後日談・懲りない男　　　　　月桜可南子
	店内に流れるジャズを聴きながら、二杯目のギムレットに口を付けた智幸は、そっと腕時計に目をやった。 　午後九時二十分。男はまだ現れない。残業が長引いているのか、約束をすっぽかすつもりなのか、計りかねて携帯を取り出した。案の定、男からのメールも着信も履歴にはない。 　あまり遅くなると晰夜を心配させてしまう。このギムレットを飲み終わったら、店を出ようと考えてグラスを持ち上げた時、ようやく男が現れた。 「野村くん、待たせて悪かったな。道が混んでいたんだ」 「井村さん」 　智幸は律儀に席を立つと、ぺこりと頭を下げた。 「綺麗になったな。見違えたよ。あの坊やとは上手くいっているようだな」 　馴れ馴れしく肩に手をかけられ、智幸はそっと目を伏せた。井村は智幸の隣のスツールに座ると「バーボン、ロックで」とバーテンに注文する。 「あの……お呼び立てして、すみません」 「ああ、俺と寝る気がないんなら手短に頼むよ。明日の朝イチで中国に発つんだ。返したい物って何だ?」 「はい、実はこれを」 　そう言って智幸は小さな包みを井村の前に差し出した。 「ん?」 「あなたにお借りしたマフラーです。お返しするのを忘れてしまって」 　晰夜と暮らすマンションに本格的に引っ越しをするため、一宮の自宅を整理していたとき見つけたのだ。井村のマンションで抱かれた夜、帰ろうとした智幸に「今夜は冷えるから」と井村が貸してくれたマフラーだった。 「こんな物のために俺を呼び出したのか?　捨てればよかったのに」 　井村は智幸の律儀さに半ば呆れながら呟いた。 「でもこれ、手編みですよね。大切な物じゃないかと思って……」 　智幸が恐る恐る言うと、井村は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。 「別れた女房からのプレゼントだよ、それ。バカヤロウ、思い出しちまったじゃないか」 「あ……ご、ごめんなさい」 　智幸は青ざめて今にも泣きそうな顔で謝った。 「頼むから、捨てといてくれ」 「はい……」 　気まずい沈黙が二人を支配する。井村はやけくそのようにバーボンを煽った。 「いい女だったのになぁ。何でこう俺は次から次へとフられるんだ」 　智幸は困惑して俯く。 「なあ、一発やらせろよ。坊やには秘密にしておくからさ」 　どうやらこの男、自分の軽さや享楽的なところが相手を傷つけるのだとは、まったく気づいていない。 「ごめんなさい」 　智幸はひたすら恐縮して繰り返した。 「なーんか、君を見てると虐めてやりたくなるんだよな。あのサド支店長が、ヤり殺さなかったのが不思議だよ。いや、俺が銀行の人事部長におまえたちの関係をチクらなかったら、本当にヤり殺されてたかもな」 「えっ……じゃあ、あの人の転勤は……」 「そっ、俺がメールしてやった。君の身体中にできてた傷を見たら腹が立ってさ。あいつ、今、旭川支店だってよ。ザマーミロだよな」 　井村はクツクツと笑って二杯目のバーボンをオーダーした。 「僕は――」 　言いかけて智幸は口を噤んでしまった。 「何だよ、言えよ」 　井村が怒ったように促したので、智幸は静かに話し出した。 「僕は、あの人に酷くされると、ホッとしました。これは自分への罰なんだって思ったから。だから、あなたが優しくしてくれると、辛かった。僕は自分のことで精一杯で……本当に…ごめんなさい」 「いいさ。俺は充分、君の身体を楽しませてもらったからな。おい、泣くなよ。自分の泣き顔が、どれほど男をそそるか自覚してないのか?　押し倒すぞ」 　井村の言葉に智幸はたちまち赤面した。 「僕、もう帰ります」 　あたふたとマフラーを持って立ち上がる。 「待てよ、やっぱりそれ、返してくれ」 「え?」 「今夜のオカズにする」 　井村は不敵に笑ってウインクした。 　智幸は戸惑いながらマフラーの包みをテーブルの上に置くと、その下にそっと折り畳んだ一万円札を忍び込ませる。それを見た井村は悲しそうに智幸を見つめた。 「君らしいな。もう俺にはいっさい借りを作りたくないってわけか」 「本当にお世話になりました」 　智幸は深々と頭を下げると逃げるように踵を返した。井村は智幸の背中を見送ると、バーテンを呼び寄せて言った。 「あそこにいる三人組の女の子達に、一杯おごりたいんだが」 　店を出てすぐ、智幸は物陰から現れた晰夜に驚いた。 「たまたま近くに来たから」 　ぶっきらぼうに言われて、小さく微笑む。 「ありがとう」 　智幸はそっと晰夜の胸に額をくっつけた。 「心配かけて、ごめん」 「心配なんてしてないぜ。俺は信じてるから」 「うん……ありがとう」 　晰夜の鼓動を聴きながら、智幸は幸せを噛みしめた。 　　　　　　　　　　　　　　　　　END