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 BLANCHE 小説目次 

オーバードライブ(第二部)     月桜可南子
          act.17
 恋人のアンジェラが死んで、八神仁(やがみ・じん)は、逃げるようにフロリダから日本へ移った。日系アメリカ人の仁は、日本国籍も持っているので、生物学の研究を続けるため日本の大学を選んだのだ。仁は、横浜にある知人の空家を借りて、そこから大学へ通うことにした。
 日本では紅葉が始まり、寒い冬が近づいていた。引っ越しの荷物も片づき、明日から大学の研究室に顔を出すというその日、仁は近くの公園へ愛犬の散歩に出かけた。
 ゴールデン・レトリバーのジュリエットは、ボール遊びが大好きだ。もうすぐ6歳になるというのに、ボールを見ると子犬のように落ち着きなくはしゃぐ。中でも、拳大の赤いゴムボールがお気に入りで、今日も飽くことなくボールを追いかけている。
 仁も初めの三十分程は付き合っていたが、だんだん疲れてきた。
「まだ、遊ぶのかぁ」
 ぼやきながら公園の芝生に座り込む。
「ほーら、取ってこい!」
 面倒くさくて、時間を稼ごうと力一杯ボールを投げた。お陰でボールは今までで一番遠くまで飛んで、茂みを飛び越えてしまった。ジュリエットは大喜びで追っていく。それを目の端に捕らえながら、仁は芝生の上にゴロリと寝転がった。サンサンと降り注ぐ秋の日差しが心地良い。
 ジュリエットは、嬉々として茂みを飛び越えた。お気に入りの赤いボールは、遊歩道の上をコロコロと転がっていく。それは、突き当たりの噴水のところで止まった。正確には、噴水の側に立つ人間の脚にぶつかって止まった。
 物思いに耽っていた彼は、足下に転がってきたボールを反射的に拾い上げた。子供が投げたのだろうか? 返してやらなければと思った。その時、ワンッ!!という犬の鳴き声がして顔を上げると、40Kgはあろうかという大きな犬が飛びかかってきた。
「うわぁあ!!」
 彼は、手にしたボール目がけて飛びかかってきた犬と共に噴水の中へと倒れ込んだ。バッシャーンという派手な水音が響き渡る。
 弾みで彼の手を放れて水面に浮かんだボールを、ジュリエットは夢中で追いかけてくわえた。とたんに彼の罵声が飛んだ。
「このっ……馬鹿犬!!」
 仁が騒ぎを聞きつけて駆けつけると、全身びしょ濡れの青年が、猛烈に怒ってジュリエットを罵倒していた。その剣幕に、ジュリエットは尾を垂れて萎(うなだ)れている。
「すまない、オレの犬なんだ」
 恐る恐る仁が声を掛けると、青年がジロリと冷たい眼を向けた。


 仁は、“秀明”と名乗ったその青年を歩いて十分の自宅に連れ帰ると、シャワーと着替えを提供した。秀明は、終始無言で不機嫌そのものだった。
 その彼が態度を和らげたのは、リビングボードにある年代物のコニャックを見つけたからだ。身体を温めるためと称して、服が乾くまでにボトルの半分ほどを空けてしまった。
 暖まるを通り越して、べろべろに酔った秀明は、恐ろしく色っぽかった。ほんのり染まった頬や柔らかそうな唇、黒々とした瞳は潤んで、しっとりとした艶を漂わせている。そっちの趣味はない仁でさえ、ドキドキせずにはいられなかった。
 ところが、機嫌が良くなったのも束の間、秀明はぐっすりと眠り込んでしまった。無防備に投げ出された細い手足は、同性とは思えないほど体毛が薄く、しなやかで美しい。
 仁は、名前しか知らない秀明を自宅に送ることもできず、客間のベッドに運んだ。それからグラスやオードブルの皿を手早く片づけ、シャワーを浴びると、自分もベッドに潜り込む。眠るにはまだ少し早い時間だったが、常用するようになった睡眠薬で深い眠りに就くことができた。



          act.18
 明け方、目覚めると知らない部屋だった。
「また……やっちまった」
 秀明は後悔の溜息と共に呟く。酔い潰れて知らない部屋で目を覚ますのはもう何度目だろう……。身支度を整えて、家の主を捜すと、二階のベッドルームで熟睡していた。
 ベッドの足下で蹲っていたジュリエットが、甘えた声でじゃれついてくる。それをしばらく撫でてやり、秀明は仁を起こさずに帰ることにした。
 門を出ると、少し離れたところに見慣れたSP(要人警護を担当する警察官)の車が停まっていた。近づいて助手席側の窓をノックすると、サングラスを掛けた男が顔を出した。
「送ってくれないか。二日酔いなんだ」
 男は頷いて車を降りると、後部座席のドアを開けた。
 SPの車に乗るのは久しぶりだった。大学へ通うようになって、サイバー戦の第一線から退いたため、誘拐や暗殺といったテロの対象からも外れたらしく、平穏な日々が流れていた。大学への通学も電車やバスといった公共交通機関を使うようにして、秀明は極力、“普通の人間”らしく振る舞おうと努力していた。
 自宅に戻ると、リビングで煙草を吸っていたSPの江口が立ち上がり、「拾い喰いも程々にしとけよ」と睨み付けてきた。
「ゴムを使えば、文句は言わないって約束だろ?」
 上着を脱ぎながら秀明が憎まれ口をたたく。睨み返す瞳に、かつての幼さはない。大学に入ってからの秀明は、楚々とした可憐さがなりを潜め、凛とした怜悧さが際立ってきていた。
 同年代の友人達と付き合うようになり、言葉遣いも変わった。自分のことを『僕』ではなく『俺』と言うようになったし、若者特有のおちゃらけた話し方も覚えてきた。
 生意気さがパワーアップして、ますます手に負えなくなった秀明に、江口は「そうだったな」と諦めたように言うと、リビングから出ていった。
 テーブルの上の灰皿には江口が吸ったらしい煙草の吸い殻が山のようになっていた。たぶん一睡もしていないのだろう。仮眠をとるため江口が客間のドアを開閉させる音がして、秀明は少し罪悪感を感じた。
 しかし、秀明はここ一年、江口の言うような“拾い喰い”はしていない。少なからぬ経験から、火遊びの危険と安全な相手を選ぶことを学んだからだ。複数ではあるが、セックス・フレンドは固定していた。
 ふと、仁の肉厚で弾力のありそうな唇を思い出す。均整の取れた逞しい身体と、それとは正反対の繊細な手指が印象的だった。あの唇にキスをして、あの掌で身体中を愛撫して欲しい。そう考えた途端、身体の奥に火が灯り、秀明は己の身体の浅ましさに舌打ちした。
「こんなことなら、ホントにあいつを喰っちゃえばよかったなぁ……けっこう好みだったのに」
 本来なら、仁のような育ちの良さそうなエリートっぽい男は、秀明の好みではなかった。しかし眼鏡の奥のコバルト・ブルーの瞳は堪らなく神秘的で、鼻につくはずの生真面目さは気にならなかった。秀明は、酔い潰れてしまったことを改めて残念に思った。
 だが、昨日は落ち込ちこんでいて、とてもじゃないがシラフでいられなかった。異母兄の響が、睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったからだ。幸い発見が早くて大事には至らなかったが、このところ順調に回復してきていると信じていたのでショックだった。
 おまけに病院に見舞いに行った後、気分転換に散歩に立ち寄った公園で、冷たい噴水に突き落とされ、秀明の気分は最低最悪だった。そこへ極上の酒をちらつかされて飲まずになどいられようか。
 取りあえず、アルコールでぼおっとする頭をしゃっきりさせようと、秀明は服を脱ぎ散らかしながらバスルームへと消えた。


 仁は、実験結果をまとめ終わると、銀縁メガネをはずして大きくのびをした。大学構内はちょうど昼休みで外がざわついている。仁の居る研究棟から、学食までは、かなり距離があるので、仁はコンビニで弁当を買ってくることにしている。しかし今日は寝坊をして買う時間がなかったため、仕方なく学食まで移動することにした。
 中庭を通り抜けようとした時、何人かの学生が談笑しているのを見かけた。そしてその中心に、先日の青年がいた。仁は思わず立ち止まって、その清冽な横顔に見とれた。
 秋の日差しが漆黒の癖のない髪に天使の輪を作っている。きめの細かそうな象牙色の肌。意志の強そうなキリリとした眉を、わずかに目尻の下がった切れ長で二重の細い目が甘く裏切っている。洗い晒しのシャツにジーンズという、いかにも学生らしい服装も、スタイルが良いせいか、ひどく垢抜けて見えた。それに先日のスーツ姿より、ずっと子供っぽい。そんなことを考えていると声を掛けられた。
「あんた、この間の?」
「ああ…君、ここの学生だったんだ」
「そう、経済学部の一回生。あんたは?」
 愛想良く微笑み掛けてくるので、あんた呼ばわりされながらも仁は、抵抗できずに答えてしまう。
「院生だが、年は二十歳だ。アメリカの大学をスキップで卒業して、神経生理学グループの広尾教授の助手をしてる」
「もしかして、フロリダから留学してきたとかいう教授ご自慢の助手?」
「どこでそんな話……」
「教授とはメル友なんだ。あ、俺は佐藤秀明。よろしく!」
 ぱあっと光が散るような瑞々しい笑顔に誘われて、仁は差し出された手を握った。
「よろしく、佐藤君」
 そのまま秀明のペースに巻き込まれて、気づいたときには電話番号とメール・アドレスを交換していた。先日の取り付く暇もない彼とは別人のような人当たりの良さで、仁は狐につままれたような気分だった。
 研究室に戻ると、仁はさっそく広尾教授を捕まえて、佐藤秀明のことを尋ねてみた。
「おやおや、もう目を付けたのかね。あの子は美人さんだからなぁ」
 来年、還暦を迎える教授は、悪戯っ子のような表情を浮かべて笑った。
「実は先日、オレの犬が彼を噴水に突き落としてしまったんです。それで、お詫をしたいんですが、相談にのってもらえませんか?」 
「なんだ、君のとこの犬だったのか」
「えっ、ご存知なんですか?」
「メールでね、買ったばかりの革靴がダメになったと嘆いていたから、靴を買ってやるといい。サイズは、私がそれとなく聞いておいてあげよう」
「ありがとうございます。あの、どういうお知り合いなんですか?」
 仁の質問に教授はしばらく逡巡したが、やがて口を開いた。
「三年程前、防衛庁の依頼で、あの子の脳を調べたことがある。その時、意気投合してね、メールを交換するようになったんだよ」
「防衛庁の依頼?」
「機密の守秘義務があるから内容は話せない。まあ、君もいずれ気づくと思うがね」



          act.19
 翌日、仁は革靴を買って、秀明の携帯に電話した。
「今日、昼休みにでもちょっと会えないかな」
『俺、今、缶詰で動けないんだ。そっちが新宿まで来てくれるなら、三十分くらい出られるけど?』
 靴を手渡すだけなら三十分で充分と考えた仁は、秀明に言われるまま待ち合わせ場所と時間をメモした。
 午後四時、待ち合わせの喫茶店で、三十分待っても秀明は現れなかった。ビルの中のせいか携帯も使えない。諦めて仁が席を立とうとした時、見知らぬ男が声を掛けてきた。
「八神仁さんですか?」
「そうですが」
「佐藤くんに頼まれて迎えに来ました。私は、警視庁の小宮です」
 まだ三十代前半とおぼしき男は、人なつっこい笑顔で言った。
 連れて行かれたのは、喫茶店から歩いて五分程の大手都市銀行のビルだった。
「彼、うちの捕り物に協力してくれてるんですよ。うちの事件に興味があるみたいで」
 小宮と名乗った男は、そう言うと休憩室と書かれたドアを開けて仁を招き入れた。中は二十畳ほどの広々とした空間で、いくつもの応接セットや長椅子が並んでいる。
「コーヒーでいいかな?」
 小宮は、そう言うとセルフサービスになっているらしいコーヒーを運んできてくれた。
「君のその瞳はコンタクト?」
 仁の正面に座った小宮は、興味津々といった様子で訊いてきた。
「いえ、自前です。オレ、ハーフなんで」
「ふーん、だから背も高いんだ。180は軽くありそうだね」
 小宮は、仁の黒褐色の髪や濃紺の瞳が珍しくてたまらないらしく、興味深そうに見ている。居心地が悪くて、仁はそわそわした。
「あの、佐藤くんが忙しいなら出直しますから」
「いや、もう来たよ、ほら」
 小宮の視線につられて振り返ると、秀明が入ってくるところだった。仁と目が合って、ふわりと笑う。
「小宮さん、サンキュ。助かったよ。八神さん、お待たせしました」
 仁は秀明が、どう見ても自分より遙かに年上の小宮にタメグチで、自分に敬語を使うのがなにやら自分達の距離を感じさせて淋しかった。
「あ、俺もコーヒー欲しいなぁ」
「ブラックでよかったよね」
「うん」
 小宮は、秀明が可愛くて仕方ないという様子で、いそいそとコーヒーを取りに行く。
「それで、俺に用って?」
 仁の隣の席に滑り込んだ秀明が、小首を傾げて尋ねた。そのあどけない仕草にドキリと心臓が高鳴る。
「ジュリエットが、革靴をダメにしたって聞いたから、これをね」
 仁が、靴の入った紙袋を手渡すと、秀明は酷くがっかりした顔をした。
「なんだ、俺と寝たいんじゃないんだ」
「え……?」
「あの時、家族が入院して落ち込んでたから、そういう気分になれなくてさ。でも、後ですっごい後悔した。今の仕事が一段落したら時間取れるからさ、しよ?」
 まるで子供が遊びに誘うかのように、無邪気に誘ってくる秀明に、仁はパニックになりながら聞き返した。
「しよ…って、もしかして……セックスのことか?」 
「そう、セックスしよう。ダメ?」
 こんな清楚な顔をして、場慣れした男娼のように、なんのためらいもなく男を誘うとは――。その激しいギャップに、仁は目眩を覚えた。
「もっと自分を大切にしろよ」
「大切にしてるよ。ちゃんとゴム使ってるし、気持ちいいこと好きだもの」
 唖然として絶句している仁に、秀明はニコニコしながら、さらにたたみかけた。
「俺、テクには自信あるから、女とするより楽しめるよ」
 仁は、ここまであからさまにセックスの誘いをかけられたのは生まれて初めてだった。どうしてよいかわからず、口をパクパクさせるばかりで言葉が出ない。 
「秀明、ノンケに手を出すなって、あれほど言っただろ!」
 怒りを含んだ声に顔を上げると、男が立っていた。背が高く、インテリっぽい顔だが、がっしりとした体格で、年は小宮とそう変わらないだろう。その男の後ろでは、今の話を聞いてしまった小宮が、コーヒーを手にして真っ赤になって立っていた。
「小宮さんには、手を出してないよ」
 悪びれた様子もなく、しれっと答えた秀明に、男が苦笑する。
「二人とも今の話は忘れて下さい。こいつ、IQ190あるくせに、倫理観がゼロなんだ」
「どーせ、俺は淫乱だよ」
 秀明が、拗ねたようにそっぽを向いた。
「ま、多少壊れていても、秀明の頭脳は国の財産だからな」
 男は、秀明の癖のないサラサラとした髪をグシャグシャとひっかき回した。はにかむように秀明が頬を染める。
 二人の親密さを不思議に思い、仁が口を開いた。
「あの……あなたは?」
「俺はSP(要人警護を担当する警察官)で江口貴文(えぐち・たかふみ)といいます。こいつのお守り役ですよ。あなたは大学のお友達ですか?」
 江口は、にっこりと仁に笑いかけたが、それはどことなく慇懃無礼な微笑みだった。
「ええ、まぁ……まだ知り合ったばかりですけど。あ、オレは八神仁です。宜しくお願いします」
 育ちの良さを感じさせる礼儀正しさで、仁はきちんと椅子から立ち上がって挨拶した。江口はそれに鷹揚に頷くと秀明に視線を移す。 
「さあ、はやいとこ片づけて今日こそ家に帰れよ」
 江口に促されて、秀明は渋々、仕事に戻っていった。
「あの噂、やっぱり本当だったんだ。俺、ショックで人間不信になりそう」
 小宮は、がっくりと椅子に腰を下ろした。もはや仁は、その噂がどんな内容か、聞く気力もなかった。今の秀明の言動を省みれば、推して知るべしだろう。



          act.20
 秀明が、オペレーション・ルームに戻ると、古田がしきりに首を傾げていた。
「どうした?」
「解析結果がおかしいんです。こんなIPアドレスは存在しないはずなのに」
「ああ、これはロンギヌスの槍だよ。なるほど追跡に手こずるわけだ」
「伝説のproxy(プロクシ)ですね。本当にあったんだ……」
 古田が感心したように呟くのを、秀明は意味深な笑いで返した。
 秀明が今、係わっている事件は、銀行のオンラインシステムに侵入し、限度額ぎりぎりの金額をどこかの口座に振り込み、不正送金を誤魔化すために顧客情報を破壊するというハイテク窃盗事件だ。
 ターゲットにされるのは、セキュリティが比較的甘く、ハイテク犯罪への対応が遅れている都市銀行で、トータルするとすでに60億円もの大金が盗み出されていた。犯人は狡猾で、警察を嘲笑うかのように犯行を重ね、証拠隠滅のため、ご丁寧にシステム本体まで破壊していく徹底ぶりだった。
「相手はかなりのレベルのクラッカーだ。もう一度<サモン・スペル>のデッキ内容を検討し直した方がいいな。場合によっては、ゴブリンの王を使おう」
 秀明は、久しぶりに手応えのある相手を見つけて上機嫌だった。
「あのクリーチャーは、こちらのダメージも大きいですよ」
 古田は不安げに眉を顰める。
「これ以上、信託金を盗まれたらマズいんだろ? だったら多少のリスクは仕方ないさ」
 秀明は、まるで人ごとのように素っ気ない。
「秀明くんは、勝つためには手段を選ばないから心配なんですよ」
「それは、テロリスト相手に負けたら人命が犠牲になるからで、たかが窃盗犯相手に勝ち負けを競うつもりはないよ。“負けて勝つ”てのもありだからな」
 秀明の言葉に古田も安心したように頷く。その時、入室者を知らせるブザーが鳴った。振り返ると、グレーのビジネススーツに身を包んだ、少し軽薄そうな男が入って来た。
「沢村さん、何しに来たんです?」
 古田が不快そうに男の名を呼んだ。
「支店長のお供でこっちに来たんだよ。せっかくだから、秀明の顔を見ていこうと思ってさ」
 沢村は、秀明のご機嫌を取るように朗らかな顔を向けた。
「忙しいが口癖のなのに、珍しいこともあるんだな」
 秀明の嫌味を気にした風もなく、沢村は古田を押しのけるようにして秀明の横にすり寄ると、ポケットにホテルのカード・キーを滑り込ませる。
「今夜は、久しぶりに接待がないんだ。七時には上がれると思う」
 囁くように告げると好色な笑いを浮かべて離れた。
「ここ、防犯カメラで二十四時間録画されてるって知ってます? 仕事サボってる証拠が残るんですよ」
 沢村を追い出そうと、古田が脅しにかかる。
「支店長の口利きなしで、ここへの入室パスが発行されるわけないだろ? 『お友達にくれぐれも宜しく』と言われてきたよ」
 勝ち誇ったように言う沢村を、古田は悔しそうに睨んだ。もともと秀明が今回の事件に興味を持ったのは、五日前に沢村の寝物語で犯人の手口を聞いたからなのだ。
 その手口の、派手で抜け目なく、徹底した破壊ぶりは、秀明にある男を思い出させた。それで秀明の方から古田に協力を申し出たのだ。
 ひらひらと手を振って、沢村が退室すると、古田は苛立ったように訊いた。
「何だって、あんな男と付き合ってるんです?」
 その問いに、秀明は柔らかに微笑した。
「セックスがうまいからに決まってんだろ」
 その答えに、古田は大袈裟に溜息をついてみせた。


 秀明が、シティ・ホテルの部屋で沢村を待っていると、一時間ほど遅れると連絡があった。仕方なく最上階のラウンジ・バーで時間を潰すことにする。カウンターで、二杯目のマティーニを飲みかけた時、声を掛けられた。
「隣、いいかな」
 顔を上げると、そこにいたのは高木隆平の弟、幸彦だった。テーブル席でジンジャエールを飲んでいたSPが腰を上げるのを片手で制すと、目線だけで幸彦に座るよう隣の椅子を示す。
「久しぶりだな。二年ぶりくらいかな?」
 幸彦の舐めるような視線に、秀明はげんなりして顔を背けた。隆平と付き合う前、秀明は幸彦と付き合っていたのだが、今にして思えば、どうしてこんなに頭の弱い男と付き合っていたのかと思う。
「あいつ……どうしてる?」
 マティーニのグラスに視線を向けたまま、秀明は呟いた。
「結婚したよ。あの事件で、本来ならうちは潰れてたんだが、三田の伯父貴が警察との裏取引やら本家への取り成しに骨を折ってくれてね。その伯父貴の頼みで断りきれなかったらしい」
「どんな女?」
 つまらなさそうに抑揚のない声が訊く。
「小太りで肝っ玉の座った女だよ。兄貴のタイプじゃないのは確かだ。だけど大事な城山会からの預かりモノだから、それなりに立てて大切にはしてるようだ」
「ふぅん」
 無感動な切れ長の目が幸彦に向けられる。甘さを取り払った、冴え冴えとした月光のような美貌に、幸彦は気圧された。ゴクリと喉が鳴る。
「……俺、知ってたんだ。お袋が藤村とできてたこと。だけど…親父がお袋を殴るのをガキの頃から見てたから、仕方ないと思ってた。ごめんな、秀明にまで迷惑かけて……」
「お袋サンは、今、どうしてるんだ?」
「島根の親戚筋に預けられて監視されてる。俺も会わせてもらえないんだ」
「そう……」
「俺、バカだし、兄貴みたいにやり手じゃないけど、シマを一つ任せてもらえることになったんだ。だから、その…俺と、もう一度」
「ストップ! それ以上は聞きたくない!」
 声を荒げて、秀明が幸彦を遮った。その激しい拒絶に、幸彦は驚いて目を見開いた。
「まだ、兄貴のことが好きなのか?」
「あの独身主義者が、不幸な結婚をして満足してるよ。少しは気が晴れた。ザマーミロだ!」
 秀明は、勢いよく椅子から立ち上がった。そして歩き出しながら振り向きもせずに言った。
「二度と声を掛けないでくれ」



          act.21
 ドアを閉めた途端、遠慮のカケラもなく口腔を貪ってきた沢村を、秀明は力一杯、突き飛ばした。
「残業が長引いたのを怒ってるのか?」
 秀明の気難しさに慣れている沢村は、宥めるように微笑んだ。どんな無理難題でも顧客にYESと言わせる極上の営業用スマイルだ。
「さっさと、シャワーを浴びてこいよ」
 秀明が沢村の唾液を手の甲で拭いながら、つっけんどんに言い放った。沢村は秀明の肩越しに、テーブルに投げ出してあるミニチュアの酒瓶を見た。備え付けの冷蔵庫から引っぱり出したらしい。ブランデーやスコッチなど、強い酒ばかり何本も空けられていた。
「やけに機嫌悪いな。遅くなったのは謝るよ。お詫びにシャワーを使う前に一発抜いてやる」
 腰を引き寄せようとする沢村の手を、秀明は容赦なく払い除けた。手に負えないとばかりに、沢村は大袈裟に肩を竦めると、バスルームへと向かう。それを目の端に捕らえながら、秀明はとてつもない孤独と疲労感に襲われていた。
 シャワーを使い終わった沢村がベットに来た時、秀明はすでに酔い潰れて夢うつつだった。
「おい、寝るなよ。お楽しみはこれからなんだからさ」
 沢村がシーツを剥ぐのをぼんやり感じながらもまだ、秀明はふわふわと浅い夢の中を漂っていた。
「あっ…んん……」
 胸の突起を舌で転がすように愛撫され、条件反射のように喘ぎが零れた。沢村の手がゆっくりと脇腹をなぞっていく刺激に肌が粟立つような快感を覚えて、秀明の意識はようやく覚醒した。
「疲れてるんだ。少し眠らせてよ」
 無駄と知りつつ、言ってみる。
「寝てればいいさ、俺は勝手に楽しむから」
 案の定、すげない返事が返され、秀明は形の良い眉を寄せた。乳首を甘噛みされ、鋭い矯声を上げる。何が『寝てればいい』だ。この状態で眠れるわけないじゃないかと毒づきながらも、秀明は沢村の髪に手を入れて脚を開いた。


 ベットでの激しい運動が祟って、ますますアルコールが回ってしまった秀明は、トイレに屈み込んで、夕食に食べたものを全部吐いてしまった。さすがに沢村も反省したらしく、心配そうにこちらを窺っている。
「フロントに電話して、胃薬を持ってこさせようか?」
「いい、吐いたら返ってすっきりした」
 秀明は、冷蔵庫からミネラル・ウォーターの瓶を取り出すと口に運んだ。
「秀明が、最中に他の男の名前なんか呼ぶから、ムキになっちまったんだよ」
「他の男の名前? ……嘘だろ?」
 怪訝な顔をして秀明は、沢村に目をやった。全然、記憶にない。
「じゃあ訊くけど、“りゅうへい”て誰なんだ?」
 たちまち秀明が、しまった! という表情を浮かべた。罰が悪くて、急いで沢村に背を向ける。
「……知らない」
 小さな声で答えると、再びミネラル・ウォーターを飲む。沢村が近づいてきて背後から秀明を抱きすくめた。
「他の男とは別れろよ。どうして俺だけで満足できないんだ?」
 かき口説くように言う沢村を、秀明は氷の刃のような怒りを込めて振り返った。秀明はこの手の独占欲が大嫌いなのだ。見下すような刺々しい視線を投げつける。
「セックス以外、何の取り柄もないくせに!」
 秀明の激しい怒りに煽られて、沢村もカッとなった。
「少しばかり頭がいいからって、いい気になるんじゃないっ!!」
 三流大学を卒業して、伯父のコネで銀行に潜り込んだ沢村は、学歴に強いコンプレックスを持っていた。ストレートで一流大学に入り、IQ190の頭脳を持つ秀明は、いつも彼のコンプレックスをジクジクと刺激する。その秀明を組み敷いて思う存分、蹂躙することで、沢村は自分のコンプレックスを宥めていたのだ。
 力ずくで秀明をベットに縫い止めると、沢村はバスローブの紐で、秀明の両手首を頭の上で縛り上げた。怯えた秀明が、SPに助けを求めようと声を上げかけたので、手近にあったタオルで猿ぐつわをする。
 秀明はこれ以上、沢村を刺激しないよう一切の抵抗を諦めて大人しくなった。沢村は怒りを持続させるタイプではないので、ほんの少し嵐が過ぎ去るのを待てばいいと高をくくっていたのだ。しかしそれは、大きな誤算だった。


 深夜2時、T銀行の情報処理センター、オペレーション・ルームは、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。<サモン・スペル>で、侵入者に応戦していた秀明がいきなり倒れたのだ。救急車を呼ぼうとした古田を秀明は掠れた声で制止した。
「大丈夫…ただの貧血だ。ちょっと目が回って……」
「じゃあ医務室を開けさせますから、そこで横になって下さい」
「いい。それより江口さんを呼んでくれないか?」
「……わかりました」
 古田は、こんな深夜に非番の江口を呼び出すのは躊躇われたが、秀明のチノパンに微かに血が滲んでいるのを目敏く見つけて、ただ事ではないと悟った。このビルの電話回線は、応戦中は使えないので、古田は携帯電話を使うため、オペレーション・ルームを飛び出して行った。                       
 18禁裏に、21話関連エピソードがあります。ストーリーにきわどく関係してるのですが、内容的にやばいと思って裏へ回しました。小心者の管理人をお許し下さい。
18禁裏はパスワード制となっていますので、ご希望の方はメールにてご請求下さい。
         act.22
「ファルコンの攻撃です。ミノタウルスで止めますか?」
 電話をかけに席を外した古田に代わって、アシスタントの荻原がおずおずと訊いてきた。
「ファルコンはフライング・クリーチャーだから、ミノタウルスでは止められない。レッド・ドラゴンを生贄にして、ゴブリンの王を召喚」
「パワーが足りません」
「ビルの空調システムを止めて、ここ以外の照明をすべて消せばなんとかなる。追跡逆探はあと何分かかる?」
「二十分あれば、たぶん・・・」
 古田のアシスタントをしている箕浦が自信なさげに答えるのに、秀明は舌打ちした。
「ゴブリンの王で、鉄の壁を撃破。システムを奪って逆探が完了するまで強制終了させるな」
「こちらのライフ・ポイントが5に下がって、リソースの80%が消滅しました!!」
 荻原が狼狽えて叫んだ。ゴブリンの王は、相手に大きなダメージを与えることができるが、そのダメージの三分の一を自分も被るので、扱いの難しいクリーチャーなのだ。
 秀明は、何だってこう度胸がないんだと呆れ返った。思わず溜息が零れる。これでは敵にいたぶられるわけだ。根本的に警察官になるような実直な堅物は、<サモン・スペル>を操るのには向かないのだろう。
「大丈夫、落ち着つけ。癒しの水でライフを回復させて、サポート・システムを終了させればいい」
 貧血でクラクラするのを必死で堪えながら指示を出す。ようやく戻ってきた古田が秀明の耳元で囁いた。
「三十分で、来てくれるそうです」
 秀明は安堵の表情を浮かべて頷いた。
 

 江口は、妊娠四か月の妻と十一時過ぎまでラマーズ法のビデオを観ていた。ベットに入ってからも、子供の性別を先に聞くか聞かないかで議論し、ようやく眠りに就いたところを古田の電話で起こされた。
 秀明が貧血を起こし、どうやら“後の怪我”で出血していると知らされて、自宅を飛び出した。
 江口がオペレーション・ルームに入ると、室内は犯人に逃げられた苛立ちが充満していた。それでも、秀明は犯人のシステムから盗まれた金がプールされている口座を突き止めるのに成功していた。口座凍結のため、ハイテク犯罪課の者達は、あちこちに電話を掛けまくっている。
 その喧噪の中、秀明は古田のジャケットを掛けてもらって、長椅子にぐったりと横たわっていた。顔色はまるで血の気がなく、紙のように白い。
「非番なのに、ごめん」
 秀明は虚ろな目で江口の顔を見ると弱々しく呟いた。江口は持ってきた毛布で慎重に秀明をくるんでやる。酷く熱っぽい。どうやらかなり発熱しているようだ。
「何をやらかしたんだ? 正直に言ってみろ」
 真顔で覗き込まれて、秀明は暫く躊躇った後、江口だけに聞こえる小さな声で白状した。
「……フィスト・ファック」
 江口は唖然として大きく目を見開いた。が、慌てて平静を装う。
「医者に行こう!」
「うん、さっき知り合いに電話しておいたから、そこへ連れてって欲しい」
「知り合いって?」
 歌舞伎町あたりの潜りの医者ではないかと不安になって、江口は問い詰めた。
「昔の男……N医大の外科医」
「それなら、いい」
 納得して、江口が秀明をお姫様抱っこで抱き上げると、合成皮の黒いシートに血の痕があった。秀明に気づかれないよう、そっと古田に目で示すと、古田は黙って頷いてくれた。
 忙しく走り回っていたハイテク犯罪課の者達は皆、秀明の具合が悪いのは、単なる貧血と思っていたので、江口に抱き上げられた秀明を見て、ぎょっとしたようだ。口々に心配する声が飛んでくるのをうまくあしらって、江口は秀明を病院へ運んだ。
 

 大河内というその医者は、四十代後半の心臓外科医で、ダンディという言葉がぴったりの男だった。秀明を気遣って、年輩の看護婦を一人アシスタントに残しただけで、他の若い看護婦や夜勤の医者を遠ざけてくれた。
「点滴に三十分ほど時間がかかるので、少し話しませんか?」
 穏やかな声で大河内に誘われて、江口は第二診察室と書かれた部屋に入った。
「具合はどうなんですか?」
 江口は憮然として言った。
「その前に訊かせて欲しいな。“あれ”は、君が?」
「まさか!! 俺はノーマルです!」
「君はあの子の恋人じゃないのかね?」
 大河内は意外そうな顔をした。
「違います。俺は結婚してるし、来年には父親になるんだ!」
 江口は大河内の勘違いに腹を立てて、我知らず声を荒げてしまった。大河内は穏和な笑みを浮かべて、江口を宥めるように片手を上げた。
「傷は出血の割には酷くなかったよ。裂傷だけで、腸壁には損傷がないので、全治2週間というところだ。出血が多かったのは、体内のアルコール濃度が高かったためだろう。最低一週間は傷口の消毒が必要なので、私のマンションの方へ通うよう秀明にも説明してある」
「そうですか。ありがとうございます」
 ほっとした表情で礼を述べる江口を、大河内は不思議そうに見つめた。
「君は一体、あの子の何だね?」
「友人です」
 きっぱりと江口は言い切った。
「ハハハ、そりゃいい。あの秀明ですら落とせない男もいたんだなぁ」
 大河内は愉快そうに笑い、席を立った。
 江口が処置室を覗くと、秀明はまだ点滴に繋がれたまま眠っていた。熱が下がらないらしく、呼吸が苦しそうだ。額に浮かんだ汗をハンカチで拭ってやると、ぼんやりと目を開けた。
「相手は、沢村か?」
 大河内から、あらぬ誤解を受けたため、江口はすこぶる機嫌が悪かった。むっつりとした顔で秀明を見やる。秀明は全面降伏して素直に頷いた。
「奴は、どうした?」
「びびって逃げたらしい」
「なんだって、こんな馬鹿なことをしたんだ?」
「僕が悪いんだ。沢村さんを怒らせたから」
 最中に他の男の名前を呼んで喧嘩になったなどとは、恥ずかしくて言えなかった。
「あいつとは、もう別れろよ。何があったにせよ、こんな怪我をさせておいて逃げ出すような奴とは付き合うな!」
「……うん」 
 珍しく秀明は、すんなりと同意した。怪我がよっぽど、こたえたのだろう。江口は喉元まで出かかっていた説教をぐっと飲み込んで、俺はもう怒っていないぞと、微笑みかけてやった。



          act.23
 仁がジュリエットのブラッシングをしていると、電話が鳴った。広尾教授からで、明日の日曜、夕食会をするから来ないかという誘いだった。
 まだ日本に来て日も浅く、友達がいない仁を気遣ってのことだった。一人で食べる食事は味気ない。仁は大喜びで承諾した。
 日本人好みの白ワインを選んで、広尾教授の家を訪ねると、すでに数人の客が居間でくつろいでいた。
「右から、坂下志保さん、後藤美里さん、甥の春臣、井上明良くん、姪のいずみ、妻の洋子だ。君と年の近い者が多いから良い友達になれるといいね」
「今日の料理は、いずみが下ごしらえを手伝ってくれたんですのよ」
 洋子夫人は、さりげなく自分の姪を売り込んでくる。
「伯母様、わたしは野菜を洗っただけよ」
 背中まであるストレートの髪をかき上げながら、聡明そうな少女は、困ったように笑った。
「大丈夫、あなたなら料理上手のいい奥さんになれるわ」
「わたし、奥さんじゃなくて、お父様の跡を継いで政治家になるの。ねぇお兄様」
「ああ、僕は政治には興味ないから跡取りは、いずみに任せるよ」
 春臣は苦笑しながら、美しくて勝ち気な妹を愛しそうに見つめた。
 食事は終始和やかに進み、坂上と後藤が先日出かけたヨーロッパ旅行の失敗談で盛り上がった。二人は中学からの同級生で、今時の若い女性のご多分に漏れず、ブランド品を買い漁りに年に数回、海外旅行に出かけていた。
 それから井上が、仁の持ってきたワインを誉めたので、ワイン談義に花が咲いた。
 仁は、控えめで思いやりに溢れる井上が気に入った。広尾教授が非常勤講師をしている医大に通っているということで共通の話題も多そうだ。「ぜひ一度、うちに遊びに来て下さい」と言われて、住所と電話番号を交換した。


 秀明がベットでうつらうつらしていると、家政婦が来客を知らせて来た。微熱で身体が怠く、起きあがるのが億劫だったので、用件を聞くよう頼むと「外人さんなので、私には英語がわかりません」と言われた。
 仕方なく着替えて一階に下りると、きっちりとスーツを着こなした黒人と白人の男二人がSPの宮本に身体検査をされていた。江口は二人の身元を確認するために電話を掛けている。秀明がリビングの長椅子に寝そべって待っていると、暫くして二人の男が家政婦に案内されて入ってきた。
『CIAのベン・サマーと、マーレイ・オドウェルです』
 黒人のベンが、南部訛の英語で自己紹介した。
『叔父の事件を担当されてる方ですね。捜査に何か進展が?』
 秀明は鋭い関心を示して、冷徹な目線を向けた。
『昨年逮捕されたIRAの一人がようやく司法取引に応じましてね、仲介人が割れたんですよ。この男に見覚えはありませんか?』
 差し出された写真を手にした秀明は息を呑んだ。それは幼い秀明の身体に、ワイン瓶を突き立てたサディストの写真だった。恐怖と怒りで身体が小刻みに震える。
『本名は知らないけど、ポー と呼ばれてた。たぶん中国人だと思う。広東語と英語を話していたから』
『日本人ではないんですか?』
『さあ…日本語を話すのは聞いたことがない』
 ベンはがっかりした顔をした。東洋人の顔は似通っているので、国籍の違いはわかりにくいのだろう。てっきりポーが日本人だと思って、わざわざ日本まで来たのに肩すかしをくっらって、マーレイも残念そうだ。
『この男の友人や愛人の名前はわかりませんか?』
 肩を落とすベンに代わってマーレイが質問した。
『4年前のクリック事件――FBIの極秘ファイルにある名前を洗えばいい』
 項垂れていたベンが怪訝な顔をした。
『あの事件の犯人グループはすべて死んだということだが……』
『生きてるよ、ここに。セックスに明け暮れながら、俺も協力させられてたんだ。その事件で、機材や仕事場を提供してたのが、ポーだ。その他にも何人かの出資者がいた。その中には大物上院議員も含まれてるはずだ』
 ベンとマーレイは、どちらともなく顔を見合わせた。四年前といえば、秀明はまだ14歳の子供だったはずだ。そんな子供が、スイス銀行のネットワークに侵入し、大統領の裏金をかすめ盗ったと囁かれているクリック事件に拘わっていたとは、にわかに信じられなかった。
       
 

           act.24
 その日、仁はデータベース化されていない古い参考文献を探すため、図書館の書庫で格闘していた。薄暗く埃っぽい空気の中で、何時間も過ごしていると気が滅入ってくる。少し休憩しようと書架を降りたとき、鋭い金切り声が響いた。
「なんとか言いなさいよッ、この泥棒猫!!」
「だから、水野のことは何とも思ってないってば。付き合ってもいない」
 メガネをかけた真面目そうな少女が、佐藤秀明に詰め寄っていた。拙いところに出くわしてしまったと、仁は書棚に身を潜めた。
「嘘つきっ!! だったらなんで新ちゃんが、あたしに別れてくれって言うのよ!?」
「知らないよ、そんなこと。あいつとは、弾みで一回寝ただけ――」
 パアンと頬の鳴る音が派手に響いた。
「淫売! アバズレ! 変態っ!! あんたなんて死んじゃえばいいのよッ!!」
 少女は憎悪で真っ赤になって、秀明の喉を締め上げた。体格差があるから、はね除けようとすれば容易なはずなのに、秀明は動かない。少女の手は、猛烈な力を込めているため、白くなってブルブルと震えている。じりじりと時間が流れ、窒息しそうなはずなのに、秀明の両腕はだらりと垂れたままで指一本動かそうとしなかった。
 心配になった仁が止めに入ろうとした時、秀明の身体がぐらりと揺れた。かくんと膝をつき、そのまま少女の方へ倒れ込む。
「キャアアアっ!!」
 少女は倒れ込んできた秀明の身体を支えきれず、床に尻餅をついた。
「おいっ!?」
 仁が駆け寄って秀明の身体を抱き起こすと、秀明は意識を失ったまま、息をしていなかった。顔色は蒼白で唇は紫色になっている。
「救急車だっ! 救急車を呼べ!!」
 仁は人工呼吸を施しながら、涙を浮かべて震えている少女に向かって叫んだ。
 幸い、秀明はものの一分とかからず息を吹き返した。救急車が到着する頃には意識もしっかりして自分で歩けるまでに回復していたが、大事を取って病院へ行くことになった。秀明が仁の袖を握りしめて離さなかったので、仁も病院へ付き添った。
 搬送先の病院では、軽いショック症状と診断され、震えが収まらないので、精神安定剤を投与され経過看護室に移された。秀明は、ぼんやりと天井を見上げたまま一言も話さない。仁も黙って、枕元のパイプ椅子に座っていた。
 それから一時間程で、江口が駆けつけた。ベットの端に腰を下ろして優しく話しかける。
「今、医者に会ってきた。落ち着いたら帰っていいそうだ。どうだ、起きられるか?」
 秀明の瞼がゆっくりと閉じて開いた。
「うん……もう、平気だ」
 そう言って起き上がった秀明を、江口がやんわりと抱きとめる。秀明は、縋り付くように江口にぎゅっと抱きついた。大きな広い胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らす。江口は、仁に出て行けと目で合図してきた。
 部屋を出る直前、仁が振り返ると、江口は秀明の背中を幼子をあやすように優しく撫でながら、何かをそっと囁いていた。秀明はそれに小さく頷きながら、江口の背広をきつく握りしめる。
 二人の強い絆を見せつけられたようで、仁は素早く目を背けると部屋を後にした。


 翌日、仁が研究室に行くと、同じ研究チームで二才年上の三田村恭子が目を輝かせて訊いてきた。
「八神くん、昨日、佐藤君に付き添って、救急車に乗って行ったんですって?」
 恭子は、姉御肌で面倒見が良いが、何にでも首を突っ込みたがるのが欠点だ。
「はい……でもオレは、すぐ帰ってきましたから」
「現場に居合わせたって本当?」
 情報通の恭子は、すでに昨日の一件をかなり詳しく知っているようで、仁はまずい相手に捕まってしまったと内心、舌打ちした。
「ええ、まあ……」
 気まずい時や動揺している時の癖で、仁は神経質に銀縁メガネを弄くった。
「あの子も災難よねぇ。やたら綺麗に生まれつくのも不幸かも」
「はあ……」
 なんと答えていいかわからず、仁は適当に相槌を打つ。
「で、どんな感じだったの? かなりショック受けてた?」
「そりゃ、まあ。……だけど相手は女の子なんだし、突き飛ばして逃げればいいですよね」
 仁は、昨日から疑問に思っていたことを口にしてみた。途端に恭子が顔を顰める。
「きっと子供の時のことと重なって、恐怖で身動きできなかったのよ」
「え?」
 仁が間の抜けた声を上げると、恭子は慌てて口を押さえた。しかし、まじまじと仁に見つめられて、仕方なく説明した。
「これは友達に聞いた話なんだけど、あの子のお母さん、ノイローゼでまだ八歳だったあの子の首を絞めて無理心中を図ったんですって。あの子は息を吹き返して助かったんだけど、お母さんは首を吊って亡くなったそうよ」
 秀明の凄まじい過去に、仁は少なからず衝撃を受けた。この世で最も子供を愛し守ってくれるはずの母親に殺されかけたなど、考えるのもおぞましい話だ。
 仁は、生まれてすぐ母親を亡くし、母を知らずに育ったが、乳母のサリーは陽気な黒人女性で、血の繋がらない仁を我が子同様、慈しんで育ててくれた。だから仁は、女性の母性を疑ったことなど一度もなかった。それ故、恭子の話は酷くショッキングだった。
 恭子は「誰にも内緒よ」と言い置いて、実験室に戻っていったが、仁はしばらくそこに立ちつくして動くことができなかった。


「正式な辞令は十二月一日になるが、君のところは奥さんが妊娠中だから早めに知らせた方が善いと思ってね」
「はい、お気遣いありがとうございます」
 上司からFBIへの出向研修の内示を受けた江口は、頭を下げながら動揺していた。早めに知らせたと上司は言うが、今は九月の終わりで、辞令が出る十二月まで、二ヶ月しかない計算だ。
 異国で妻を出産させる不安や、秀明の側にいてやれない心配、あまり得意ではない英語や習慣の違いに対する懸念、引っ越しの荷造りや手配といった雑事etc。確かにFBIでの研修は、出世コースに乗れる大きなチャンスだったが、考えれば考えるほど憂鬱で頭が痛くなることばかりだった。
「皆が期待している。頑張ってくれよ!」
 上司に激励されても、江口の顔は引きつったままだった。



          act.25
 大学から自宅へ戻る途中に立ち寄ったスーパーで、仁は井上明良(いのうえ・あきら)に会った。夕食に来ないかと誘われて躊躇ったが、両親が留守だから近所の友達を招いてカレーを作るのだと言われて、楽しそうだなと心が動いた。
「お兄ちゃん、お帰りなさい!」
 玄関を開けると、奥から小学生くらいの少女が飛び出してきた。八歳違いだという明良の妹・沙也加だ。そして、その後から現れたのは、なんと先日会った広尾教授の姪・麻生いずみだった。
 有名私立中学を受験する沙也加の家庭教師をしているのだという。軽井沢の別荘が隣同士という縁で、物心ついたときからのつき合いなのだと初めて明かされた。
 キッチンでは、紺色のエプロンをした青年が、ニコニコと出迎えてくれた。
「彼が幼なじみの佐藤響(さとう・ひびき)です。響、こちらは八神仁さん」
「こんばんは。アメリカからいらしたんですよね。僕の弟もしばらく向こうに住んでたんですよ」
 響は、人懐っこい笑顔を浮かべて言った。笑うと中性的で華やかな美貌が際立って、仁はちょっとドキドキしてしまう。祖父がイタリア人だという青年は、色素が薄く、髪も瞳も柔らかな栗色で、乳白色の肌にはうっすらとそばかすがあった。アーモンド型のきれいな二重の目が、子犬のような可愛らしさを感じさせる
「よろしく。突然、お邪魔してすみません。何か手伝えることはあるかな?」
「カレーだから、一人や二人、増えたって平気ですよ。それじゃあ、サラダの盛り付けをお願いできますか?」
 それから皆で手分けして、十五分後には食卓に着くことができた。
「新しい友人に乾杯!」
 ミネラル・ウォーターの入ったグラスを鳴らして食事を始める。響が、時折ちらりと壁時計に目をやるのを不思議に思いながらも、仁は明良との会話に熱中していた。
 仁のグラスが空になったのに気を利かせて、響がミネラル・ウォーターの入ったピッチャーを手にした。2リットルは入っていそうな重そうなピッチャーを、響の細い腕が持ち上げるのが忍びなくて、仁は反射的に腕を伸ばす。
「ありがとう。自分で注ぐよ」
 ピッチャーを受け取る時、響の指先にほんの少しだけ触れたような気がした。瞬間、響は鋭く息を飲んだ。みるみる響の顔色が失われていく。
「ごめんなさい……俺、ちょっと……」
「響、深呼吸して」
 隣の席に座っていた明良が話しかけたが、響には聞こえていなかった。過呼吸のような苦しそうな呼吸をしていたが、やがてふらふらと席を立ってキッチンのシンクへ行くと、水を出しっぱなしにして手を洗い始める。仁は訳が分からず呆然とそれを見ていた。
「響お兄ちゃんに、触っちゃダメなのよ!」
 沙也加が仁を咎めるように叫んだ。
「気になさらないで、少し休めば落ち着くでしょうから。それより彼をあまり凝視してはいけないわ」
 いずみに言われて仁は慌てて目を逸らす。
「響、ほら薬だよ。二階で少し休もうな」
 明良は響に、精神安定剤らしい錠剤を飲ませると、抱きかかえるようにしてキッチンから連れ出した。
「響くんは、接触恐怖症なの。特に男性がダメ。明良から聞いてなかったようね」
「ああ……不注意だったよ」
「不注意は明良の方だわ。あなたを響くんに引き合わせるなら事前に話しておくべきよ」
 いずみは手厳しく明良を非難する。並はずれて体格の良い明良もいずみの前では、頼りない年下の男となり果てるようだ。
 残された三人が落ち着かない雰囲気で食事を進めていると玄関のインターホンが鳴った。途端に沙也加の顔が明るくなる。
「サヤのダーリンだわ!」
 もどかしげに席を立つと、沙也加は玄関ホールへ駆けだして行った。仁が吹き出しそうになりながら顔を上げると、いずみは不機嫌な顔をしていた。
「響くんの異母弟の秀明くんよ。響くんが会いたがったから、明良が招いたの。秀明くんは、あなたと同じ聖ソフィア大学なんだけど、ご存知かしら? 経済学部の一回生なの」
「佐藤秀明!?」
 仁は、思わず聞き返していた。いずみが、怪訝そうに仁を見る。まさかベットに誘われましたとか、痴情沙汰で殺されそうになったのを助けましたとは言えなくて仁は焦った。



          act.26
「彼、キャンパスじゃ、ちょっとした有名人だから……」
 誤魔化そうと言ってみたものの、いずみは何事か感づいたようだ。
「誘惑されたんでしょう? あなた、ハンサムですもの」
 いずみは苦笑していた。その小悪魔的な微笑みに、仁は思わず頬を赤らめた。この美少女は、どことなく秀明と似ていると思う。真っすぐで強く、迷いがない。自分の魅力を知り尽くし、それを活用する術を知る者の自信に溢れている。
「こんばんは。あ…れ? なんで八神さんがここに?」
 沙也加を抱き上げたまま、ダイニングに顔を出した秀明は、驚いた顔をしたものの、思いがけず仁に会えたという喜びに声が弾んでいた。
「広尾教授に、井上くんを紹介されて親しくなったんだ」
「わたしもね」
 いずみがさり気なく仁の横に立ち、甘えるように仁を見上げる。秀明はそれをムッとした表情で睨んだ。どうやら秀明といずみは犬猿の仲であるらしいと仁は悟った。
「響と明良は?」
「響くんが軽い発作を起こしたので、二階で休ませてるわ」
 見る間に秀明の顔が曇った。「様子を見て来る」と沙也加をいずみに預けると階段を駆け上がって行く。その慌てようを仁は不謹慎にも微笑ましく思ってしまった。
「デザートは、チョコムースよ。響くんの自信作なの。飲み物は何がいいかしら?」
 いずみが、わざと明るい声を作って訊いた。
「コーヒーをブラックで」
「サヤは、みるくてぃー」
 井上夫人が、丹精しているという観葉植物に囲まれたリビングで、三人がデザートを食べていると、明良と秀明が二階から降りてきた。
「八神さん、席を外して申し訳ありませんでした」
 明良は丁寧に詫びると仁の隣のソファーに腰を下ろした。
「いや、オレの方こそ不注意で……それで響くんは?」
「眠ってます」
「明良が、ちゃんと話しておかないから悪い」
 秀明は、憮然と明良を睨み付けると、三人掛けのソファーの沙也加の隣に座った。
「驚かれたでしょう? 本当にすみませんでした」
 太い首をちぢ込めるようにして明良は恐縮している。
「いや、実は慣れてるんだ。オレの恋人も神経が細くていろいろあったから」
「へぇ、恋人がいるんだ」
 秀明が興味深そうに切れ長の目を細めた。
「その女性は今、アメリカに?」
 明良も興味を持ったらしく、身を乗り出すようにして尋ねる。
「いや、亡くなったんだ。4ヶ月前に――」
 仁の答に全員が固まった。
「すみません……辛いこと聞いてしまって」
 明良が狼狽しながら謝る。
「気にしなくていいよ」
「明良くんと秀明くんもチョコムースはいかが? 飲み物はコーヒーでよかったかしら?」
 いずみが、その場の気まずい沈黙を取り繕おうと口を開いた。
「響が作ったのなら食べる。いずみさんが作ったのならいらない」
 即答した秀明に、いずみは目を吊り上げた。
「あなたって、どうしてそう可愛げがないの!? 半分だけとはいえ、響くんと血が繋がってるとは思えないわっ!!」
「先週、塩味のババロアを作ったって、沙也加ちゃんが教えてくれたよ」
 小馬鹿にした声で、秀明が嘲笑する。
「サヤちゃん! あれは二人だけの秘密でしょう!?」
 耳まで真っ赤になりながら、いずみは動揺を隠そうと声のトーンを落として隣に座る沙也加を咎めた。
「ダーリンとサヤの間に秘密はないのよ」
「こらっ、沙也加! ませたこと言うんじゃない」
 無邪気に答えた沙也加を、明良がたしなめる。
「今度、母直伝のレアチーズケーキをご馳走するわ」
 作り笑顔で、虚勢を張るいずみは天晴れと言えた。


 江口が、研修のため三年間、渡米する事を告げると、秀明は泣きそうな顔をした。まるで見捨てられた子供のようなその姿に胸が痛む。
「秀明の警護は今週一杯で、来週からは引継ぎや準備なんかで内勤になる」
「そう……。むこうの住所が決まったら教えてくれる?」
「ああ、もちろんだ。そんな顔するなよ、たった三年のことじゃないか」
「…うん……」
 居たたまれなくて、江口が秀明の部屋を出ていこうとすると、「江口さん!」と、秀明の半泣きの声が呼び止めた。江口が振り返っても、秀明は江口に背を向けたままだった。ポロポロと零れ落ちる涙を見られたくなかったからだ。
「見送りは行かない。でも帰国するときは、成田で出迎えてやるよ」
「わかった」
 江口は小さく頷くと、静かにドアを閉めた。



          act.27
 江口がアメリカに発ったその日、『現代ポップアートの巨匠・北村敦展』と銘打たれた会場は、華やかに着飾った人々で埋め尽くされていた。明日から始まる個展のオープニング・セレモニーには、五十名余りの人々が招かれていた。
 『Hの肖像』と題された自分の恋人の肖像画を前に、上機嫌で北村と談笑しているのが主催者の西田画廊の主・西田恒典だと、こっそりいずみが耳打ちした。仁は、人の顔の片鱗も留めないあれのどこが肖像なのだろうと疑問に思いながら、ノン・アルコールワインを飲んでいた。きっと西田の恋人は、形にできないほどの不細工なのだろうと勝手に解釈して納得する。
「一人にさせてしまって、ごめんなさい」
 会場を蝶のように飛び回っていたいずみが、ようやく仁の所に戻ってきた。こういった社交の場で、一人でも多くの有力者と顔を繋いでおくのが、政治家の娘であるいずみの仕事なのだ。
「飲み物のお代わりを持ってこようか? ずっと話しっぱなしで喉が乾いただろう?」
「そうね、私はシャンパンを頂くわ」
「了解、ちょっと待ってて」
 仁は人混みをかき分けてバー・カウンターヘ進んだ。そしてそこに意外な人物の後ろ姿を見つけた。
 スラリという形容がびったりの見事な八頭身で、ヒップの位置の高さと形の良さはスーパーモデル並だ。決して華奢な印象は与えないがその腰の細さには目を見張る。
「佐藤くん!」
 仁が声を掛けると秀明は酔いで視点の定まらない目で振り返った。手にはブランデーグラスが握られているが、中身はあと一口分ほどしか残っていなかった。
「八神さん……」
 ニッコリと満面の笑みを浮かべた秀明は、ひどくあどけなく、そして淋しそうに見えた。
「ひとり?」
「むこうの陰にSPがいるよ。ひとりになりたくても、なれないんだ」
 残ったブランデーを飲み干すと、バーテンに「お代わり」と声を掛ける。
「おいおい、また酔い潰れるつもりか? もう、やめておけよ」
「八神さんが、今夜付き合ってくれるならね」
 からかうように秀明が笑った。
「おい、氷水を頼む」
 仁がバーテンに頼むと、秀明を見かねていたバーテンは、ほっとしたように、すぐに水を出してくれた。
「ほら、水を飲んで少し酔いを醒まそう。外を散歩でもするかい?」
「いいよ、デーとしよう!」
 秀明は嬉しそうに賛成した。
 それから二十分ほど、二人は夜道をゆっくりと散歩した。クリスマスのイルミネーションに彩られた街は華やかでロマンチックだ。秀明は無邪気に仁の腕に縋り付いて、クスクスと笑っていた。しかし、会場に戻る頃には酔いが醒めたのか、次第に笑わなくなり、母親とはぐれるのを怖れる子供のように仁の腕にしがみついた。
 会場に戻ると、中年の女性と談笑していたいずみが、目敏く二人を見つけて、足早にやってきた。その時になって初めて仁は、いずみのことを思い出して焦った。
「呆れた! 八神さんをどこへ連れて行ってたの!?」
 いずみが、忌々しそうに秀明を睨み付ける。秀明も、仁がいずみをエスコートしてきたことがわかって、敵意丸出しで睨み返した。
「どこって、ホテルに決まってんじゃん」
 秀明は、いずみを挑発するように、ニヒルな笑みを浮かべた。
「からかわないでっ!! 八神さんは私の連れなのよ!」
「いずみちゃん、すまない。酔い醒ましに二人で散歩してたんだ」
 仁は、こんな所で喧嘩されてはかなわないと、慌てて説明する。
「わたし、待ちくたびれてしまったわ。早くうちまで送ってくださらない?」
 いずみは、甘えるような目で仁をすくい見た。
「ああ、そうしよう」
 仁が懸命にいずみの機嫌を取るのが、秀明の癇(かん)に障った。こんな風に自分を見捨てて、いずみとの仲を見せつけるくらいなら、初めから優しくしなければいいのだ。いや、あれは優しさなどではなく、憐れみだったのだ。そう思うと、猛烈な怒りと惨めさで目の前が真っ赤になった。
「バカヤロー!!」
 怒鳴って気づくと、大粒の涙が零れていた。仁といずみ、それから周りにいた人々が唖然として秀明を見ている。秀明は、泣いてしまった恥ずかしさに狼狽えて、逃げるようにその場を離れた。 
「あの子が泣くなんて……」
 いずみは、呆気にとられていた。しかし、それ以上に仁はショックを受けていた。あのクールで自信に溢れた、およそ涙などというものとは無縁な秀明が自分のせいで泣くとは――。
「いずみちゃん、ごめん! オレ、あいつを追いかけてもいいかな」
 仁が、切羽詰まった顔で、いずみに訊いた。
「……いいわ、追いかけなさいよ」
 いずみは、肩を竦めて敗北を認めた。



          act.28
 秀明は会場を出たすぐのところで、追いかけてきた仁に腕を掴まれた。
「悪かった! 君の気持ちを知りながら、どっちつかずで傷つけた」
「わかってんなら、もう俺にかまうなよっ!!」
 秀明は、仁の腕から逃れようと激しく身を捩る。
「このとおり謝るから、逃げないでくれっ!」
 必死に懇願され、秀明は仁の腕を振り解くのを諦めた。
「もういいよ、怒ってないから。早くいずみのところへ戻れよ」
「戻らない。今夜は君を送る」
「自分が言ってることの意味、ちゃんとわかってるのか?」
 秀明は、すっかり冷静さを取り戻していた。信じられないという顔で、まじまじと仁を凝視する。
「わかってるつもりだ」
 仁は、耳まで真っ赤になって答えた。
「なら、いいよ」
 掠めるようなキスをして、秀明が妖艶に微笑んだ。


 正直言って、仁の垢抜けないセックスは期待はずれで、秀明は少なからずがっかりした。だが、おいおい教えていけばいいと開き直ってもいた。そんなことより、仁のきめ細やかな気配りや優しさの方が、秀明には大切で心地良かった。
 セックスが終わった後でも、「愛してる」「きれいだ」「最高だった」と繰り返し囁き、飽きもせず秀明の髪や背中を撫でてくれるし、秀明を壊れ物のように大切に扱う。かなりのロマンチストらしく、花や果物など、ちょっとしたプレゼントをことあるごとに贈ってくれもする。何より、熱のこもった神秘的な青い瞳で見つめられると、それだけで幸せな気分になれた。
 今まで大嫌いだった独占欲や恋人同士の甘いキスも、なぜか仁なら許せてしまった。仁が望むことなら何でも叶えてやりたいとさえ思う。
 恋を通り越して、溺れている自分を認識し、秀明は嬉しくなった。こんな風にもう一度、誰かを愛せた自分が誇らしかった。
 電話口で、甘いノロケを幸せそうに話す秀明に、江口はホッとする反面、余りに違いすぎる二人の個性に小さな不安を覚えた。超が付くほどの現実主義者の秀明と、ロマンチストでどこか子供っぽさの残る仁が、果たして上手くいくのだろうかと心配だった。


 秀明と付き合うようになって、仁は昼食を一緒に、学食で摂るようになった。仁のような研究員を除いて、学生達はすでに冬休みに入っていたが、補習を受ける医学部の学生や、実験に忙しい薬学部の学生が数多く登校してきていた。
 しかし、秀明のような経済学部の学生は、せいぜいサークルの集まりで顔を出すくらいだ。そんな中で秀明は、日がな一日、図書館に籠もっていた。
 どうやら明良が、仁と楽しそうにニューロンの話をするのが癪(しゃく)だったらしく、仁の専門分野の勉強をしているのだそうだ。わずか数日で、専門家の仁ですら答えに窮するような突っ込んだ質問をするようになったのには、さすがに驚いた。IQ190というのは、まんざら嘘でもないようだ。
 本人は、それを巧妙に隠しているつもりらしいが、一緒にいる時間が長くなればなるほど、秀明の高い知能に驚かされることがいくつもあった。
 例えば、一度行っただけのスーパーのどこに何があるか正確に覚えていて、前回来たときより何円高いだの安いだの、買い物カート一杯に入れられた商品が、消費税を含めて幾らになるかといった計算までしてのけた。レポートを書きながら仁とチェスをし、盤を一度も見ないまま勝ってしまったり、100を越える電話番号やメールアドレスを暗記していて、訊けばいつでもスラスラと口にした。
 秀明の脳は、一度見たものをカメラで写し取ったかのように正確に記憶し、それをいつでも(たぶん十年先でも)鮮明に脳から引き出すことができるのだ。(秀明のHNが、『ミラクル・アイズ』というのは、その当たりが由来だと思われる)
 おそらく三年前、広尾教授が防衛庁の依頼で秀明の脳を調べたのは、そのメカニズムを解明するためだったのだろう。
「仁、こっちだ!」
 先に学食に来ていた秀明が、ボーイ・ソプラノより少し低い、透き通った声で仁を呼んだ。仁が実験に熱中し過ぎて、待ち合わせに一時間近く遅れたことには全く怒っていないようだ。
「ごめん!! 待たせた」
「いいよ、キョーコさんが遅くなりそうだって教えてくれたから先に食べた」
「えっ? ……キョーコって、三田村恭子?」
 仁は、恐る恐る秀明を見た。
「うん、同じ研究チームなんだって? 面白い人だね。仁のことで悩みがあったら相談に乗るってさ」
 恭子にバレてる……。次に恭子に会った時、一体どんな顔をすればいいのかと、仁は真剣に悩んだ。動揺している時の癖で、神経質に銀縁メガネを弄ぶ。
「メガネなんて止めて、コンタクトにすればいいのに」
 秀明が、仁の目を覗き込むように言った。
「あれは、体質的に合わないんだ」
「残念だね。せっかく綺麗な蒼い瞳なのに」
 その時、秀明を護衛しているSPが足早に近づいてきた。秀明が猛烈に怒るので、大学構内にいる時は半径10m以上近づかないように護衛しているのに珍しいなと思って見ていると、SPはびくびくしながら秀明に携帯を差し出した。
「防衛庁の立花さんとおっしゃる方からです」
 秀明はその名前を聞いた途端、思い切り不快そうな顔をした。まるで汚いものでも触るように携帯を受け取ると、低い声で「佐藤です」と名乗る。
 そのまま黙って相手の話を聞くと、やがて口をへの字に曲げてSPに電話を突き返した。すでに通話は切れているらしい。
「仁、俺はこれからちょっと出かける。今夜は帰れないかもしれない」
 今日は金曜日なので、秀明は仁のところに泊まる予定だったのだ。
「ああ、わかった」
 秀明があまりにも不機嫌なので、仁は訳を聞くこともできず、ただ頷いた。一週間ぶりに秀明と甘い時間を過ごせると楽しみにしていたので、残念だなと考えていると、パラパラと遠くからヘリコプターの音が聞こえてきた。何だろうと思い、窓の外を見ると警視庁と大きく書かれたヘリがこちらに向かって来ていた。
「一号館の屋上に着けるそうです。急いで下さい」
 SPの声に振り向くと、秀明が渋い顔をして頷いていた。ヘリが秀明を迎えに来たものだとわかり、仁は心配になった。
「秀明、オレも一緒に行こうか?」
 とたんに秀明は嬉しそうな顔をしたが、SPの「部外者は駄目です」という言葉に、再び不機嫌な顔になった。
「用が済んだら電話するから」
 秀明は仁を安心させるように微笑んで見せると、SPと一緒に足早に学食を出て行った。
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          act.29
 フランスの防衛システムが乗っ取られ、ミサイルの照準がアメリカ本土に合わせられていた。ペンタゴンが二回に渡り、システムを奪い返そうとアタックしたが、失敗に終わった。
 協力を要請された秀明が、防衛庁に到着した時点で、ミサイルの発射準備が整うまで、残り二十五分しかなかった。誰もが救いを求めるように秀明を見る。その痛いほどの視線を感じながら秀明はコンソールの前に座った。
 先に到着していた古田が、アメリカがおこなったアタックの内容と、分析を見せてくれる。
「この新型のクリーチャーが曲者です。ペンタゴンは“マンモス”と名付けたようですが、強力なパワーとタフネスがある上に、ウォーキング能力を備えていて厄介です」
「ソースコードの解析は終わってるか?」
「ええ、これです」
 古田がコンソールを操作すると、モニター画面一杯に数字とアルファベットの羅列が並んだ。秀明は、それを猛烈な速さでスクロールさせながら読んでいく。
「ふうん、かなり腕のいいプログラマーの作品だな。でも詰めが甘いからプロじゃないようだ」
「あの…時間が……」
 古田の後輩の石黒が、不安そうに声を掛けた。古田がそれを厳しい顔で咎める。秀明は、暫く画面を見て考え込んでいたが、今度は猛烈な勢いでキーを叩き始めた。
「先輩、秀明くんは何をやってるんです?」
 押し殺した声で石黒がそっと古田に質問した。
「マンモスを改良して、より強力なクリーチャーを作ってる」
「ええっ! そんなことできるんですかっ? それにもう時間が……」
「おい! 秀明君の気が散るだろう。それ以上騒ぐとここから放り出すぞ」
 二人のそんなやりとりが聞こえているのかいないのか、集中しているときの常で、秀明の顔からはすべての感情が削ぎ落ちていた。まるで神懸かりのような集中力に、古田は慣れているとはいえ毎回、驚かずにはいられない。
「25番のデッキを使う」
 秀明がポツリと言った。プログラムを組み立てながら、対戦デッキのことまで考えていたのかと驚愕しながら、古田はすぐに指示されたデッキを準備した。
 じりじりとした焦りが充満する中で、皆、息を潜めて秀明を見守っていた。まるで神が乗り移った巫女のように、神々しい静謐さをたたえて、秀明はキーを叩き続ける。誰も早くアタックを開始しようとは言わない。このまま戦っても勝ち目がないことが分かり切っているからだ。
 ミサイルの発射まで後五分を切ったところで、やっと秀明が顔を上げた。
「お待たせ。アップロードするからそっちの回線を開いて」
 テストもなしに作りたてのクリーチャーを実戦に使うのは初めてだったので、秀明は内心、不安だったが、努めて冷静に言った。それがどんなに危険なことか皆わかっていたが、誰も何も言わなかった。この人智を越えた天才に任せておけば大丈夫だという信仰にも似た奇妙な信頼があったのだ。
「ユニコーンを召喚」
 美しいカリスマは、歌うように言った。


 四時間に渡る激戦の末、秀明は敵を沈黙させ、システムを取り返した。ただ一度のテストもなく、わずか十五分でマンモスを改良して作った“マンモス”は、本家本元のマンモスをあっけなく踏みつぶすことに成功したのだ。
 皆の労いの言葉を振り切って、秀明は携帯の電波が届く非常階段に急いだ。極度の緊張とストレスを解きほぐすため、無性に仁の声が聞きたかった。
『八神です。ただいま留守に――』
 無情に聞こえてきた留守番電話のメッセージに舌打ちして、今度は携帯にかける。運の悪いことにこちらは圏外だった。どこか電波の届かない場所で夕食でも食べているのだろう。
 仁が自宅で電話を待っていないことに腹が立って、秀明はセックス・フレンドの西田に電話した。一ヶ月ぶりの誘いを西田は快く承諾してくれたので、秀明は古田に二時間ほど出かけると言い置いて、西田のマンションに向かった。
 すでにシャワーを済ませていた西田は、上機嫌で秀明を迎え入れてくれた。仁が電話に出ないのがいけないのだと、心の中で言い訳めいたことを考えながら、秀明は西田に身体を委ねた。
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          act.30 
 仁の家で、クリスマスの飾り付けを手伝いながら、秀明はオーナメントの箱の中に片手に載るほどの小さなアルバムを見つけた。
「こんな所にアルバムが入ってた。見てもいい?」
「……いいけど、怒るなよ」
「なんで?」
 言いながらアルバムを開いた秀明は、小さく息を呑んだ。写真は全部で6枚。仁に肩を抱かれて、こちらを睨むように見ている少女は、写真の中で1枚ごとに成長して、柔らかな丸みを帯びた身体になっていく。最初ボブだった赤毛は次第に伸びて、最後は美しく結い上げられ、胸元の開いた深紅のドレスを身に纏っていた。
「これって――」
「ああ、フィアンセだったアンジェラだ」
 仁は酷く辛そうな顔をした。
「毎年、クリスマスに写真を撮って、二十歳のクリスマスに彼女にプレゼントするつもりだったんだ」
 秀明は黙ってアルバムを閉じると、意を決して尋ねた。
「どうして、死んだの?」
「自殺したんだ」
 仁の沈痛な表情に、秀明は後悔した。
「ごめん。変なこと尋いて……」
「いいよ、秀明には聞く権利あるんだから」
 せっかくのウキウキした楽しい気分がどこかに霧散してしまい、二人はそれから無言で飾り付けをした。
 三時のティータイムに仁の淹れてくれた紅茶を飲み終わると、秀明はジュリエットを犬舎に入れた。気まずい雰囲気のまま帰りたくなかったので、セックスで誤魔化してしまおうと考えたのだ。ソファーでぼんやりしていた仁の上に屈み込んで、シャツのボタンを外しにかかる。
「おい、こんな明るいうちから……」
 抗議しかけた仁の口をキスで塞ぐと、煽り立てるように舌を絡ませた。ジーンズの上から、やんわり股間を揉みこんでやっただけで、仁はすぐに引き返せない所まで来てしまう。
 離れた唇を唾液が糸を引いて繋いでいた。黒目がちで潤んだような秀明の瞳が、艶やかに誘う。液体のように溶けていく理性を手放して、仁は乱暴に秀明をソファーに組み敷いた。


 最初に、男同士のやり方がわからなくて、秀明にリードされてしまったのがマズかったのかもしれない。仁は時々、自分が抱いているのか抱かれているのか、わからなくなる時がある。今のように秀明の術中にはまってしまったときは特に……。
 気が付くとその気にさせられ、痛いほどに高められて、狭くて熱い器官に銜え込まれている。そして搾り取るように締め上げられ、射精させられるのだ。
 男の性を知り尽くした身体は、恐ろしく甘美で、どんな哀しみも苦しみも綺麗に忘れさせてくれた。そこにはいつも絶対的な快楽だけが存在する。
 仁が、のろのろと秀明の上から起きあがると、追い縋るように細い腕が絡みついてきた。
「先にシャワー浴びてこいよ」
 優しく抱き起こして、啄むようなキスをしてやると、秀明は柔らかく笑った。明るい陽の光にさらされる無駄な贅肉などカケラもない、引き締まった身体。肌理の細かい、しっとりとしたすべらかな肌に目が吸い寄せられる。細い顎から首筋、鎖骨にかけての美しいラインは、目眩がするほど官能的だ。
「きれいだ……」
 溜息の出るような感動と共に囁くと、秀明は照れくさそうに側にあったシャツを引き寄せて羽織った。
「シャワー浴びてくる」
「ああ」
 仁は、リビングを出て行く後姿を目で追いながら、改めてスタイルのいい奴だと感心する。モデル並の八頭身と、カモシカのような長い脚、何より形良く引き締まり盛り上がった双丘は、美女の大きな胸より遙かにそそられるものがあった。
 秀明は、ゲイで男にしか興味を持てないと言うが、なぜ自分のような平凡な男に執着するのだろうと不思議になる。あれだけの美貌とテクニックがあれば、どんな男でも選り取りみどりのはずだ。
 胸の底に芽生えた疑問に、仁は微かな不安を覚えた。



          act.31
 八神仁と佐藤秀明が付き合っていると告げたのは部下の須藤だ。立花は、防衛庁の執務室でその報告を受けた。不機嫌に口元を歪めて須藤を退室させると、古い友人であるペンタゴンの情報戦参謀、ダグラス=レーエンに電話する。
「おまえの養い子が、佐藤秀明とくっついたぞ。満足か?」
 立花が、忌々しそうに言った。
「分別くさく常識的に生きてきた青年が、淫乱で節操のない尻軽に引っかかるとはな。まったく! どんな魔法を使ったんだ?」
『賭金の1000ドルは年末に逢った時でいいよ』
 ダグラスは、クスクスと楽しそうに笑っている。
「あの貞操観念の欠片も持ち合わせない好きモノが、いつまでもひとりの男で満足できるとは思えないがな。江口ですら調教できなかったんだから」  
『仁は未熟だが、素直で容姿がいいから、きっと彼も気に入るさ。それに二人は両極だからこそ互いに学び合うことも多いし、一緒に成長して行ける』 
「楽天的な考えだな」
『おまえは底意地が悪い』
 言われて立花は子供のようにムッとして赤面した。どうにもダグラスの前ではクールな自分のペースが崩れて仕方ない。「年末に会おう」とだけ短く伝えると電話を切った。


 クリスマス・イブは、仁の提案でプラネタリウムに行き、夕食は仁の手料理でくつろぎ、ゆっくりと甘い夜を過ごした。クリスマスは、昼近くにようやく起き出し、異母兄の響に顔を見せるため二人で秀明の実家を訪れた。
「秀明、お帰り! 八神さんもいらっしゃい」
 響は、本当に嬉しそうに二人を出迎えてくれた。まだ会うのが二度目の仁に対しては、ほんの少し緊張していたが、秀明がさり気なく仁の腕に縋ると、二人の関係を悟ったらしく、柔らかな笑みを浮かべた。
 両親は仲良くデートに出かけたのだと説明されたが、秀明を敬遠して外出したのは明らかだった。響が、秀明を誘い出すために誘拐され、神経を病んでから、両親はあからさまに秀明を疎んじるようになったのだ。
 遊びに来ていた明良が、手慣れた様子でダイニングテーブルに昼食を整えていた。仁と秀明が手を繋いでいるのを見ても顔色一つ変えない。
「良かった、ちょうど今、準備ができたところなんですよ」
「おいしそうだなぁ」
 仁が感心した声を上げると、「響と二人で作ったんです」と得意げに言った。
 秀明は、持ってきたワインを冷蔵庫に入れると、テーブルの上のシャンパンに顔を綻ばせた。
「うわぁ、ヴーヴ・クリコだ。明良が持ってきたの?」
「ああ、婆ちゃんにもらったんだ」
 明良の祖父は大きな個人病院を経営していて、お歳暮に贈られてきたものを明良にくれたのだという。何人かいる孫の中で唯一、医大に入った明良は、祖父母から猫かわいがりされていた。
 4人でのんびり昼食を楽しみ、夕方に仁の家に戻ると、秀明はまた仁を欲しがった。翌日から、仁は里帰りで帰国するため、二人は別れを惜しむかのように激しく求め合った。
 時間を掛けて愛し合い、秀明が情事の後の惰眠を貪っていると、仁が枕元までオニオン・スープを運んできてくれた。これは仁のレパートリーの中で、秀明が一番好きなものだ。
「この三週間で1Kg太ったよ。こんなに“運動”してるのにおかしいなぁ」
 秀明はスープを平らげると、幸せそうに仁をすくい見た。
「もう少し太れよ。してる時、骨が当たって痛い」
 仁の返事に秀明は、プッと吹き出した。
「なにそれ、俺って良くない?」
「そんなわけないだろう。秀明は最高にいいよ」
 甘い睦言に秀明はご機嫌だった。だから、ついうっかり口を滑らせてしまったのだ。「アンジェラより?」と。
 たちまち、仁の表情が凍り付いた。次第に怒りとも哀しみともつかないものが浮かび上がる。秀明は自分の迂闊さを心底、呪った。
「ごめん……」
 小さな声で仁に詫びる。その幼子のような頼りない表情に、仁は胸を打たれて我に返った。
「いいんだ。この際だから白状すると、アンジェラとはまだ最後まで行ってなかった。彼女が十八になるまで待とうと決めていたから……。でも、彼女が妊娠して、相手がオレだと思った彼女の母親が、結婚式を急ぐよう言ってきて……オレは彼女を問いつめたんだ。――追いつめられた彼女は……ベランダから飛び降りた」
 秀明は、仁の告白に言葉を失って絶句した。
「助けようと…手を伸ばしたのに……オレが、彼女を突き落としたんじゃないかって疑われて――でも何も言えなかった。オレは本当に酷いことを言って彼女を責めたんだから……。結局、彼女の母親宛の遺書が見つかって、オレの疑いは晴れたんだけど、周囲の目が堪らなくて日本に来たんだ」
「仁……ごめん――」
「気にしなくていいよ。でも、秀明は秀明なんだから、アンジェラにこだわらないで欲しい」
「うん、わかった」
 仁は、優しく秀明を抱き締めると、深い溜息をついた。アンジェラにこだわっているのは、秀明よりも自分の方だった。彼女の死を思うと今でも心臓のつぶれるような慟哭に襲われる。彼女の夢を見るのが怖くて未だに睡眠薬が手放せない。そんな自分を持て余しながら、精一杯の虚勢を張っていることを秀明に気づかれたくなくて、仁はアンジェラのことを持ち出されるのを何よりも怖れていた。
         
 

          act.32
 新年を、育ての親である叔父と過ごすため、仁は十二月二十六日から二週間の予定でアメリカに帰国した。秀明とは毎日、メールで近況を伝えあっていたが、どうしても我慢できなくなり、予定より一日早く日本に戻ることにした。
 秀明をびっくりさせてやろうと、ジュリエットをペットホテルへ迎えに行くのも後回しにして秀明の家を訪れると、玄関に現れたSP(要人警護を担当する警察官)の宮本が、顔色を変えて狼狽えた。
「あ、ちょっと待っててくれるかな? 秀明くんは、まだ寝てるみたいだから起こしてくるよ」
「寝てるって……今、昼の2時ですよ? オレが叩き起こしてやります」
「いや、俺が起こすから、八神くんはリビングで待っててくれればいいよ。そうだ、キッチンで何か好きな飲み物でも飲むといい」
 引きつった笑顔で言い募る宮本を不審に思いながらも逆らうことができず、仁がリビングに行こうと玄関ホールを抜けると、バスローブ姿の秀明が濡れた髪のまま、パタパタと階段を降りてきた。
「仁! お帰り!!」
 弾んだ声が、仁をどんなに待ちわびていたかを感じさせて胸が熱くなる。仁は、飛びついてきた秀明をしっかりと抱き締めてやった。いつもなら、人前では手を繋ぐことすらはばかられるのだが、今日は特別だ。
「ただいま。驚かせようと思って一日早い便を取ったんだ」
「どうせなら、一週間早い便にすれば良かったのに」
「秀明は欲張りだなぁ」
「うん、欲張りなんだ」
 クスクスと笑いながら甘えた目で仁を見る秀明は、本当に可憐だった。SPの目がなければ、この場で押し倒してしまいたいほどだ。もっとも仁はシャイなので、SPが常駐しているこの家で、秀明を抱けるほどの度胸はない。
「そいつが、“一番”なのか?」
 不意に声を掛けられて仁が振り向くと、階段の手すりに男がもたれて笑っていた。派手なイタリアン・スーツが憎らしいほど様になっている。退廃的な渋みのある顔に見覚えがあるのだが、仁はどこで会ったのか思い出せなかった。
「うん、そうだよ」
 秀明は屈託なく答えた。少し自慢げで、実に幸せそうな笑顔で。
「それなら、俺はもう用済みだな。帰るよ。退屈になったら、また呼んでくれ」
 男はニヒルな笑いを口元に張り付かせたまま、ほんの一瞬、仁を睨んだ。
「何、いじけてんだよ?」
 男の不機嫌さを感じ取った秀明が呆れたような声を出した。男は、それには答えようとはせず黙って苦笑しただけで、静かに玄関から出て行った。宮本が安堵の溜息を漏らす。仁がいぶかしそうにそれを見ると、宮本は慌てて玄関脇に作られたSPの詰め所部屋に逃げ込んだ。
「誰だよ、あいつ?」
「北村敦、画家だよ。個展に来てたくせに忘れたのか?」
「北村…敦……」
 仁の中で、ゆっくりとパズルのピースが組合わさっていく。確か、いずみは北村の作品『Hの肖像』は、画商の西田の恋人の肖像画だと言わなかったか? 秀明はなぜこんな時間にシャワーを浴びていたのか? 宮本のそわそわと落ち着きのない態度は何なのか……。次第に身体の中が冷たくなっていく。 
「秀明は……西田の恋人なのか? 北村とも寝たのか?」
 仁の絞り出すような声に、秀明はあどけない笑顔をわずかに曇らせた。
「仁……?」
「オレの知らないところで、他の男と寝てるのかって訊いてるんだ!! 答えろよ、秀明!」
「そりゃ、ちょっとは遊んだけど…そんなに怒らなくたって……」
 いかにも心外といった様子で、呆れたように言う秀明を仁は平手で張り飛ばした。パンと音がして、秀明の頬が鳴る。わなわなと震えている仁を秀明は目を丸くして凝視した。打たれた頬の痛みよりも、仁の頬を伝う涙に驚いていた。
「信じられない……どうしてそんなことが、できるんだよっ!?」
「仁がいなくて、淋しかったから…他で間に合わせただけだよ。仁が一番大切で、誰よりも愛してる。それじゃダメなの?」
 秀明は、仁を宥めようと伸ばした腕を払われて途方に暮れた。
「オレは、二番、三番で代用できる一番なんてごめんだ。セックスは、遊びじゃない。もっと神聖なものだと思う」
 秀明はオロオロと視線を彷徨わせた。仁が潔癖性なのはわかっていたはずなのに、とんでもないヘマをしてしまったのだ。自分が、仁を酷く傷つけたのだと悟って焦っていた。
「仁…ごめん、もうしないから。他の奴とは、もう絶対寝ないって誓うから。ねぇ、謝るから、許すって言って……」
 恐る恐る伸ばされた秀明の指を、仁はまるで汚いものでもあるかのように身を翻して拒絶した。秀明は唇を噛みしめる。
「頼むから、触らないでくれ。オレ…今はどうしてもダメだ。少し冷静になる時間をくれないか? 落ち着いたら電話するから」
 そのまま秀明の顔も見ずに、逃げ出すように出て行く仁を、秀明は茫然と見送った。縋り付いて引き留めたいのに、拒絶されるのが怖くてできなかった。
 仁の足音が消えてしまってようやく、堪えきれない嗚咽が漏れた。このまま二人の関係が終わってしまうのではないかという不安に押し潰されそうで、秀明はその場に座り込んだまま泣き続けた。



        act.33
 自宅に戻って冷静になると、仁は秀明の楚々とした外見に惑わされて、秀明の本質からあえて目を背けていたことに気づいた。貞淑な恋人という理想を勝手に夢見て、それが裏切られたことに腹を立てている自分の身勝手さが、情けなかった。
 考えてみれば、自分たちの関係は何の約束もない、ひどく不安定なもので、男同士で結婚できるわけもなく、妻でもない秀明が、仁に操を立てる義理はない。自分とのセックスに、秀明が満足していないことにも、薄々気づきながら見て見ぬ振りをした。おまけに人一倍、淋しがり屋の秀明を二週間も一人にしたのだ。わがままを言わない、束縛しない、ものわかりの良い恋人に甘えていたのは自分だ。
 それでも仁は、秀明が他の誰かと遊ぶのが許せなかった。子供じみた独占欲で秀明を縛り付けることが、どんなに自分勝手なことかわかっていても、許せないのだ。自分の感情をうまくコントロールできないまま、秀明に電話することもできず、一週間が過ぎた。
 仁は酷い不眠症に悩まされ、常用している睡眠薬の量を増やしたばかりでなく、しばらく止めていた精神安定剤も再び飲み始めた。秀明とのセックスで精根尽き果て、吸い込まれるように眠りに落ちた日々が懐かしい。今は薬を飲んでも、アンジェラが死んだときの悪夢を見て、ぐっすり眠ることができなくなっていた。
 携帯電話が、メールの着信を知らせるメロディを鳴らし、確認すると秀明からだった。『逢いたい』という秀明のメッセージを、仁は無視した。自分の中でどうしても消せないわだかまりがあって、それに折り合いを付けることができないのだ。
 メールは毎日届いた。内容から、秀明がいかに浮気を深く後悔して反省しているかが読みとれたが、仁は頑なに無視し続けた。それがどんなに子供じみたことか知りつつも、秀明が汚れているようで触れるのが怖かった。


 あれから二週間が過ぎた。秀明は決着を付けるために、仁の自宅を訪ねることにした。待つのは性に合わない。罵られても、殴られても、踏みつけにされようとも構わない。とにかく今のように中途半端な生殺し状態で、放っておかれるよりずっといいと思った。
 仁は、秀明の顔を見ると、傍目からもはっきりとわかるほど動揺した。秀明が「話し合いたい」と言うと、心底、嫌な顔をした。逃げ出したいと大きく顔に書いてあるようだ。目の下にできた大きなクマは、この二週間、仁がどんなに苦しんだかを如実に物語っていた。
 秀明はそれに大きなショックを受けた。かつて身勝手な独占欲と執着で、最愛の叔父・紀時を苦しめた苦い過去が蘇る。苦悩する紀時の美しい顔と、目の前のやつれた仁が重なって、秀明は背筋に悪寒が走った。
「そっか、俺の顔を見るのも嫌なんだ……」
 秀明は、大きく息を吐きながら呟いた。
「もう、いいよ。別れよう。突然、訪ねて困らせたりして悪かったよ」
 いとも容易く別れを口にして、秀明は微笑んだ。あまりにもあっさりと切り捨てられて、仁の方が面食らった。
「秀明?」
 秀明の本心を探ろうと氷の微笑を凝視したが、秀明はさっさと踵を返して、門を出て行く。
「待てよ、秀明!」
 仁は慌てて秀明を追いかけて腕を掴んだ。 
「触るなよ。俺は汚れてるから、 おきれいな手が穢れても知らないぜ」
 暗い絶望を孕んだ声が仁を拒絶した。秀明の中の何か得体の知れないどす黒いものが自分の中へ流れ込んでくるようで、仁は恐怖に駆られて秀明の腕を離した。
 秀明はしばらくじっとその手を見つめていたが、やがて未練を振り切るように仁に背を向けると、SPの車に乗り込んだ。宮本が心配そうに何か言ったが、秀明には理解できなかった。ただ、すべてが終わったのだという哀しみと虚無感が強く押し寄せてきて、何も考えられなかった。



 
       act.34
 憂さ晴らしに男漁りに出かける気にはどうしてもなれず、秀明は自宅で浴びるように酒を飲んだ。酒の力を借りて眠り、目が覚めるとまた酒を飲んで眠る繰り返し。一週間もしないうちに、元々弱かった胃がやられて血を吐いたので、主治医に入院を命じられた。
 仕方なく、今度はベットに上で鬱々と過ごすことになった。主治医が処方してくれた抗うつ剤は、すべて捨ててやった。代わりに毎日、アメリカの江口に電話して他愛ない話をした。江口は、すぐに何かあったと感づいたようだが、あえて追求してこず、とりとめのない会話に付き合ってくれた。
 

 仁が、ジュリエットの散歩から戻ると、思いがけない男が玄関で待っていた。立花賢悟(たちばな・けんご)という、養父の友人で、日本に入国する際の身元引受人になってもらった男だ。防衛庁の高官という話だが、カジュアルな私服姿の立花は若々しく、くだけた感じで、たいそう男臭かった。
「新しい生活には、慣れたかい?」
 立花は、出されたコーヒーには手をつけず、両手を腹の前で組んだまま、含みのある笑いを浮かべた。
「おかげさまで、元気にやっています」
 仁は、用心深く答えた。何度か養父のパーティーで顔を合わせているが、立花には何を考えているかわからないところがあって苦手だった。それに彼に話すことは、おそらく養父に筒抜けになるだろう。迂闊なことは言えないと警戒もしていた。
「しばらく止めていた安定剤をまた処方してもらったそうだね」
「ええ、このところゴタゴタがあったものですから」
 内心、立花にバレていることに舌打ちしながらも、仁は努めて平静を装った。
「でも、もう大丈夫です。問題は解決しましたから」
「それは、佐藤秀明と別れたということかな?」
 仁は弾かれたように立花を見た。
「秀明の浮気がそんなに気に入らなかったのかい? 君の潔癖性は、アンジェラが他の男の子供を身ごもって自殺したことに関係あるのかな?」
「やめて下さいっ!!」
 仁は蒼白になって、椅子から立ち上がった。しかし立花はこれっぽちもたじろがなかった。反対に、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「秀明が穢れているというのなら、汚したのは君自身だ。愛してると言いながら何回あいつの中に突っ込んだ? 君のどこが他の男と違うんだ? 秀明が君に求めたのは、SEXでなく安らぎだったのに。君は残酷な子供だ」
 立花の声は、あくまで優しく穏やかだったが、仁はその言葉に大きなショックを受けた。
「立花さん……」
 仁は返す言葉もなく、絶句した。
「俺は、君にアンジェラの時と同じ過ちを犯して欲しくないんだよ。本当に愛しているのなら、相手の良い面だけでなく悪い面も、すべてを許して包み込む寛容さを持てるはずだ。責めることや追いつめることは無慈悲な他人のやることだ」
 仁は自分の未熟さをひしひしと感じて、深い後悔に捕らわれた。
 

 仁が、秀明の入院した病院を訪れると、秀明は医者の命じた十日間が我慢できず、入院七日目に勝手に自宅へ戻ってしまっていた。「ああ言えばこう言う、まったく可愛げのない患者さんですよ」と婦長のグチをたっぷり聞かされただけで、仁は空振りで帰ってきた。
 秀明の自宅を訪ねる勇気もなく、大学へ出てくるのを待つことにする。秀明はいつも学食で昼食を摂るので、それを待ち伏せることにした。
 予想通り、仁は待ち伏せして3日目で、秀明を捕まえることができた。痩せて浮き出した鎖骨が痛々しいが、顔色は悪くない。挑むような瞳を仁に向け、口元に優雅な笑みを浮かべた秀明は、相変わらず凛として美しかった。
「元気そうで安心したよ」
「毎日、泣き暮らしてるとでも思った?」
「いや、入院したって聞いたから……」
「胃潰瘍だよ。よくやるんだ。でも、もう治った」
 秀明はつまらなさそうに仁から目を逸らした。
「病院へ見舞いに行ったら、婦長さんにさんざん愚痴を聞かされたよ。勝手に薬を捨てるわ、酒を持ち込むわで、目が離せない不良患者だったって」
「来てくれたんだ…見舞いに……」
 意外そうな顔をして、秀明は再び仁に視線を戻した。
「もしかして、責任感じちゃったわけ?」
「そうかもしれない」
 仁が素直に認めると、秀明はますます混乱した。何か言おうと唇を動かしたものの、そのまま黙り込む。
「今夜、うちで食事しないか? 何か消化のいいものを作るよ」
 仁の言葉に秀明はぽかんと口を開けたまま絶句した。
「時間は、七時でいい?」
「……なんで?」
「食事の後で話すよ。じゃあ、待ってるから」
 約束を取り付けると、仁はさっさと学食を出て行き、秀明は放心したまま取り残された。



          act.35
 約束の七時に、秀明は三十分も遅刻してきた。秀明が何の連絡もなく遅刻するのは初めてだったので、仁は秀明がもう来ないのではないかと不安になったほどだ。
 秀明はひどく緊張して怯えていた。仁が努めてにこやかに話しかけても、おざなりの返事しか返ってこない。必死に食事を胃に詰め込んでいるといった感じだ。味なんてこれっぽっちもわかってはいないだろう。
「量が多かったら、残せよ」
「うん」
「鱈は骨が残ってるかもしれないから気をつけろよ」
「うん」
「ペリエのお代わりは?」
「……欲しい」
 気まずさと沈黙の支配する食卓で、互いに相手の顔色を窺いながらの食事は最低だった。ジュリエットもテーブルの下で小さくなって二人の様子をそっと窺っている。
 出されたものをなんとか胃に詰め込むと、秀明はほっとした表情を浮かべて立ち上がった。
「ご馳走様、俺、もう帰るよ」
「ああ、家まで送る」
 仁も慌てて立ち上がる。
「外にSPが待ってるから……」
「じゃあ、車まで見送る」
 秀明は、黙って仁を見つめた。その瞳に浮かぶ戸惑いが、秀明を迷子になった子供のように頼りなく見せた。
「……なんで呼んだんだ? 憐れんでるのか? それとも恨み言のひとつも言いたくなったのか?」
 ひどく緊張している時の癖で、秀明は下唇を噛みしめる。
「まさか! 仲直りしたかったからだよ」
「俺は……恋人だった男とは友達になれない」
 秀明は困惑して答えた。
「もう一度、恋人としてやり直したいんだ」
「なんで今さら」
 秀明はすっかり混乱していた。
「他に好きな奴がいるのか?」
 秀明の顔を覗き込むようにして仁が甘い声で訊く。秀明は急いで頭を横に振った。
「俺のこと、嫌いになった?」
 それにも頭を横に振ったが、怯えて後ずさる。
「秀明、愛してるんだ。やり直そう」
 秀明は何度も瞬きをし、しゃくり上げるように浅い呼吸を繰り返した。
「俺…帰るよ。もうここには来ない」
 怯えた小動物のように、秀明は一目散に逃げ出した。頭の中がパニックで、恐怖が心臓を鷲掴みにしていた。浴びるように酒を飲んで、なんとか癒した失恋の痛手を再び抉られるのはご免だった。


 翌日、大学で仁と顔を会わせるのが嫌で、秀明は自宅でぼんやりしていた。昼過ぎに電話が鳴り、ディスプレイの相手の番号を見ると、仁ではなかったので、電話をとった。相手は、幼馴染みの大沢久志(おおさわ・ひさし)だった。
 幼い頃、秀明は母が体調を崩す度に、母の従姉である久志の母・笙子(しょうこ)に預けられたので、6歳年上の久志は年の離れた兄のような存在だった。二年前、薬学部を卒業して、祖父の会社である霧乃製薬の営業で頑張っていると聞いていた。
「久しぶり、元気か?」
「うん」
「たまには、目黒に顔を出せよ。お袋が淋しがってたぞ」
「そっちこそ、一人暮らしで好き放題やってんだろ? 仕事を理由にちっとも帰ってこないって、笙子さんに聞いたよ」
「お袋の奴、暇に飽かせて秀明にまで愚痴ってるのかぁ、嫌んなるな」
「三ヶ月に一度ぐらいだけどね、電話が来るよ」
「それはそうと、おまえ、来週のパーティーどうする? 案内状が届いてるだろう? 出欠の連絡がまだだけど」
「えっ、パーティー!?」
 秀明は、仁とのゴタゴタで、まともに郵便物に目を通していなかったことを思い出した。
「霧乃製薬の創立五十周年記念パーティーだよ! おまえも一族なんだからさ、出席するよな?」
 秀明の母は、霧乃製薬の会長(久志の祖父)の姪に当たる。さらに母や叔父が亡くなって、二人の持っていた霧乃製薬の株は秀明が相続しているから、秀明は大株主の一人でもある。
「うん、行くよ。久しぶりに久志兄さんの顔を見たいし、笙子さんにも顔を見せないとね」
 秀明は、懐かしい顔を見れば、気晴らしになるだろうと考え、パーティーに出席することにした。



          act.36
 霧乃製薬の会長、霧乃太一朗は、交通事故で夭折した弟の遺児、理鎖と紀時をそれは可愛がっていた。特に、自分が娘一人にしか恵まれなかったことから、甥の紀時を自分の後継者にと考えていたほどだ。
 しかし、紀時が留学先のアメリカで、友人とコンピュータ・ソフト会社を起業したため、娘婿の大沢拓磨に社長の座を譲って自分は会長の座に退いた。
 直系の孫である久志は、まだ若く、仕事より遊びの方に興味があるようだ。営業に入れてみたものの、成績は中の上といった程度で、凡庸な父親に似て余り期待できそうにもなかった。
 その点、紀時がアメリカで育てた秀明は、打てば響く、一から十を知る聡明さで、とにかく頭が切れた。ところが誰に似たのか、秀明は恐ろしく身持ちが悪かった。次から次へと男を渡り歩いてはトラブルを起こすのだ。これでは幾ら頭が良くても、会社を任せるわけにはいかない。
 結局、平凡だが性格が良く、多少は人徳のありそうな久志に期待するしかないのだった。
 そんな訳で、霧乃太一郎は久志を自分の後に控えさせて、パーティーの来賓からの挨拶を受けていた。妻は、娘を産んですぐに癌で他界したので、隣には妻の代わりに愛娘の笙子(久志の母)を控えさせている。脚が悪くなった近年は、どこへ行くにも笙子に供をさせていた。
「お父様、私くし、ちょっと主人の様子を見てきますわ。村木の伯父様方に苛められていないか心配ですの」
 村木の伯父様方というのは、笙子の亡くなった母方の親戚である。彼らは、娘婿というだけで社長の座に着いた大沢拓磨が気に入らず、事あるごとに陰湿な嫌がらせを仕掛けてくるのだ。
「ああ、そうしなさい」
「久志さん、後をお願いね」
「母さん、秀明を見かけたら、こっちに来るように言ってくれる?」
「いいわよ」
 笙子が消えると入れ違いに、初老のひょろりとした男と、髪を短く刈り揃えた銀縁メガネの青年が人混みを縫って現れた。
「広尾教授、ご多忙のところをわざわざお越し頂いて、ありがとうございます」
「こちらこそ、お招きありがとうございます。いつも多額の研究資金を援助していただき感謝しております」
 おっとりとした口調は、大学教授にありがちな高飛車な口調とは大きくかけ離れていた。
「教授のニューロン増殖のご研究は、私共も大変興味を持っております。研究成果も着々と上げておられて、援助のし甲斐もありますよ」
 霧乃太一郎は、自分より年下の広尾教授に、満面の笑みを浮かべ腰を低くして接する。その様子から、相手がかなり高名な教授であることが伺えた。
「ご紹介しましょう、新しい研究員の八神仁君です」
「初めまして。八神仁です」
「霧乃太一郎です。これは孫の大沢久志。うちの営業で修行させております。どうぞ、お見知り置き下さい」
「大沢久志です。よろしくお願いします」
 久志は、八神仁の瞳がコバルト・ブルーであることを不思議に思いながら握手を交わした。
 こういったパーティーは、顔繋ぎと研究資金集めに欠かせないものなので、仁は次から次へと様々な人々に紹介され、一時間もしないうちにぐったりと疲れ果てていた。やがて広尾教授が、友人の助教授と立ち話を始めたので、息抜きをしようと、こっそり会場を逃げ出してロビーに出る。
 ロビーの隅の喫煙コーナーでは、大沢久志が煙草を吸いながら誰かと談笑していた。相手は、ちょうど柱の陰になって仁からは見えないが、大沢の甘いとろけるような笑顔からすると、相手は恋人なのかもしれない。
 今頃、秀明はどうしているだろう? 何度、電話しても出ないし、自宅を訪ねてもSPに門前払いされた。秀明は大学でも慎重に仁を避けているので、仁はどうすることもできず途方に暮れていた。
 そんなことをあれこれ考えていると、大沢が仁に気づいた。
「八神さん、どうされました? ビュッフェはお口に合いませんでしたか?」
「いや、人混みに酔ったようなので……」
 言いかけて仁は、柱の陰から顔を覗かせた人物を見て目を見張った。
「秀明!」
「あれ? 知り合い?」
 にこやかに大沢が秀明に尋ねる。
「うん…大学の友達」
 秀明は平坦な声で答えた。
「じゃ、俺は爺さんのとこに戻るから、後でゆっくり話そう。これ俺のマンションの鍵。場所はわかるよな?」
「大丈夫」
 大沢は気を利かせたつもりらしく、仁に軽く会釈するとパーティー会場へと戻って行った。



          act.37
 二人はしばらく無言で向かい合っていた。耐えきれず先に目を伏せたのは秀明の方だ。
「あいつが、新しい恋人か?」
 仁の質問に、秀明は泣きそうな顔をして笑った。
「こんな風に傷つけ合うのは嫌だ」
「オレと本気で別れたいのか?」
「そうだよ。いくら俺が身ぎれいにしてたって、仁は今みたいに際限なく俺を疑うからさ。一度こんがらかった糸をいがみ合いながら元に戻すより、新しい相手を捜す方がお互いのためだと思う」
「そうやって今まで男をとっかえひっかえしてきたわけか」
 仁は忌々しそうに毒づいた。
「つまりオレも面倒になったら簡単に捨てられるオモチャのひとつだったてわけだ」
「やめろよ! どうしてそんなことっ……。仁を苦しめたくないから…辛い思いをさせたくないから……俺が気持ちを整理するのに、どれだけ苦しんだか知らないくせに!」
 仁の苛立ちに引きずられないよう冷静さ保とうと、秀明はせわしく深呼吸を繰り返した。涙を堪えているせいか、秀明の瞳は潤んで恐ろしく官能的だ。仁は苦悩する秀明を見て、不謹慎にも目の前に息づく美しい身体に欲情した。
「仁、これっきりにしよう。お互い、嫌な思い出はさっさと忘れて新しい恋をした方がいい」
 秀明が、駄々っ子に言い聞かせるように優しい声で言った。それまで、じっと秀明を見つめていた仁は、いきなり乱暴に秀明を抱き寄せた。
「だったら新しい恋は、もう一度、秀明と始めたい。秀明がいいんだ! 何度別れても、俺はまた秀明を好きになる。 他の誰かなんて要らない!!」
 秀明は、仁の熱烈な口説き文句に胸が熱くなった。仁の一途さがたまらなく愛おしい。この分では、蹴っても殴っても、仁はストーカーよろしく秀明を諦めないだろう。こんなにも強く愛されて拒めるほど、秀明は高慢ではない。ましてや秀明自身、仁にどうしようもなく惹かれているのだ。しかし秀明は、嬉しさを押し隠して、冷ややかに言ってやった。
「俺、さんざん遊んできたからエイズかもしんないぜ?」
「いい、俺も一緒に死ぬ!」
 仁は夢中で、秀明の顔中にキスの雨を降らせた。今までのわだかまりも怒りもすべてが消え去って、ただ秀明を失いたくないという想いだけが激しく渦巻いていた。
「ばぁーか」
 秀明は、仁の腕の中でクスクスと笑い出した。秀明の頬を、大粒の涙がポロポロと賑やかにこぼれ落ちる。仁はそれをそっと舌で舐め取った。
「愛してる」
 秀明の耳元で甘く囁く。秀明は恥ずかしそうに頬を染めて頷いた。
「仁、上に部屋を取って仲直りのセックスをしよう。俺は月に一度、メディカル・チェックしていて先週の検査は陰性だったし、いつもきちんと予防してるから安心していい。ご無沙汰だから、もう我慢できない。今夜は中で出してもいいから」
 最後の方はさすがに恥ずかしくて声が掠れた。
「ダメだ。そういうことは、オレも検査して陰性だったらにする」
 秀明はちょっと意外な顔をして、仁に棘のある視線を向けた。
「それって、ヤバイことした覚えがあるってことだよな?」
「そりゃまぁ…オレも男だから……。でも、秀明と付き合う前の話だぞ」
 秀明は、あたふたと言い訳をする仁を、軽く睨み付けてやった。
「楽しませてくれなかったら、お払い箱にしてやる!」
「精一杯、努力するよ。だからもう浮気なんてするな」
 仁は、秀明の冗談に神妙な面持ちで返した。秀明もそれに真剣なまなざしで応える。
「わかってるよ、これからは仁だけにする。仁だけでいい」
 その後、二人は大沢久志の存在などすっかり忘れて、夜が更けるまで甘い時間を過ごした。そのため、マンションの鍵を秀明に渡した大沢は自分の部屋に入ることができず、秀明が駆けつけた明け方には、ドアの前で熟睡していた。


 大学が春休みに入ると、秀明はほとんど仁の家に入り浸りだった。自宅には、着替えを取りに戻る程度で、いっそ一緒に暮らそうと仁は提案してみたが、すげなく却下された。いわく「いい関係でいるためには、ある程度の距離が必要」と言うことだった。
 秀明は、馴れ合うことをひどく嫌う。仁の家にいる時は、仁の手料理を食べるので、スーパーの買い物や外食する時は自分が出すと言い張って譲らない。実際、R&K社と契約している秀明は毎月かなりのロイヤリティを受け取っているので、大学研究員の仁より遙かに(おそらく5倍位)収入があるのだ。
 昼食の後、二人がリビングでセックスすれすれのペッティングでじゃれ合っていると、秀明の携帯が鳴った。首筋に舌を這わせる仁の頭を抱きながら、秀明は脱ぎ捨てたジャケットをたぐり寄せ、内ポケットから携帯を取り出す。
「はい、佐藤です。ああ、響。えっ!? 今、どこ!?」
 秀明は、慌てふためいた様子で、のし掛かっていた仁を押し退けて身体を起こした。
「うん、わかった。いいよ、待ってる。気をつけて」
 電話を切ると、説明を求める仁の視線とぶつかった。秀明は、そそくさと服の乱れを整えて立ち上がる。
「響が、うちに遊びに来るって。帰らなきゃ」
「不安神経症で、電車に乗れないんじゃないのか?」
「明良の車でだよ。今まで、二回挑戦したんだけど途中で気分が悪くなって引き返してる。今度は三回目の挑戦」
 秀明は説明しながら、心配そうな顔をする。異母兄の響は神経症で狭い場所に長時間いることができないので、車で一時間半かかる秀明の家に来るのは大変な挑戦だった。

 

          act.38
 急いで帰宅した秀明は、ベランダから身を乗り出して、明良の運転する黒のシビックが到着するのをハラハラしながら待っていた。暫くして、西のT字路を黒い車が回ってくるのが見えたので双眼鏡で確認すると、助手席にはいずみが座っていた。
 天敵の出現に、秀明は思わず顔を顰(しか)める。しかし昔からあの3人は仲が良くて、響は一才年上のいずみによく懐いていたから仕方ない。恐らく、いずみが響にいろいろ話しかけて気を逸らし、時間を稼ごうという作戦なのだろう。
 秀明が門まで出迎えると、明良はいずみと響を先に車から降ろし、器用に来客用スペースに車を止めた。
「秀明! やっと来れたよ」
「響、良かった!」
 秀明は感激して、響をぎゅうぎゅうと抱き締めた。
「疲れたろう? どこも苦しくない?」
「大丈夫、最近は調子いいんだ」
 響は緊張と疲労から青い顔をしていたが、やっと秀明の家を訪ねることができたという達成感で、とても嬉しそうだった。あの事件から響の行動範囲は歩いて三分の明良の家だけで、後は母親か明良に付き添ってもらって行く病院だけが世界のすべてだった。
「八神さんは?」
 車から降りてきた明良がキョロキョロとした。
「スーパーへ買い物に行ってる。ホワイトシチューを作ってくれるってさ」
「うまくいってるようね」
 いずみが探るような目を向けたので、秀明は極上の笑みを返した。二ヶ月前に、別れる寸前まで行ったなどとは絶対に知られたくない。
 南向きの明るい居間で、明良と響がくつろいでいる間、秀明はいずみに手伝ってもらって、飲み物の用意をした。明良と秀明はコーヒー、響といずみは紅茶だ。
「たくさんいた“お友達”はどうしたの?」
「全部、切れたよ。仁が嫌がるから」
「賢明だわ。彼はとってもお堅いもの。浮気がバレて、ベランダから突き落とされるなんて嫌でしょう?」
 いずみの言葉に、秀明は眉を顰(ひそ)めた。
「それって、アンジェラのことか?」
 仁から聞いた話では、仁はアンジェラを突き落としたのではなく、彼女を止めようと腕を伸ばしただけなのだ。確かに、状況から仁は疑われたが、アンジェラの遺書が発見されて、事件は自殺と断定された。
「ボストンの社交界では有名な話らしいわ。八神さんが、浮気した婚約者を殺したってね。それで彼の養父が、彼を守るために日本に移らせたってわけ。でも、みんな彼には同情してるのよ。だってアンジェラは他の男の子供を妊娠してたんですもの」
「殺人の容疑者が出国できるわけないだろ!」
 秀明はバカにしたように言った。なんだってこう、女は噂好きなのだろう。その無責任な噂が、どれほど仁を傷つけたことか。
「できるわよ。なにしろ彼の養父は、あのダグラス=レーエンなんですもの。ボストンの名門、レーエン家にできないことはないわ」
 いずみが、肩をそびやかして挑戦的に断言する。
「ダグラス=レーエン?」
 秀明はゆっくりとその名を口にした。秀明や叔父・紀時の運命を狂わせた張本人の名前をこんな風に聞くことになろうとは……。仁がアンジェラを殺したなどというバカげた話はどうでもいいが、仁の後に、あのダグラス=レーエンがいるというのは、引っかかった。
「ねえ、ミルクはないの? わたし、お砂糖はいらないけど、ミルクはどうしても欲しいの」
 いずみが冷蔵庫をごそごそかき回しながら尋ねるのを、秀明は上の空で聞いていた。


 三人が帰った後、食器を片づけながら、秀明はそれとなく仁に質問してみた。
「仁の家族って、叔父さんだけ?」
「そうだよ。でも、戸籍上は養父と養父が引き取った兄弟姉妹が五人いる」
「どういうこと?」
「オレの叔父は、生まれて間もないオレを一人で育てる自信がなかったから、オレが自分の事は自分でできるようになるまで、裕福な親友に養子に出して、オレを育ててもらったんだ。で、オレは六才の時、叔父の元に返された」
 仁は、食器を洗いながら、こともなげに話した。
「そんな……犬や猫じゃあるまいし」
「別に何とも思ってないよ。養父は忙しい人で、実際にオレを育ててくれたのは乳母のサリーだったけど、叔父は毎週のように、オレに会いに来て、早く一緒に暮らしたいって耳にタコができるくらい言ってた」
「今、養父だった人とは交流はあるの?」
「叔父を通して少しはね。養父には遊んでもらった記憶もないし、義理の兄弟姉妹達より、ずっと遠い存在だ。兄弟の中では、ピアニストのニコールが一番、仲がいいよ。その次が、ライラとジョーかな。後は、養父の誕生日パーティーで顔を会わせるくらいだ。去年のパーティーの写真があるから見せようか?」
「うん、見たい」
 秀明は、内心の動揺と不安を仁に悟られないよう、にこやかに頷いた。仁が、ダグラス=レーエンの養子だったことは、秀明には大きなショックだった。叔父が殺されるきっかけを作ったダグラスには、二度と係わりたくないと思っていたのだから。



   
       act.39
 自信を付けた響は、頻繁に秀明の所へ遊びに来るようになった。さすがに電車に乗ることはできないが、明良の運転する車でなら、かなりの遠出ができるようになったので、あちこちドライブに連れていってもらっているようだ。
 落ち着いた静かな喫茶店やレストランなら、他人がいても入れるようになったし、歩いて行ける自宅近くの商店街なら、ひとりで買い物に行けるようにもなった。今度は、母親と一緒にデパートに挑戦するのだと、響は明るく話してくれた。
 大学が夏休みに入ると、秀明は頻繁にR&Kソフトの日本支社に出向くようになった。新しいコンピュータ言語で<サモン・スペル>を全く受け付けないオペレーション・システムを開発するプロジェクトにアドバイザーとして参加するのだ。
 仁は、二人で旅行する計画を立てていたが、忙しいからとあっさり却下された。それに比べて、明良と響は、明良の祖父の別荘へ避暑に出かけ、仁を羨ましがらせた。
 仁は諦めきれず「一泊でいいから、京都か奈良へ行こう」と押してみたが、「寺や仏像なんて見たくない。第一、一番暑い時期に行かなくたっていいだろう」と秀明はすげない。
 仁としては、古風な和風旅館で浴衣姿の秀明を抱きたいという下心があったので、つい明良に愚痴ってしまった。明良は少し困った顔をして、それから恥ずかしそうに「冬に温泉に誘えばいいんですよ」とアドバイスしてくれた。
 

 仁が、明良から相談に乗って欲しいと、居酒屋に呼び出されたのは冬の初めだった。余程、切り出しにくい内容らしく、明良は強いカクテルを何杯もあおった。
「明良、そんなに飲んで大丈夫か?」
 明良が酒に強いのは知っているが、五杯目ともなると、さすがに仁も心配になる。
「大丈夫です。医大生ってコンパ多いんですよ。だから嫌でも酒には強くなるんです」
「でも、もう少しつまみを摂らないと、身体に悪いぞ」
「はい……」
 明良はおとなしく煮物をつつきだした。
「で、相談って何なんだ?」
  二杯目のモスコミュールを口に運びながら仁が訊いた。
「実は、その……響とセックスしたいんです」
 仁は、口に含んでいた酒をありったけの意志を振り絞って飲み込んだ。吹き出さなかったのは我ながら立派だと心底思う。
「な、なんで…そんな……。響くんは、その……」
 しどろもどろになりながら、明良を見る。響は幼い頃、誘拐されて性的暴行を受けたのが原因で、酷い神経症に悩まされていた。特に他人との接触がダメで、具合の悪い時は、パニックになったり呼吸困難を起こしたりする。
「夏に…俺達がジイちゃんの別荘へ遊びに行ったのはご存知ですよね?」
 訊かれて仁は、コクコクと頷いた。。明良が真っ赤になりながら説明してくれた話によると、真夜中に寝付けないと言って響が明良のベットに潜り込み、明良が我慢しきれなくなってペッティングまでいってしまったらしい。それ以来、二人は時々、肌を重ねるのだが、明良は響を傷つけるのが怖くて、最後までできないのだという。
「俺、響に痛い思いをさせたくなくてできないんです。だけど、響がクリスマスまでに勉強しとけって……」
 もじもじと巨体をちぢ込ませて、明良は消え入りそうな声で言った。
「もしかして、オレにやり方を教えろって言うのか?」
 仁は、唖然として視線を彷徨わせ、グラスの酒をあおった。
「おまえなぁ、仮にも医大生だろ。そんなこと、自分で調べろよ」
 仁が逃げ腰であることに気づき、明良は縋るような目で仁を見つめたきた。
「だって、秀明とヤリまくってるんでしょう!?」
 仁がたじろぐほどの気迫で明良は詰め寄る。秀明が多忙で、そんな“ヤリまくる”なんてほど回数はこなしてないっ!! と仁は反論したかったが、ぐっと堪え、
「オレに訊くなっ! 秀明に訊けよっ!!」と叫んだ。
「絞め殺されるから嫌ですっ!!」
 明良も負けじと叫んだ。周りの客が怪訝そうに二人をチラチラと見る。
 二人は無言で見つめ合った。長い沈黙の後、明良が打開策を思いついて勝ち誇ったように言った。
「わかりました。四人で温泉に行きましょう! 響が誘えば秀明は絶対、うんと言います。浴衣でエッチ、してみたかったんでしょう? だから、教えて下さい!」
 仁は、ごくりと唾を飲み込んだ。


 クリスマスの昼食に招かれて、仁は秀明と一緒に、秀明の実家を訪ねた。毎度のことで、両親は留守だったが、“風邪気味で熱っぽい”とかで、響はベットに横になっていた。
 何も知らない秀明は、医者を呼ぼうと大騒ぎしたが、響がたいしたことないと言い張るので諦めた。響に無理強いは禁物なのだ。
 おそらくパジャマの下はキスマークだらけなのだろうと予想した仁は、隙を見て出来の悪い生徒の脛を思い切り蹴飛ばしてやった。


 二月の寒い朝、週末の恒例で金曜の夜から仁の家に泊まっていた秀明は、その時まだ夢の中だった。ドアホンの音で目を覚ますと、隣で眠っていたはずの仁はいつの間にか消えていた。階下のキッチンで物音がしないところをみると、ジュリエットの散歩に出かけたらしい。
 鳴りやまないドアホンにイライラしながら、秀明はジーパンを履いた。ベットサイドにあった仁のコーデュロイのシャツを羽織り、ボタンも留めないまま、玄関へと走る。ドアを開けた秀明は、そこにいた人物に絶句した。
 彼に会ったのは、叔父の葬儀で一度きりだし、それも五年も前のことだが、その顔を忘れることなどできなかった。そして彼は、五年前と少しも変わっていなかった。
 パリッと軍服を着込んだ身長178Cmの身体は、うっすらと筋肉が付いているにもかかわらず、ほっそりとした印象を与える。とうに40を越しているはずなのに、どう見ても20代後半にしか見えない若々しさだ。
「おはよう。仁はまだ寝てるのかい?」
 彼、ダクラス=レーエンは、流暢な日本語でそう言った。秀明は、はだけたままのシャツの前を掻き合わせながら後退る。
「怖がらなくてもいいよ。大きくなったね、秀明くん」



          act.40
 仁が、ジュリエットの散歩を終えて帰宅すると、星条旗を付けた黒塗りの車が三台、家の前に停まっていた。玄関には軍服の兵士が二名警護についている。仁は、養父の訪問を知って驚愕した。
 家に入ると、リビングで秀明と養父のダグラスが向かい合って座っていた。秀明は端から見てもはっきりわかるほど緊張している。養父の後には護衛兵が二名、掃き出し窓の外に二名、おそらく裏口にも二名いるのだろう。
「お義父さん、どうしたんです?」
「クリスマスにも新年にも帰ってこない息子が心配になったんだよ」
 ダグラスは微かに苦笑した。成熟した年令に相応しい落ち着きと自信に満ちた態度。そして朝の光を浴びてキラキラと輝くプラチナ・ブロンドと深い緑の瞳は、貴族のような気品があった。優雅に組まれた両手は、軍人なのに銃やナイフなど持ったことないような清らかさだ。
 秀明は、そのダグラスを睨み付けるようにして、むっつりと不機嫌に座っていた。
「すみません、研究の方が忙しくて……」
 仁は、叱られた子供のように気後れした様子で謝った。本当は、秀明を一人にするのが怖くて、帰国できなかったのだが。
「近いうちに時間を作って、海流(かいる)に顔を見せなさい」
「はい」
 海流というのは、仁を育ててくれた叔父の名前だ。
「私はこれから会議があるので帰るが、夜は時間が取れるから、一緒に食事をしよう。秀明くんも一緒にどうだい?」
 ダグラスは、知的で洗練された笑顔を浮かべて訊いた。
「いえ、俺は先約があるので」
 予定など何もなかったが、秀明はダグラスの誘いをすげなく断った。
「秀明、今からなら断れるだろう?」
 仁が窘(たしな)めるように言う。
「無理だよ」
 秀明は頑なに拒絶した。金輪際会いたくないと思っていた男を前に、秀明の怒りは頂点に達していた。口汚い罵りの言葉を際限なく吐き出しそうなのを、仁の養父だからと必死で自制しているのに、一緒に食事などもっての外だった。
「申し訳ありません。オレだけ伺います」
 仁がしょんぼりと謝るのを、秀明は冷たく睨み付けてやった。
「十九時に迎えを寄越すから、支度していなさい」
 尊大に言い放つダグラスの口元は、秀明の内面の葛藤を見透かすかのように楽しそうに笑っていた。


 秀明の機嫌があまりにも悪いので、仁は途方に暮れていた。秀明は普段、仁に対して滅多なことでは怒らないが、一旦、こんな風に怒って自分の殻に閉じこもってしまうと、お手上げだった。
「どうしたんだよ、秀明。急に養父が来て驚ろかせちゃったけど、そんなに怒ることないだろ? それともオレが勝手に今夜の予定を変えたから拗ねてるのか?」
 椅子に座る秀明の前に跪いて、一生懸命に機嫌を取ろうとしている仁がいじらしくて、秀明はようやく事情を説明する気になった。
「仁のせいじゃないよ。俺が怒ってるのはダグラス=レーエンに対してなんだから。でもそれは、見当違いの怒りだってこともわかってる」
「どういうことだ?」
「叔父に<サモン・スペル>の開発を依頼したのは彼なんだ。彼が叔父を危険の中に引き込んだ。そして叔父は殺された。憎むべきは、叔父を殺して<サモン・スペル>を奪った犯人達で、彼じゃない。でも、俺はうまく割り切れないんだ。彼さえ現れなれば、叔父と二人、あのまま静かに暮らしていけたんじゃないかと考えてしまう……」
「そうしたら、オレとも出会えなかった」
 秀明は、静かに仁を見つめた。様々な感情がひしめき合う黒曜石の瞳は、この世のものとは思えないほど美しかった。
「叔父を…愛してた。母親に殺されかけ、父親に見捨てられた俺を引き取ってくれた。誰よりも俺を愛し慈しんで育ててくれた。俺には彼がすべてだった。俺から叔父を奪ったすべてが憎いよ」
「秀明、オレ達は出会って、今ここにいる。過去に捕らわれるのは止めよう。目の前の幸せをもっと大切にしよう!」
 仁は秀明を抱き寄せて、優しく頭を撫でてやった。
「仁…愛してる」
 仁の甘い抱擁に身を委ねながら、秀明は淋しそうに呟いた。それは仁に告げるためでなく、自分自身に言い聞かせているような、そんなもの悲しさがあった。
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