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ラヴィアンローズ     月桜可南子
           act.1
 野村智幸は酷く疲れていた。「脚が棒のようだ」とはまさにこのことだと思う。まだ五月中旬だというのに、七月上旬並の蒸し暑さも手伝って、身体が鉛のように重かった。
 安いだけが取り柄の、駅から離れたビジネスホテルは、かなり古びていた。壁にできた染みをぼんやり眺めながら、今日一日の行動を無意識のうちに反芻する。
 朝は、午前五時に起きて、同僚と二人、名古屋から始発の新幹線に乗った。東京で二日間に渡り開催される合同展示即売会に参加するためだ。
 会場で自分達の吉崎繊維株式会社のブースを確認すると宅配で搬入してあった商品見本やパンフレットを並べた。開場時間ギリギリにやって来たアルバイトに伝票の書き方を説明しているうちに開場になり、その上、人混みに酔って気分は最悪だった。それでも営業スマイルを顔に張り付かせて商談をこなした。
 交代で昼食を済ませ、疲れた頭をしゃっきりさせようと、休憩ブースの自販機でウーロン茶を買ったのは午後二時過ぎのことだ。数口飲んで人心地つくと、自販機の前でしきりにジーンズのポケットを探っている青年に気がついた。
 180センチ近くの長身と、均整のとれた長い手足、茶髪は珍しくないが、サングラスをかけた彫りの深い顔立ちからすると日本人ではないのかもしれない。智幸は、さっき自分がウーロン茶を買ったおつりの小銭を自販機に入てやった。
「好きな物をどうぞ」
 振り返った若い男は、サングラスをかけていて表情は読みとれなかったが、突然の親切に戸惑っているようだった。
「これだけ暑いと冷たいものが欲しくなりますよね」
 智幸は安心させるように優しく笑いかける。
「どうも」
 最初は面食らっていた青年が破顔した。智幸も微笑み返すと、同僚やアルバイトに飲み物を差し入れしてやるために急いでその場を後にした。
 午後五時の閉会の後、翌日の準備をしてホテルに辿り着いたのは八時近くだった。同僚からの夕食の誘いを「疲れているから適当に済ませる」と断って、ベッドに身体を投げ出した。
 携帯電話を操作していつもの音楽を聴く。こんな風に落ち込んで泣きたい気分の時、このエディット・ピアフの『バラ色の人生』は、智幸を静かに慰めてくれる。三歳で両親を交通事故で失い、父方の祖母に育てられた智幸は、父の遺したレコード・コレクションの中からこの曲を見つけて以来、悲しいとき、辛いとき、いつもこの曲に癒されてきた。
 曲が終わったことにも気づかずにウトウトしていると、枕元のアラームが鳴った。智幸にはまだ“仕事”が残っているのだ。身体をしゃっきりさせるために熱いシャワーを浴びると、智幸は重い足取りで部屋を出た。


「そろそろ出ようか」
 そう言って立ち上がった男に、智幸はゆうるりと顔を向けた。
 酔いが回って立ち上がるのが酷く億劫だったが、商談をまとめるためには今夜、この商社マンと寝なければならない。智幸が勤める、不景気でほとんど仕事のない吉崎繊維に、定期的な発注をかけてくれるこの男は、大切な取引相手だった。
 井村則夫、三十八歳、バツイチ。すでに一年半程の付き合いになる。ねちっこい愛撫は吐き気がするほど嫌いだったが、智幸に拒否する勇気などない。二十人あまりの従業員とその家族の生活がかかっているのだ。
 いつも目を閉じて愛する真治に抱かれた記憶を手繰り寄せ、行為が終わるのをじっと待つ。井村は変な道具や怪しい薬を使わないし、派手に喘いでみせれば、容易くイッてくれた。
 ホテルのラウンジ・バーを出て数メートル歩いたところで、智幸はよろめいた。通路のカーペットに足を取られたのだ。
 酔ってさえいなければ取るに足らないふらつきだったが、今の智幸にはバランスを保つだけの均衡感覚は残っていなかった。視界がグラリと揺れて側にあった衝立に頭をぶつけそうになった瞬間、智幸はもの凄い力で引っ張られ、広い胸に抱え込まれた。
「気をつけろよ、酔っぱらい」
 背後から苛ついたバリトンが言った。確かに今夜は飲み過ぎたようだ。智幸は弛緩した身体を動かすのが億劫で、その胸に体重を預けたまま辛うじて立っていた。
 エレベーターのボタンを押していた井村が、ようやく異変に気づいて振り返った。
「どうしたんだ、野村君」
 男に抱きかかえられた智幸に、咎めるような視線を向ける。
「こいつ、飲み過ぎたみたいだから、俺が部屋まで送るよ」
「誰なんだ、君は!?」
「こいつのダチだよ、オッサン。何か文句あるのか!」
 威嚇するような若者の視線に井村はたじろいだ。商談をエサに智幸をベッドへ連れ込もうとしていたのを見透かされたようでバツが悪く、強い態度に出られない。酔いで気分が悪そうな智幸を見て、これではセックスの相手はさせられそうにないと踏んで諦めた。
「彼の介抱は君に任せるよ」
 井村はそう言うと、逃げるようにエレベータの中に消えた。


 冷たいタオルで首筋を拭われ、智幸の意識は急速に覚醒した。目の前の見知らぬ青年に驚いたが、ふわふわと身体が宙に浮いているようで起き上がるのもままならない。
「……きみ…は…だれ?」
 呂律の回らない口で何とかそれだけ口にする。
「オレは晰夜(せきや)。明晰の晰に夜って書くんだ」
「せ…きや…くん」
「あんた、飲み過ぎだよ。アルコール中毒になったらどうすんだ」
 明らかに自分より年下に見える晰夜に、咎めるような口調で言われて、智幸は戸惑ったが、労るように優しく髪を撫でられて不思議な安堵感に包まれた。
「……つか…れ……。す…こし…ねむら……」
 すべて言い終わらないうちに、智幸の意識は睡魔の手に奪われていた。



           act.2
 智幸はいきなり身体に衝撃を受けて目覚めた。驚いて見ると胸の上に誰かの腕が載っていた。どうやら、この腕が載った衝撃で目が覚めたらしい。隣に視線を移すと、見知らぬ青年が眠っていた。
 服を着ておらず、シーツから覗く身体には、ジムで鍛えているのか、程良く筋肉が付いていた。智幸の華奢な体格とは正反対の、精悍な体つきだ。整った目鼻立ちと彫りの深さは、どこか他人を拒絶する冷たいものを感じさせる。
 智幸は、青年を起こさないようそろそろと腕を除けるとベッドから這いだした。今夜は商談のため、井村と寝るはずだったのに、なぜ自分はこの青年の隣で眠っていたのだろう。いくら考えても思い出せなくて、智幸は焦った。
 唯一、わかることと言えば、自分がこの青年とセックスしていないということだけだ。いくら意識をなくしていても、本番をすれば身体にダメージを受けるから、それだけはさすがにわかる。枕元の時計で時間を確認すると午前三時だった。
 とにかく、ランニングとトランクスだけの下着姿はいただけない、服を着よう、と思い至った智幸は、自分の服を求めて視線をさまよわせた。ここは、どうやらホテルの一室のようだが、やたらと広くて服らしきものは見当たらない。間違えて覗いてしまったバスルームには、手つかずのシャンパンとキャビアが残っていた。
「起きたのか?」
 不意に声を掛けられて、智幸は飛び上がらんばかりに驚いた。振り返ると、射るような冷たい目をしたさっきの青年がバスローブを羽織って立っていた。身長167cmの智幸は嫌がおうにも青年を見上げる形になる。
「あ…あの……、僕の服は?」
「ああ、服なら」
 そういって踵を返した青年の後に付いていくと、寝室の奥のクローゼット・ルームに案内された。こんな奥にクローゼットがあったとは、智幸もさすがに考えつかなかった。自分のスーツがきちんとハンガーに掛けられているのを見て、なんだかほっとする。
「ありがとう」
 スーツを取ろうとのばした腕を青年がつかんだ。
「え……?」
「あの男の部屋へ行くのか?」
 青年が不機嫌そうに訊いてきた。一瞬にして智幸は記憶を取り戻した。
 気分が悪くなって、転びそうになったところを助けてくれた青年。動けない智幸をベッドまで運び、介抱してくれた。名前は確か「晰夜」と言った。
「あ……」
 笑って誤魔化さなくてはと思うのに、うまく笑えなかった。代わりに涙がこぼれた。男娼まがいのことをしている自分が惨めで――。
「……泣くなよ。可愛い顔が台無しじゃないか」
 晰夜は少し驚いたようだが、智幸をその広い胸に抱き寄せた。筋肉の張った逞しい胸が心地いい。“彼”を思い出すから。
 智幸の背中を撫でていた手のひらが、やがて下着の中に忍び込んできても、智幸は拒まなかった。

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 午前八時に宿泊先のホテルに戻ると、営業の堀田が今か今かと待ちかまえていた。
「野村さん、急がないと開場時間、過ぎちゃいますよ」
 智幸が仕事を取るために商社マンの井村と寝ていることを薄々、感づいているようで、出張先での外泊については何も言わない。身重の妻と二歳の子供を抱えて彼だって必死なのだ。
 明け方五時近くまでセックスしていた智幸は身体が怠くて堪らなかったが、気分は良かった。不思議と井村に抱かれた後のような罪悪感はない。それは仕事が絡まないからだけでなく、思いやりを感じられるセックスをした満足感があるからだと思う。
 それでも、智幸は次の約束を決してしなかった。携帯番号も聞かなかったし、相手の名前すら「晰夜」とだけしか知らない。知ろうも思わなかった。干からびた心を潤すために関係を持った一夜限りの相手。それだけだ。
 堀田とふたり、展示会場へ向かう電車に揺られながら開いた携帯には、井村からのメールが届いていた。
『来月、ロシアから戻ったら連絡する』
 現実を突きつけられて重い溜息が零れた。井村から貰えなかった分の仕事を何とか見つけなくてはならない。それ以上に、来月、井村に抱かれなければならないことが辛かった。きっと今回の分まで井村はしつこいだろう。
 久しぶりに“愛しあう悦び”を思い出してしまった身体は、激しく井村を拒絶していた。
 

 愛知県一宮市にある会社に帰りついたのは午後二時近かった。プレハブ二階建ての事務所の隣は社長宅だ。社長は一キロほど離れた工場に詰めており、事務所は社長の妻・吉崎美保が取り仕切っていた。
「展示会はどうだった? こっちは何とか今月の資金繰りがついたから安心してね」
 美保の声は弾んでいた。資金繰りがついたことがよほど嬉しいのだろう。彼女は亡くなった父や弟の跡を継いで吉崎繊維の経営を務め、老母の世話をしている。婿養子の夫・晴雄は根っからの職人気質で、肩書きこそ社長だが、経営には全く向いていなかった。
「こっちはあまり大きな仕事は取れなくて……申し訳ありません」
「いいのよ、智くんは頑張ってくれてるわ」
 美保は小さく笑い、手作りのアップル・パイを切り分けてくれた。
「あっ、智兄ちゃん! 見て見てっ、ボク、また百点取ったんだよ!」
 小学校から帰宅した美保の長男・剣(けん)が事務所に顔を出し、智幸を見つけて駆け寄ってきた。
「すごいなぁ、今度は理科で百点か」
 智幸が目を細めて誉めると剣は得意げに口角を引き上げた。愛した男の面影が重なって、智幸の胸は熱くなる。
 なんとか会社を守って、剣に渡さなくてはと改めて思う。何よりそれは、死の床で恋人・真治が唯一、智幸に望んだことだったから。
「本当にこの子は頭が良くて。なんだか私の息子じゃないみたい」
 美保がいたずらっぽく笑った。
 彼女は、真治と智幸の関係に怒り狂った両親を説得し、婿養子を取ることで、智幸の存在を認めさせてくれた大恩人だ。
 剣が残りのアップルパイをもらって自宅へ帰ると、美保が目を伏せて言った。
「真ちゃんの三回忌のことなんだけど、親戚は呼ばないで身内だけで済まそうと考えているのよ。智くんはどう思う?」
「美保さんにお任せします」
 智幸は、美保の弟・真治の養子という形で籍に入っていたが、吉崎家の世間体を考えて、仕事では旧姓を使っていたし、葬儀を始め供養のいっさいは美保が取り仕切っていた。
「それじゃあ、日にちが決まったら知らせるわね」
 美保は明るく言ったが、智幸は、法要の費用を捻出するのさえ大変なのかと暗鬱な気持ちになった。



           act.3
 瞬く間に展示会から三週間が過ぎた。智幸が、売掛金の伝票を片手に溜息をついていると、事務員の木戸英子が素っ頓狂な声を上げた。
「あらまあ、まあ! 何コレ、すごいじゃない!」
 驚いて顔を上げると、英子は宅配便の段ボール箱の中からジャケットを取り出した。遠目からでもその素材の良さや仕立ての良さがわかる高級品だ。
「あっ、これ、野村くん宛だった。ごめんねぇ、間違って開けちゃった」
 英子は悪びれた様子もなくギャハハと笑い、しっかりその他の同封物もチェックしている。智幸は、十五歳も年上の英子に文句を言うことができず、困惑したままそれを見ていた。
 箱の中からは、ジャケットに始まり、スラックス、ワイシャツ、ドレスシャツ、トレーナーと次々に衣類が引っ張り出される。結局、全部で十点あり、どれもユニセックスなデザインで、そしてどこかエロティックだった。
「凄いわねぇ、何かの売り込みかしら?」
 首を傾げる英子の隣で、智幸は差出人を確認した。
『オフィス・イル・モーロ』――取引のない会社だ。住所は東京の青山になっているが、アパレル関係だろうか?
 智幸は英子に問い合わせてくれるよう頼むと、外回りに出かけた。


 その日、智幸が得意先回りを終えて直帰すると、築三十五年の自宅側に目立つ車が停まっていた。黒のジャガー。車に疎い智幸でもそれくらいはわかる。少し迂回するように足早に通り過ぎようとしたとき、車のドアが開いた。
「あっ……」
 降りてきたのは晰夜だった。意外な再会に驚愕している智幸に、晰夜はゆったりと歩み寄り、智幸の耳元で囁いた。
「溜まってるんだ。ヤらせろよ」
 ゾクリ、と身体が震えた。それが官能によるものだと気づいたのは、下半身に熱が集まり始めたからだ。
 気がつくと智幸は、促されるままジャガーの助手席に乗っていた。


 近場のラブホテルに連れ込まれるかと思いきや、晰夜は名古屋の老舗ホテルまで車を飛ばした。
 シャワーを浴びながら立ったままで一度、ベッドまで我慢できずに洗面台にしがみついて一度、二人は呆れるほどの貪欲さで互いを貪りあった。ようやくベッドに辿り着いてからも、コンドームが破れるほど激しく求めあった。智幸は、自分がセックスに飢えていたことを嫌と言うほど思い知らされた。
 シャワーを終えた晰夜が、バスローブ姿でベッドルームに戻ってきてもまだ智幸は起き上がれなかった。枕元に腰掛けた晰夜が優しく智幸の髪を梳く。
「髪、伸ばせよ」
「……なんで?」
「その方が似合う」
「営業なんだ。これ以上、長いのはまずいだろ」
「そっか……」
 シャワーの音で気づかなかったが、外はいつの間にか雨になっていた。智幸は、明日も仕事なのだから帰らなければと思うのだが、指一本動かすのも億劫だ。
「なあ、俺のデザイン、気に入ったか?」
 覗き込むように問われても何のことかわからずに、智幸はぼんやりと晰夜を見返した。
「デザイン……?」
「宅配で会社に送ったヤツだよ」
 晰夜が焦れたように言った。
「あんたとヤッた後、あんたのことを考えながらデザインしたんだ。スゲェ、興奮した」
「あれを君が!?」
 智幸は反射的に起き上がっていた。信じられない思いで目の前の青年を見つめる。
「母親が珍しく誉めてくれてさ。あのラインを次のパリコレに使おうって」
 得意げに笑う青年に、百点の答案用紙を嬉しそうに見せる剣が重なって、智幸は微笑んだ。正直、智幸のような弱小繊維会社の社員には、パリコレと言われてもれても別世界過ぎてピンと来ないのだが。
「凄いね。成功を祈ってるよ」
 剣を誉める気安さで、智幸は社交辞令を口にした。すると、それに勇気づけられたかのように晰夜の顔が思い詰めたものに変わった。
「俺の……恋人にならないか?」
 智幸は困惑して視線を彷徨わせた。智幸の心の中には今も真治がいる。それはこれからも変わらない。真治以外の誰かを愛するなど、智幸にはとても考えられなかった。
「ごめんね、僕には好きな人がいるんだ」
 子供の我が儘をいなすように智幸は告げた。
「この間の奴か? あのスケベそうなオヤジがあんたの好み?」
 晰夜の表情が険しくなり、責めるように睨みつけられる。
 この青年は怒っていても美しい。智幸は自分でも驚くほど冷静に思った。
「違うよ、僕の恋人は亡くなってしまったから。だけど、僕の心は一生、彼のものだ」
 静かに、そして誇らしげに宣言する智幸に、晰夜は打ちのめされたような表情を浮かべた。
「だったら――」
 尊大で生意気そのものだと思っていた晰夜が、すがりつくような瞳で智幸に訴えた。
「セフレでもいい。だって俺たち相性バツグンだろ? あんなオヤジより俺の方がずっとあんたを満足させてやれる」
 まるで駄々っ子のように言い募る晰夜に、智幸は苦笑した。
「ストレートの君を誘惑したことは申し訳なく思う。でも、だからこそ、これきりにしよう」
 クールで整った晰夜の顔が苦痛に歪むのを、智幸は不思議な気持ちで見ていた。これだけハンサムなら、言い寄る女は掃いて捨てるほどいるだろうに、何を好き好んで自分などに執着するのか。
 気まずい沈黙に居たたまれず、智也は緩慢な動作でベッドを降りた。身体中が悲鳴を上げていたが、意志の力でなんとか服を身につける。
「さよなら」
 そっと呟いて智幸がドアに手をかけた時、それまでじっと智幸の動きを目で追っていた晰夜がゆらりと立ち上がった。
「待てよ! 俺、あんたのこと、興信所を使って調べたんだ」
 智幸はドアノブに手をかけたまま、晰夜を振り返った。その瞳は、秘密を暴かれた罪人のように怯えていた。
「あの報告書、吉崎繊維の社長や社長の奥さんに見せたらどんな顔するかな」
 智幸は晰夜の脅しに蒼白になった。いくら仕事を取るためとはいえ、真治を裏切って他の男に身を任せたと知れば、美保はどれほど悲しむだろう。可愛がってくれる事務員の木戸英子や、工場の職人たちにも軽蔑されてしまう。
 だから――大股で近づいた晰夜が、我が物顔で唇を奪うのを智幸は黙って許すしかなかった。



           act.4
 晰夜の車で自宅そばまで送ってもらい、その夜、智幸はまんじりともせず、真治の写真を見て過ごした。初めて井村に身体を許した時も、融資の件で銀行の支店長と関係を持った時も、罪悪感で眠れなかったが、こんな得体の知れない不安に襲われたりはしなかった。
「真治……逢いたいよ……」
 真治は亡くなる前日、智幸に言ってくれた。
「俺の人生は智幸のお陰でバラ色だった。最期の眠りに就くとき、智幸の人生もバラ色だったと言えるよう願ってる」
 今の智幸は、バラ色とは程遠い人生だ。できることなら、真治が死んだ夜、すぐにでも後を追いたかった。その誘惑を押し留めたのは、真治に繰り返し頼まれていたからだ。甥の剣が成人して会社を継ぐまで見守ってくれと。
 吉崎家から長男を奪った智幸にとって、真治の姉・美保の産んだ剣は救いだった。だから会社を守り、剣に無事、引き渡そうと誓った。例え何人の男に身体を嬲られることになろうとも。
 智幸はエディット・ビアフの『バラ色の人生』を聴きながら、身体を売る相手が井村から晰夜に換わるだけのことだ、と自分に言い聞かせた。


 睡眠不足の身体を叱咤して出勤すると、事務員の英子が小声でそっと耳打ちしてきた。
「昨日の会社に問い合わせたんだけど、あれは全部、野村くんに個人的に送られてきたものらしいの。だから、野村君が持って帰ってね」
「…………」
 智幸の沈黙を英子は遠慮しているとでも思ったのか、事情を詳しく説明してくれた。
「この間、東京の展示会で缶ジュースを奢ってあげたでしょ。それで、その人が『ジュースのお礼に』って」
「あの時の……」
 英子の話を聞いて、智幸はすっかり忘れ果てていた小さな親切を思い出した。あの時のサングラスの男と晰夜がようやく結びつく。
 今まで一度も晰夜は自販機のことなど持ち出さなかったから、智幸は同一人物だとはまったく気づかなかったが、思い返してみれば、均整のとれた長身の体躯は、晰夜だったような気がする。
 智幸は、晰夜の不器用な一途さに不思議な親近感を覚えた。真治と出会うまでの智幸も、人とのコミュニケーションが苦手で、誤解されたり傷つけられたりする事が多かった。そんな智幸に、気持ちを言葉にする大切さを教えてくれたのは真治だ。智幸が気持ちをうまく伝えられなくて殻に閉じこもる度、我慢強く抱きしめて話を引き出してくれた。
 やはり、今でもたまらなく真治が好きだ。晰夜の好意はありがたいとは思うが、セックス・フレンド以上の気持ちを持てないのも事実だった。真剣な瞳で「恋人になって欲しい」と訴えた晰夜の気持ちを思うと、それに応えられないことを申し訳なく感じる。
 智幸は、まるで袋小路に追いつめられたような胸苦しさを覚えた。


 馴染みの喫茶店でランチを済ませて事務所に戻ると、営業の三谷が駆け寄ってきた。
「野村さん、明後日、東京へサンプルを届けに行って下さい。向こうが野村さんをご氏名なんですよ」
「指名って? 誰の?」
「『アトリエ・翠』のオーナーです。藤原倫(ふじわら・りん)て聞いたことあるでしょう?」
「テキスタル・デザイナーの!?」
 真治が病に倒れるまで智幸はテキスタル・デザイナーをしていた。藤原倫は第一線で活躍し、海外でも高く評価されている雲の上の存在だ。
「頑張って売り込んできて下さいよ。あそこの仕事ができれば、うちの格が上がって営業もやりやすくなりますからね」
 三谷は嬉々としてサンプル帳や資料を用意している。
 昨夜、晰夜は、智幸が井村と切れるなら自分のコネで仕事を回してやると言った。これも晰夜が裏から手を回してくれたのだろうか、と智幸はぼんやり考えた。


 渋谷駅から歩いて十分。十二階建ビルの最上階に『アトリエ・翠』はあった。智幸が通された応接室は、アトリエの一角をパーテーションで区切っただけの簡素なもので、周囲で十人ほどのスタッフが忙しく動き回っている気配が伝わってきた。
 藤原倫は、ミーティング中だったが、智幸が訪問すると五分もしないうちに現れた。歳は三十八のはずだが、鋭利な刃物のような美貌が年齢不詳に見せていた。
「初めまして。吉崎繊維の野村智幸です」
 智幸が名刺を手に挨拶しても、藤原は何か考え込んでいるような表情で、じっと智幸を見つめたままだ。あまりの居心地の悪さに固まっていると、藤原はゆっくりと口元を綻ばせた。
「なるほど、スレてなくて純真そうだ。男から大切に、たっぷりと甘やかされてきたようだね」
 侮蔑ともとれる言葉に智幸は唇を噛みしめた。藤原の細い指が軽やかに智幸の名刺を奪うと、ビジネスのセオリー通り、テーブルの上に置く。
「さて、話を聞こうか」
 挑むように言われて、智幸は再び身を引き締めた。吉崎繊維と従業員を守るため、安易な妥協はできない。少しでも利益が出る数字で商談をまとめなくてはならなかった。



           act.5
「当社の製品と品質は以上です。何かご質問はございますか?」
 緊張で声が上擦りそうになるのを必死で押さえて微笑むと、冷徹な眼で自分を見ている藤原と視線が合った。心の奥底まで見透かされそうな恐怖に駆られて、智幸は視線を泳がせる。
「そんな顔しちゃダメだよ。虐めたくなるじゃないか」
 藤原が楽しそうに笑った。その時、常にざわめいていた応接室の外が、シン…と静まり返った。コツコツという靴音だけが響き、こちらに近づいてくる。
 異変を感じた智幸が、パーテーションの入り口に顔を向けると、豊かな黒髪を結い上げた中年の女性が入ってきた。まるで女王のような威厳と強烈な存在感に圧倒される。
「総子さん」
 藤原が戸惑ったように呟いて立ち上がったので、智幸も釣られて立ち上がった。
「倫君、抜け駆けなんてズルいわよ」
 女は微笑んだが、その目は少しも笑っていなかった。
「野村智幸さんね?」
 確認するように問われて、智幸は彼女が自分の名前を知っていることに驚いた。
「はい。吉崎繊維の野村智幸です」
 名刺を出そうと胸ポケットの名刺入れを取り出したとき、女が朗らかに言った。
「名刺なら結構よ。あなたのことは息子からよく聞いています」
 えっ?と顔を上げた智幸に、彼女は優雅に微笑んだ。
「はじめまして、佐倉晰夜の母、総子です」
 智幸は、真治の母親に「息子を誘惑した」と激しく責め立てられた苦い記憶が蘇り、絶句して凍り付いた。その場に奇妙な緊張が走る。
 その空気を破ったのは、藤原の笑いを含んだ声だった。
「総子さんも母親だったんですねぇ」
「嫌な子ね。無礼は許しませんよ」
 総子は高飛車に言ったが、空気は和らいでいた。
「僕の部屋へどうぞ。とっておきのチャイをお出ししますよ」
 藤原が、さりげなく総子の肩に手をかけてエスコートする。
「野村くん、君はもう帰っていいよ。サンプルだけ置いておいて。また連絡するから」
 総子はチラリと智幸を一瞥したが、それきり智幸への興味を失ってしまったようで、藤原と何か話しながらアトリエを出て行ってしまった。
 総子が出ていった途端、張りつめていたアトリエの空気が一気に緩んだ。しかし智幸への関心は高まったようで、スタッフの何人かが智幸を盗み見ている。
 智幸は何が何だかわからないまま『アトリエ・翠』を後にした。


 東京駅近くのハンバーガー・ショップで、遅い昼食を済ませて人心地つくと、智幸は自分が品定めされたことに思い至った。羞恥と屈辱に身体が震える。
 佐倉総子は、海外でも名を知られる有名デザイナーだった。24歳の若さで自分のブランドを立ち上げ、27歳でパリ・コレクション進出を果たした。
 その後、20歳年上のイタリア貴族の血を引く実業家と結婚し、29歳で長男・晰夜を出産。しかし、晰夜が生まれた翌年、正式に離婚。
 晰夜に日本の教育を受けさせるため、ミラノにあった活動拠点を東京に移し、以来、セレブ御用達のデザイナーとして活躍している。
 アパレル業界の底辺に位置する智幸からすれば、佐倉総子はプレタポルテ帝国の王侯貴族だ。彼女を敵に回せば、業界から締め出されるのはわかりきっている。そして、晰夜は彼女の大切なひとり息子なのだ。
 智幸は自分の危うい立場に目眩を起こしそうだった。


 晰夜から毎週、季節のフラワー・アレンジメントと共に送られてくる新幹線チケットはグリーン車だ。むろん、智幸に外せない用事があるときは携帯メールで「用事がある」と断れば、晰夜は決して無理強いしなかった。
 金曜の夜の新幹線で上京し、週末を晰夜と過ごし、日曜の最終新幹線で一宮に戻る。そんな生活が二ヶ月あまり続いていた。
 その身返りに晰夜が回してくれる契約は、商社マンの井村からもらっていたものとは比べものにならない金額だったが、智幸にすれば、身体を売る相手が井村から晰夜に変わっただけに過ぎない。
 一つだけ違う点があるとすれば、晰夜とのセックスが自分を見失いそうなほどの快感を伴う点だ。筋肉の程よく張った精悍な身体に抱き締められると、智幸は奇妙な安堵と欲情に囚われる。理性を手放し、獣のように本能の命じるまま、まぐわうのだ。
 一方、晰夜は智幸を着飾らせて、あちこち連れ歩くのが好きだった。それはオペラだったり、目が飛び出そうな高級レストランだったり、最先端のクラブだったり、どれも智幸が今まで一度も経験したことのない華やかな世界だった。
 端から見ればデートのようだ。しかし嫌がおうにも住む世界の違いを感じさせられ、智幸の心は頑なに閉じていく。
 こんな関係がいつまで続くのだろう。閉息感に窒息しそうになる。それでも耐えるしかないのだ。美保や剣のために、吉崎繊維を倒産させるわけにはいかない。



           act.6
 ベランダから海の見える2LDKのマンションは、晰夜がアトリエとして使っているもので、呆れるほど乱雑だった。
「少しは掃除したらどうなんだ」
 智幸が苦言を呈すると、晰夜はケロリとして言った。
「週に二度、清掃業者が入っているのに、なんでオレが掃除なんかしなけりゃならないんだ」
 確かにバスルームやトイレは清潔に磨きたてられていたが、アトリエは布だらけで足の踏み場もない。仮眠用ベッドの上にまで書き散らされたデザイン画らしき紙が落ちている。几帳面できれい好きな智幸としては、どうにも落ち着かなかった。
 昨晩は初めてここに泊まった。智幸が「アトリエが見たい」と言ったからだ。
 いつもクールで取り澄ました晰夜が、宝物を披露する少年のような笑顔で案内してくれた。その笑顔は晰夜を年相応の24歳の若者に見せ、智幸は自分の知らなかった晰夜の一面に好感を持った。
 アトリエでセックスするなど不謹慎と思いつつ、晰夜に誘われるまま行為になだれ込んでしまい、結局、二人して泊まってしまったのだ。


「今日はこれだ」
 手渡されたスーツは、オリーブ・グリーンのマオ・カラーのジャケットと、タイトなラインのズボン。晰夜はそれにペール・ラベンダーのシャツとプレーンな黒い靴を合わせた。確かに着心地は良いが、派手なデザインや色が智幸には気恥ずかしくてたまらなかった。
 仕事柄なのか、晰夜はメイクからスタイリングまで何でも器用にこなす。智幸が大人しく晰夜に髪をセットされていると、インターホンが鳴った。
「すいませぇん、忘れ物を取りに来ましたぁ」
 現れたのは二十代後半のぽっちゃりした女性で、アトリエのスタッフのひとりだという。涼しげなカットソーからは、健康的に日焼けした小麦色の肌が覗いていた。
「わぁ、よく似合ってるぅ。先生ぇ、がんばって徹夜で仕上げた甲斐がありましたねぇ」
 どこか気の抜けたぽよんとした話し方だが、瞳は好奇心に爛々と輝いている。
「襟と袖口の刺繍は、こいつがやったんだ」
 晰夜が渋々といった様子で説明した。
「縫製はマナちゃんでぇ、仕上げはキヨくんですぅ」
「ユッコ、無駄口叩いてないで、忘れ物持って早く帰れよ」
 少し苛立った晰夜の声にユッコと呼ばれた女性は悪びれもせず笑った。
「はぁい。おじゃましましたぁ」
 晰夜は半分、追い出すようユッコを玄関まで送ると、バツが悪そうに戻ってきた。業界関係者に二人の関係がバレるのを嫌う智幸は、不機嫌さを隠さなかった。気まずい空気が流れる。
「ごめん、嫌な思いをさせて」
 晰夜がぽつりと言った。その声は子供のように頼りなげだ。いつもの自信たっぷりで生意気な晰夜とは別人のようで智幸は驚いた。


 すさまじいボリュームの音楽に、智幸は頭痛を起こしそうだった。ノリの良い音楽は好きだが、鼓膜が破れそうなボリュームはいただけない。
 それでも、案内されたVIPルームに入るといくらかマシになった。会話が楽しめるようにとの配慮だろう。とはいえ、二人の間に会話はほとんどなかった。
 晰夜は智幸を連れ歩くのは好きだが、誰かを相席させるのを嫌った。まるでデートのようで智幸は落ち着かなかった。かといって業界関係者に紹介され同じテーブルに着くのは、蔑みの視線を向けられそうで嫌だった。
 真治を愛している。今も、これからも。たとえ他の男に身体を与えても、心だけは渡さない。それが智幸にとっての最後の吟持だった。
 不思議と晰夜と一緒だと、真治のことばかり思い出してしまう智幸だ。初めてのデートで真治と食べたお好み焼き。クリスマスに連れていってもらったレストラン。真治の仲間と飲んで騒いだ居酒屋。どれも楽しい思い出ばかりだ。
 時折、晰夜を盗み見ると、仏頂顔で酒を飲んでいるか、近くの若い女性を眺めているかのどちらかだ。いかにも退屈だといったその様子に、智幸は、やることだけやって、さっさと自分を帰らせてくれればいいのにと思う。晰夜が連れてきてくれるのは智幸が気後れするような場所ばかりで、智幸には苦痛だったのだ。


 晰夜は臍を噛んでいた。今まで付き合った女達は、プレゼントを贈ったり、ゴージャスなデート・スポットに連れていけば、たちまち晰夜に夢中になったのに、智幸は一向になびいてくれないのだ。
 今もなにやら物思いに耽り、一刻も早く帰りたそうにしている。智幸が乗車する最終の新幹線までまだ時間はあるから店を変えようか、と思い悩みながらトイレで手を洗っていると、自分に向けられる視線に気がついた。鏡越しに目があったのは、あの夜、智幸をベッドへ連れ込もうとしていた男――井村だった。
「友達と言っていたが、セックス・フレンドとは気づかなかったな」
 井村が皮肉たっぷりの声で嘲笑すると、晰夜は剣呑な視線を向けた。
「あんたとヤるより、俺の方が数十倍、イイってさ」
「それはどうかな。智幸は会社のためなら親子ほど年の離れたヒヒ爺とでも寝る奴だ。新しい男に乗り換えられないよう、せいぜい気をつけるんだな」
 井村は暗い笑いを浮かべて捨て台詞を残すと立ち去ったが、その言葉は棘のように晰夜の心に留まった。
 探偵事務所の調査報告書によると、智幸は恋人の吉崎真治が亡くなった二ヶ月後には井村と関係を持っている。さらにその後、当時の取引銀行の支店長とも融資を受けるために関係を持った。しかし、支店長は転勤となり、三ヶ月という短い期間で智幸との関係は終わっていた。
 冷静に考えれば、晰夜のしていることも彼らと大差なかった。仕事をエサに智幸を――。 



           act.7
 VIPルームに戻ると、晰夜はいきなり智幸の唇を奪った。その噛みつくような激しさに、智幸が本能的に怯えたのがまずかった。劣情を煽られた晰夜は、抵抗する智幸を押さえつけてズボンのファスナーを下ろし、その中に掌を潜り込ませた。巧みに智幸の弱いところを狙って擦り上げる。
「うそっ……ちょっ、晰夜っ!!」
「ここでヤルとの、トイレの個室でヤルのと、どっちがいい?」
 階下のフロアが見えるVIPルームでされるのも、トイレの狭い個室でされるのも、羞恥に堪えられない。智幸は涙目でどっちも嫌だと懸命に訴えた。智幸にとってセックスは、スリルや刺激を楽しむものではないのだ。
「ヒイッ……!!」
 鈴口を爪で引っかかれ、幹を擦られ揉まれて、智幸の喉が鳴る。
「じゃあ、俺の部屋へ行こう。今夜は泊まりだ。明日一番の新幹線で戻ればいい」
 智幸はコクコクと肯いた。気づかぬうちに何か失敗をして、晰夜を怒らせてしまったようだが、とにかく今夜一晩我慢すればいいのだと、智幸は軽く考えていた。


 目黒にある佐倉家は、三階立ての瀟洒な造りで、三階部分が晰夜の居住スペースになっていた。バスルームはもちろん、ミニ・キッチンまでついている。
 晰夜の母・佐倉総子は世界中を飛び回っているため、目黒の自宅には月の半分も在宅していない。しかし、運の悪いことに、その夜は珍しく総子が在宅していた。
 必死で声を抑えようとする智幸にお構いなく、晰夜は淫具まで持ち出して残酷なほど激しく責め立てた。何度も許しを請うたが聞き入れられず、智幸は悪夢のような一夜を過ごした。早朝にベッドを抜け出し、携帯で呼んだタクシーの座席に身を沈めたときは安堵のあまり涙が零れたほどだ。
 しかし、智幸は晰夜を怖いとは感じなかった。晰夜は苦しんでいた。智幸への一方通行の想いに……。晰夜を追い詰めたのが自分ならば、智幸は甘んじてその怒りを受け止めようと思った。


 名古屋に到着したのは午前八時五分過ぎだった。美保に電話して急用ができたため二時間ほど遅刻すると伝える。
 新幹線の中ではずっと眠っていたので、目に付いたコーヒー・ショップで朝食を摂ってから出勤することにした。ところが派手なスーツが悪目立ちして出勤ラッシュの人々の視線を集めてしまい、智幸は朝食も早々に駅のトイレで着替える羽目になった。
 それは本当に偶然だった。JRのコンコースで新幹線チケットを購入している藤原倫を見かけたのだ。
 側にいる初老の男の襟元には、ひまわりのピンバッチがついている。弁護士と一緒ということは、何か大きな契約でもあったのだろうか。
 そう考えているうちに、二人は新幹線ホームへと消えてしまい、智幸はそれきりそのことを忘れてしまった。


 出勤して間もなく、智幸の携帯がメールの着信を告げた。確認すると晰夜からで、簡潔に「昨夜はゴメン」と書かれていた。どう返信すればいいのかわからず、智幸は放置することにした。
 午前中は支払いの遅れている卸し先に催促の電話を入れ、午後から営業に出た。小さな契約をコツコツとかき集める毎日。それでも仕事をしている間は夢中で、余計なことを考えずに済むから良かった。
 辛いのは一人で過ごす夜だ。食事や入浴などを済ませ、いよいよやることがなくなると、智幸は途方に暮れてしまう。
 もとよりテレビやゲームに興じる趣味はない。鬱々とベッドで過ごす長い夜。それも、真治との約束を果たすまでの辛抱だと自分に言い聞かせる。
 真治の甥・剣が会社を引き継いだら、その時は――真治のところに行こう。愛する人のもとへ。
 そう考えると智幸はいつも不思議な安堵感に包まれる。真治は他の男に身を任せた自分を許してくれないかもしれないが、真治のいないこの世界で、ひとりぼっちで生きていくよりずっとマシだ。


 晰夜は一時間おきに携帯を確認した。待てど暮らせど届かない智幸からの返信メールに気持ちがどんどん落ち込んでいく。今まで、いくつか恋をしたが、こんなにのめり込んだ相手は智幸が初めてだ。
 晰夜は、母親のいない広い屋敷で何人もの使用人にかしずかれ、孤独な少年時代を送った。その孤独を埋めるために付き合った女たちは、皆、晰夜のルックスと金離れの良さにしか興味がなかった。他に目新しい男を見つければ、まるで古い服を脱ぎ捨てるように晰夜のもとを去っていった。
 それでも晰夜は気にしなかった。新しい女はすぐに見つかったし、晰夜にしても去っていく女を追いかけるほど、その女に執着も未練も持ち合わせていなかったからだ。むしろ、何年も同じ相手と付き合うなど、新鮮味もないし退屈なことだと考えていたから、一年もすれば女に飽きて自分から別れを切り出すことも頻繁にあった。
 母親の関心を引きたくて始めたデザインは、いつしか彼の心の拠り所となった。女にも金にも不自由しない生活。それでも晰夜は不安だった。自分の才能が渇えたら、母親の関心を失うのではないかと。
 何度目かのスランプで悩んでいたとき、野村智幸に出会った。
 智幸は覚えていないようだが、小銭入れをなくして自販機の前で立ち往生していた晰夜に、智幸が缶ジュースを奢ってくれたのが二人の出会いだ。智幸は、何の気負いもなく、さりげない親切で、晰夜の渇いた心にスルリと入り込んできた。
 そんな智幸が、好色そうなサラリーマンと一緒にいるのを見たとき、晰夜は猛烈な怒りを感じた。下心見え見えの男に素直に付いていくのが許せなかった。だから、強引に男から、酔った智幸を奪い取った。
 元は女を連れ込むために取ってあったホテルの部屋に、智幸を運んで介抱してやった。あどけなく無防備な寝顔に強烈な庇護欲をそそられた。自分が、年上の――後でわかったことだが四歳も年上だった――それも男に、そんな感情を抱くとは夢にも思っていなかったが。
 そして、目の前ではらはらと涙を零した智幸に、晰夜は激しく欲情した。
 智幸とのセックスは最高だった。どんな女の体より興奮する。智幸を抱くと新しいデザインやアイデアが次々と浮かんで、ますます智幸を手放せなくなった。
 智幸は好きな男がいると言ったが、死んだ男など怖くなかった。今、智幸を抱き、蕩けるような快楽を与えているのは自分だ。死んだ吉崎真治ではない。
 晰夜は、未だに真治を愛している智幸が好きだった。その一途で健気な愛情は、薄っぺらな恋愛しか知らなかった晰夜には、ゾクゾクするほど魅力的で、うっとりするほど美しかった。
 もし、智幸が晰夜を愛せば、真治に対するのと同じように、強く深く、晰夜に忠節を尽くし愛し続けてくれるだろう。それには時間が必要だと、晰夜自身、納得していたはずなのに……。
 あの夜は失敗した。嫉妬に駆られて、嫌がる智幸を押さえつけ、様々な道具で責め立てた。それも智幸が怯えるほどに――。最低だ。
 謝らなくてはと思うのだが、酷いことをしたと自分でもよくわかっているだけに、直接電話するのが怖くてたまらなかった。



           act.8
「晰夜くん、荒れてるんだってね。僕で良かったら相談に乗るよ」
 顔を上げると隣のスツールに藤原倫が滑り込んできた。声を掛ける前にバーテンダーがアーリータイムズのオンザロックを藤原に差し出す。考えてみたらこのバーは、藤原に教えてもらった店だったと晰夜は思い至った。
 表向きはあまり知られていないが、藤原と晰夜は、叔父と甥の関係に当たる。藤原は、晰夜の母・総子の腹違いの弟なのだ。
「別に荒れてなんてねーよ」
「そう?」
 藤原は大人の余裕なのか、単に面白がっているだけなのか、優雅に口元を綻ばせた。
「君が話すことがないなら、僕が話題を提供しよう。来月、吉崎繊維を自社工場として買い取ることになったよ」
「……誰の入れ知恵だ?」
「もちろん、君の母上だ」
「!!」
 晰夜は思わず頭を抱え込んだ。
「不毛な恋愛に決着をつけるには、もってこいのアイデアだろ。たいした女性だよ、君の母上は」
 晰夜が思わず睨みつけると、藤原はおどけたように身を引いた。
「なんだ、自信がないのか? セックスの相性は最高なんだろう? この間は、そう言ってたっぷり惚気てくれたじゃないか」
「うぅ……」
 晰夜は再び頭を抱え込んだ。智幸が嫌がることをさんざんやらかして、メールの返事さえもらえないとは口が裂けても言えなかった。


 気がつくと金曜日になっていた。あれ以来、晰夜からはメールもなければ電話もなかったが、花と新幹線のチケットはいつものように送られてきた。憂鬱だが、晰夜に逢わなくてはならない。先週のことは智幸の中に大きなしこりとなって残っていた。
 智幸が東京駅に降り立つと、ホームには晰夜が出迎えに来ていた。ホームまで出迎えてくれたのは初めてだ。智幸が驚きと気恥ずかしさに立ち竦んでいると、晰夜は智幸のカバンを取り上げてポツリと言った。
「来ないかと思った」
 仕事に夢中で、晰夜のメールのことなどすっかり忘れていた智幸は、晰夜が智幸に嫌われることを畏れているのだと初めて気がついた。
「オレ、あの夜はどうかしてたんだ。例の井村って男に会って……『乗りかえられないように気をつけろ』って言われてさ。なんか、ムシャクシャして……本当にゴメン」
 晰夜の不器用さが昔の自分に重なって、いじらしくて、胸のしこりが甘く溶けていく。
「もう怒ってないから」
 晰夜を安心させるために言ってやると晰夜は嬉しそうに破顔した。
 この笑顔が好きだ、と智幸は思う。彫りが深くて整った晰夜の顔立ちは、ともすれば冷たい印象を与える。しかし、ごく稀に今のように相好を崩して笑うと、子供のような幼さが顔を出して、智幸をドギマギさせるのだ。
 何か暖かいものが胸の中にこみ上げてくる。智幸は、胸の高鳴りを晰夜に悟られぬようポーカーフェイスを装って聞いた。
「今夜の予定は?」


 連れて行かれたのは、赤坂のバーだった。地下にあるせいか客もまばらで、しっとりと落ち着いた雰囲気が漂っていた。
「前の男のこと、話せよ。今も智幸の心に住んでいる男のこと」
 奥のテーブル席に着くなり、水割りを立て続けに二杯空けた晰夜が言った。
「どうしてそんなこと、聞きたいんだ?」
「さあ、どうしてかな」
 晰夜は自嘲するように笑った。
 智幸がどうしたものかと逡巡していると、晰夜が畳みかけるように訊いてきた。
「出会いは?」
「小学校二年の時。教室の窓から、みんなが遊ぶのを見ていたら、キャッチボールに誘われたんだ」
 渋々、智幸が答えると晰夜は嬉しそうに身を乗り出してきた。
「幼なじみだったんだ」
「真治は、二学年も上で、顔は知っていても話したことはなかったから、凄く驚いた」
「好きだって、セックスしたいって意識したのは?」
「祖母が亡くなって、真治と暮らし始めたころから、何となく……」
「セックスしたこともないのに、同棲してたのか?」
 晰夜から呆れたように言われて、智幸は恥ずかしそうに俯いた。
「だって、僕はまだ高校生だったし、真治も大学に入ったばかりで……」
「奥手だなぁ。信じらんねぇ! もしかして女もまだだったとか?」
「もう、答えたくない!」
 ムクレて頬を膨らませた智幸は、決まり悪そうに顔を反らせた。
「じゃあ、最後にひとつだけ」
 そう言うと晰夜はグラスに残っていた酒を飲み干した。
「智幸は、残りの人生五十年をひとりぼっちで過ごすつもりなのか?」
 それは、いつもの生意気な青年とは思えない切ない問いかけだった。智幸は逃げてはいけないと感じた。晰夜の真摯な情熱に応えてやることができなくても、せめて誠実に真っ直ぐ向き合ってやらなくてはと考えたのだ。
「一生分の恋はもうした。人生のすべてをかけた恋を。あんなに幸せで辛い恋はもうできないし、したいとも思わないな」
 儚い微笑みを浮かべた智幸に、晰夜は言った。
「オレは、智幸に惚れてるよ。たとえ智幸が仕事のためにオレの隣にいるに過ぎないとしても、オレは幸せだ」
 智幸は泣きそうな顔をして目を伏せた。


 赤坂のホテルで、壊れもののように大切に愛された。まるで真治に抱かれているような錯覚を起こして、智幸は泣いた。
 医者から「これが最後の外泊許可になるだろう」と言われた夜を思い出していた。病に蝕まれ、やせ細った真治の身体を気遣いながら、最後の逢瀬に酔った夜。側にいて、置いていかないでと懇願し、すがりついた。一人寝の夜に繰り返し見る夢だった。
 目覚めると、朝の光の中、すっかり身支度を整えた晰夜が枕元に座っていた。晰夜は、智幸の頬の涙を、指先で優しく拭い取りながら訊いた。
「デートしよう。智幸はどこへ行きたい?」
 その日は、智幸の希望で美術館のハシゴをした。気に入った作品の前で、互いの意見を戦わせるのは、真治ともよくやった。
 智幸より四歳年下だというのに晰夜は博識で、真治に負けず劣らず、鋭い意見を述べる。母親の英才教育の賜物だろう。
 遅い夕食を隠れ家のような小さなレストランで済ませると、晰夜は再び新幹線ホームまで送ってくれた。「来週は名古屋の美術館や博物館に行こう」と誘われ肯く。
 智幸は新幹線の中で、来週を心待ちにしている自分に戸惑った。



           act.9
「智くん、明日の夜は空いてる? 今後の経営のことで主人が話し合いたいと言っているの。一緒に夕食でもどうかしら?」
 美保に金曜の夜の都合を聞かれて、智幸は二つ返事で了承した。晰夜が名古屋に来ることになっていたが、話し合いの後にホテルへ訪ねることにする。晰夜とは身体から始めてしまった関係だったが、気がついたら甘やかされ、それに浸っている自分には驚くばかりだ。


 久しぶりに会う剣は、小麦色に日焼けしてやんちゃそのものだった。
「ボク、タツノリくんより速く泳げるようになったんだよ」と嬉しそうに話す。
「タツノリくんてね、同じクラスで水泳教室に通っている子なの。剣ったら『教室に通わなくたって、ボクはタツノリくんより上手に泳げる』って威張っているのよ」
 隣で美保が剣の話を詳しく解説してくれた。
「ねぇ、智兄ちゃんは何メートル泳げるの?」
 剣が興味津々といった様子で訊いてくる。
「うーん、25メートルくらいかな。でも、真治叔父さんは一キロくらい平気で泳いでいたよ」
 智幸は、小学生の時、真治にクロールの息継ぎを特訓されたことを懐かしく思い出した。当時から真治は面倒見が良くて、皆に慕われていた。勉強でもスポーツでも何でもソツなくこなし、大人達も一目置いていた。生まれながらにして人を束ねるカリスマ性を持っていたのだ。
「智くん、ビールでいい?」
「あ、はい」
 智幸は、営業をするようになって、つきあい程度には飲めるようになった。美保の心尽くしの手料理をご馳走になり、今夜だけはいつもより一時間長くゲームをする事を許された剣が席を外すと、大人たちの時間だった。


「会社を売ろうと思う」
 美保の夫であり、社長でもある吉崎晴雄が言いづらそうに口にした。
「うる……?」
 何を言われたのか理解できず、智幸はオウムのように繰り返す。
「うちの会社を買い取りたいと言う方がいるの」
 美保の瞳は、何かに憑かれたように爛々と輝いていた。
「東京の『アトリエ・翠』さんが、うちの技術や主人を気に入ってくださって、従業員ごと面倒を見てくださるというのよ。こんなチャンスはもう二度とないと思う!」
 智幸は信じられない思いで美保を見た。
「真治の……真治の遺言はどうなるんですか?」
「お願い、わかってっ! 智くんが本当に剣のことを大切に思っているならわかるはずよ。借金まみれの会社を継ぐより、サラリーマンになった方がどれだけ幸せか。会社と従業員を守るために、なんとか自転車操業で頑張ってきたけど、もう私、限界なの!」
 それは悲痛な叫びだった。智幸だって毎月毎月、資金繰りに頭を悩ませ、気苦労を重ねている美保の気持ちはわからないでもない。真治が死んで間もなく、吉崎繊維は一度不渡りを出している。二度目の不渡りを出せば即、倒産だ。
 だから智幸は仕事を取るため、商社マンの井村と関係を持った。銀行からの融資を得るために二回りも年の離れた支店長にも脚を開いた。今も会社を存続させるために、晰夜と寝ている。
 美保は限界だと言うが、それでは自分がこれまで払ってきた努力と犠牲は何だったのか。頭の中が真っ白になって、智幸はその後どうやって吉崎家を辞し、自宅に帰ってきたのか覚えていない。
 不思議なことに涙は出なかった。ただ、胸に大きな穴がぽっかり空いてしまい、すべての感情が智幸の表面を滑り落ちていく。
 唐突に「死のう」と思った。もはや智幸をこの世に繋ぎ留めるものは何もない。これでやっと真治の元に行けるのだ。苦手な営業で頭を下げて回ることもない。好きでもない男とセックスをしなくてもいい。
 心地よい安堵に支配され、智幸はベッドに潜り込んだ。ぐっすり眠って目覚めたら、死に場所を探しに行こう。真治と出かけた様々な行楽地が頭をよぎり、智幸はとても幸福な気持ちで眠りに就いた。


 翌朝、智幸は美保宛の遺書をしたためた。自分名義の家と土地を処分して、剣の教育費に当てて欲しいという願いと、今まで世話になったお礼を綴った。預金通帳や権利書など貴重品をひとまとめにするとその上に遺書を置く。
 迷ったが、晰夜にはメールを送った。『もう君と付き合う必要はなくなりました。今まで親切にしてくれてありがとう』
 それから、思いついて晰夜から贈られた大量の服を段ボール箱に入れて梱包した。自分が他の男と付き合っていた痕跡を残すわけにはいかない。
 宅配便の集積センターに荷物を取りに来てくれるよう電話で頼むと、疲れを感じて居間に腰を下ろした。扇風機を付けて、ぼんやりと古びた室内を見回す。
 春の日差しの中で昼寝している真治、夏の夕暮れにちゃぶ台でビールを美味しそうに飲む真治、庭に七輪を持ち出して秋刀魚を焼く真治、そして木枯らしの吹く寒い夜に智幸を暖めてくれた真治。
 家のあちこちに真治の思い出が棲みついている。智幸は、いつもの『バラ色の人生』を聴きながら、静かな満ち足りた気分で思い出に浸った。



           act.10
 玄関のインターホンが鳴り、智幸が玄関ドアを開けると、待っていたのは宅配業者ではなく晰夜だった。
「どういうことだよ、ちゃんと説明しろよっ!」
 ズカズカと遠慮の欠片もなく入り込んできた晰夜に智幸は困惑した。
「どういうって……」
「さっきのメールのことだ」
「ああ」
 ようやく合点がいって、智幸は説明した。
「吉崎繊維は、アトリエ・翠に売却されることになったんだ。だから僕はもう仕事のためにセックスはしない」
「そっか……そうしてまた、ひとりぼっちで夜を過ごすのか?」
 射るような瞳で問われて、智幸はたじろいだ。
「……君には関係ないことだ」
「そうだな……。けど、最後にライバルの位牌に恨み言のひとつぐらい言わせてくれよ」
 今度はいきなり室内に上がり込まれて、智幸は面食らう。
「位牌は、ここにはないんだ。吉崎の本家にある。分骨も本人の希望でしなかった」
 慌てて廊下を奥に進む晰夜を追いかけると、突然立ち止まった晰夜の背中にぶつかった。晰夜の視線の先には、遺書と書かれた封筒があった。 
「死ぬ気なのか?  なんで死ななくちゃいけないんだよ!? せっかく自由になれたのに!」
 振り返った晰夜が乱暴に智幸の肩を掴んで叫ぶと、智幸はそっと視線をはずして俯いた。
「自由……? この寂しさが自由ってものならば、僕は自由なんて欲しくなかった」
「会社ならオレが買い戻してやる。智幸は心配しなくていい」
 その言葉に、智幸は呆れたように晰夜を見た。
「もう、いいんだ。美保さんにも僕にも経営の才能はない。いずれは吉崎繊維を潰してしまう。今までさんざんあがいてきたけど、やっとそれを認めることができた。正直、僕は今、ホッとしてる。これで、仕事のために誰かと寝ないで済むことに」
「そんなに……オレのことが嫌いだったのか」
 晰夜が苦渋に満ちた声で呟いた。智幸は言い辛そうに目を伏せた。
「だって君は真治じゃない。僕は今でも真治を愛してる。でも……晰夜とのセックスは気持ち良かったから――君とのセックスは嫌じゃなかったよ」
 智幸は淡々と語ったが、晰夜を勇気づけるには充分だった。
「だったら、オレの傍にいてくれ。愛してくれなんて我が儘は言わないから、傍にいてくれるだけでいいんだ」
「僕にはそんな器用なことはできない。君の側にいれば、いつかは君に惹かれてしまう。真治を裏切って、違う誰かを愛す自分を、僕は許せない」
 智幸は今にも泣きだしそうな顔をした。それは智幸がずっと目を背けてきた本音だった。
 真治は、病に冒され痩せ衰えていきながらも、気丈にベッドの上からあれこれ指示を出していた。弁護士を呼んで遺言書を整え、残される者達の負担を少しでも軽くしようと葬儀の予約までした。
 智幸の前ですら、決して弱音を吐かなかった真治。怖いほど愛されていた。愛していた。
「真治さんは、なぜ養子である智幸が相続すべき自分の持ち株を姉さんに残したんだ?  なぜ会社を智幸ではなく甥に継がせようとした? なぜ分骨さえ許さなかった? それは智幸に新しい誰かと、未来を生きてもらうためじゃないのか?」
 智幸は、晰夜の思いがけない言葉に茫然と目を瞠った。
「大切に愛情を育んで、入籍までした恋人を残して逝くなんて、無念だったろうな。でも、だからこそ彼は、智幸をこの世に繋ぎ留めておきたかったんだ。自分の分まで生きてもらうために――後を追わせないようにするために『会社を守ってくれ』と頼んだんだ」
「僕は……晰夜を選んでもいいの? 晰夜と…未来を生きてもいいの?」
 智幸が迷子になった子供のように頼りなく呟くと、晰夜はありったけの情熱を込めて訴えた。
「真治さんは凄い男だと思う。オレなんかじゃ彼の代わりになれないのはわかってる。でも、チャンスをくれないか。いつかきっと彼に追いついてみせるから」
 智幸は晰夜の精悍な頬にゆっくりと手を伸ばした。
「晰夜……抱いて。今すぐここで抱いて欲しい……」


 智幸に、腰を高く掲げた獣の姿勢で、雄を受け入れさせる。この家のそこかしこに真治の気配を感じながら、晰夜は智幸を貫いた。淫靡な水音が送抜のリズムに合わせて室内に響き渡る。
 オレがこいつを引き受けるから。必ず幸せにしてみせるから。どうか、智幸を古い恋の呪縛から解放して欲しい。明日を生きるために――。
 切ない願いを胸に、晰夜は智幸を追い上げる。肌理の細かい肌が桜色に染まり、智幸の切羽詰まった喘ぎが絶頂の近いことを教えてくれる。
 晰夜は智幸の右足を抱え上げると、繋がったまま、その細い身体を反転させた。粘膜が擦れる生々しい衝撃で、智幸の唇から一際高い嬌声が迸しる。
「ヒイッ、アアアッ―――…あ……んんッ」
 唇を奪い、舌を絡ませ、唾液を送り込む。先走りにぬめる智幸の分身が二人の腹の間で擦られ揉まれて愉悦に震える。そして、弾けた。
 ビクビクと痙攣するする腰を掴んで、晰夜は二度三度と打ち込むと最奥を撃ち抜いた。たっぷりと所有の証である白濁を智幸の内部に注ぎ込んでやる。
 涙に濡れた瞳が、恋慕と諦観の色を浮かべて晰夜を見ていた。
          To be continued
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