳がせると、はにかみながら呟いた。
「起きて待ってるから」


 智幸が、いつもより少しだけ早く仕事を切り上げることができて、マンションまであと五十メートルという当たりまで来たときだった。何やら車や人が普段より多くて騒がしい。人混みをかき分けてマンションのエントランスに入ろうとした智幸に、突然、マイクが向けられた。
「こちらにお住まいの方ですよね。このマンションで夏川リカさんを見かけたことはありますか?」
「いいえ」
 生真面目な智幸は戸惑いながらも答えてしまう。夏川リカは今、晰夜がステージ衣装を手がけているアイドル歌手だ。
「佐倉晰夜さんとは面識がありますか?」
「え…あの、それはどういう……」
「二人が付き合っているという話は聞いたことがありませんか?」
 その瞬間、智幸はすうっと頭から血が下がるようなショックを受けた。絶句したまま立ちつくしていると、レポーター達は次の獲物を見つけてそちらへと突進していった。
 エレベーターのドアが閉まったのを確認すると、智幸は携帯電話を取り出して、震える指で晰夜の携帯へ電話した。「電波の届かない〜」というアナウンスを聴いて、次にアトリエへかける。こちらは留守電になっていた。
 玄関ドアを開けて室内に駆け込むと、今度は留守電をチェックした。これは夏川リカのマネージャーから連絡を請うメッセージで一杯になっている。胸の中に何か得体の知れないどす黒いものが拡がっていく。
 智幸は途方に暮れて、しばらく電話の前に立ち尽くしていたが、気を取り直して再び晰夜の携帯にかけてみた。しかし、何回かけても繋がらない。それでようやく智幸は悟った。
 晰夜は、智幸に愛想をつかせて、リカに気持ちが移ったのだ。それが発覚して、どこかに身を隠したのだろう。今まで、傷心の智幸が不憫で別れを口に出せなかったのだ。
 頑なに真治を想い続ける智幸から、晰夜の気持ちが離れていくのは当然だ。まして、晰夜はまだ若く、言い寄る女は幾らでもいる。誰だって自分を一番大切にしてくれる相手がいいに決まっている。
 晰夜の心変わりは仕方のないこととわかっているのに胸が痛くて堪らなかった。晰夜を失って初めて智幸は気づいたのだ。自分がどれほど晰夜を愛していたか。智幸はくずくずとその場に蹲った。
「晰夜…せきや……せき…やっ」
 震える唇から悲痛な叫びがついて出た。それは慟哭だった。



           act.12
 泣き疲れて眠り、目が醒めると頭痛がした。それでも智幸は気力を振り絞って身の回りの物をボストンバッグに詰めた。これ以上、晰夜に迷惑をかけられない。
 晰夜の優しさに甘えて充分すぎるほど親切にしてもらった。好きな男に疎まれるほど辛いことはない。せめて、潔く身を引きたかった。
 幸い仕事はある。しばらくホテル住まいをして、アパートを探そうと考えた。この世に未練など毛頭なかったが、今、死んだりしたら晰夜が自責の念に駆られて苦しむだろうから、自殺はできなかった。
 智幸は腫れた瞼を氷で冷やすと、荷物を持って出勤した。途中、駅の売店で、晰夜の記事が載った週刊誌を購入した。呆れるほど大きく書かれたキャッチ・コピー『リカ 熱愛発覚 お相手はプレタポルテ界の貴公子』に思わず眉を顰めてしまう。
 二人が一緒に食事をしていたという和風レストランは、智幸も何回か晰夜と行ったことのある店だった。親しげに視線を交わす二人のツーショットを智幸は食い入るように見た。晰夜の、こんなに開放的な笑顔を見たのは初めてだ。智幸といるときの晰夜は、いつも壊れ物に触れるように智幸を気遣って張り詰めている。
 ジクジクと胸が痛み、智幸は買ったばかりの週刊誌を目についたゴミ箱へ投げ入れた。


 マスコミから逃げる際、晰夜は携帯電話を落として踏み砕かれてしまった。そのため智幸の携帯に連絡しようにも番号がわからない。マンションの固定電話は留守電になっており、容量オーバーでメッセージを残すことができなかった。そうこうするうち、隠れていたホテルの部屋へ、リカのマネージャーがやって来て、マスコミ対応の話し合いをしているうちに智幸への連絡はうやむやになってしまった。
 翌朝、スタッフの清原に着替えを取りにマンションへ行ってもらうと、すでに智幸の姿はなく、テーブルにメモが残されていた。
『今まで本当にありがとう。僕のことはもう心配しないで下さい。君の人生がバラ色であるよう祈っています。 智幸』
 晰夜は慌てて番号案内で、智幸の勤め先の電話番号を調べた。


「吉崎くん、外線よ。佐倉さんて男の方から」
「ありがとうございます」
 先輩の原田香世に呼ばれて智幸は目の前の受話器を取った。置き手紙を見つけた晰夜が連絡してくることは想像していたので、さしたる動揺はない。
「はい、吉崎です」
 努めて平静に電話に出ると、かなり昂奮した口調で晰夜が訴えてきた。
「誓って言うけど、リカとは何にもないからな!」
 優しい晰夜は、智幸を傷つけないために、決してリカとの関係を認めないだろうとは思っていた。
「仕事中なんだ。その話は仕事が終わってから、ゆっくりしよう」
 智幸は穏やかな口調で静かに言った。冷静な自分を誉めてやりたい。
「今日は何時に終わるんだ?」
 晰夜は少し苛立っているようだ。まだ自分に未練があるのだろうかと不思議に思いながら、智幸は「七時くらいかな」と答えた。ぶっきらぼうな声が「じゃあ、七時に会社の出口で待ってる」と通告し、通話は切れた。


 智幸は、昼休みに会社近くのビジネスホテルへ電話予約を入れて、ツインの部屋を取った。最後にもう一度だけ、晰夜に抱かれたかったのだ。
 約束通り、智幸は午後七時に退社し、二人は晰夜の車でホテルにチェックインした。それから、智幸の希望で、ホテルから通り一本隔てた場所にあるファミリーレストランで夕食を摂ることにする。オーダーを取り終えた店員が席を離れるやいなや、晰夜は待ちかねたように訊いた。
「怒ってんのか?」
「……驚いてるだけ」
 智幸はずっと黙り込んで必要最低限しか話さない。いっそ殴るなり罵るなりされた方が、どんなに気が楽かと晰夜は思った。感情を押し殺して殻に閉じこもってしまった智幸は、ヒステリーを起こした女より始末が悪い。
「オレも、これ見てすげぇ驚いた」
 晰夜がポケットから、智幸の置き手紙を取り出すと、智幸はそっと目を伏せた。
「流されるまま一緒に暮らしてしまったけど、あそこを出て一人で暮らそうと思う」
「なんでだよ?」
 晰夜の剣呑な声にも動じず、智幸は淡々と答えた。
「本気になる前に別れた方が苦しまなくて済む」
 思いがけない告白に晰夜が瞳を輝かせた。いくら身体を重ねても智幸は借りてきた猫のように懐かず、ただの一度も「愛してる」と言ってくれたことがなかったからだ。
「それって、オレに気持ちが傾いてきたってことだよな?」
 智幸は呆気ないほど素直に肯く。まるで初めての恋に戸惑う初心な小娘のようだと晰夜は驚いた。
「僕は傷つくのが怖いんだ。誰かのために泣くのも、怒るのも、何もかも。だから……」
 だから、智幸は晰夜から逃げ出したくなったのだ。真治一筋で他に恋愛をしたことのない智幸と違い、晰夜は数だけはこなしてきた。こういうとき、追いすがるより包容力や懐の深さを見せた方が得策だと知っている。追い詰めれば智幸はあっさりと命を手放す危険さえあるのだ。
「とにかく、智幸はマンションに戻ってくれ。どのみちオレは、しばらくマンションには戻れない」
「え……?」
「あそこはマスコミが張り込んでいるからな。当分、オレはホテルを点々とすることになる。だから、次に住む部屋が決まるまで智幸が住めばいい」
 朗らかに話す晰夜を、智幸はキツネにつままれたような顔で見ていた。
 その夜、智幸と一緒にビジネスホテルに泊まった晰夜は、智幸に指一本触れなかった。身体から始めてしまった関係だったが、智幸の心を手に入れるには、今、安易に身体を繋げたりせず、智幸がじっくりと自分の本心と向き合う時間を与える必要があると考えたのだ。



           act.13
 智幸は、晰夜の好意に甘えてマンションに戻った。保証人なしで借りられるアパートがなかなか見つからなかったからだ。
 晰夜の帰ってこないマンションで、一人で過ごす夜は堪らなく寂しかった。いつの間にか、どっぷりと晰夜に依存していた自分に気づかされる。この先、本当に一人で生きていけるのか自信もなかった。
 晰夜は、毎晩「おやすみ」を言うためだけに電話してきた。初めは素っ気なく電話を切っていた智幸だったが、寂しさに堪えかねて話す時間が少しずつ増えていった。互いにその日あったことを報告し合うだけの、色気のない会話でも、智幸には充分幸せだった。
 日を追うごとにマンション周辺の取材記者は減っていき、半月も経つ頃にはすっかり見かけなくなった。ちょうど不動産屋から連絡があり「保証人なしでも借りられるアパートがあるので見に来て下さい」と言われたため、智幸は週末に出かけることにした。いつまでも晰夜に甘えるのは心苦しいので、どんな物件でも契約するつもりだった。
 

 リカのマネージャー・溝口亜希は、メンソールに火を点けながら言った。
「火のないところに煙は立たないと言うけど、あなたのお母様は火なんかなくても火事を起こせるのね」
「あの記事は、オレの母親の仕業だったのか?」
 思いがけない真相に、晰夜は信じられない思いで眉を顰めた。連日のしつこい取材攻勢に正直、かなり参っていた。その騒ぎの元凶が実の母親の差し金だったとは。
「まあ、SAKURAのブランドでステータスを得ようとしたウチも甘かったけど、逆に息子をエサにリカを利用するなんて、あなたのお母様は怖い人ね」
 考えてみれば、リカの衣装デザインは当初、佐倉総子本人に打診があった。それを「良い勉強になるから」と晰夜に担当させたのは総子だ。
 今回の『熱愛発覚』で、SAKURAの後継者として晰夜の顔と名前は広く世間に知られることになり、SAKURAの知名度も上がった。
「そろそろ終結させてくださるよう、うまくお母様に取りなしてもらえないかしら?」
 溝口亜希は、忌々しそうに煙草の煙を吐き出した。


「しらばっくれても無駄だからなっ! リカのマネージャーから裏をとってあるんだから!」
 ミーティング中の会議室のドアを蹴り開けて、晰夜は怒鳴り散らした。室内にいた十人ほどのスタッフが何事かと腰を浮かせたが、晰夜の母・総子は悠然と腰掛けたまま、晰夜に目を向けた。
「みなさん、少し外してくださるかしら?」
 その一言で、皆、戸惑いながらも出て行く。その間もずっと晰夜は憎々しげに総子を睨みつけていた。自分の母親の仕組んだ騒動で、智幸がどれほど傷ついたかと考えると、忌ま忌ましさに舌打ちしたくなる。
「晰夜、久しぶりね。少し痩せたんじゃない?」
 総子は悪びれた様子もなく優美な動作で晰夜に歩み寄った。
「あんた、本当にオレの母親か!?」
「怒ることないじゃない。アイドルのリカと違って、男のあなたには恋愛スキャンダルなんて、勲章にこそなれダメージになどならないわ」
「どういう神経してるんだよ! 今度、こんなマネをしたら親子の縁を切るからなっ!!」
 ヒステリックに咆え立てる晰夜に、総子は諦めたように溜息を吐いた。
「わかったわ。ママがいけなかったわ。だから機嫌を直してちょうだい」
 抱き締めようと伸ばされた総子の腕を、晰夜は跳ね除ける。
「頼むから“オレ達”をそっとしておいてくれ」
 苦渋に満ちた表情で呟くと踵を返した。
 ビルのエントランスホールには、報道陣が待ちかまえていた。
「晰夜さん、お母さんとはどういったお話しをされたんですか?」
「ついに婚約報告ですか?」
「リカちゃんは今、どこに?」
「プロポーズの言葉は?」
 矢継ぎ早の質問に神経を逆撫でされ、晰夜の怒りはピークに達していた。
「だからっ、リカとは付き合ってないって、何度も言ってるだろう!」
 強引に記者を押し退け、エントランスの階段を駆け下りる。その時、正面の自動ドアが開き、運び込まれてきた大鏡に光が乱反射した。眩しさに目を射られた晰夜は――。


 智幸はアパートの下見をするため、不動産屋に向かっていた。一昨日、アパートが決まりそうだと話したら、晰夜は自分のことのように喜んでくれた。ただ、「合い鍵は返さなくていい」と言われて当惑していた。
 智幸が悩みながら歩いていると携帯のバイブが振動した。液晶画面に表示されたのは『オフィス・イル・モーロ』の文字。晰夜のアトリエからだ。怪訝に思いながらも、智幸は通話ボタンを押した。



           act.14
「誰だよ、智幸に連絡したのは!? カッコ悪ぃじゃんか!」
 タクシーで病院に駆けつけた智幸の顔を見ると、晰夜は照れくさそうに唇を尖らせた。階段で足を滑らせるなど、年寄りのやることだと思っていたのに、まさか自分がそんなヘマをするとは、恥ずかしくて堪らない。
「だってぇ意識がぁ、ないってぇ聞いたからぁ、こりゃヤバイってぇ、思ったんですぅ」
 ユッコが、のほほんとした口調で言い訳した。もう、泣きながら智幸に電話してきた緊張感は欠片もない。
「なんか、みんなパニクっちゃって。心配させてごめんなさいね」
 知的な感じの三十代前半の女性が申し訳なさそうに言った。智幸は電話でしか話したことがないが、おそらくスタッフのひとり、マナだろう。
「側頭部を二針縫って、左足首を捻挫しています。CT検査の結果、中度の脳震盪が認められるので、今夜は念のため病院で経過観察することになりました」
 穏やかな声で智幸に説明してくれたのは、何度かマンションへ晰夜の着替えを取りに来たことのある青年、清原だ。それに頷いた途端、智幸はポロポロと泣き出してしまった。
「すみませ……、なんか気が緩んだら……」
 気恥ずかしくて慌てて手の甲で拭ったがなかなか涙は止まらない。そんな智幸に皆、茫然と見惚れてしまった。
 整ってはいても地味な顔立ちの智幸が、泣くと雰囲気がガラリと変わる。ごく普通の平凡な青年が、信じられないほど蠱惑的な色香を放つのだ。まるで魂を鷲掴みにされたように目が離せなくなる。
「智幸さんもいらしたことだし、私達、そろそろアトリエに戻りましょうか」 
 聡いマナが一番最初に我に返って、気を利かせてくれた。「それじゃあ、後は宜しくお願いします」と三人が病室を出て行くと、広い個室に晰夜と智幸の二人だけになった。
「智幸、来いよ」
 晰夜が手招くと、智幸は素直に晰夜の枕元まで歩み寄ってきた。
「心配させてゴメンな。オレは大丈夫だから」
 智幸の身体を引き寄せて、晰夜はその涙をティッシュで丁寧に拭ってやる。子どものようにスン、と鼻を鳴らして智幸は晰夜を見つめた。小さく開いた唇が微かに震えている。智幸は、晰夜の存在を確かめるように頬を撫でると、堪えきれずにまた涙を零した。
 晰夜は、あまりの愛おしさに智幸を腕の中に抱き込んで、力一杯、抱き締めた。智幸の腕が晰夜の背中に回され、そっと体重を預けてくる。どちらも口にしなかったが、愛している、そして愛されていると感じていた。


 晰夜の母・総子の強い希望で、晰夜は結局、三日間入院した。完全看護で付き添いは認められていなかったが、院長の配慮で智幸は毎晩、簡易ベッドを入れてもらって、晰夜の隣で眠った。
 退院すると、晰夜はマンションへ戻ったが、さすがにマスコミはもう追いかけてこなかった。久しぶりに寛いだ気分でリビングのソファーに横になっていると、ほどなく智幸が仕事から帰ってきた。
「晰夜、お帰り!」
 駅から走ってきたのか、頬は上気し息が上がっている。智幸はコートを脱ぐのももどかしげに、晰夜の側に駆け寄ってきた。
「智幸も、お帰り!」
 それから少し不安を滲ませて晰夜が訊いた。
「なあ、もう出て行くなんて言わないよな?」 
「うん、ここにいたい。晰夜の傍にいたいと思ってる」
 はにかみながらも智幸は真っ直ぐに晰夜の目を見て告げた。
「愛してるから」
 初めて智幸からもらった愛の告白に、晰夜は情熱的なキスで返した。角度を変えながら何度もキスを繰り返すうちに、二人ともすっかりその気になってしまう。なにしろ、一ヶ月近くご無沙汰なのだ。
 その時、留守電にしてあるFAX電話が鳴った。程なく、留守電に切り替わるとメッセージが聞こえたきた。
『晰夜、ママよ。これから、あなたの顔を見に、そちらに行きます。智幸さんにも紹介してね』
 セックスになだれ込もうとしていた二人は一瞬にして凍り付いた。


「いずれは、きちんとご挨拶しなくてはとわかっていたんだけど……」
 智幸の表情は暗い。真治の母親との確執が今も心の傷となって残っているのだ。今でこそ痴呆で智幸がわからなくなり、憎しみの目を向けられることはなくなったが、やはり智幸は真治の母親が苦手だった。
 あの確執をもう一度、晰夜の母親と繰り返すのかと考えると、智幸はどうしても逃げ腰になってしまう。晰夜も薄々、それに感づいているようで、智幸の前では絶対に母親のことを口にしなかった。
「この先も、君と付き合っていくなら、逃げてばかりはいられない」
 智幸は溜息を吐くと、自分に言い聞かせるように呟いた。
 それから三十分ほどで晰夜の母・総子がやって来た。ワインカラーのシンプルなワンピースと華奢なピンヒールのパンプスは、総子を一回り若く見せている。智幸は、その圧倒的な存在感に脚が竦む思いがした。
「母さん、彼が恋人の吉崎智幸だよ。智幸、母の総子だ」
 晰夜が少し緊張した様子で紹介する。
「よろしくお願いします」
 おずおずと挨拶する智幸に、総子は鷹揚に微笑んだ。それから、ゆっくりと口を開く。
「仕事では旧姓を使っていらしたのね」
 ギクリと智幸の身体が強張った。総子は知っているのだ。真治のことも、そしておそらく智幸が仕事を取るために男と寝ていたことも、何もかも。



           act.15
 智幸は覚悟を決めて総子と向き合った。
「はい、23歳の時に吉崎真治の籍に入りました」
「とても愛してらしたのね。その方を……。でも、晰夜との入籍は許しません。それは、わかってくださるわね?」
「母さんっ!!」
 抗議の声を上げた晰夜を、智幸はそっと押し止めた。
「ご心配には及びません。自分の歩はわきまえています」
 静かに、まったく取り乱すことなく智幸は言った。真治の母親に半狂乱で口汚く罵倒され、別れるよう脅迫されたことを思えば、総子は拍子抜けするほど寛容だ。
「ありがとう。それだけわかっていてくださればいいのよ」
 満足げに頷くと、総子は晰夜に向き直った。
「お部屋を見せてくれる? 突然、出て行ってしまったから、どんな暮らしをしているのか心配していたのよ」
 総子は、新居を検分すると、智幸の淹れたコーヒーを飲んで帰って行った。智幸は、総子が帰った途端、大きな仕事をやり遂げた後のような虚脱感に口を利く気力もなくしてソファーに倒れ込んだ。


「智幸、大丈夫か?」
 晰夜が智幸の顔色を窺うように気遣ってくれる。
「憎まれてはいないようで安心した」
「智幸……」
 力なく笑って見せた智幸に、晰夜は断言した。
「もう、あの女は、智幸に近づけないから、気に病まなくていい」
「晰夜、僕たちが共に生きていくためには周囲との軋轢や諍いは避けては通れない。君にその覚悟はある?」
 智幸は泣きそうな顔で訊いた。不安で押しつぶされそうなのだ。晰夜は、智幸の右手を握りしめると、キッパリと宣言した。
「オレはとっくに覚悟してる。智幸の過去も未来も、全部を引き受ける覚悟だってある。智幸の人生は、オレがバラ色にしてやる」
 その瞬間、智幸は花の蕾が綻ぶような微笑みを浮かべた。自分のために精一杯、背伸びしようとしている晰夜が堪らなく愛おしい。
「ありがとう。君に出会えて良かった」
 真治を失い、歯を食いしばって生きてきた辛い日々が報われた気がする。晰夜も、頑なだった智幸の心が、しっとりと寄り添ってくるのを感じて、胸が熱くなった。胸のときめきが二人の心をバラ色に染めていく。
「さっきの続き、しようぜ」
 晰夜が甘く囁くと、智幸はコクリと肯いた。こんな風に気持ちが通じ合ってするセックスは恥ずかしくて堪らない。全身で晰夜の体温を感じながら、智幸は心の中で祈った。
『どうか君の人生がバラ色でありますように』
 それは真治が智幸に願ったことでもある。最期の眠りにつくとき、晰夜が傍らにいてくれるなら、自分の人生はバラ色だったと、きっと真治にも誇れるだろう。
 その答えが出るのは、遠い遠い未来――。 

           END                 
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