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BLANCHE 更新案内と目次   BLANCHE 小説目次   BLANCHE 掲示板 ネタバレOK どこのリンクから来たか教えてね

オーバードライブ(第一部)     月桜可南子
        act.
 江口が、先輩の山本に連れられて現場に着いたのは、朝八時だった。遅番で、昨夜から警護についていた仲間のSP(要人警護にあたる警察官)と簡単な引継ぎをして、車の中で待つこと二時間。新興住宅地の、ありふれた家の門から出てきた少年は、デイバッグを背負い、ノートパソコンを小脇に抱えていた。
 今時の少年にしては珍しく、髪は染めておらず真っ黒のままで、前髪が少し長い程度。電脳オタクというだけあって、陽に当たらない肌は抜けるように白かった。
 助手席にいた山本が、江口に「降りろ」と短く言うと、車から出て少年に声を掛ける。
「おはよう、秀明くん。今日付けで君の警護を担当することになった江口を紹介するよ」
 それを聞いて、門を閉めていた少年がゆっくりと振り向いた。きれいな二重の切れ長の目が、つまらなさそうに山本に向けられる。
 近くで見ると“頭が良すぎて色情狂”と噂されるその少年は、驚くほど清楚な顔立ちをしていた。おまけに見事な八頭身で、IQ190の頭脳が納まっているのが不思議なくらい頭が小さい。そして、身長が167Cmにもかかわらず、小柄な印象を受けないのは、その独特な存在感ゆえだろう。
「こいつが江口貴文(えぐち・たかふみ)だ。江口、彼が君の担当する佐藤秀明(さとう・ひであき)くんだ」
 黒目がちな瞳が、ちらりと江口を一瞥する。しかしそれ以上は何の関心も示さず、山本に尋ねた。
「前田さんは?」
「彼は君の担当を外れたんだ」
「僕と寝たから?」
 秀明の顔が、わずかに曇った。
 そう、江口の前任者の前田は、まだ十七歳の秀明と関係していたのがバレて地方へ飛ばされたのだ。
 資料によると、この恐ろしく身持ちの悪い少年は、家庭教師に始まって、学校の先輩、教師、果ては暴力団組長の息子まで、気に入った男には片端から身を任せている。むろんSPも例外ではない。前田の他にも片手に余るSPが飛ばされていた。
 山本は言いづらそうに、秀明から視線を外して呟いた。
「奴はルールを破った」
「それで僕の嫌いな高慢そうなタイプに替えたんだ」
 咎めるような、皮肉るような、秀明の口調。
「まさか! 江口はきっと君の良い相談相手になってくれるよ」
 山本が救いを求めるように、江口を秀明の方へ押しやる。実のところ江口は、心理学を専攻していたことから、秀明の担当として選ばれたのだ。
 秀明の性癖に気づいて青くなった政府の高官達は、秀明に倫理や貞操を教えられる者を側に置こうと考えた。国家の財産である希有な頭脳を、エイズや変質者に奪われるわけにはいかないからだ。しかし、病的な淫乱さを持つ少年を躾けるのは、かなりの困難が予想されて、江口は憂鬱だった。
「よろしく、仲良くやろう!」
 満面の笑顔で差し出した江口の大きな手を 秀明はお義理で握り返したが、その顔は見事なポーカーフェイスで、何の感情も読み取れなかった。



        act.2
 山本と江口は、午前の研修講義が終わるぎりぎりに、特別講師役の秀明を研修会場に送り届けることができた。山本は室内で、江口は入口でそれぞれ警護に当たる。もう十月だというのに蒸し暑くて、江口は誰もいないのをいいことに、ネクタイを緩めていた。
「二年前、アメリカ国防省はサイバー戦に備えて、相手のシステムの主導権を奪い、システムを自由に操れる<サモン・スペル>を開発しました。これは、敵の攻撃からシステムを護る防御能力と、敵のシステムを攻撃する破壊能力を併せ持つソフトです。しかし、ソフトは盗まれ、武器商人からテロリストや犯罪組織の手に渡りました」
 ここ、東京都中野区にある情報通信センターでは、厳しい選考の末に選ばれた三十人の警察官が、緊張した面持ちで講師の話を聞いている。彼らの前で、淀みなく話しているのは、まだ幼さの残る少年だった。
 佐藤秀明、十七歳。<サモン・スペル>の第一人者だ。このソフトは、今は亡き、彼の叔父が開発したものだった。
「防御、破壊、回復、命令、攻撃の機能を持つ、『スペル』と『クリーチャー』から成り立つこのソフトは、それを扱う者の才覚によって発揮できる能力が変化します。重要なのはコンピュータの知識より、判断力、決断力、機転、駆け引きといった戦略的頭脳です」
 山本と江口は、午前の研修講義が終わるぎりぎりに、特別講師役の秀明を研修会場に送り届けることができた。山本は室内で、江口は入口でそれぞれ警護に当たる。もう十月だというのに蒸し暑くて、江口は誰もいないのをいいことに、ネクタイを緩めていた。
「皆さんは厳しい適正テストと面接をくぐり抜けて選ばれた精鋭です。その誇りと自覚を持って研修に励んで下さい」
 簡単に初日の挨拶を終えた秀明が、助手の古田にマイクを渡すと、会議室からこっそり出てきた。どうやら後の講義は古田に押しつけて、トンズラするつもりらしい。
「秀明くん、どこへ行くんだね? 講義は夕方までだろう?」
 お目付役の山本が、やんわりと窘める。
「野暮用なんだ」
 秀明は悪びれた様子もなく、ケロリとしている。
「送るよ。どこへ行くんだい?」
 山本の方も慣れたもので、無理に止めようとはしない。秀明が反発して、自分達SPの目の届かない所へ行かれる方が危険だからだ。
「迎えが来るからいい。ちゃんと夜までには自宅に戻るし」
 暗に付いてくるなと言っているのだが、そうはいかない。おそらく行き先は高木の所だなと、山本は踏んだ。
 秀明の情人の中で、警視庁の上部が一番頭を痛めていたのは、高木隆平(たかぎ・りゅうへい)という、ヤクザの跡取り息子だった。秀明が、抗争に巻き込まれたり、高木から病気に感染させらたり、危ない薬を使われたりするとマズイからだ。
 何とかしてくれと、山本はペアを組んだばかりの江口を振り返った。江口は軽く肩を竦めて見せただけで何も言わない。
「江口!」 
 焦れたように山本が呼んだので仕方なく、江口は秀明に歩み寄った。秀明が、文句があるなら言ってみろ、とばかりに江口を睨む。
「秀明くん、“自由恋愛”に口を出すような無粋な真似はしたくないんだが」
 江口は苦笑しながら、声のトーンを落とす。
「ちゃんと、ゴムを使うんだぞ? もちろん変なクスリも使わないこと」
 秀明は驚いて、一瞬、江口を凝視し、それからにっこりと微笑んだ。
「わかってるよ。僕は、二年前までアメリカにいたから、セーフティ・セックスは常識。それに、隆平はセックス・フレンドの中では一番ノーマルで、クスリも道具も使わない」
 傍らで聞いていた山本が絶句しているのを横目に、秀明は身を翻して、開いたエレベーターの中へと消えた。



        act.3
 高木隆平は、糖尿病で入院している父親を見舞うため、車で病院へ向かっていた。プライベートで使っている携帯が鳴ったのは、病院まであと五分の所まで来た時だ。
「隆平、会いたいんだ」
 それは付き合って、まだ三ヶ月の佐藤秀明からだった。気まぐれで、わがままな恋人はいつも、こちらの都合などお構いなしで誘ってくる。
「今、どこだ? すぐ迎えに行ってやる」
 誘いを断れば、秀明は間違いなく他の男に電話する。幼い情人は貞操観念をカケラも持ち合わせていないのだ。むしろ、一番最初に誘いの電話を掛ける相手が自分であることを喜ぶべきだった。
 高木は、運転手に行き先を変更して中野へ向かうよう告げた。


 最初、秀明は高木の弟の恋人だった。本宅で、母親と一緒に暮らしている高校生の弟が、同性の恋人を連れ込むのは、さすがに気が引けたらしく、一人暮らしをしている高木のマンションへ秀明を連れ込んだのだ。
 高木が、マンションに帰った時、ちょうど弟はコンビニへ出かけていて、秀明がシャワーを終えて出てきた所にかち合ってしまった。あどけなさを醸し出す、少し目尻の下がった切れ長の目と、キスなど知らないような桜色の唇に誘われるまま、高木は夢中で秀明の身体を開いた。
 秀明の端正な顔立ちは、セックスとは無縁の存在のように楚々とした印象を与える。それなのに一端、身体に火が付くと、壮絶な色香を漂わせるのだ。
 そのギャップに、高木は夢中になった。三十年近く生きてきて、人一倍、情事の経験を積んできた高木だったが、これほどまでに惹きつけられた相手は初めてだった。
 弟から奪うように秀明を自分の情人にしたが、気まぐれな恋人を独占する事はできなかった。秀明は、何の罪悪感もなく、次々と気に入った男に身を任せるのだ。
 だからといって、監禁して薬漬にし、自分に縛り付けておくこともできない。秀明には、二十四時間体制でSPが付いていて、一度でも手をあげようものなら、二度と会うことはできなくなるだろう。
 

 シャワーを浴びて寝室に戻ると、秀明は眠り込んでいた。午後から休むことなく貪り合い、何度果てたか記憶にないほどだから、疲れるのも無理はない。
 時計を見ると、すでに夕方六時近かった。秀明が「今日は夕食までに帰らなくてはいけない」と言っていたのを思い出し、起こすことにする。
「秀明、もうすぐ六時だぞ。そろそろ起きないと」
 秀明の父親はカメラマンで、撮影やロケで世界中を飛び回っている。今日はその父親が二週間ぶりにグアムから帰って来るのだ。
「ん、……もう少し…寝かせて」
 秀明が、ぐずるような幼いしぐさで、シーツの中に潜り込む。
「そんなこと言って、後で猛烈に怒るくせに……」
 高木は、右手をそっとシーツの中に潜り込ませて、眠っている秀明のモノをやんわりと扱きだした。
「あ……ヤダ…あッ」
 秀明が切なそうな声で、高木の悪戯に抗議する。
「目が覚めただろ?」
「もう少し、マシな起こし方はないのかよ」
 得意げに笑う高木に、秀明はふて腐れて呟いた。
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        act.4

 秀明が横浜の自宅に戻ったのは、夜七時過ぎだった。
 すでに帰宅していた父親は、ダイニングで秋鯖をつまみに一杯やっている。 キッチンでは、後妻の薫(かおる)と異母兄の響(ひびき)が、楽しそうに料理の盛り付けをしていた。
「お帰りなさい、秀明くん。すぐに夕食にしますから、荷物を置いたら、そのまま降りて来てちょうだいね」
 かつては父の愛人で今は妻の座に納まった薫が話しかけるのをぞんざいに受け流して、秀明は二階に駆け上がった。階段のすぐ右手の部屋が秀明の部屋だ。
 ここは元々、響の部屋だったが、秀明がアメリカから帰国して一緒に住むと知った響が、日当たりの良いこの部屋を空け渡してくれた。
 ノートパソコンと携帯電話を充電器に繋いでいると、響がドアの隙間から顔を出した。
「お帰り、秀明。ちゃんと約束、覚えててくれたんだ」
 嬉しそうに笑う響は、秀明より三ヶ月年上だが、華やかな可愛らしい顔をしているので、兄というより弟に見える。母親が、イタリア人とのハーフであるため、響も色素が薄くて、髪も瞳もきれいな紅茶色だった。
 響が、父親の帰る日は久しぶりに家族揃って夕食を食べたい、と秀明に頼んだのは三日前のことだ。秀明は、捨てられた子犬のような瞳で訴える響を哀れに感じて、願いを聞いてやることにしたのだった。
 二人揃ってダイニングへ降りると、父親と薫が仲良く酒を酌み交わしていた。秀明の顔を見た途端、薫がさっと父親の側を離れる。
 彼女は、頭が良過ぎて何を考えているのかわからない継子が苦手だった。怯えているとさえ言っていい。しかし気丈な薫は、精一杯の虚勢を張って、秀明と対等であろうとしていた。
「秀明、研究の方は大変なのか? 泊まり込むことが多いそうだが?」
 秀明は、自衛隊の厚木基地にある、技術開発研究室の一部屋をラボとして与えられていた。特殊なコーティングがされた部屋は、盗聴や傍受の心配がなく、電磁波や赤外線をシャットアウトし、開発プログラムの漏洩を防ぎやすいからだ。
「順調だよ。夜の方が冴えるから、つい明け方までやっちゃうんだ」
 これは、半分は嘘だった。開発は順調だが、外泊の大半が男とホテルに泊まったためとは、ちょっと言えない。
 父親は、秀明が七歳の時、家庭を捨てて愛人の薫の元に走った。おまけに母親が死んだ時、秀明を引取ることを躊躇ったのだ。そのことについて秀明が、ただの一度も詰ったりしなかったからこそ、親子の関係は他人行儀ではあるが、ごく普通に会話ができる。父親も、それがわかっているから、秀明に対していつも寛容だった。
 秀明が、ゲイだとカミングアウトした時ですら、「おまえの人生だから、自由に生きなさい」と言っただけで終わった。例えそれが『寛容』という名の無関心であったとしても、男を渡り歩いているのがバレたら、父親は傷つくだろう。だから秀明は、父親の前では真面目なフリをすることにしていた。
 家族揃っての食事が始まると、秀明と継母の薫との間に、緊張した空気が流れる。母をあれほどまでに苦しめた薫と、仲良くなれと言う方が無理な話だ。二人を前にした父親も気まずそうにしている。
 それを取り繕うため、響が熱心に馬鹿話をしたり、皆に話題を振ったりする。こんなに疲れる『団欒』をなぜ響が大切にするのか、秀明には理解できなかった。



        act.5

 オタク少年のご多分に漏れず、秀明も朝に弱い。いつも明け方に眠り、昼近くに起きるという生活だ。今週は研修の講師役を頼まれているため、朝八時に家を出ないと、講義の開始に間に合わないのだが、なぜか家を出るのは九時過ぎだ。本人は頑張って早起きしているつもりらしいが……。
「ひょっとして朝のラッシュを避けてるつもりか?」
 ハンドルを握る江口が、車の後部座席で眠そうな顔をしている秀明に皮肉った。
「質問時間以外は、古田さんがやってくれるから大丈夫」
 秀明は少しムッとした顔で江口を睨んだ。 
 半年前、秀明自らが助手として東工大の大学院から引き抜いたというだけあって、古田は優秀でそつがない。中肉中背で、少し情けない感じのする男だが、とにかく性格が良い。いつもニコニコと愛想が良く、正に善良を絵に描いたようなタイプだった。
 おまけに秀明を崇拝していて、秀明のどんな我が儘も、嫌な顔ひとつしないで聞き入れるため、陰では『便利くん』とあだ名されている。
 秀明は、古田のことをかなり気に入っていた。年が近いので、親近感が沸くのだろう。
 考えてみると、秀明の周りは、異母兄の響を除いて、大人ばかりだった。そんな中で、一番年が近い古田でさえ六歳も年上で、江口はその次ぐらいで八歳年上だ。不思議なことに、秀明が次々にひっかける男達は、年が近いほど長続きしない。それに年の近い友達はいないようだ。
「ねえ、江口さんて、彼女はいるの?」
 江口が考え込んでいると、秀明が身を乗り出すようにして訊いてきた。
「いるぜ。俺が就職で上京したから、今は遠距離恋愛してる」
 江口は、自慢げに答えた。
「今頃、他の男と遊んでるんじゃない?」
「誰かさんと違って、貞淑な女なんだ」
「それって嫌み? そりゃ僕は箱入り娘と違って、誰といつどこで何回ヤったかなんて憶えてないけどさ」
 秀明から冷ややかな怒りのオーラが放たれていた。秀明の隣に座っていた山本が、恐怖に身を退く。下手に口を出すと、毒舌のナイフでズタズタに切り裂かれそうだったので、山本は必死で聞こえないフリをしていた。   


 秀明はその夜、歌舞伎町で、見るからに遊び人風の優男を引っかけて、近くのホテルにシケ込んだ。山本も江口も時間がきたので遅番の者と交代したが、気になって帰ることができず、ホテル近くの薄汚いバーで飲んでいた。
 江口が二杯目の水割りに口を付けた時、山本の携帯が鳴った。
「今、部屋にチンピラが三人、入っていったそうだ。奴ら、秀明くんを輪姦するつもりじゃないかと……」
 最後まで聞かずに江口は立ち上がっていた。
 江口が駆けつけると、ホテルの下では仲間のSP二人が、どうしたものかと心配そうにホテルを見上げていた。その目の前で、突然、ガシャーンと派手な音を立てて割れた窓ガラスが降ってくる。驚いて後退った二人に、江口が怒鳴りつけた。
「何してる! 行くぞ!!」
 江口が部屋に飛び込んだ時、秀明は全裸で男達に押さえつけられていた。


 秀明は顔と腹部を数カ所殴られており、検査のため病院へ連れて行こうとしたが、嫌だと言い張って聞かなかった。自宅にも帰りたくないから、どこかホテルを取ってくれと言う。どうやら秀明にとって家族と暮らす自宅は、傷ついた心や身体を癒せる場所ではないようだ。
「ダメなら、隆平のところに行く」
 その一言で、山本が天を仰いだ。
「なら、俺のアパートに来い」
 江口の言葉に、秀明はひどく驚いた顔をした。七三にきっちり分けられた髪が堅物の印象を与える江口の顔をじっと凝視する。
「一人暮らしだから遠慮しなくていいぞ」
 江口の声は、いつになく優しい。秀明は暫く考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。



        act.6
 1DKのアパートは、狭いがきれいに整えられていた。初めて訪れたというのに、なんとなくホッとできる空間だ。ベッドの枕元にお約束のように置かれた、江口と彼女の写真も嫌みなく、むしろそれが微笑ましく感じてしまうほどだった。
 江口が、ミニテーブルを片づけて敷いてくれた布団に横たわりながら、秀明は光量を絞り込んだナイトランプをぼんやりと眺める。自己嫌悪で落ち込んでいて、いつの間にか秀明は大きな溜息をついていた。
「眠れないのか? 睡眠薬代わりにウイスキーでも飲むか?」
 隣のベッドで横になっていた江口が訊いてきた。
「ホットミルクの方がいいな」
「そうだな」
 江口は起きあがってキッチンへ行くと、電子レンジで牛乳を温めて持って来た。秀明は少し熱めの牛乳をゆっくりと飲む。それを見守る江口の瞳が、いつもの皮肉屋の彼とは別人のように優しくて、涙が零れそうになった。
 今夜のことは、おぞましくて最低だったが、最悪というほどではない。きっと明日の朝になれば忘れてしまえる。秀明はそう信じて目を閉じた。


 翌日になると殴られた左頬は、ますます腫れ上がって悲惨だった。江口に起こされて、珍しくすんなりと起きた秀明だったが、鏡で腫れ上がった顔を見て再び布団の中に潜り込んでしまった。
「こんなんじゃ、外に出られない」
 蓑虫のように毛布にくるまって泣き言を言う。
「殴られたんだから、腫れるのは当たり前だ」
「こんなに腫れるほど殴られたことない」
 力ずくで輪姦されそうになったことよりも、顔が腫れ上がったことの方が、秀明にはショックらしい。
「冷やせば良くなるさ」
 江口は呆れながら、アイスノンを手渡してやった。
 当然のように、秀明は講義には行かなかった。そのまま、ふて寝して布団から顔も出さない。
 山本が江口を気遣って、秀明に自宅に戻るか、きちんとしたホテルに移ることを勧めたが、秀明は腫れが引くまで外に出たくないと言い張って、江口のアパートに居座りを決め込んだ。
 仕方なく、江口は自分のベッドに腰掛けて新聞を読んだり本を読んだりして過ごした。六畳の部屋は、ベッドの他に布団を敷いたら狭くて足の踏み場もないのだ。
「僕のこと、軽蔑してるだろ」
 眠っていると思っていた秀明が、不意に話しかけてきた。布団に潜り込んでいるので顔は見えないが、相当落ち込んでいるようだ。
「昨夜のことを考えるとNOとは言い切れないな。君はあまり利口じゃないようだ。見ず知らずの相手に付いていくのが、どんなに危険なことかわからない年齢じゃないだろう?」
「僕がバカだって言うのか!? たまには4Pもいいかなって思ったんだっ!」
「あんなに殴られて、合意の上だったとでも言うのか? 窓を割ったのは、外にいる俺達に助けて欲しかったからだろう?」
 苦言を呈しながらも江口の声は、とても優しい。
「僕は…いつだって、ただ…優しく……抱きしめて欲しいだけ……」
 泣いているのか、後は言葉にならなかった。江口は慰めの言葉が見つからず、「元気になるまで、好きなだけここにいていいから」と言ってやった。
 結局、秀明は四日間居座り、まだ青痣が残っているものの腫れが引くと、元気を取り戻して自宅に戻った。山本や江口達は、秀明が腹部を殴られていたため、内臓への損傷を心配していたが、それは杞憂に終わって、皆が胸を撫で下ろした。



        act.7
「どーしたんだよ、その顔っ!?」
 秀明を見て、異母兄の響が仰天した。「喧嘩した。誰も通すなよ」とだけ答えて秀明は自室に引き籠もる。響は、送って来た江口に説明を求めて、縋るように見た。
 この少年は秀明と同い年だが、顔の造りが少女のように可愛らしくて華やかだ。柔らかな栗色の髪と茶色の瞳からは、子犬のような印象を受ける。凛とした怜悧な静謐さを持つ秀明と比べると、どうしても幼く見えてしまった。
「チンピラに絡まれて殴られたんだが、大丈夫だよ、見かけほど大したことはないから」
 安心させようと微笑んだ江口に、響はパァッと光が射すような安堵の笑顔を浮かべた。江口はそれを見て、秀明とは本当に対照的だなとしみじみ思う。秀明はツンと取り澄まして、感情をほとんど顔に出さないのだ。
「江口さんでしたよね? 秀明がお世話になりました」
 響が、ペコリと幼い仕草で頭を下げた。
「いえ、仕事ですから」
「でも、あなたの所に泊めていただいてたんでしょう? 山本さんが秀明の着替えを取りにいらした時、そう言ってみえましたから。我が儘を言って困らせませんでしたか? 秀明はこの家で、いろんなことを我慢しているから、その反動で外に出ると我が儘になるんです」
「このところ寝不足だったんでしょう。秀明くんは、ほとんど眠ってましたよ。我が儘を言う暇もないくらいにね」
 響は、江口の言葉に自分に対する思いやりを感じ取って、はにかんだような表情を浮かべた。ぎゅと抱きしめてやりたくなるような可愛らしさだ。
 秀明もこれ位、素直で可愛ければ、皆に愛されるのにと考える。周りの大人達を醒めた冷ややかな目で見る秀明は、排他的で屈折していて、可愛らしさや素直さからは程遠かった。
 おまけに蠱惑的な切れ長の瞳は扇情的で、むしろ苛めてみたい、泣かせてみたいといった加虐心をそそる。秀明が求めているのは、その反対の庇護や愛情であるのに……。
 佐藤家を辞して表に出ると、ちょうど古田が見舞いにやってきたところにかち合った。手には豪勢な花束と、ケーキらしい箱を抱えている。
「面会謝絶だぜ」
 江口がからかうと、古田は「仕事の報告に来たんです」とうそぶいた。案の定、玄関で響と押し問答した挙げ句、残念そうに見舞いの品を響にあつらえると、とぼとぼ帰っていった。


 秀明は痣が消えるまで、自室に籠城を決め込んでいたが、さすがに研修の最終日は欠席するわけにはいかなかった。しかし講義に参加するわけでもなく、後方の空いている席に座って退屈そうに研修生を眺めているだけだ。
 まだうっすらと左頬に残る青痣に、研修生の何人かがあからさまな好奇心や同情を向けたのが、秀明の癇に障ったようだ。不機嫌そうに手元の資料を弄んでいる。
「<サモン・スペル>には、『核(コア)』と呼ばれる解読不明の部分があり、これを解くことが今、最も重要視され、多くの研究者達が取り組んでいます。『核』が解読できれば、アンチ・サモンスペルソフトが開発できるからです」
 古田は、本当に熱心に講義をしている。
「古田のような奴を恋人にしてくれると、俺達も安心なんだけどなぁ」
 山本が煙草を揉み消しながらボヤいた。江口は思わず苦笑してしまった。江口も同じことを秀明に提言したのだ。
 江口の部屋に泊まっている時、ゆっくり話す時間があったので、「古田のように勤労実直な男を恋人にしろ」と言ったら、秀明は大笑いした。いわく、「ノンケの童貞くんに手を出すほど餓えてない」だそうだ。
 先日の事件を機会に、高木とも別れてくれるといいと思ったが、こちらはまだ続いているようだ。何回か携帯で話しているのを見かけた。高木が逆上するとマズイので、痣が消えるまで逢わないが、別れる気は全くないようだ。



        act.8
 最初に異変に気づいたのは山本だった。まだ十月の中旬だというのにトレンチコートを着た二十代の男が、ゆっくりと廊下を歩いてくるのが視界に入った。手はポケットに入れたままで、能面のように表情のない顔をしている。
 この階には関係者しか入れないようパスが発行され、エレベーター前にゲートが設けられている。カードリーダーにパスを通さないと、ゲートが開かない仕組みだ。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
 山本が声をかけると、男の手がさっと動いた。
「銃を持ってるぞ!!」
 山本が大声で叫んだ瞬間、一発目の銃声が鳴り響いた。弾は山本の右肩を打ち砕き、山本がよろめいた。江口は、廊下に置かれた長椅子の陰に伏せながら震える手で銃を抜く。むろん人間に向けて撃ったことなど一度もない。必死で男に狙いをつけて撃ったが全部外れてしまった。
 それでも、男の注意を江口に向けておくには充分だった。その隙に山本が、後ろのドアから室内に駆け込んで、秀明を懐に抱き込むようにして前へと逃げた。
 男は、江口の銃創が空になったのを知ると室内に乱入した。室内が、逃げまどう者達で騒然となる。
 男を追って室内に飛び込んだ江口は、銃を乱射する男に後ろから飛びかかった。研修生達は、床に伏せたまま恐怖で誰も動けない。他の部屋から応援が駆けつけるまで、あとどのくらいかかるのだろう……。
 江口と揉み合いながらも、男の銃が秀明のいる方向に何発も乱射された。だが距離がある上、不安定な体勢で撃つため、どれも当たらない。焦れた男は江口に銃を向けた。やばい――と思った。こんな至近距離で撃たれたら命はない。全身が死の恐怖に凍りついた。 
 その時、パンという破裂音がして、銃弾が男を掠めた。男が秀明の方を振り返る。秀明が山本の銃を構えていた。再びパンという音がすると、男の胸から血が噴き出した。最後の力を振り絞って男が、秀明に銃を向ける。江口は我に返って、男に体当たりした。ゴンッという、床に頭を打ち付ける鈍い音がして、江口が顔を上げると、男はすでに意識を失っていた。


 山本は、最初に右肩を一発、秀明を庇って背中を一発撃たれて重傷だったが、幸い命に別状はないということだった。むろん秀明に怪我はない。ただ、精神的に参っているので念のため一晩、入院して様子を見ることになった。
 秀明が撃った男は、一時は危険な状態だったが持ち直した。他、流れ弾に当たった研修生が、五人重軽傷を負っていたが、こちらも命に別状はないとのことだった。
 江口も、あちこち殴られて裂傷と内出血だらけだったが、検査の結果、入院の必要はないと診断された。お陰で事情聴取や上部への報告などに追われて、休む暇もなく、ようやく解放されたのは明け方近かった。
 鏡に写った顔を見て、江口は「秀明より、よっぽど酷いじゃないか。俺も部屋に閉じこもりたいぜ」と愚痴ると、シャワーも浴びずにベッドへ潜り込んだ。


 一方、入院した秀明は、ずっと嘔吐していた。身体中の力が抜けてうまく立っていられない。血の匂いが、目の前で叔父が殺された時の記憶を呼び覚ました。あの時の衝撃、恐怖、怒り、哀しみ、喪失感といった激しい感情が鮮明に甦り、胃の中のものを全部吐いても、吐き気が納まらずに苦しんだ。
 医者が、身体を休めるため睡眠薬を処方してくれたが、秀明は拒否した。嫌な予感がしたからだ。案の定、真夜中の午前一時過ぎに“迎え”が来た。何者かが自衛隊の防衛システムに<サモン・スペル>で攻撃をしかけて来ているという。
 防衛庁に到着すると、すでに古田が<サモン・スペル>で応戦していた。しかし、システムのライフ・カウンターは5を切っており、かなりまずい状況だった。秀明は溜息をつくと古田に歩み寄った。
「状況は?」
「すみません。俺一人でやれると思ったんですが……」
 古田が緊張にうわずった声で謝った。



        act.9
「敵のライフは7、こちらが4、敵のクリーチャーは、レッド・ドラゴンとナイトメア、こちらは、ユニコーンとウルフです」
「北極の白熊を召喚、ユニコーンでナイトメアを攻撃。レッド・ドラゴンの攻撃は赤の防御円で防ぐ」
 慌てた様子もなく、秀明は古田のデッキの中を確認しながら淡々と指示を出していく。
「茨の壁で時間を稼いで、その間に純白の秘薬を使って、ライフを回復させよう」
「ファイヤーボールです!!」
 古田が悲鳴をあげた。
「大丈夫、ウルフで止めるんだ」
「は、はいっ!」
 半泣きで古田は、コンソールを操作する。この状況で落ち着いていられる秀明が不思議だった。皆、固唾を飲んで二人を見守っている。やがてこちらのライフが3ポイント回復すると歓声が上がった。
「白騎士を召喚、ユニコーンでシステムを攻撃」
 秀明は、的確な判断力と大胆な決断力で、じわじわと敵を追いつめていく。
「北極の白熊で敵のレッド・ドラゴンに応戦します」
 古田も少しずつ冷静さを取り戻していた。


 ガラス張りの司令室で、その様子を見ていた熟年の男が、椅子から立ち上がった。190Cm近くあるがっしりとした精悍な男で、身に着けているのは自衛隊幕僚本部の上級将校の制服だ。猛獣を思わせる野性味のある相貌は、ヤクザのような凄みがあったが、決して粗野な印象は受けない。
「勝負は見えたな。私は先に休ませてもらう。終わったら、お姫様と下僕に何か食事を差し上げろ」
 男は、唇の端を僅かに上げただけの傲慢そうな笑いを浮かべた。
「かしこまりました。手配しておきます」
 ここの責任者と思われる男が、神妙な顔で敬礼する。男は、軽くそれに応えて礼を返すと、部下を引き連れて司令室を後にした。  
 

 半休をもらっておいたので、江口は昼近くにようやく起きて登庁した。自分のデスクで黙々と報告書を書き上げていると、仲間のSPから、秀明が昼前に退院したと報告を受けた。PTSD(精神的トラウマ)を心配した父親が、カウンセラーに診せようとしたことに激怒して一悶着あったらしい。
 江口は定時で退庁して、山本の見舞いに行った後、秀明の家に行くことにした。考えてみれば、あのどさくさで助けてもらった礼も言っていなかった。
 通されたリビングでコーヒーを飲みながら待っていると、秀明がパジャマにカーディガンを羽織って現れた。
 冴え冴えとした月光のような美貌は、触れれば身を切られそうな冷徹さを醸し出している。そんな不機嫌この上ない秀明に、江口は圧倒された。
「寝てたのか?」
「真夜中に攻撃があって、明け方まで付き合わされたんだ」
 秀明は、最終的に相手のシステムをクラッシュするところまでやってのけた。クラッシュしてしまえば、再び武器商人から<サモン・スペル>のインストールされた高価なコンピュータを買うか、さらに大金を払って自分のコンピュータに<サモン・スペル>をインストールしてもらうしかないからだ。戦いは明け方四時までかかってしまい、やっと病院のベットに戻ったのは五時近くだった。
 江口は、上司や仲間から、昨夜の事件のことは何も知らされていなかったので、秀明の話に面食らった。
「また、襲われたのか!?」
「自衛隊の防衛システムが攻撃された。僕達を襲った奴らの仕業だと思う」
「殺し屋の襲撃は、単なる前哨戦だったわけか……」
 江口が胸の前で腕を組んで、不愉快そうに顔を顰めた。
「それで、あの男は動機について何か口を割った?」
「まだICUにいて尋問できる状態ではないんだ。今、身元確認を急いでいるが、日本人ではないらしい」
「アジア系か……中国人か、韓国人てとこかな? 二年前に僕の叔父を殺した奴らと関係あるかもしれない」
 秀明は、じっと考え込んでいた。ピンと張りつめた空気が漂う。
叔父を殺した男は、逮捕されて間もなく何者かに殺された。あの男も殺されるかもしれない」
「あいつの病室には、警官が二人も張り付いてる。そんな心配はいらないさ。それより、あの距離でよく当てたな。お陰で俺は命拾いした。ありがとう」
 思いがけず江口に礼を言われて、秀明の顔が綻んだ。
「アメリカにいた時、護身用に扱いを習ってたんだ。けど、銃を握ったのは、二年ぶりだったから、反対に江口さんに当たらなくて良かった」
 秀明は、クスクス笑いながら怖いことを言った。


 事件は表沙汰にはならなかった。一部のマスコミには、救急隊員から噂が流れたが、政府の強い圧力で、いっさい記事にはならなかった。
 当然ながら、秀明の警護は強化され、行動も今まで以上に厳しく制限されることになった。秀明は反発したが、江口が秀明の希望を聞いて彼のスケジュールを管理することで、ようやく納得した。
 江口は、秀明の性癖に干渉しない条件として行きずりの相手と遊ばないこと、必ずコンドームを使うこと、ノンケや妻帯者には手を出さないこと――を約束させた。上司はそれを快挙だと喜んだが、江口は憂鬱だった。確かに火遊びは減るが、秀明の蓄積されたストレスがどこに向けられるかが心配だった。



        act.10
 高木との逢瀬は、一ヶ月ぶりだった。秀明の殴られた顔の痣はきれいに消えていたが、先日の輪姦未遂事件はもちろん、殺し屋に襲われたことも、高木の耳に入っていて、秀明は、いつも精悍な高木が酷く憔悴しているのに驚いた。
 秀明にとって高木は、セックスの相性がいいだけの、色恋といった面倒がない相手という認識だったが、高木の方はそうではないらしいと初めて気づいた。いつにも増して、壊れ物のように大切に自分を抱く男に、秀明は戸惑った。
 秀明が口づけを嫌うので、高木は額にそっと触れるだけのキスを落としながら、秀明の顔色を窺うように訊いた。
「なあ、一緒に暮らさないか?」
 途端に秀明の表情が曇る。
「俺に守られるのは嫌か?」
「隆平の専属になれってこと?」
 秀明は、小馬鹿にしたように笑った。
隆平ひとりで、僕が満足できるとでも思ってるわけ?」
 冷ややかな蔑みを向けられて、高木はたじろいだ。相手が秀明でなかったら、間違いなく怒りで殴り飛ばしていただろう。
 しかし、高木は秀明の中に巣くう怪物に気づいていた。それは近づく者を容赦なく喰い殺す、狂気と紙一重のどす黒い孤独だった。幾度も秀明と身体を繋いで、その心を手に入れようと藻掻けば藻掻くほど、それは圧倒的な存在感を持って、高木を拒んだ。
「束縛したりはしない。気に入った奴と好きなだけ寝ればいい。ただ俺の目の届くところにいて欲しいだけだ」
「今のままの、つかず離れずの関係がいい。これ以上馴れ合うのは嫌だ。甘い関係が欲しいなら他を当たれよ。何人か、女を囲ってんだろ?」
 秀明が、困ったように目を伏せた。高木は、これ以上、秀明を追いつめれば別れ話に発展しかねないと悟って諦めることにした。たっぷりと時間をかけなければ手に入らないものがあることを、高木はよく知っていた。
「わかった。この話はここまでにしよう」
 うっ血の痕がまだ微かに残る秀明の脇腹に、ゆっくりと手を伸ばす。高木の丹念な愛撫に、秀明は甘い吐息を漏らした。


 事件から二週間、あの殺し屋は、ずっと黙秘を続けていて尋問は難航していた。未だ身元確認すらできていないのだ。江口は、秀明をラボへ送る途中、車中で捜査の進展を尋ねられて、仕方なく白状した。
「自白剤を使えよ」
 秀明は焦れったそうに言った。叔父の仇がわかるかもしれないと期待していたからだ。
「俺が依頼主なら、殺し屋に組織の詳しいことは一切、教えないでおくがな。薬を使ったところで、大したことはしゃべらないと思うぞ」
 江口は、宥めるように言った。
「あいつが殺されずにまだ生きてるってことは、そういうことかもしれないな」
 呟くと、秀明はプリントアウトされたデータの束に目をやった。
「手掛かりは、やっぱりこれか………」 
「なんなんだ、それ?」
「システムへの攻撃を分析調査してるんだ。昨年のアメリカの事件といくつか類似点を見つけた。最近頻発してるハイテク犯罪とは質が違う」
「犯人の目星はつきそうか?」
「残念ながら無理だ。でも、このデータを元に追跡用ソフトを改良するから、もう一度向こうが仕掛けてくればチャンスがある」
「それも怖い話だな」
「僕が負けるとでも?」
 秀明は小首を傾げて不敵な笑みを浮かべた。
「いや、そうじゃなくて……奴らは仕掛ける前に、また君を狙うだろう?」
「それまでには研修生達が一人前に育っている。もう、僕一人を殺したからって意味はない。今後、奴らは、僕と30人もの研修生を片づける労力より、純粋に<サモン・スペル>での攻撃方法に力を入れるようになるだろうさ。僕はそのために、あの研修を企画したんだ」
 江口は、秀明が自分の危険を減らすために研修を企画したと知って驚いた。秀明のしたたかな策略を目の当たりにし、つくづくこの少年はモンスターだと思う。
 秀明は、ただ頭が良いだけではないのだ。それを利用し活用する能力と、機知を備えている。神は一体どんな気まぐれで、この少年の中に類い希な頭脳と人並み外れた才知を同居させたのだろう。いっそ、ただIQが高いだけの子供だったら、もう少し平凡で平和な生活が送れただろうに――。


 目の前に置かれた見合い写真に、高木は露骨に嫌な顔をした。
「先方も一度、結婚の経験がおありですが、癌でご主人を亡くされて、子供のないまま一人になられたんです」
 藤村は、子供に言い聞かせるように丁寧に話す。入院中の父に代わって、高龍会を取り仕切る彼は、高木より二回りほど年上で、会長の高木剛蔵に絶対的な忠誠を尽くしていた。関連会社(風俗店やラブホテル、パチンコ店、不動産など)を管理している高木の補佐も完璧にこなしている。
「俺は結婚に向かないって知ってるだろ? 女は、妻にするより愛人として囲うに限る。妻にして権利を主張されるのは、もう真っ平だ」
 高木は大学生の時、フランス人留学生と学生結婚をした。双方の親の大反対を押し切っての結婚だったが、わずか二年でそれは破綻した。どちらも若く、結婚の理想と現実のギャップに耐えられなかったのだ。大学卒業と同時に、彼女は目の飛び出るような慰謝料を持って帰国した。
「残念だが親父さんは、あまり長くないんです。孫の顔を見てから逝きたいとおっしゃった」
「だから俺だって励んでるさ。美香子は不妊治療に通わせてるし、玲奈には子供ができたら店を持たせてやることになってる」
「子供のことだけで、この話を持ってきたんではありません」
 藤村は、声を落とすと身を乗り出した。
「真理子さんが、幸彦さんを跡取りにと言い出したんです」
 高木は、呆れたように片眉を上げた。高木の母は、高龍会一代目の一人娘で、父は請われて婿養子となり二代目になったのだ。真理子は、父の後妻で、幸彦はその連れ子だった。高木と幸彦は、実の兄弟のようにして育ったが、血の繋がりはない。
「古参の組員が納得してくれるなら、それもいいかもな」
 高木は投げ遣りに言い捨てた。幸彦とは、秀明のことで揉めてから気まずくなっていたが、同じ屋根の下で育ったお人好しで甘ったれの弟は、やはり可愛かった。
「冗談を言っている場合ではありません。うちの内部分裂を狙って、真理子さんをそそのかした奴がいるんですぜ!」
 取り繕った紳士然とした藤村の顔が、本来の極道らしい冷酷なものに変わる。
「それで、この見合いか?」
「そうです。この長谷彩音さんは、うちの主筋に当たる城山会、会長の孫娘に当たる方なんです」
 それを聞いて、高木は大声で笑い出した。
「政略結婚かぁ。まったく、おまえらしいな、藤村」
 藤村は、大きな溜息と共に見合い写真を閉じた。
「若のお気持ちも考えず、申し訳ありませんでした」
 写真を舎弟に手渡すと、藤村はコートを手に立ち上がった。
「そう言えば、チンピラをお手自ら、制裁なさったそうで。あまり感心しませんな。そういうことは下っ端の者に言いつけて下さい」
「心配性だな。俺が警察にしょっ引かれるようなヘマをするわけないだろう。それにあれは、どうしても俺の手で始末を付けたかったんだ。あいつら、俺の秀明に手を出したんだからな!」
 ふて腐れたように答える高木に、藤村は再び溜息を吐いた。
「それでは、若があの子供に入れ込んでいると、世間に吹聴するようなものです。自分の弱点をバラすのは利口とは言えませんな」
 藤村の鋭い指摘に、高木は絶句した。

 

      
     act.11
 秀明が夜、ラボから自宅に戻ると、響の同級生が来ていた。井上明良(いのうえ・あきら)という、近所に住む響の幼なじみで、身長180Cmという体格の良い空手少年だ。顔立ちこそ地味だが、芯が強くて男気があるので、同級生や後輩に慕われるだけでなく、先輩達にも一目置かれていた。
 明良は、響とは特に気が合うらしく、いつでもどこでも一緒に行動していた。明良の朝練に付き合って、響は早朝六時に登校しているし、明良も放課後、練習をさぼって、響と遊んだり宿題をやったりしている。
 今は、勝手知ったる何とやらで、明良はキッチンで響と仲良く夕食を作っていた。
「薫さんは?」
 秀明が怪訝そうに継母の所在を尋ねると、「父さんの所へ差し入れに行った」という返事が返ってきた。仕方なく秀明は勧められるまま、響と明良の作った怪しげな『新作カレー』を食べることにした。
 響は料理を作るのが大好きで、響の作るものはどれも美味しい。だが時々、隠し味と称して、とんでもないものを入れるのが玉に瑕だった。
「このカレー、なんか甘い。何を入れたんだ?」
 眉を顰めて秀明が尋ねる。
「コンデンス・ミルクとチョコレート。秀明はチョコレート好きだろ?」
 響は得意げに答えた。確かに秀明はチョコレートが大好きだが、辛いのに甘いという中途半端な味のカレーは好みではなかった。辛いものは辛い、甘いものは甘いとはっきりした味が好きなのだ。
 ニコニコと上機嫌で微笑む響の隣で、明良が黙々とカレーを食べている。秀明には、無口な明良が殉教者のように見えた。
 結局、カレーは半分も食べられなくて、秀明はこっそり外食することにした。響にバレないよう自宅を抜け出して、歩いて10分のファミレスに一人で出かけた。
 注文を済ませると、暇つぶしに助手の古田が書いたレポートを読み始めた。それは先日の防衛システムへの攻撃についてまとめたもので、嘱託の研究所へ提出する前にチェックして欲しいと頼まれたものだった。
 数ページ読み進んだところで、秀明は首を傾げた。記載された数値がどこか不自然なのだ。秀明は閃(ひらめ)きのような鋭い関心を覚え、それを確かめるため上着のポケットからボールペンを取り出し、テーブルにあった紙ナプキンを広げて計算を始めた。


 秀明を自宅に送り届けて、帰宅途中だった江口は、携帯電話で仲間のSPに呼び戻された。秀明がファミレスのウエイトレスを怒鳴りつけ、騒ぎになっているというのだ。
 びっくりして戻ると、秀明はファミレスのテーブルに何かの数式を猛烈な勢いで書き込んでいた。店長をはじめ、ウエイトレスや周りの客までも、息を潜めて様子を窺っている。その間に後輩の若いSP二人が入って、巨体で秀明を隠すようにしていた。
 見かねた店長が、床に散らばっている数式の書き込まれた紙ナプキンを片づけようとすると「触るなっ!!」と秀明に怒鳴られて身を竦ませた。
「秀明、どうしたんだ? こんなところで何をやってる?」
 しかし秀明から返事はない。何かに憑かれたようにテーブルへ数式を書き綴っていく。テーブルが埋まったら、床にでも書き付けそうな勢いだ。
「秀明?」
 不安になって江口が秀明の肩に手を掛けると、秀明はもの凄い勢いで睨み付けてきた。
「うるさいっ! あと二十分で終わるから邪魔するなっ!!」
 刃物のような怒りを向けられて、江口は当惑した。こんな秀明は初めてだ。何がどうなっているのかさっぱりわからない。仕方なく、秀明の言った二十分だけ待つことにした。それでこの異様な興奮状態が納まらなければ、医者を呼んで鎮静剤を打ってもらおう。そう決めると江口は、静かに秀明の向かい側の席に腰を下ろした。
 それからきっちり二十分で秀明は計算を終えると、それまでの興奮状態はきれいに納まった。携帯電話で、助手の古田にラボへ来るよう指示すると、冷め切ったシーフード・スパゲティを食べ始める。
「一体どうなってるんだ?」
 江口は呆れ果てて訊いた。
「響の新作カレーが不味くてさ、食べられないから外食することにした」
 あっけらかんと答える秀明に、江口は憮然とした。
「そうじゃなくて、なんだってこんな場所で、テーブルなんかに、こんな書き込みをするんだ? 店に迷惑だろう!?」
「だって紙ナプキンが足らなかったんだ。でもこれ、どうやって持って帰ろうかなぁ」
 秀明は、チンプンカンな心配をしている。カアッと頭に血が昇った江口は思わず声を荒げてしまった。
「なに寝惚けたことを言ってるんだ!? このテーブルは床に固定されてるんだぞっ! それにこの書き込みは何なんだ?」
「敵の識別方法を見つけたんだ」
 秀明が勝ち誇ったように笑った。
「……俺にわかるように説明してくれないか」
 事情を把握するため、江口は必死で怒りを抑え込む。
「<サモン・スペル>は、オリジナルのディスクか、『パンドラの箱』に隠されていたバックアップからしかインストールできない。コピーすれば元のデータが消滅してしまうようプログラムされている。兵器として開発された危険なソフトだからだ。この仕掛けは、おそらくブラックボックスになってる<サモン・スペル>の核(コア)を解読しなければ外せない。
僕はここでレポートを読んでいて、気づいたんだ。インストールされるごとに、それが何回目のインストールであるかをインストール先の<サモン・スペル>に埋め込むようになっていることに。そしてその埋込みは、クリーチャーやスペルにも影のように張り付いている」
 秀明は、テーブルに書かれたいくつかの文字列を指し示した。
「これがオリジナルからの最初のインストールを表す数値、こっちが二度目のインストールを表す数値だ。ちなみにこれが、『パンドラの箱』に隠されていたバックアップからの最初のインストールの数値で、僕が使ってるものだ」
「いくつのコンピュータにインストールされてるかわからないが、どれかひとつを押さえれば、芋蔓式に手がかりが掴めそうだな」
 江口が納得したように呟いた。
「そして、オリジナルのディスクを持ってる奴が、叔父を殺した犯人だ」
 顔を上げた秀明は、いつもの醒めた眼差しからは想像もつかないような熱い眼差しをしていた。江口はその瞳に、秀明の叔父に対する並々ならぬ執着を感じた。
 秀明の叔父、霧乃紀時(きりの・のりとき)は、コンピュータ・アナリストとしてその世界ではカリスマ的存在だった。独身でありながら母親を亡くした幼い秀明を引き取り、その才能を開花させた人物だ。アメリカに帰化し、<サモン・スペル>を開発したプログラマーでもある。秀明に大きな影響を与えたであろうその男に、江口は強い興味を覚えた。



        act.12
 日曜日、秀明がここ数日、ソフトの開発を急かされてラボに泊まり込みだったため、響は着替えと差し入れのサンドイッチを持ってラボへ出かけた。明良が、練習試合があるから見に来てくれと言ったが、熱中すると睡眠も食事も摂らない秀明が心配で断ってしまった。
 受付けで秀明を呼び出してもらい、応接室で面会する。機密保持に厳しいここは、家族といえども研究室に入ることはできないのだ。
「この間の件は、母さんが菓子折を持って店の方へ謝りに行ったら、店長さんも快く許して下さって、遠慮せずまた来て下さいって言われたそうだよ」
「今やってるデバッグ(バグ回避)が片づいたら顔出してみるよ」
「秀明は、熱中すると周りが見えなくなるだけじゃなく、寝食忘れちまうからなぁ。ちゃんと食べてるのか?」
「強制的に古田さんに食べさせられてる」
 秀明の助手をしている古田は、よく気の付く男で、秀明の熱烈な信棒者だ。こまごまと秀明の身の回りにも配慮してくれているらしい。秀明には、それが少々うざったいようだが。
「これは差し入れのサンドイッチで、こっちは着替え」
 響は緑の紙袋を秀明に手渡した。着る物に頓着しない秀明は、いつも響が選んで買ってきてくれた服を身に付けている。
「他に欲しいものはある?」
「ない」
 秀明が、即答すると響は安心したように微笑んだ。
「じゃあ、僕は帰るから。何かあったら電話しろよ?」
「ああ、サンキュ」
 まっすぐで素直な響の微笑みにつられて、秀明も微笑む。
 響のひねくれたところが全くない、おっとりした善良な性格は、育った環境を思えば奇跡だった。愛人の子として生まれた響は、認知こそされたが、世間の冷たい眼に蔑まれながら必死に母親を支えて生きてきたのだ。
 秀明の父が、妻子を捨てて響の母親の元に走るまで、響は生活のためにモデルや子役で稼ぎ、ろくに学校にも通えなかったという。そんな響が、恐ろしく頭の良い秀明に抱いているのは、嫉妬や憎悪ではなく、純粋な憧れと尊敬だった。
 秀明は、わずか三ヶ月しか違わない弟の自分を気遣い、あれこれと世話を焼こうとする響が、堪らなくいじらしかった。


 井上明良がクラブハウスを出ると、響が待っていた。
「全勝したんだって? 凄いなぁ、おめでとう!」
 ダッフルコートにくるまった私服姿の響は、ボーイッシュな女の子のようにキュートだ。吹き付ける木枯らしに、少し癖のある柔らかな髪が揺れている。
 明良は軽く微笑むと、黙って自分のマフラーを響に掛けてやった。
 時を同じくして、高龍会二代目会長、高木剛蔵が他界した。病状の急変があまりにも突然すぎて、長男の高木隆平は臨終には間に合わなかった。立ち会ったのは、妻の真理子と病室に詰めていた数人の若衆だけだった。
 真理子は、夫の最期を看取ると、しばらく一人になりたいからと屋上に上がった。茜色の空の下、彼女は小さなハンドバッグから携帯電話を取り出した。


 少し早めの夕食を終えて七時にラボへ戻ると、秀明は睡魔に襲われて仮眠を取ることにした。ここ数日、昼夜を問わないデバック作業で、一日の平均睡眠時間は三時間ほどだった。目覚まし替わりにしている携帯電話を深夜十一時に合わせると、自分専用の仮眠ベットに潜り込む。古田が気を利かせてシーツを取り替えてくれたらしく、心地よい石鹸の香りがした。
 秀明が、眠りに吸い込まれそうになったその時、枕元の携帯が鳴り出した。無視を決め込んで、毛布を頭まで被ったが、携帯はしつこいほど鳴り止まない。秀明は、渋々、携帯に手を伸ばした。液晶画面には、HIBIKIの文字が表示されていた。
「もしもし」
 不機嫌さを少しも隠そうとせず、秀明は電話に出た。響には、事情を話して手短に電話を済ませるつもりだった。
『佐藤秀明だな?』
 くぐもった、聞き覚えのない男の声に、秀明の意識は一気に覚醒した。
「誰だ!?」
『騒ぐな! おまえの兄貴を預かってる』
「……何が目的だ」
 動揺を隠しきれず、微かに声が上擦った。響が巻き込まれるなんて最悪だ。
『誰にも知らせず迎えに来るんだ。おまえと高木隆平の二人だけでな』
「隆平と…?」
『二人で、明日の夜六時に札幌の時計台に来るんだ。来なければ、兄貴には二度と会えなくなるぞ。ほら、可愛い弟に何か言ってやりな』
『…秀明、迷惑かけてごめん。明良が一緒なんだ。僕を庇って、すごく殴られて……どうしよう…骨が折れてるかもしれない。早く病院に――』
 唐突に通話は打ち切られた。おそらく逆探知を警戒しているのだろう。秀明は気持ちを落ち着けるため、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。それから唇を噛み締めて高木の携帯に電話した。



        act.13
『おう、なんだ?』
 わずかワンコールで電話に出た高木隆平の声は、やけに苛立っていた。しかし秀明は構わず怒鳴りつけた。
「隆平、何が起こってる!? 僕を巻き込めば高龍会は公安に潰されるぞ!」
『何のことだ? 俺は今、親父が死んで忙しいんだっ!』
 高木の返事に秀明は舌打ちした。
「後継者争いが起こってるようだな」
『何だって!? ちょっと待て!』
 バタバタと移動する足音と、続いて引戸を閉め切る音がする。
『いいぞ。詳しく話してくれ』
「兄の響が拉致された。友達も一緒のようだ。犯人は明日の夜六時に、僕達ふたりで札幌まで来いと言ってる」
『無理だ! 俺は親父の通夜で抜けられない。喪主なんだからな』
「奴らの狙いは、それさ。おそらく僕達をあちこち引っ張り回して、葬儀にも出席させないつもりだ」
『親父の葬儀を跡取りの俺が欠席すれば、高龍会の面子は丸潰れだ。俺は札幌なんぞに付き合わないぞ』
「勝手に巻き込んでおいて、その言いぐさはないだろう!?」
『秀明、落ち着け。ちゃんと手は打ってやる。警察はまずい』
 高木は、聞き分けのない子供を宥めるように言った。
「Son of a bitch!!  Fuck your ass!!」
 秀明は、携帯をベッドの上に叩きつけた。仮眠室の中をぐるぐると歩き回りながら次々と英語で罵りの言葉を携帯に向かって投げつける。ひとしきり悪態をつきまくると、秀明はようやく気を取り直してそれを取り上げた。
「それで、後継者争いの対抗馬は誰なんだ?」
 秀明の声は、ぞっとするほど冷めたかった。
『弟の幸彦だ』
「おめでたいな。あの遊び人が後継者の地位を望むわけがないだろう? 」
『母親の真理子が望んでる』
「あんたにそう思いこませたのは誰だ?」
 秀明の問い掛けに、高木は思わず息を飲んだ。電話を掴む手がじっとりと汗ばむ。
『舎弟頭の藤村だ。まさか…あいつが黒幕なのか!?』
「そんなこと僕が知るわけないだろう? 自分で裏を取れよ。それより腕の立つ奴を何人か借りたい。もちろん、その藤村の息のかかってない奴をだ」
『わかった、すぐ用意する』
「じゃあ僕は調べることがあるから切るよ。また連絡する」
 この時、秀明はまだ、響が精神に大きな問題を抱えているとは知らなかった。


 仮眠を取ると言っていた秀明が、ラボに戻ってきたので、古田は少し心配そうな顔をした。
「どうしました? 眠れなかった?」
「NTTのデータを洗う。手伝ってくれ。十五分ほど前に僕の携帯にかかってきた通話だ。相手の電波の中継地点を知りたい」
 秀明の思い詰めた表情に、異変を感じ取った古田は黙って頷いた。手早くコンソールを操作して、NTTのネットワークへアクセスする。
 二人は、二十分程で中継地点を割り出すことに成功した。秀明は、すぐに高木に電話して藤村が中継地点の長野で、響の監禁場所として使いそうな場所をいくつか聞き出した。
 古田にきつく口止めしてラボを抜け出す。SP(要人警護を担当する警察官)達は、秀明が再び仮眠室に入ったので、寝入ったものと安心し、秀明が窓から抜け出したことには全く気づかなかった。
 タクシーを拾って待ち合わせ場所の公園に行くと、高木が六人の男を従えて待っていた。
「要望通り、車を二台と兵隊を六名用意した。だが、おまえが自分で動くのは危険だぞ」
「小さなミスでも命取りになる。響の命が懸かってるんだ。他人任せになんてできない」
「護身用に持ってろ。これなら秀明でも簡単に扱えるはずだ」
 差し出された小型の銃を秀明は黙って受け取った。
「大丈夫です。それを使うようことにならないよう、俺達が身体を張ってお守りします」
「俺が飼ってる族の頭で、平下良勝だ。こいつなら信用できるし腕も立つ」
 高木の紹介に、平下は身体を90度に曲げて挨拶した。 
「平下良勝です。よろしくお願いします!!」
 秀明は平下を値踏みするように一瞥する。
「今から僕がリーダーだ。命令に絶対服従できるか?」
「はい、もちろんです!」
 平下は、自分より遙かに年下の秀明に、きっぱりと誓った。引き結ばれていた秀明の口元が満足そうに笑みの形を作る。だがその眼は決して笑ってはいなかった。


 深夜の雪に閉ざされた道をベンツで走るのは快適とは言い難かった。秀明は、途中で車を止めさせて二回も吐いてしまった。お陰で胃の中は空っぽで、すこぶる気分が悪い。
 藤村は、長野高原に二つの別荘と、ペンションを一つ、所有していた。もちろん家族名義で本人の名前は使われていない。最初の別荘は空振りだった。しかし二軒目の別荘は、雪道に車のタイヤの跡が残っており、秀明は車を離れた所に停めて歩いて近づくことにした。
 偵察に行かせた男は、十五分ほどで戻ってきた。別荘には明かりが灯り、どの部屋もカーテンが閉め切られていて、中の様子はうかがえないという報告だった。
「行くぞ!」
 平下の号令で男達が車のトランクから次々に拳銃や日本刀、錨の付いた金属バットや火炎瓶などを持ち出した。ドライバーを一人、車に残して雪道を別荘へと向かう。月明かりが雪に反射して、夜道でも懐中電灯なしで歩くことができた。
 その別荘は、一番近いお隣さんまで軽く500メートルは離れていて、監禁にはおあつらえ向きだった。二階建だが、こぢんまりとしており、部屋数も2LDKか3LDKといったところだろう。
 一番年若の相原という青年が針金のようなもので、ものの三十秒とかからず器用に裏口の鍵をこじ開けた。裏口付近に人の気配がないのを確認して、秀明達を招き入れる。秀明は、平下の身体に庇われるようにして内に入った。
 別荘の中は、あちこちに明かりが灯っているにもかかわらず、シンと静まり返って人の気配が全くなかった。秀明がさらに奥へ足を踏み入れようとすると、平下がそれをやんわり阻んだ。内部の安全が確認できるまで待てということだろう。
 平下の合図で、二人が一階を三人が二階を調べに行った。開け放したままの裏口から、冷たい風が吹き込んでくる。秀明は凍えそうになりながらも、平下と二人で息を殺してなにか情報がもたらされるのをイライラと待っていた。
 果たして響はここにいるのか、いないのか。どこからか情報が漏れて、犯人達は逃げた後なのかもしれない。ぼんやりとそう考えた時、いきなり背後で人の気配がして、男が襲いかかってきた。
「誰だっ!?」
 平下が叫んで応戦しようとしたが、男は素早い動きで平下の鳩尾に一発入れていた。あっけなく平下が床に転がる。秀明はポケットの銃を慌てて掴み出したが、それは安全装置も外さないうちに叩き落とされた。手首の骨が砕けたのではないかというような鋭い痛みに秀明は呻いた。
「一緒ニ来ルンダ」
 男は、秀明にイントネーションのおかしな日本語で命じた。彫りの深いその顔はシベリアンハスキーのようで、明らかに外国人だ。
 右腕がもげそうな力で引っ張られ、秀明は外へ引きずり出された。せめてもの抵抗に地面に座り込んだが、男は難なく秀明を担ぎ上げて走り出す。平下の手下達が怒声を上げて追って来た。何人かは拳銃を手にしていたが、秀明に当たるのが怖くて撃てなかった。
 逃れようと、秀明がメチャクチャに手足をバタつかせても男は頓着しなかった。反対に男の身体にびっしりと張り付いた筋肉に気づいて、秀明は抵抗を諦めた。非力な自分が悔しくて涙が滲んできたが、逃げるチャンスに備えて体力は温存しておくべきだと考えたのだ。
 その時、あれほど屈強だった男がいきなり膝を折った。秀明の身体も勢いよく雪の上に投げ出される。したたかに背中を打ち付けた秀明は呼吸ができず、痛みと息苦しさに喘いだ。
 別荘の西側の茂みから、何人もの男達が走り寄ってきた。皆、一様に黒のブルゾンにタートルネックのセーター、迷彩ズボンに黒のハーフブーツだった。二人が膝を打ち抜かれたらしい男を押さえつけ、一人がトランシーバーで何か話しており、ライフル銃を持った二人が周囲の安全を確認している。ゆっくりと歩いてきたリーダーらしき男が、秀明の横に屈んで覗き込んできた。
「大丈夫ですか? どこが痛みます?」
 心配そうな男の声には聞き覚えがあった。確か須崎という名前だった。あの傲慢不遜を絵に描いたような自衛官の部下だ。須崎は、手早く秀明の全身を調べていく。追いかけてきていた平下の手下は不安そうに、それを遠巻きに見ていた。
「響が…拉致されてるんだ。早く見…つけて……」
 秀明は背中を打ち付けた痛みで身体を起こすこともできず、ようやくそれだけ言った。
「彼とその友人は、十五分前に、この近くの国道沿いで保護しました。もう心配ありません」
 それを聞いて秀明は安堵したが、須崎が右手首に触れたので悲鳴を上げた。
「ヒビが入っているようですね。右肩も外れているようだ。すぐに病院にお連れします。間もなくヘリが到着しますからね」
「別荘の中に、平下という男がいる。殴られて、たぶん内臓をやられてる。手当してやってくれないか」
「わかりました」
 須崎は、毛布で秀明をくるみながら、連行されていく男に目をやった。
「あの男は高龍会の内輪もめに乗じて、あなたを国外に連れ出すつもりだったんですよ」
 秀明の身体がビクリと震えた。見開かれた黒目がちな瞳が信じられないというように、須崎に向けられる。しかし、秀明は口をつぐんだまま、何も言わなかった。



        act.14
 手当を終えて、秀明が連れて行かれたのは、どこかの山荘だった。痛み止めで意識が朦朧となりながらも、あてがわれた寝室のベットに倒れ込んだことまでは憶えていた。たぶん明け方近かったはずだ。
 目覚めると、古田が枕元で椅子に座って居眠りしていた。腕時計で時間を確認すると、すでに昼の12時を回っている。
「古田…」
 身体を起こして呼びかけると、古田は飛び起きた。
「あんたが、チクったのか?」
 秀明は、むっつりとしたまま思いっきり不機嫌な声で問いかけた。
「違いますっ! 朝の六時に電話があって、ここに連れてこられたんです。ここで仕事ができるよう機材一式と一緒に」
 なおも秀明は、疑わしそうに古田を刺々しい目で見つめる。あまりの居心地の悪さに古田はしおれて目を伏せた。
「下僕を苛めるなよ。そいつは本当にチクっちゃいない」
 右手から楽しそうにからかう声がして秀明が振り返ると、いつの間にかドアが開いており、中年の男が尊大な笑みを浮かべて立っていた。肌は日に焼けて浅黒く、その瞳はドーベルマンのように獰猛だ。この威圧的な大男の名前は立花賢悟(たちばな・けんご)といって、秀明がこの世で最も苦手な相手だった。
「公安が高木を盗聴していて、俺に知らせてきたんだ」
「響は、無事なのか? 怪我はないのかっ?」
「腹違いの兄貴の心配より、自分の身をもう少し気遣ったらどうだ? 武器商人に売り飛ばされるところだったんだぞ!」
 厳しい声が秀明を叱責する。秀明は悔しさに顔を歪めた。
「ヤクザの後継者争いじゃなかったのか……」
「藤村なら、高飛びしようとしたところを押さえた。高木が、おまえと札幌へ行けば、弟を傀儡(かいらい)に高龍会を乗っ取る。高木が動かなくても、おまえを罠にはめて、ロシアの武器商人に売り飛ばす手筈だった。秀明、商品としての自分の値段を知ってるか? 」
「聞きたくない!」
 秀明は拒絶するように顔を背けた。古田が好奇心丸出しで、恐る恐る「幾らなんですか?」と質問した。とたんに秀明が古田を睨み付ける。古田は蛇に睨まれた蛙のように小さくなった。
「この国の二年分の防衛費だ。先月、アラブの石油王が、秀明の写真を見て最高値を付けたそうだ」
 立花は愉快そうに声を上げて笑った。匂い立つような男臭さのある笑顔だった。しかしその仮面の下にある残忍さを秀明は熟知していた。この男は、第三者に秀明を奪われるくらいなら情け容赦なく秀明を殺すだろう。
「目が覚めたのなら食事しろ。すぐにここへ運ばせる」
「それより、響に会いたい」
「それはもう少し後だ。事情聴取や現場検証があるからな。ああ、彼の友人も順調に回復しているそうだ」
 秀明は響の無事を信じて疑わず、立花に命じられるまま、その山荘で開発中だった探知ソフトを完成させた。これは<サモン・スペル>の呪文をかいくぐり、相手のコンピュータの場所を割り出すソフトだ。しかもこちらが逆探知していることを相手に気づかせないという優れモノだった。
 一日も早いソフトの完成を求めていた立花は、秀明を開発に集中させるため、敢えて響の事を隠したのだ。
 秀明が真実を知ったのは、それが完成してからだった。響の状態を知らされて、秀明が立花を罵倒したのは言うまでもない。


 江口は結納のため、実家のある名古屋に帰っていたが、上司からの電話で事件を知らされた。休暇中にもかかわらず、すぐに登庁するよう命じられ、結納の儀式もそこそこに新幹線に飛び乗った。山本が入院中で、江口が警護担当チームの責任者だったからだ。
 上司から事の次第の説明を受けた後、秀明を甘やかすからだと説教をされ、三日間の自宅謹慎を命じられた。だが山のような始末書と報告書で、三日などあっという間に過ぎ去った。
 四日目に登庁して、被害者の響が未だ錯乱状態にあると知った。響の容態を秀明に説明し、見舞いに付き添うよう命じられ、江口は憂鬱だった。
 当初、関係者は何カ所も骨折していた井上明良の容態を心配したが、空手で鍛えた若い身体は驚くほど強靱だった。意識もしっかりしており、殴られて意識を失ったままの響をずっと気遣っていた。
 響は意識を取り戻しても、自分の母親さえ認識できなかった。極度に怯え、話すことはもちろん、まともに歩くことさえできない。
 主治医は初め、極度の緊張状態で長時間暗闇に監禁されたための一時的な錯乱と考えたが、母親から響には十歳の時、変質者に誘拐されて暴行を受けた過去があると聞き、慌てて専門医が紹介された。
 精神科医は、忌まわしい記憶が今度の事件をきっかけに開いてしまったと診断した。十歳だった響は、おぞましい性的暴行を理解することができず、恐怖として記憶の奥底に沈めて忘れてしまったが、拉致監禁事件の恐怖によって、それが掘り起こされてしまったのだ。質の悪いことに、今、十八歳になった響には、あの時の暴行が何だったのか理解できる。響は過去の悪夢に囚われたまま、現実に戻ることができなくなっていた。


 瞬く間に三ケ月が過ぎ去った。秀明は実家を出て、静岡にある四菱重工の研究所に移っていた。<サモン・スペル>の『核(コア)』を解読する研究に専念するためだ。研究所には政府の嘱託で、多くの研究者が集められており、設備も完璧に整っていた。
 しかし、それは家を出るための口実に過ぎなかった。秀明は、響が事件に巻き込まれて正気を失い、自分を責めるような両親の目に耐えられなかったのだ。さんざん皆から、ふしだらと罵られても、男相手に脚を開きっぱなしだった不道徳な自分に天罰が下ったのだと深く後悔していた。だから静岡への転属を二つ返事で受け入れた。
 秀明の引っ越しに伴い、SPの中から、江口と後輩の宮本が護衛を命じられたが、四菱の金にものをいわせて集められた用心棒達(ほとんどが傭兵や情報員として活躍していた経験を持つプロ)が、がっちり秀明をガードしていたので、江口と宮本はまさに開店休業状態だった。暇を持て余した江口のもっぱらの仕事は、秀明の話し相手ぐらいしかない。
 秀明は時折、厳重な警備の窮屈さに、ヒステリーを起すものの、この生活に甘んじてた。憑かれたように研究に没頭し、月に一度か二度、響の見舞いに行く以外、外出もしない。驚くほど禁欲的かつ、自虐的生活だった。
 当然と言えば当然だが、高木とも別れた。何人かいたセックス・フレンドとも、まったく連絡を取っていないようだ。どうしても我慢できなくなった時は、新しく助手になった小林と寝ていた。
 江口は、痩せて、いつも疲れた顔をしている秀明を見ているのが辛かった。秀明は口にはしないが、自分を責めているのだと思う。まるで生きることに疲れた老人のように秀明は心を閉ざしてしまっていた。
 響は治療の甲斐あって、カメの歩みほどだが少しずつ落ち着きを取り戻してきていた。まだ母親以外は認識できないが、調子の良い時は笑顔さえ見せるようになったという。親友の明良が病院へ日参し、楽しかった思い出や他愛ない日常の出来事を熱心に話しかけるのにも少しずつ反応を示すようになっていた。



 
      
       act.15
 4月の柔らかな陽射しが心地よいある日、秀明は研究が一区切りついたらしく、江口にドライブをねだった。
「たまには“番犬”の監視を逃れて、羽根を伸ばしたい」と言うのを無下にもできず、江口と宮本は研究所の保安員達を振り切って脱出した。
「あいつらの顔、最高に笑えた!」
 宮本のドライブ・テクニックについて来られず、交差点で立ち往生してしまった保安員達の顔を思い出して、秀明はざまあみろと楽しそうに嘲笑った。運転席の宮本もしてやったりと得意満面だ。
「で、どこに行きますか?」
 高速に向かいながら、宮本が訊く。
「どこか桜の残ってるところはないかなぁ」
「北陸あたりまで足を伸ばせば、たぶん見られるだろう」
「この時間なら、ぎりぎり日帰りはできますが、たいしてゆっくりできませんよ?」
「車の中で寝るからいい。桜のあるところに連れてってよ」
 そんな訳で、秀明は二人に行く先を任せると、さっさと眠ってしまった。
 揺り起こされて周りを見回すと、見覚えのある寺の前だった。境内には、満開を少し過ぎた桜の花がある。
「ここ……」
「ずっと墓参りに来てないだろ?」
 そこは、秀明の母・理鎖(りさ)と叔父・紀時(のりとき)の墓がある霧乃家の菩提寺だった。場所が実家の横浜から離れた新潟なので、帰国して一度訪れたきりだ。いつの間に用意したのか、白い菊の花と線香を手渡される。
「ありがとう」
 秀明は照れたような声でたどたどしく、江口と宮本に礼を述べた。
 墓参りを終えて、宮本が墓地の方へ車を回してくるのを待ちながら、江口はずっと気になっていたことを質問してみた。秀明が、はぐらかさずに答えてくれるのは、今をおいて他にないという気がしたからだ。
「叔父さんは君にとって、どんな人だったんだ? 噂では人間嫌いの気難しい人だったと聞いてるが……」
「人見知りが激しくて口べただったから、誤解されやすかったけど、本当は繊細でとても優しい人だったよ」
 遠くに視線を向けながら、秀明は恋を知ったばかりの初な少女が告白するように語った。
「物静かで内気で、滅多に自分の意見を口にしない人で、そんな彼が『いい子だね』って頭を撫でてくれるのが嬉しくて、僕は彼の好きな料理を覚えたり、学位を取ったりした。僕が我が儘や癇癪を起こしても絶対に怒ったりしなくて、優しく抱きしめて宥めてくれた。彼の胸は羊水の中みたいに心地よくて、どんな怒りも哀しみも溶けて消えた」
 僅かな沈黙の後、秀明は唇を噛みしめ言葉を継いだ。
「ある男が彼をこう評したよ。『きれいで冷たくて残酷な、贖罪の天使』」
 瞬間、秀明の身体に青白い炎が灯った。それが激しい怒りであると同時に、深い絶望でもあると、江口は直感的に悟ってたじろいだ。
「僕は……自分のエゴで……彼を苦しめた」
 自嘲するように秀明は呟いた。強烈な寂寥感と孤独。そこにいるのは、泣き疲れた幼い子供だった。今まで俺は秀明の何を見ていたのだろうかと、江口は苦い思いを噛みしめた。


 夜遅く研究所に戻ると、保安責任者の吉岡が待ちかまえていた。ねちねちと江口に嫌みを言い続けるのにキレたのは、意外にも側で聞いていた秀明の方だった。
「インポで女に相手にされないからって、八つ当たりするんじゃねーよ! 短小野郎」
 ストイックな小さな唇から飛び出したとんでもない言葉に、吉岡のヒキガエルのような顔が凍り付いた。
「なっ、な…なんだとっ!?」
「あんた、頭の中で僕を何回、犯した? 僕が江口さんと出かけたからって、セックスしたとでも考えてんのか? 残念ながら彼とはまだ一度もヤってないよ。安心したかい? スケベ親爺」
 吉岡の顔がみるみる真っ赤に染まっていく。何か懸命にしゃべろうとするのだが、口をパクパクさせるばかりで言葉にならない。吉岡は思い余って、秀明を殴りつけようと拳を振り上げた。
「こ…この、クソ餓鬼っ!!」
「吉岡さん! 落ち着いて下さい! 失礼は重々お詫びします。秀明くんにもよく言って聞かせますから」
 宮本が秀明を庇って自分の背に隠した。だが、秀明は宮本を押しのけて、なおも言い募った。
「あんたの舐めるような下品な視線に僕が気づいてないとでも思ってるのか? もう沢山だっ! あんたも、この息の詰まりそうな研究所もっ!!」
 秀明は吐き捨てるように言うと、保安部を飛び出した。
「子供の癇癪です。気になさらないで下さい」
 江口は静かに言い置くと、秀明の後を追った。
 研究所内にある、秀明の私室をノックすると、すぐにドアが開けられた。
「大丈夫か?」
 江口が尋ねると、秀明は無言で中に入るよう促す。ユニットバスが付属する十二畳のワンルームは、呆れるほど乱雑だった。秀明はベッドに腰を下ろし、忌々しそうに鉄格子のはまった明かり取りの窓を見上げる。
「ここは嫌いだ」
 吐き捨てるように呟くと、秀明は江口に視線を移した。
「抱いてよ。婚約者にも誰にも絶対秘密にするから……」
 秀明が縋るように江口をすくい見た。江口は暫く逡巡した後、秀明の隣に腰を下ろした。すぐさま秀明は江口の首筋にキスをしようと身を乗り出したが、江口はそれをやんわりと押し留めた。
「俺を煽るようなことをしないなら、抱き締めて優しくしてやる。約束できるか?」
「うん、約束する」
 秀明は無心に頷いた。切れ長の目は心持ち目尻が下がっているため、そうしていると酷く儚げな印象を受ける。
「いい子だ、秀明。おまえは、いい子だよ」
 江口は、秀明を抱き寄せると、幼子をあやすように囁いた。さらさらの癖のない黒髪をゆっくりと撫でてやる。喉を撫でられて喜ぶ猫のように、秀明は幸せそうに目を細めた。


 ヒースロー空港の管制システムが<サモン・スペル>によって乗っ取られ、IRAが拘留中のメンバー8人の釈放を要求してきたのは、一時間前だ。秀明は深夜二時に叩き起こされ、協力を要請された。
 二十人あまりの研究員やアシスタントが見守る中、秀明は手早く自分のデッキを立ち上げると、ネットワークにログインする。
「昨日完成したクリーチャーを試してみませんか?」
 サポート役の小林は、不謹慎にも実戦でのテスト使用に期待している。秀明は欠伸をかみ殺しながら、寝癖のついた髪を掻き上げた。
「却下。僕は眠いんだ」
 クリーチャーのテストを実戦でやって、わざわざリスクを負うのはごめんだし、そんな時間をかける暇があるならさっさとベットに戻りたかった。五月の初めとはいえ深夜はまだ冷える。
「それより東京の古田さんは、ちゃんと逆探知を進めてるのか?」
「順調のようです。あと一時間もあれば終わるそうです」
「なんで一時間もかかるんだよ。おっと! 敵に気づかれたようだ」
 モニターに流れる数字とアルファベットを猛烈な集中力で追いかけながら、秀明は手早くコンソールを操作しコマンドを打ち込んでいく。感情が削げ落ちた真剣な顔は無機質で、普段の秀明とは別人のように感じられた。
「分析はまだなのか?」
 古田ならとっくに敵のクリーチャーを報告してくるのに、小林が攻撃を分析するモニターを見つめたまま何も言わないので、焦れた秀明が急かす。
「あ、はい! ええっと…もう少し………。わかりました! 敵のクリーチャーは海蛇です!!」
「遅い! 誰か小林をアシストしてやれ」
 古田ならこの何倍もの速さで分析できるのにと、秀明は小林の無能ぶりを呪った。
 それでも秀明は、わずか二時間でシステムを奪い返して敵のシステムをクラッシュした。見守っていた研究チームの仲間達が、口々に秀明を褒め称える。それを適当に受け流していると、犯人逮捕の吉報が入ってきた。古田が、秀明の開発した追跡探知ソフトで逆探知に成功し、それが犯人逮捕に繋がったのだ。
 初めての犯人逮捕に、秀明は興奮した。ようやく叔父を殺した犯人に一歩近づいたのだ。これで<サモン・スペル >の入手経路、販売ルートを探ることができる。仲買人や密売屋の名前を吐かせて、根気強く糸をたぐっていけば、きっと叔父を殺した犯人に辿り着けるだろう。
 秀明は、目の前で息絶えた叔父を片時も忘れたことはなかった。今でもあの時の恐怖にうなされるほどだ。忘れたくとも忘れられるはずがない。今、秀明にとって犯人を捕まえることだけが、生きる目的だった。



    
        act.16
 一昨日、梅雨入りした東京は、うだるような暑さだった。秀明は、世界有数のコンピュータ・ソフト会社R&Kソフトの会長と、明日からの週末を京都で過ごすため、赤坂プリンスホテルのスイートにいた。会長のロジャー・サミュエル=ローガンは、亡くなった叔父の友人で、会うのは三年ぶりだ。
 秀明の叔父・霧乃紀時は、留学先の大学でロジャーと出逢い、R&Kソフトを設立した。R&Kの『K』は、霧乃のKだ。
 二人は一時期、恋人関係だったが、ロジャーの婚約を機に別れ、霧乃は共同経営者の地位を退いて、コンピュータ・アナリストとして独立した。別れてすぐ、霧乃に新しい恋人ができたこともあり、二人は再び仲の良い友人としてのつき合いを続けた。霧乃のロジャーに対する強い信頼は、遺言で自分の遺産の管財人にロジャーを指定していたことからもよくわかる。
 そして、霧乃が亡くなり秀明が遺産を相続したため、ロジャーが秀明の後見人になった。安全のためと称してペンタゴンの研究施設に軟禁されそうになった秀明を、父親のいる日本へ逃がしてくれたのもロジャーだ。
 時計はすでに午後十時二十分を指していた。予定では、ロジャーは十時までには戻るはずだったのだが――。
「コーヒーの、オかわりハいかがデスカ?」
 会長秘書のラルフが、片言の日本語で申し訳なさそうに聞いてきた。
「コーヒーより、ブランデーが欲しいな」
 悪戯っぽく微笑んだ秀明に、ラルフは困った顔をする。
「ダメです。アナタハまだ、コドモデショウ?」
「十八歳は、ステイツじゃ大人だろ?」
 拗ねたように言う秀明を見て、ラルフは苦笑し、「ネムクナッテモ知リマセンヨ」と、リビング・バーから極上のブランデーを持ってきてくれた。
 酔いが回った身体を、柔らかなクッションに預けてウトウトしていると、ようやくロジャーが帰ってきた。人の話し声と物音に、秀明は切れ長の細い目をぼんやりと開ける。すると目の前に懐かしいロジャーの顔があった。
「秀明、待タセテ、スマナイ」
 耳元で囁かれ、逞しい腕にきつく抱きしめられた。
「会イタカッタヨ! 私ノニホン人形サン」
 ロジャーは、秀明が十歳の時、ハロウィーン・パーティーで着せられた振り袖とおかっぱのカツラ姿に大感激して以来、こう呼ぶのだ。
 苦しいほどにぎゅうぎゅうと抱きしめられて、秀明は閉口する。再会のキスを交わして、やっと解放された。
『相変わらず忙しそうだね』
 疲れているであろうロジャーを気遣って、秀明が英語で話しかけると、ロジャーは大仰に肩を竦めてみせた。
『日本の接待には参ったよ』
 ロジャーはバーポン、秀明はブランデーで、再会の祝杯を上げた。秀明は陽気で精力的なロジャーが大好きだった。親子ほど年が離れているせいか、その穏やかな人柄のせいか、素直に頼ることができる。
『少しは幸せになれたかい?』
 ロジャーが慈しむような優しい目を向けた。
『知ってるくせに……。だから日本に様子を見に来たんだろう?』
『私で力になれることがあれば、何でも言ってくれ』
『ありがとう』
 口元が笑みの形に作られたが、漆黒の瞳は今にも泣き出しそうだった。
『なんだか疲れちゃった。もう、休むよ』
 秀明はグラスに残っていたブランデーを喉の奥に流し込むと、ふらつく足取りで立ち上がった。
『ベッドまで歩けるかい?』
『僕はもう十五の子供じゃないんだから大丈夫だよ』
 手を貸そうとするロジャーを秀明はやんわりと拒んだ。しかし、数歩歩いただけで脚を縺れさせて転びそうになる。慌ててロジャーの腕がそれを支えた。
『飲み過ぎたみたいだ』
 酔いに潤んだ黒目がちの瞳が、ロジャーを見上げる。ほんのり上気した滑らかな頬、厚くも薄くもない形の良い唇がわずかに開き、ちらちらと濡れた赤い舌を覗かせている。
 その目眩のしそうな艶めかしさに、ロジャーは下半身を直撃された。わずかに見つめ合った後、どちらからともなく唇を重ねる。それが合図だったかのように、秀明はロジャーの身体に縋りついた。
 翌朝、京都観光は、中止された。秀明がベットから起き上がれなかったからだ。そして秀明は、ロジャーが帰国する月曜の朝まで、飽くことなく情事に耽っていた。


 響を退院させるに当たり、医者は家族に数えれないほどの注意をした。憶えられなくて、紙に箇条書きしたほどだ。
 例えば、本人の同意なしに身体に触れないこと、よく知らない人間と二人きりにしないこと、たとえ笑い声でも側で大きな声を上げないこと、どんなことも決して無理強いしないこと、身の回りの物を本人の知らないうちに動かさないこと、大勢の人が集まる場所に連れていかないこと、知らない場所や暗闇に一人にしないことetc、etc。
 ルールを破れば呼吸困難を起こしたり失神したりする。下手をすれば元の錯乱状態に戻りかねない。そう厳しく注意されて、響は十ケ月ぶりに帰宅した。
「退院おめでとう」
 秀明は心底嬉しそうに響を見た。ただし、あまりじっと見つめるのは厳禁だ。
「ありがとう。やっぱり、うちはいいな」
 はにかむように響が微笑む。一時期、拒食症で骨と皮だけのように痩せてしまった身体には、ほんの少しだが肉が付いてきていた。
「ところで大学の推薦試験はいつなの?」
「来週だよ。毎日、頑張って試験勉強してる」
 秀明は、研究の第一線から退いて、日本の大学に入る事にしたのだ。
 六月に帰国したロジャーは、すぐに代理人の弁護士を寄越した。四菱の研究所で窮屈な思いをしている秀明を見ていられなかったからだ。
 あれこれ話し合った結果、千葉県に放置されていた母と叔父の生家を取り壊し、セキュリティーに贅を尽くした家を建てて移り住むことにした。秀明は成人するまで叔父の遺産を遺産管財人のロジャーの許可なしでは自由に使うことができなかったが、この出費に関してロジャーに異存はない。秀明は、叔父が遺してくれた時価数十億ドルのR&Kソフト株を一部売却して資金に当てた。
 さらにロジャーは秀明と契約を結び、秀明の開発した新しいクリーチャーやスペルといったプログラムをペンタゴンや日本の防衛庁に“正当な値段”で売りつけるという荒技までやってのけたので、秀明には毎月かなりの額の生活費とロイヤリティが入ることになった。
 ロジャーは、新しい家から通いやすい大学をいくつかピックアップし、大学へ通うことを勧めてきた。年相応の生活をするべきだというのが彼の意見だ。
 秀明は自分の研究業務をチームの仲間達に割り振って引き継がせると、九月中旬に家が完成するのを待って千葉に移った。それがつい先週のことだ。今は自宅で受験勉強に励む毎日だった。
 七歳で渡米し、十五歳で帰国した秀明は、漢字をほとんど書くことができない。英語で論文を書くことはできても、日本語は、ひらがなと自分の住所と名前を書けるだけだ。新聞は英字新聞を、メールやレポートは日本語ワープロソフトで書いていたので、今まで取り立てて不自由はなかったが、日本の大学を受験するとなれば、話は別だ。いくらIQが高くても、日本語の読み書きができなくては話にならない。
「秀明なら、どこの大学でも大丈夫だよ。だからあんまり勉強に根を詰めるなよ」
「わかってる」
「一人暮らしなんだろう? ちゃんと食べてるのか?」
 本当なら自分のことで精一杯のはずなのに、響は真剣に秀明を心配していた。
「うん、少しなら料理もできるしね、近くに気の利いた定食屋を見つけたんで重宝してる。出前もしてくれるんだ」
「秀明のうちって、ここから二時間近くかかるんだろう? 遠いなぁ……。でも、僕がもう少し元気になったらご飯を作りに行ってやるよ」
 秀明の前で、努めて明るく前向きに振る舞う響は、本当に健気だった。一昨日もまた発作的にリストカットしたという手首には、白い包帯が幾重にも巻かれているというのに――。
「二人とも、お昼ですよ」
 母親の薫が、作り笑顔で昼食の準備が整ったことを告げた。秀明は、薫と目を合わせないよう、そっと顔を伏せる。彼女にしてみれば秀明は疫病神で、響に近づけたくない人物ナンバー1だ。それに気づいた響が、秀明の手をそっと握ってきた。大丈夫、気にするなと。響の優しさに、秀明は涙が零れそうになるのを懸命に堪えた。


 夜遅く、秀明が千葉の自宅に戻ると、江口からハワイの絵葉書が届いていた。ハネムーンの土産選びに付き合わされてうんざりしていると綴られたその葉書を、秀明は楡で作られた瀟洒な箱に大切に入れた。
 江口に出会ってもうすぐ一年になる。初めは江口の見透かすような目が嫌いだった。皮肉屋で毒舌家で、講釈や議論が大好きな男。堅物で垢抜けなくて気が利かない男。それが江口に対する秀明の評価だった。
 しかし江口の不器用な優しさや、男としての気骨を知り、信頼が生まれた。決してスマートで気の利いたことは言えないが、誠実な態度で包み込むように接してくれる江口が好きになった。だが江口には、堅い絆で結ばれた恋人がいた。
 江口は先週、八年付き合ったその女性と結婚したのだ。仲人を務めた上司の配慮で、しばらくは秀明の護衛を外れてデスクワークに専念することになっている。
 生きているのが辛くて泣きたい夜、優しい抱擁で静かにあやしてくれた江口は、今その腕に最愛の妻を抱いている。あの腕はもう自分のものではないのだ。それがどうしようもなく淋しくて、秀明は両腕で自分の身体をそっと抱いた。
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