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 BLANCHE 小説目次
オーバードライブ(第三部)     月桜可南子 
          act.41
 季節は夏を迎えていた。その夜、R&Kソフト日本支社ビル落成記念パーティーで、秀明はイタリアン・スーツをさらりと着こなし、年配の重役達を相手に臆すことなく振る舞っていた。秀明が、 一緒にプロジェクトを進めている仲間を紹介したいと言うので、仁も出席したが、仁はこういう社交パーティーが苦手だった。
 何人もの男女に次々と紹介され、秀明が彼らと談笑を始めると、仁はそっと壁際へ移る。見知った顔もなく退屈で、先に帰ろうかと考えていると、視線に気づいた。
 その男は、反対側の壁際でビールを飲んでいた。年の頃は三十代後半。身長は仁と同じくらいで185Cmはあるだろう。スラリとした身体は細身だが決して華奢ではない。まるでヒョウを思わせる俊敏そうな身体つきだ。端正でクールな面立ちをしているが、切れ長の目と薄い唇が、酷く残忍そうなムードを漂わせていた。
 男は、仁と視線がかち合うと、長い前髪をうざったそうに掻き上げて、蔑むように頬を緩めた。その心臓が凍り付くような凄みのある冷笑に、仁はたじろいだ。同時に不条理な憎悪が込み上げてきて、人混みをかき分けてツカツカと男に歩み寄る。
「失礼、どこかでお会いしましたか?」
「いいえ、憶えがありませんが」
 無機質な、感情の欠片も感じられない声が応えた。静かに仁を見つめる男のまなざしは、ぞっとするような虚無をたたえている。そのあまりの禍々しさに、仁は恐怖に駆られて目を逸らした。 人間を恐ろしいと思ったのは生まれて初めてだった。
「すみません、失礼します」
 仁は居たたまれなくて、そそくさとその場を逃げ出した。


 帰りのベンツの中で、仁がふさぎ込んでいると、秀明が心配そうに話しかけてきた。
「ずいぶん疲れたみたいだな。付き合わせてゴメン」
 仁は、秀明にあの男の事を話そうかと一瞬考えたが、自分の間抜けな行動を思い出して止めた。
「いや、久しぶりに華やかな席に出て楽しかったよ」
「そう」
 小首を傾げてニッコリ微笑む秀明は、仁の好きな可憐で楚々とした風情を漂わせ、静謐な美しさがあった。ベッドでの妖艶で淫乱な秀明を知っているだけに、その落差の激しさには驚くばかりだ。
「さすがに会長のローガン氏は来てなかったな」
「ロジャーを知ってるの?」
 秀明は少し驚いた顔をした。以前、ロジャーと寝た事がバレたら拙いと思ったのだ。
「ああ、パーティーで何度か会ったことがある」
 養父の主催するパーティーでとは言えず、仁は言葉を濁す。秀明は、仁の養父・ダグラス=レーエンを毛嫌いしているからだ。
「そっか、けっこう顔が広いんだな」
 秀明が意外そうに仁を見やる。顔が広いのは仁の養父であって、仁ではないのだが、これも言わずに仁は胸の内に留めた。
「R&Kの会長を知らない奴はいないよ」
 秀明にしてみれば、ロジャーは幼い頃から知っている、セックスの巧い、頼りがいのあるエロオヤジにすぎない。「ふうん」とつまらなさそうに応えたきり、疲れたように目を閉じて黙り込んだので、 仁は運転手に気づかれないようこっそり秀明の手に自分の手を重ねて、その温もりに安堵した。


 八月の初め、秀明が異母兄の響が泊まりに来るため、仁の家には行けないと電話してきた。秀明が車の免許を取るため忙しくて、先週末も“お預け”だったので、仁は心底がっかりした。 せめて顔だけでも見たいと、秀明の家を訪ねることにする。
 千葉にある秀明の自宅は、常時SP(要人警護に当たる警察官)が詰めていて、仁は彼らが気になって秀明をそこで抱くことができない。さすがに、寝室やバスルームといったプライベート・ルームには監視カメラこそ設置されていないが、赤外線センサーと感熱モニターはしっかり設置されていて、落ち着けないのだ。
 秀明は、仁を寝室に入れる時、必ず枕元のコントロールパネルでモニターを切ってくれるが(それでも用心のためベランダと窓の赤外線センサーは切らない)、小心者の仁はどうしてもペッティング以上のことができない。一度、秀明が極上のフェラをしてくれたが、階下のSPを気にする仁が、一向に達しないので怒りだしたほどだ。
 もっとも神経症の響は、このルーブル美術館並の監視システムがいたくお気に召したようで、月に一度は泊まりに来ていた。それに対して、恋人の仁が泊まったのは、この一年八ヶ月でほんの三回だ。 
 秀明の自宅は交通の便が悪く、移動を車に頼ることになるため、駐車スペースを四台分も設けてある。そこに見慣れない赤のコルベットを見つけて、仁は響のアッシーをしている明良が車を買い換えたのだと思った。
「あれ? 明良は来てないのか?」
 仁が居間に顔を出すと、秀明と響が身を寄せ合って何やらヒソヒソ話をしていた。そうしていると黒と白の子猫がじゃれ合っているようで、なんとも微笑ましい。
「明良なら帰ったよ。明後日、響を迎えに来るけど?」
「じゃあ、おもてのコルベットは明良のじゃないんだ」
 仁が怪訝そうな顔をする。
「あれは俺のだよ」
「えっ!? まだ免許が取れてないのに、もう車を買ったのか?」
 仁の呆れたような物言いに、秀明はムッとして言った。
「あれは買ったんじゃなくてもらったんだ。俺があんな派手な車を買うわけないじゃん」
「もらったって誰に?」
 突っ込まれて、秀明はしまったという顔をした。仁の顔が強張る。
「……ロジャーだよ」
 秀明は仕方なく白状した。気まずいムードに響が身を竦めている。
「R&Kの会長ローガン氏のことか? 個人的なつき合いがあるのか?」
 仁は、響の手前、言葉を婉曲(えんきょく)させたが、本当は「ローガンとどういう関係なんだ?」と訊きたかった。秀明もそれがわかっているので、何とか仁の怒りを静めようと弁明する。
「叔父の友人だったから、そのよしみでよくしてもらってるよ。それに彼は、俺が二十歳になるまでの遺産管財人だったし、今でも俺の後見人なんだ」
 ロジャーとは、過去に数回寝たのは事実だが、仁と付き合うようになって完全に切れた。秀明は仁の疑いを晴らそうと饒舌になる。
「彼が今度、日本に来た時は、三人で食事しよう。大らかで陽気で、ひょうきんなオヤジだよ。子供がいないから、俺のこと実の息子のように可愛がってくれてるんだ」
 ロジャーが秀明を養子に望んでいるのは本当だ。しかし毎年クリスマスや誕生日に送られてくる、コルベットの新車なんかとは比べものにならない高価な時計や宝石といったプレゼントは、この際内緒にしておく。
 仁はなおも疑わしそうだったが、怒りの矛先を納めて、それ以上の追求を止めた。これ以上、響を怯えさせるわけにはいかないからだ。
 繊細な響は、ちょっとしたことで呼吸困難を起こしたり、パニックになったりするのだ。何回も顔を会わせるうち、やっと仁にも馴染んできたのに、秀明と喧嘩するのを見せたら心を閉ざしてしまう。
 現に今も、響は自分が責められたかのように怯えている。少女みたいな愛らしい顔は青ざめ、まるで苛められた、いたいけな子供を見るようで、仁は胸が痛んだ。秀明より三ヶ月年上で、来月には二十一歳になる というのに何という幼さだろう。仁が作り笑顔で響に微笑みかけると、響はやっと少し安心した表情を浮かべた。



          act.42
 夕食の席で、響は春から通い始めた学習塾の大学検定コースで知り合ったという男の話を熱心にした。
 家庭が貧しくて高校に行けなかったというその男は、好きな女性にプロポーズするに当たり、大学検定を取ることにしたのだという。塾などに通わなくても充分受かるくらい頭が良くて、欠席しがちな響に何くれとなく世話を焼き、気を配ってくれるらしい。
 優しくて頼りがいのある男に、響はすっかり夢中になっていた。これでは明良が、さぞヤキモキしているだろうと、仁は人ごとながら気の毒になった。なにしろ明良は幼稚園で響と出会って以来、 ずっと響を想い続けてきたのだから。


 空調の効いた仁の寝室は、眩しいほどの陽光に溢れていた。
「きれいだ……秀明…あぁ、秀明――」
 柔らかな官能的な声で囁かれ、秀明はのし掛かってくる仁を柔らかく受け止める。しかし、時間が気になって、ちらりと枕元の目覚まし時計を見た。後二十分で出かけなければ遅刻してしまう。これから遠縁に当たる霧乃製薬会長の葬儀に出席しなければならないのだ。
 付き合って二年近くになるというのに、秀明より二つ年上の恋人は相変わらず垢抜けないセックスをする。煽ることも焦らすこともせず、ただがむしゃらに身体を繋いで揺さぶり、頂点を目指すのみだ。そこには技巧らしいものは一切存在しない。それでも、好きな男に抱かれる喜びは大きくて、秀明はいつでも仁の望むままに抱かれた。
 今も、喪服姿の秀明に欲情した仁が強引に求めてきたので、秀明は喪服がシワになるのを怖れて慌てて脱ぎ捨てた。いつになく興奮した仁に、性急に貫かれ、微かな痛みを覚えながらも、搾り取るように仁を締め上げて吐精を促してやる。
「あっ、秀明! ダメだ……ああッ!!」
 身体の奥深くで仁が弾けるのを感じる。汗が滲む仁の額に優しくキスをして、秀明は荒い息のまま繋がりを解いた。
「秀明……」
 仁が、中途半端に勃ちあがった秀明のモノに手を伸ばしてくる。それをやんわり押しとどめて、秀明は微笑んだ。
「もう時間ないんだ。自分でする」
 驚いた顔をした仁をその場に残して秀明はバスルームに駆け込むと、手早くシャワーを浴びながら自分の手で抜いた。そして何もなかったかのように、きっちりと喪服を身につけた。
 まだ、だらしなくベットに伸びている仁の頬にもう一度啄むようなキスを落とす。仁は、しょんぼりとした様子で「付き合わせて、すまない」と詫びてきた。
「今夜、埋め合わせしてくれるだろう?」
「ああ、もちろんだ」
「それじゃ、行って来るよ」
 今度は軽く唇を合わせて、チュッと音をさせる。仁が照れ臭さそうに笑った。


 亡くなった霧乃太一郎は、秀明の祖父の兄に当たる人物で、弟の遺児である理鎖(秀明の母)と紀時(秀明の叔父)を大層可愛がってくれた。後継者にと考えていた紀時が、アメリカで会社を設立する時も、快く資金を貸してくれ、紀時はいつも太一郎に感謝していた。理鎖は身体が弱く、体調を崩す度、太一郎の一人娘・笙子が、親身になって面倒を見てくれた。秀明は何度、笙子に預けられたかしれない。
 理鎖や紀時が亡くなった時、秀明がまだ未成年で、秀明の父親が再婚したこともあり、彼らの位牌は霧乃家に引き取られた。葬儀も法要もすべて霧乃太一郎が執り行った。
 秀明自身は、霧乃太一郎と直接的な交流はなかったが、この人格者に深く感謝していることに変わりはない。大恩ある人物の死に、秀明は涙した。
「君は理鎖ちゃんの息子さんだね?」
 精進落としの会食で、秀明は右隣に座った老人に話しかけられた。
「はい――あなたは?」
「私は故人の友人で、町医者をしている。私が君のお母さんや叔父さんを取り上げたんだよ」
 とうに七十を越しているであろう老医師は、口元を綻ばせて秀明を見つめていた。
「君は、紀時君に似ているね。血は争えん。今となっては、君が唯一のご神樹様の血脈というわけだ」
「どういうことですか?」
 秀明が怪訝そうに首を傾げる。
「君のおばあさんは、ちょっと変わった女性でね、自分はご神樹様の末裔だと信じてたんだ。そんな風変わりな女との結婚は認められないと、君のお爺さんは随分、結婚に反対されたそうだが、周囲の反対を押し切って駆け落ちしてしまった。 彼女は本当に美しかったからね、その価値はあったと思うよ。結局、子供が産まれて親御さんも折れたしな」
「あのぅ……何ですか、その“ごしんじゅさま”って?」
 そんな話は、母からも叔父からも聞いたことがなかったので、秀明は思いっきり胡散臭げな目をした。
「さあ、私も知らないんだ。彼女は無口で物静かな女性だったからね。ただ、理鎖ちゃんが生まれて女だと知ると猛烈に怒りだして大変だった。男でなければご神樹様の力は宿らないってね。だから紀時君が生まれたときは本当に嬉しそうだった。しかし可哀想なのは理鎖ちゃんだよ。ろくに母親から話しかけてももらえず、いつも淋しそうにしていた」
 秀明は不意に、自分を怯えた目で見る母親の顔を思い出して気が滅入った。彼女は人並みはずれた知能を持つ、幼い息子を化け物のように畏れていたのだ。
 そもそも秀明の女性に対する根強い不信感は、母親に起因するところが大きい。いくらノイローゼだったとはいえ、わずか八歳の秀明の首を絞めて殺そうとしたのだから、それは当然と言えよう。
 老医師は秀明の沈んだ顔を無視して話し続けた。
「それにしても紀時君が亡くなって本当に残念だよ。霧乃君は彼に賭けていたからね。こう言ってはなんだが、娘婿の拓磨君は、凡庸で人が良すぎる。この不況を無事乗り切っていけるかどうか心配だ。明治時代から続いた“薬の霧乃”も彼の代で終わりかもしれないな」
「失礼、外に人を待たせているので」
 秀明は、棺桶に片足を突っ込んだような年寄りから、これ以上くだらない昔話や愚痴を聞かされるのは堪らないとばかり、そそくさと席を立った。

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          act.43
 仁に昼間の“埋め合わせ”をたっぷりしてもらい、秀明はしどけなくシーツの海に漂っていた。葬儀の疲れが出てウトウトしていると、響からの電話で起こされた。
「明良と喧嘩しちゃったんだ」
 響の声は暗く沈んでいる。
「今夜、秀明の家に泊めてもらえないかな? うちだと明良が来るから……」
 よっぽど明良と顔を会わせたくないらしい。秀明の知る限りこんな事は初めてだ。何を喧嘩したのだろうと思いながら、秀明は承諾した。
「迎えに行くよ。今、どこ?」
「夏目さんに送ってもらうからいい」
「夏目さんて例の塾の友達?」
「そう、彼も一度、秀明に会いたいって言うし」
「わかった。待ってるから」
 携帯を切ると、秀明は速攻で身支度を整えた。仁に訳を話して、初心者マーク付きの愛車で自宅に戻る。
 仁の家から、秀明の自宅まで車で約三十分の距離だが、すでに見慣れぬカローラが来客用駐車スペースに泊まっていた。
「響!! 待たせてゴメン!」
 秀明が駆け寄ると、響がにこやかに助手席から降りてきた。他人との接触が苦手で、車に乗る時はいつもバックシートに座る響が珍しいこともあるものだと秀明は驚いた。
「平気、ついさっき着いたところだから。それより、八神さんの所に行ってたんだ? 呼び戻しちゃってごめんね」
 申し訳なさそうに詫びる響は、夜目にもはっきりとわかるほど恐縮していた。
「かまわないよ。響ならいつでも大歓迎なんだから」
「あ、夏目さんを紹介するね。夏目さん、ちょっといい?」
 呼びかけられて、運転席の暗がりから男が降りてきた。野生の獣を思わせる身のこなしに、秀明の目が細められる。
「夏目さん、これが弟の秀明です。秀明、彼が塾でお世話になってる夏目圭介(なつめ・けいすけ)さんだよ」
「君のことは響君からいつも聞いてるよ」
 そう言って響の華奢な肩を抱いた男を、秀明は冷水を浴びせられたようなショックで凝視した。身体が小刻みに震えるのを止めることができない。男はそれを見て、嘲笑するかのように口元を引き上げた。
「兄を送っていただき、ありがとうございました」
 秀明は、掠れた声でようやくそれだけ絞り出した。


 男が帰って、居間に落ち着いた秀明は、響の顔を覗き込むようにして問い糾した。
「響は、あいつと寝たの!?」
 途端に響の瞳にサッと動揺の色が走り、白い頬が赤らむ。秀明の身体を凶悪な予感と戦慄が駆け抜けた。
「……僕、夏目さんが好きなんだ」
 琥珀色の瞳を潤ませて響が秀明を見た。少女めいた愛らしい顔立ち、色素の薄い髪や瞳、ふっくらとした柔らかそうな唇、ぬけるように白い肌、筋肉とは無縁の折れそうに細くて華奢な身体、 どれも男を知っているとは思えないあどけなさだ。この身体をあの男が抱いたのかと思うと、秀明は怒りで腑(はらわた)が煮えくり返りそうだった。
「その夏目という名前は偽名だ。戸籍ネットワークにでも侵入して手に入れたか、偽造したか……。あいつは、ある事件で死んだことになってるハッカーなんだ。危険だから、もう、あいつに近づいちゃダメだ!」
「秀明、どうしてそんなこと――夏目さんのこと、何も知らないくせに!」
 響は怒りを込めて秀明に抗議した。普段、大人しい響だけに秀明はその反応にカッとした。
「知ってるさ!! あいつは十四だった俺をクスリとセックスで縛り付けて、スイス銀行のネットワークから裏金を盗み出す手伝いをさせたんだ!」
 秀明の大声に響が身を竦ませた。大きく目を見開いたまま硬直している響に秀明は慌てた。
「響、息をして! ごめんよ、脅かすつもりはなかったんだ」
 響は秀明に背中をさすられて、ようやく浅い呼吸を繰り返し始める。
「平気……ちょっと…驚いた…だけ………」
 懸命に呼吸を整えながら、響は微笑んで見せた。
「きっと人違いだよ。確かに、昔はずいぶん酷いことをやってきたって、彼も言ってた。でも今は、それを後悔して真剣にやり直そうとしてるんだ。僕は彼を信じたい」
 響は恋する者の一途さで、男を信じ切っている。秀明は、何を言っても無駄だと悟った。
「もう遅い。早く寝よう」
 響を落ち着かせるよう、秀明は優しい声で話を打ち切った。
 響が風呂に入っている間に、秀明は和室に布団を二つ並べて敷いた。響は暗闇を怖がるので、いつも煌々と蛍光灯の明かりを付けたまま、手を繋いで眠るのだ。
 布団を敷き終えたその時、電話が鳴った。手近にあった階段ホールの受話器を取ると、案の定、あの男からだった。
「秀明、六年ぶりの再会なのにつれないな」
「響に何かしたら殺してやるっ!!」
 秀明は目の前に相手がいたら掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。受話器の向こうから、嫌みをたっぷりと含んだ笑い声が聞こえた。
「なあ、響はあいつに似てると思わないか?  繊細で、無垢で、すべてを許し与えて、他人の痛みに共鳴する。おまけに欲望や穢れに鈍感で、無責任に優しいところまでそっくりだ」
「響を……彼の身代わりにするつもりか?」
「あいつは死んだのに、なんでおまえだけ生きてるんだ? おまえを庇ったりしなけりゃ、あいつは死なずに済んだのに……。そうだ、響に話してやろうか? おまえがどうやって俺達の仲を引き裂いたか」
 まるで呪詛のような男の言葉に、秀明は恐怖に駆られて受話器をフックに叩きつけた。背中を冷たい汗が濡らしていた。酷い喉の渇きを覚え、秀明は唇を噛みしめる。
 その時、響がサニタリールームからひょっこり首を出して「どうしたの? 明良から?」と訊いてきた。それに「仁からだよ」と笑って返すと、響は落ち着かない様子で引っ込んだ。
 秀明は立っていられなくなって、ズルズルとその場に座り込んだ。嵐の予感に怯えながら、膝を抱いてうずくまる。不安で堪らない時、思い浮かべるのは、恋人の仁ではなく、叔父の優しくて力強い抱擁だ。永遠に失われた安住の地を求めて、秀明は今も藻掻き続けていた。



          act.44
 次の日、秀明は喫茶店に井上明良を呼び出した。明良が響に手を出したのを知って以来、明良とは口を利いていなかったが、もはや意地を張っている場合ではなかった。今、頼れるのは明良だけだ。明良なら、命がけで響を守ってくれる。
 指定の時間ビッタリに現れた明良は、憔悴して項垂れていた。響に避けられているのがよほどこたえているらしい。幼い頃から空手で鍛えた巨体には、いつものような覇気はなく、力無く肩を落としていた。
「響と喧嘩したのか?」
「俺が悪いんだ。俺がつまんない嫉妬で、疑ったから……」
 秀明の毒舌でなじられるのを怖れて、明良は早々に白旗を揚げる。
「いい勘してるな」
 秀明が、切れ長の目を細めてほくそ笑んだ。
「えっ!?」
「あの夏目って男は、危険な男だよ。本名は九条希久と言って、筋金入りのゲイで、おまけにサディストさ。お人好しで世間知らずの響に、いくら言っても信じないだろうけどな」
 明良は、一重の細い目を見開いて秀明を凝視した。秀明の逆鱗に触れないよう細心の注意を払いながら口を開く。
「あいつと知り合いなのか?」
「――俺の…初めての男」
 秀明は自嘲気味に笑った。どこか荒んだものがある乾いた笑いだった。
「当分の間、響と二人、うちで暮らせ。そして響から絶対に目を離すな。あの男は響に何をするかわからない」
 真顔で秀明に言い渡され、明良は反論の余地もなく頷いた。
 秀明の取りなしで、明良と響は仲直りした。それは以前の友人関係に戻るという、秀明には理解しがたい和解だったが、以前のように、どこへ行くにも一緒に行動している。
 二人がキッチンテーブルで、額をくっつけるようにして大学検定問題集を覗き込んでいる姿は微笑ましかったが、明良の葛藤を思うと、秀明は同情せずにはいられなかった。

 
 昨年から、秀明はR&Kソフトが開発中の新しいOSの開発にスーパー・バイザーとして携わっていた。開発主任やプロジェクトチームのメンバーから理論的な問題点や疑問の相談を受け、解決に方向を示してやるのが仕事だ。自身は学業優先で、実務的な開発には携わっていない。
 プロジェクトチームのメンバーは、総勢、約百二十名で、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本などの先進国各地に散らばっており、メンバーが一堂に会すことはない。だが、毎月、NY、ロンドン、 フランクフルト、東京の各支店を順番に会場として、定期報告会が開かれていた。
 今月は日本支社が会場で、秀明も出席した。四カ月前の定期報告会で親しくなった数少ない女性の友人、路林環(みちばやし・たまき)に会えるのが楽しみだった。
 環は、今年三十二才になる情報処理検定一級を持つ優秀なプログラマーで、ボーイッシュなショートカットと、鼈甲メガネがトレードマークのキュートな女性だ。裏表のない性格で、女性にありがちな拗ねたり甘えたり縋ったりといった嫌らしさがないので、秀明も安心して付き合うことができた。こういった自立した女性は近年増えているが、まだまだ稀少だ。
「お久しぶり、佐藤くん!」
 環は、ボルドー色のミニスカートから細い足を覗かせながら、大股で秀明に歩み寄った。
「こんにちは、環さん」
「この後、懇親会があるんだけど、君も参加しない?」
「いいですね。何時から?」
「十八時三十分から、この近くのレストランを貸し切りでね。今夜はあたしの十五回目の失恋記念パーティーも兼ねてるの。パァーと飲みましょうね!」
 失恋した割には、あっけらかんと環は笑っていた。失恋も十五回目ともなると、何か突き抜けてしまうものなのだろうか。仁に浮気を責められて別れる寸前まで行った時の自分とは大変な違いだ。女って強いなぁ……と妙に感心しながら秀明は「お手柔らかに」と返した。
 懇親会で、環は文字通り浴びるように酒を飲んだ。暴れたり絡んだりこそしなかったが、酔って足腰が立たず、トイレでもかなり吐いたようだ。秀明は、環の後輩の早苗とふたりで介抱していたのだが、早苗が門限を気にしだしたので先に帰し、SPに手伝ってもらって環をマンションまで送り届けた。
「ごめんねぇ、佐藤くん。こんなつもりじゃなかったんだけどぉ……」
 何とか環をベッドに寝かしつけ、ホッとしたその時、秀明は白いローテーブルに伏せられた写真を見つけた。一度ビリビリに破かれ、それを思い直したように裏からもう一度セロハンテープで貼り付けてある。理性の固まりのような環をこれほどまでに惹きつけた相手の顔を見たくて、秀明はそれを手に取った。
「!!」
 驚きの余り、声にならない叫びが喉をついて零れる。それは、環とあの男、九条のツーショットだった。
 秀明は環に秘密で、入念に環のコンピュータと交信記録を調べさせた。しかし九条が環のコンピュータをいじった形跡も、環のパスワードを使って不正アクセスした形跡も見つからなかった。
 秀明は、九条が女に興味を持った(しかも結婚を前提にしたつき合いだった)のに驚きながらも、二人が単なる男女の関係だったと結論づけた。さすがに九条の新しい恋人が男で、しかも自分の腹違いの兄だとは、恐ろしくて環には話せなかったが――。



          act.45
 響は少し苛ついていた。どこへ行くにもピッタリと明良が張り付いて離れないので、塾で夏目(九条)に会っても、二人きりになるどころか話さえままならない。 淋しさが募り、響は秀明や明良の目を盗んで、こっそり夏目に会う約束を取り付けた。
 早朝の公園で、自分を待つ男を見つけて、響は胸が高鳴った。肩に付きそうなロングストレートの黒髪に、シンプルな白い木綿のシャツとジーンズという出で立ちの男は実際の年令より遙かに若く見える。着痩せして見えるが、うっすらと筋肉の付いた身体は、バネのようにしなやかで強靱だった。
「夏目さん!」
 小走りに駆け寄ってくる響に、男は目を細めた。前髪を無造作に掻き上げる仕草が憎いほど様になっている。
「やあ、おはよう」
「すいません、遅くなって」
 息を切らしながら笑いかける響は、いじらしいほどにひたむきだった。全身で愛していると訴えているようだ。
「もう、こんな風に隠れて会うのは嫌だな」
 男が、ぽつりと言った。響の顔から笑顔がかき消えて、哀しみに青ざめる。
「一緒に暮らさないか?」
 男の言葉に、響は絶句し、まじまじと男の精悍な相貌を見返した。
「響、焦らすなよ。返事は?」
 苦笑する男に、響は返事の代わりに飛びついてキスをした。


 男と暮らすと言う響に、秀明は腰を抜かさんばかりに驚いた。明良は何も言わず唇を噛みしめている。
「響……もう少し冷静に考えてからの方がいい」
「ごめん、秀明。もう決めたんだ」
「明良っ!! 何とか言えよっ!」
 秀明は助けを求めて明良を振り返った。口元を真一文字にひき結んでいた明良がようやく口を開いた。
「響が決めたことなら反対しないよ。でも、辛くなったら必ず俺達のところに帰ってきて欲しい。苦しいことは一人で抱え込まないで、必ず相談して欲しい」
 明良の言葉に秀明がきつい目を向けたが、明良は動じなかった。
「荷物運ぶの手伝うよ」
「明良、ありがとう。約束するよ、何かあったら必ず相談するから」
 幸せそうに笑う響を、秀明は不安一杯に見ていた。今、響に自分と九条の過去を話したら、信じるだろうか? きっと恋にのぼせている響は信じないだろう。九条に言いくるめられてしまうのがオチだ。
「わかった。響の好きにすればいい」
 秀明は諦めたように言うと踵を返して自室に戻った。


 九条のことを何も知らない仁は、秀明から響の話を聞いて、とても喜んだ。
「初めて会ったときは、指先が軽く触れただけで、パニックになってたのに、すごい進歩じゃないか。相手が男ってのはちょっと問題があるかもしれないけど、響くんを愛して、大切にしてくれる奴なら、それも関係ないさ」
 「お祝いに、とっておきのワインを開けよう」と言う仁を、秀明は複雑な想いで見ていた。この場で洗いざらいぶちまけて、すっきりしたいという誘惑に駆られながらも、秀明は仁に軽蔑されるのが怖くてできなかった。
   

 響が男のマンションに移って二週間ほど経った深夜、秀明は男の家の電話にダイヤルした。できれば二度と声など聞きたくなかったのだが、響が心配で堪らなかったのだ。
「響は元気か?」
 秀明の怒りを押し殺した声に、男は喉の奥でくつくつと笑った。
「いい身体だ。楽しませてもらってる」
「下衆野郎!!」
 怒りで目の前が真っ赤になりながら秀明が叫んだ。しかし男は、なおも愉快そうに笑い続ける。
「安心しろ、おまえを調教したときのような手荒な真似はしていない」
「何が目的だ!? どうすれば響と別れてくれるんだ!?」
「――紀時を返せ!」
 地の底から響くような暗い声が言った。
「それは……」
 秀明は絶句し狼狽えた。
「おまえが俺を罠にハメなければ、俺達は別れることもなかったんだ。あんな風に憎みあったまま、あいつに死なれた俺の気持ちがわかるか? 響は、俺がやっと見つけた“贖罪の天使”だ。もうおまえには渡さない」
 そして男は、禍々しいほどの憎悪を込めて囁いた。
「それとも、もう一度、昔と同じ手口で俺達を別れさせるか? 響の目の前で、俺に抱かれて見せる勇気が、おまえにあるか?」
 秀明はゾッと背筋を凍らせて電話を叩き切った。恐怖で身体がガタガタと震える。
 男は、秀明を苦しめたいのだ。やり場のない大き過ぎる怒りと後悔を、秀明にぶつけたいのだ。六年前、怒りにまかせて秀明を誘拐したあの時と同じように――。


 R&Kの新しいOS“バイオ”スが完成した。秀明はその打ち上げパーティーに出席したものの、気分が優れず途中で帰ろうと思った。あれから一週間、響が心配でほとんど眠っていない。睡眠不足で身体がふらふらとする。下手にアルコールを飲んだら悪酔いしそうだ。
 駐車場で愛車に乗ろうとしたところで、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「佐藤くん、もう帰るの?」
 振り返ると、環が細い脚が透けて見えるセクシーなドレスで着飾っていた。デップで固めたベリーショートの髪は軽くブリーチされ、アンティークの大きなイヤリングがエキゾチックな色香を醸し出している。
「環さん、遅かったですね。もう、乾杯は終わっちゃいましたよ」
「彼と待ち合わせに失敗しちゃって遅刻したの」
 茶目っ気たっぷりにぺろりと舌を出す環は生き生きとしていた。
「彼氏できたんだ」
「実は、前の彼と復活しちゃったのよ」
 そう言ってウインクする環の後の暗闇に、秀明は九条の姿を認めて息を呑んだ。



          act.46
 逃げるように自宅へ戻った秀明が、響がいるのに二股をかけるなんて許せない! と憤慨していると、明良から電話が掛かってきた。
『響から、夏目さんが浮気してるかもって相談されたんだ。どう思う?』
「事実だよ。さっき女と一緒の所に出くわしたから」
 秀明は吐き捨てるように答えた。
『それ、響には言うなよ』
 明良が、心配そうに言う。
「なんでさ? 別れさせるのにいい機会じゃないか」
『そんなこと言ったら自殺しかねないくらい思い詰めてるんだ』
「酷いのか?」
 途端に秀明の声が曇った。
『……すごく痩せて、顔色も悪い。あんまり眠ってないみたいだ。たぶん環境が変わったせいだと思う。それに追い打ちをかけるように心労が重なって、神経症が酷くなってる』
 明良の話を聞いて、秀明は居ても立ってもいられず、そのまますぐ響の元へ車を飛ばした。幸い男はパーティーで居ない。
 秀明の顔を見ると、響は驚いたように目を見張った。だが秀明の訪問が、男との同棲を認めるものだと思ったらしく、嬉しそうに秀明をマンションに招き入れる。
 2DKの冷え冷えとした殺風景な部屋は、散らかってこそいなかったが、酷く居心地の悪いものだった。どこか人間を拒絶するかのような雰囲気は、まるであの男の内面を表しているみたいだ、と秀明は思った。
「夏目さんは、仕事で遅くなるって言ってたから、ゆっくりしていってよ」
 紅茶を運んできてくれた響からは微かにウイスキーの匂いがした。
「響、飲んでるの?」
 眉を寄せた秀明に、響は恥ずかしそうに頬を染めた。
「えっ!? あ、わかる? ナイト・キャップに少し飲むようになったんだ」
 だが、精神安定剤を飲んでいる響にアルコールは厳禁だ。
「いつもの薬、ちゃんと飲んでる?」
「ん、今、切らしちゃってて……」
「病院に行ってないのか!?」
「平気だよ、体調いいから」
 響はにっこり笑って見せたが、土色の顔は目の下にクマができ、お世辞にも体調がいいとは言えない。
「明日、車で病院まで送るから一緒に行こう。何時がいい?」
「ダメだよ。僕がここにいなくちゃ、夏目さんが淋しがるもの」
「昼間は仕事で居ないんだろ?」
 男は、小さなソフト制作会社でプログラマーをしているという話だった。
「そうだけど、いつ帰って来てもいいように待っていたいんだ」
 響は頑なだった。これは幻聴や妄想が始まる前兆だ。しかし無理強いは禁物だ。秀明は、医師に往診を頼むことにした。
 翌日の午後、秀明が無理を言って往診してもらった主治医は、響に自宅療養か短期入院を勧めたが、響は頑として聞き入れなかった。医師は仕方なく、薬だけはきちんと飲むようきつく言い置いて帰って行った。
 秀明は一日、響に付き添い、男の帰りを待った。会うのは恐ろしかったが、響の為にもきちんと話し合わねばならない。
 男は深夜十一時を過ぎても帰ってこなかった。渋る響に、医師から処方された睡眠薬を飲ませて、先に休ませる。ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら待っていると、やっと午前一時近くに男が帰って来た。
 秀明を見た男は、冷たい一瞥を送っただけで興味なさそうに隣室のソファーに身体を投げ出した。
「環さんと一緒だったの? あの女性ならいいパートナーになってくれるよ。だから響はもう解放してやってよ」
 ドアに寄りかかるようにして立っている秀明に、男は蔑みの目を向けた。
「なんでそんな所に立ってるんだ? こっちへ来いよ。俺が怖いのか?」
「あんたがひと言、言ってくれれば、響は諦められるんだ。女ができたから別れてくれってね」
「もう一度だけ言う。俺と話し合いたいなら、そんな所に立ってないでこっちへ来い」
 男は、苛立ちを隠そうともせず言い放った。仕方なく秀明はソファーに歩み寄る。それでも男から1メートル半の距離を置くのは忘れない。男はそれを見て忌々しそうにフンと鼻を鳴らした。
「あの女は、響の代わりに抱いてる。響はセックスを怖がるからな。これでもおまえに気を使ってやってたんだ」
「響は、女の存在に気づいて体調を崩してる。もう限界だ」
 秀明は男を咎めるような強い口調で言った。
「それで俺に悪者になれってのか、秀明?」
 憎悪に満ちた暗い瞳を向けられ、秀明はたじろいだ。無意識のうちに後退る。
「おまえが俺を楽しませてくれるなら、響と別れてやってもいいぞ。おまえは俺が仕込んだ最高のオモチャだからな」
 残忍な笑いを浮かべて男が囁いた。秀明は恐怖に駆られて廊下へと逃げ出した。しかしそれを追うように男の声が告げた。
「逃げたければ逃げろ。俺は遠慮なく俺のやり方で響を抱く」
 秀明は、その場に凍り付いた。蛇に睨まれた蛙のように動けないでいる秀明を、男の腕が乱暴に引きずってソファーに連れ戻す。
「自分で脱げよ、見ててやるから」
 冷酷な声に命じられ、秀明はのろのろとシャツのボタンに手をかけた。悪夢が、始まる。

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          act.47
 秀明は、響が目覚める前にと、気力を振り絞って男のマンションを出た。しかし、自分で車を運転することができず、SPに車を運転してもらって自宅まで戻った。
 男は、秀明に目隠しをし両手を縛ったが、あえて猿ぐつわをしなかった。そのため秀明は、響に聞かれないよう喘ぎを押し殺すのに必死だった。 男との行為はもはやセックスと言うより、リンチと言った方が正しかった。裂けた後腔からは今も血と精液が流れ続けている。
 秀明は自宅に戻ると、ピンク色に染まった下着とジーンズを脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。疲労と貧血で何度も気を失いかけた。秀明の様子がおかしいことに気づいたSPが、心配してバスルームを覗いてくれなかったら、何時間もそこに倒れたままだったかもしれない。さらに秀明は、酷い痛みと発熱で三日間起き上がれなかった。
 四日目は週末で、秀明は仁を遠ざけるために、急な仕事が入ったから泊まりに行けないと電話した。神経質な割にトロイところのある仁は、秀明の嘘をすんなり信じたようだ。
 秀明は受話器を置いた途端、安堵のあまり、力尽きたようにその場にくずおれた。絶対に仁にだけは秘密にしなくてはならない。たとえ響を守るためであったとしても、仁は他の男に汚された身体に触れようとはしないだろう。 それは以前、浮気が発覚した時の大喧嘩で身に滲みている。
 秀明は、響の心配だけでなく、仁にまで大きな秘密を持ってしまったことが憂鬱で頭を抱え込んだ。


 男からメールが届いたのは、日曜の夕方だった。『ローズウッド・ホテル302号室 20時』とだけ記されたメールを見た時、秀明は吐き気を覚えた。
 響のこと、環のこと、そして仁のことを考えた。大切な人達をこれ以上、裏切ったりはできない。
 確かに、憎まれるだけのことはした。叔父・紀時の関心を自分だけに向けさせたくて、紀時の恋人だった男を誘惑した。身体を開かれる痛みに悲鳴をあげながらも、それに耐えられたのは、紀時に対する強い独占欲と執着があったからだ。そして紀時は、秀明の狙い通り、男を遠ざけた。
 怒った男は、秀明を誘拐した。クスリとセックスで縛り付け、何人もの男に輪姦させた。コンピュータ犯罪にも加担させた。FBIにようやく保護された時、秀明は紀時が激しく男をなじり罵って、殴りつけるのを見た。 二人が決定的に終わった瞬間だった。男が室内から引きずり出されるのを、秀明は紀時の腕に抱かれ、勝利の笑みを浮かべて見ていた。
 それから紀時は、以前にも増して優しくなった。その笑顔が自分だけに向けられるのが、どれほど誇らしかったことか。それなのに、紀時が息を引き取る時、最後に呼んだのは自分ではなく、あの男の名前だった。 紀時は、あの男をずっと愛していたのだ。あの男だけを……。
 秀明は、ぼんやりと茜色に染まる空に視線を向けた。見事な夕焼けが空を染めている。重ねた罪を精算する時が来たのだ。自分はもうあの頃のような、バカな子供ではない。するべきことはわかっている。償いだ。


          act.48
 ノックすると、ドアはすぐに開かれた。男は、不機嫌さを隠そうともせず秀明を見た。
「遅かったな」
「ちょっと、寄るところがあったから……」
 その瞬間、男の目が驚愕に見開かれた。そこには、明良に抱きかかえられるようにして響が立っていた。
「響に全部、話した。俺達の過去も、あの夜、あんたに抱かれたことも」
 男は口元をわずかに引き上げた。まるで、この状況を楽しんでいるかのように。
「響、愛しているのはおまえだけだ。おいで」
 低い官能的な声が告げ、右手が差し出された。響は苦しそうに顔を顰めた。
「どうして秀明を苦しめるの? 僕がいるのに……。怒りをぶつけたければ僕にぶつければいい。哀しみも絶望も、すべて僕にぶつければいいのに。僕を愛してるなら、そうしてよ」
「響、これは俺達の問題なんだよ。さあ、気が済んだろう? もう、帰るんだ」
 秀明の合図で明良が、そっと響を引っ張る。響は縋るように男を見たが、男は動かず、黙ってそれを眺めていた。やがて響の顔に諦めと涙が浮かび、響は促されるまま明良の逞しい腕に肩を抱かれて立ち去った。
 二人の足音が消えると、秀明が大きく安堵の息を吐き出した。男はそれを合図に秀明を拳で殴りつけた。目の前を火花が散り、秀明は廊下に倒れ込んだ。口の中を切ったらしく鉄の味が口腔に広がる。
「満足か!? まんまと俺から響を取り上げて!」
 男は吐き捨てるように言うと、ドアを閉めようとした。
「九条!!」
 秀明は悲鳴のような声で男を呼び止めた。
「待ってっ……話しておきたいことがあるんだ」
 男は秀明に背を向けたまま、苛立ったように言った。
「その名前で呼ぶな。俺は夏目圭介だ」
「でも、あの人は最期にそう呼んだよ。『九条、愛してる』って――。最期にそう言ったんだ!」
 ドアノブを掴んでいた男の手に力が込められ白くなる。秀明はそれに気づかず、せきが切れたようにしゃべりだした。
「それを聞いた瞬間、俺は恐ろしい後悔に襲われた。自分がどれほど残酷な子供だったかを思い知った。懺悔も償いもできないまま、あの人を失った哀しみだけが残った。罪悪感を、あの人を奪った犯人に対する復讐心にすり替えて生きてきた。だから、あんたの気持ち、わかるよ。やり場のない怒りも憎しみも何もかも。ねえ、どうしたら償える? どうしたらあんたの心は救われる?」
 男は振り向かなかった。ただじっとそこに立ち尽くしていた。焦れた秀明が恐る恐るその背に手を伸ばした。その背中は小刻みに震えていた。
「俺が……漏らしたんだ!!」
「えっ?」
 訳が分からず、秀明は一瞬、惚けた顔をした。だが、男の震えはどんどん激しくなる。無意識に顔が強張った。
「どういう……こと?」
「俺が情報を漏らしたんだ。<サモン・スペル>の情報を――。おまえを殺すのが条件だったのに…あいつらはっ……!!」
 秀明の瞳が驚愕に見開かれた。身体の芯がすうっと冷えていく。
「犯人を知ってるのか!?」
 男はゆっくりと秀明を振り返った。すでに平静を取り戻したらしく、その目からはどんな感情も読み取れない。
「ああ。おまえを餌に奴を釣り上げるつもりだった。そうでもしないと奴には会えないからな」
「奴って、誰なんだ?」
 男の口元に酷薄な冷笑が浮かんだ。
「俺がおまえに教えるとでも? おまえはいつだって安全な場所に身を置いて、自分では手を出さないが、俺は自分の手で始末を付ける。さっき、償いたいと言ったな。だったら囮になれ」
 秀明はたじろいだ。危険に身を晒してもいいのは、勝算がたっぷりある場合だけだ。ところが男は手の内を見せようともしなければ、秀明を捨て駒にすることさえ厭わないだろう。
「やるよ。餌でも囮でも、そいつを誘き出せるなら」
 チラリと頭の片隅に仁のことがよぎったが、秀明はあえて無視した。男にはそうさせるだけの気迫があった。


 秀明が自宅に戻ると、響は泣き疲れて眠っていた。明良が枕元に影のように寄り添い、静かにそれを見守っている。立ち直るのに少し時間がかかるだろうが、明良が支えてくれるからきっと大丈夫だ。
 今回のことで、秀明は明良をすっかり見直していた。明良は、辛抱強く寛容で、影に徹することができるし、エゴや独占欲もなく、一歩下がって相手を立てることが上手い。積極的にリーダーシップを取っていくことはできないが、頼れる存在だ。響もいずれ、明良の穏やかな愛に安らぎを見出すようになるだろう。
 秀明に気づいた明良が、そっと部屋を滑り出てきた。
「衰弱が酷いから、明日、入院させるよ」
「薫さんには?」
「連絡しておいた」
 秀明と継母の薫は、どうにも折り合いが悪かった。響が男と暮らしていたことは両親には秘密だったので、薫は響の不調を秀明のせいだと思うだろう。それが憂鬱で秀明は無意識に溜息をついた。
「あの男のことは、俺から薫さんに話すよ」
「必要ないよ。響の担当医だけに事情を説明してくれ。俺が悪いのに変わりはないんだから」
 秀明は明良に早く休むよう言うと、地下の研究室に行った。万一に備えて立花に暗号メールを送るためだ。あの傲慢不遜な男を保険にするのは気が滅入ったが仕方ない。仁や響の保護と、 不利な状況に陥った時の救出を頼んだ。
 翌日、立花からは小包で護身用の銃と小型発信器が届けられた。了解したということなのだろう。 秀明はそれらと共に、足首に小型のアーミーナイフを忍ばせて、九条が待つ東京駅に向かった。



          act.49
 SPを巻いて、九条と秀明は新幹線で夜の博多に降り立った。そこから密航船で台湾に渡り、台湾から偽造パスポートで北京に入った。
 秀明は広東語も北京語もほとんどわからなかったが、九条は流暢な広東語を話した。北京も初めてではないらしく、迷うことなく場末のホテルに直行した。 長旅の疲れが出たのか緊張のためか、秀明は偏頭痛に襲われて、ホテルに着くなり痛み止めを飲んでベッドに潜り込んだ。
 人の気配に目覚めると、九条が枕元に座って秀明を見ていた。すでに外は真っ暗で、ざわめきが聞こえないところから察するに深夜と思われた。
「何? 向こうから連絡があったの?」
「いや、まだだ」
 秀明が問うと、素っ気ない返事が返された。
「疲れてるんだ。もう少し眠らせてくれないか?」
「色気より睡魔か……おまえも歳だな」
 小馬鹿にしたような口調に、秀明は思わずムッとした。
「もうすぐ四十の大台にのるヤツに言われたかないね。俺はまだ二十だぞ。それに、あんたと遊ぶ気はない。俺には恋人がいるんだから!」
「あの青い目のガキか? レーエンの養子なんだってな」
「仁を知ってるのか?」
 仁の話題になったので、秀明は思わず上体を起こした。
「おまえ、あいつのどこに惚れたんだ? 堅物で平凡そのもののガキじゃないか。身体だって満足させてもらってないんだろう?」
 言って、スルリと男の手がシーツに潜り込んだ。
「あっ、んんっ……」 
 敏感な部分を撫で上げられて、小さな喘ぎが漏れる。
「いい声だ。まったく、俺が手間暇かけて仕込んだ身体をあんなガキに独り占めさせておくなんて冗談じゃない」
「やめっ…ああッ!!」
 ぞろりと首筋を舐めあげられ、秀明の身体が跳ねた。
「遊ぼうぜ、秀明。今夜はちゃんと手加減してやるよ」
 男に組み敷かれながら、秀明は馴染んだ快感に甘い嬌声をあげて、理性を手放した。


 言葉通り、九条は手加減してくれたらしい。秀明は純粋に快感だけを味わって、心地よい目覚めを迎えた。すでに九条はどこかへ出かけていて居なかったので、 秀明は一人で屋台の粥を食べて、適当にホテルの周りをブラブラしていた。
 こんなに満ち足りた気分になったのは、何年ぶりだろう。常に胸の奥で燻り続けていた餓えを完全燃焼して、ひどくすっきりとした気分だった。 もう、仁に申し訳ないとか、バレたらどうしようなどという気持ちはどこかに霧散してしまっていた。
 仁を愛している。でもそれは、ペットの犬や猫を溺愛いるのと同じ種類の愛情なのだと秀明は気づいてしまっていた。 叔父・紀時の心を欲しいと思った時のような、身の焦がれるような切なさとは明らかに違うものだ。
 欲しかったのは江口だった。手に入らないから代用を求めた。それが仁だ。仁は気づいていないが、おそらくレーエンが意図的に仁を、自分に近づけたのであろうことも、今の秀明にはわかっていた。
 ぼんやりとそれらのことを考えながら、自分はどうしてこう、見当違いな恋愛ばかりするのだろうと思った。 あまりに愚かで泣けてくる。まるで迷子になった子供のような気分になり、秀明は心細くて本当に泣いてしまった。
 夕方近くにやっと戻ってきた九条に、秀明は飛びついた。乱暴にその服を剥ぎ取り、自分から身体を繋ぐ。九条は呆れたようにそれを見ていたが、秀明の切羽詰まったような動きに煽られて激しく責め立ててきた。秀明は狂ったように一晩中、男を求め続けた。


 翌日、昼過ぎにようやく起き出して、二人は北京郊外の農村に向かった。九条がどこからか手に入れてきたオンボロ車が、途中で動かなくなってしまったので、目的の館までの約四キロを延々歩くはめになった。
 その館は、古ぼけた外見に反して内部は最新の設備が整えられていた。自家発電機を備えているのであろう、空調が快適に行き届き、夜になるとあちこちに煌々と明かりが灯された。
 不在の主に変わって執事が丁重に二人をもてなしてくれた。あてがわれた部屋は二間続きで、ユニットバスが付属しており、シャワーの出も申し分なく、秀明は久しぶりにバスタイムを楽しむことができた。
 深夜になると、当然のように忍び込んできた九条に抱かれた。両手両脚を寝台にくくりつけられ、乱暴に身体を貫かれながら、家人に声を聞かれるのもかまわず、もっと深く、もっと激しくとせがんで喘ぎ続けた。
 翌朝、朝食の席で顔を合わせた館の主は、三十そこそこの美しい男だった。九条と何か親しげに言葉を交わし、秀明に穏やかな眼差しを向けた。
「今夜、張夫人に引き合わせてくれるそうだ」
 九条の説明に秀明はやや緊張した面持ちで頷いた。
 見るからに質の良い高価そうなスーツを着せられ、二人は怪しげなパーティーに連れて行かれた。阿片に酔いしれる人々の間をかき分けて二階に上がると、奥まったドアに屈強な男が二人立っていた。
 九条が亮と呼んでいた館の主が声を掛けると、男達はすんなりと三人を奥へ通してくれた。奥にはさらに五人の男が控えており、当然のように三人を身体検査した。秀明は、護身用に持っていた小型の銃とナイフをあっけなく取り上げられた。
 丸腰になったことで秀明が不安になって九条に目をやると、九条はすこぶる上機嫌だった。
「おまえが張夫人に仕えるのが、“奴”を殺してもらう条件なんだ。夫人は男同士のセックスを見るのがお好きでな、おまえの相手は日替わりで用意してくれるそうだ。俺も時々来て、遊んでやるから安心しろ」
 亮が、やんわりと秀明の背を押した。開けられたドアの向こうには巨大な天蓋つきのベッドがあり、その一際高い位置に若い女を二人従えた老女が座っていた。室内には他にも数十人の仮面を付けた男達がベッドを取り囲むように立っている。
 怒りと屈辱に青ざめている秀明を、九条が底意地の悪い笑みを浮かべて見ていた。秀明は、歯を食いしばって九条を睨み返した。
「犯人の名前を教えろよ。それくらいの権利はあるだろう?」
 九条は少し逡巡し、それから口を開いた。
「製鉄王のリチャード=オズモンドだ。八神仁の本当の父親さ。奴はレーエンに息子を奪われて恨んでた。だからレーエンに一泡ふかせるために<サモン・スペル>を奪い取ったんだ」
 老女が焦れたように何か言うと、亮はもの凄い力で秀明を引きずって、ベッドの上に放り投げた。慌てて起き上がろうとしたところに、亮の拳が鳩尾に叩き込まれる。 秀明は痛みに意識が遠のいた。
 遠くで人の争う気配がする。ガラスの割れる音、銃声と怒声、それらをぼんやりと聞きながら秀明は暗闇へと落ちていった。



        act.50
 張夫人と九条を裏切ったのは亮だった。催涙弾が投げ込まれると、亮は気絶した秀明を抱いてベッドの下に隠れた。
 九条は窓を割って突入してきた兵士を見て、身を翻して階下に駆け下りたが、追って来た兵士と階下から突入した部隊の兵士に挟み撃ちにされて、捕らえられた。


 秀明が眩しさに目を開けると、仁が心配そうに覗き込んでいた。仁、と呼ぼうとして口を開いたが声にはならなかった。安堵と気の緩みから涙が零れた。
 仁は、放心したまま泣き続ける秀明を、壊れ物のようにそっと抱き締めた。
「もう大丈夫だ。何も心配しなくていい」
 安心させようと秀明の頭を優しく撫でる。
「……あいつは?」
 やっと発せられた言葉が、男の安否を問うものだったのが気に入らず、仁は少しムッとした。
「拘留先の留置所に護送する途中、逃げられた」
 わざと素っ気なく不快を露わにして答えると、秀明は当惑して目を伏せた。
「心配かけて、ごめん」
 小さな呟きに、仁はやっと満足して秀明の唇に軽くキスを落とした。秀明が微かに身じろぎし、身体を強張らせるのを事件の後遺症と思ったらしく、痛々しそうな目を向ける。
「愛してるよ」
 仁が穏やかに微笑みかける。秀明はそれに大きく頷いた。
「お取り込み中、悪いんだが」
 控えめに声を掛けられドアを見ると、須藤が立っていた。
「仁くんは、外してくれるかな?」
 穏やかだが有無を言わさぬ口調で言われて、仁は渋々出て行った。
「ここは、どこですか?」
 秀明はベッドの上に起き上がって尋ねた。須藤は、秀明が楽なように枕を調節してやる。
「日本大使館だよ。明日には帰国できるから安心しなさい」
「仁は…まだ何も知らないんですね」
「ああ、これからも知らせるつもりはないし、君もできることなら忘れた方がいい。悪い夢を見たと思ってね」
 諭すように須藤が言った。
「忘れる? そんなことができるんでしょうか?」
「努力してみる価値はあるよ」
 須藤の声は、憐憫に満ちていた。秀明は苦しげに目を閉じた。現実の重みに押し潰されて窒息しそうだ。真実から目を背けて、どうやったら上手く生きていけるのかわからなかった。


 仁と肌を重ねるのは実に三週間ぶりだった。一向に火のつかない秀明に焦れて、仁が強引にインサートしてきた。その焼け付くような痛みに、秀明が呻いたので、仁は慌てて動きを止めた。
「平気、このまま続けて」
 秀明は無理に微笑んで見せたが、仁はすっかり気分が萎えてしまった。意を決してペニスを抜き出す。
「今夜はもうやめよう」
 仁が宥めるように言うと、秀明はのろのろと起き上がって仁を銜えた。喉奥深く呑み込むディープスロートで、仁を巧みに追い上げる。程なく仁は秀明の口腔内で射精した。
 いつもならティッシュに吐き出すそれを、秀明は無表情に燕下した。虚ろな瞳は、仁を通り越してどこか遠くを見ている。
「秀明…?」
「なに?」
「……あいつと何があった?」
 聞きづらそうに、おずおずと尋ねた仁に、秀明は艶然と双眸を細めると、蕩けるような笑みを浮かべて見せた。唇を、唾液と精液が艶やかに濡らしている。
「忘れた」
 一言のもとに扉は閉ざされた。優しく、そして残酷に。身体は与えても心は与えないということなのだ。仁は秀明が決して話す気がないことを悟り、堪らなく惨めな気分になった。
 その夜、二人はなかなか寝付けなかった。仁がゆっくりと背中を撫でるのに身を任せながら、秀明が疲弊した身体を横たえていると、電話が鳴り出した。
「こんな深夜に誰なんだ!?」
 仁が訝しみながら受話器を取ると、中年の男がヒステリックな声で秀明は居るかと訊いてきた。


 R&K社は、基本的にフレックス制の勤務態勢なので、昼過ぎに出社し深夜まで仕事に没頭する者もけっこういる。最初、異変に気づいたのはそんな社員の一人だった。
 メイン・コンピュータにデータを送ろうとしたが、ユーザーアクセスが拒否されただけでなく、システムそのものが閉鎖されていた。慌てて原因を調査するとメイン・ コンピュータの中にトロイの木馬が仕掛けられていたことがわかった。 そしてそれは、日本銀行のコンピュータを攻撃しデータを破壊するようプログラムされていたのである。
 直ちに金融ネットワークと日本銀行のシステムが切断されたが、このままでは経済が麻痺してしまう。一刻も早く、R&Kのメイン・コンピュータを止めなければならないが、システムは外部からのアクセスを一切拒否している。
「小型爆弾を仕掛けて物理的にコンピュータを破壊するしかありません」
 チーフ・エンジニアの武部が苦肉の策を打ち出した。
「そんなことをしたら一体、幾らの損害になると思ってるんだ!! うちの社を潰す気か!?」
 支社長が、真っ赤になって怒った。
「“バイオス”のセキュリティ・ホールを攻め崩して、システムの中に入り込めばいい」
 秀明は静かに提案した。。
「冗談でしょう? “バイオス”は鉄壁の守りが売りのOSで、あの<サモン・スペル>のアタックすら受け付けないのに。第一、どんなハッキング・ツールも言語の互換性がないので"バイオス"には通用しません」
 武部が、不貞腐れたように反論する。
「ハッキング・ツールを“バイオス”の言語にコンバート(変換)すればいい。理論的には、<サモン・スペル>もコンバートすれば使えるはずだが、あれは核(コア)が 解明されていないからコンバートできない。 まあ、とりあえずやってみよう。アセンブリ言語に強いプログラマーを三十人くらい集めてくれ」
 秀明は、テキパキと会議室のホワイトボードにフローチャートを書き進めていく。
「爆破は最終手段だ。時間ぎりぎりまでできる限りの努力をするんだ」
 支店長の言葉に皆、バタバタと慌ただしく動き出した。
 秀明は、二十五名のプログラマーと手分けして、コンバート・ソフトを明け方までに完成させた。ハッキング・ツールは難なくコンバートできたが、やはり<サモン・スペル>は無理だった。
 “バイオス”は、アタックを感知すると自動的にその区画を隔離してしまう。感知から隔離まで約二十秒から三十秒という素早さだ。しかし物量作戦で、大量にアタックを受ければ システムはどんどん隔離を行い、リソースやメモリを失っていく。
 秀明は、自作のハッキング・ツール『阿修羅』を使って、一度に百ヶ所のセキュリティ・ホールを攻撃した。システムが、アタックの対応に追われている隙に、自分は気づかれないよう、わざと旧型の遅いマシンを使い、ゆっくりと時間をかけてセキュリティ・ ホールに忍び寄る。そこから巧みに侵入すると最速マシンに切り変えて強引にシステムの心臓部に食らいつき、データをすり替えてシステムを乗っ取った。
 その鮮やかすぎる手口に、チーフの武部が感嘆の声を上げた。
「どこでそんな技を覚えてきたんです? あなたに侵入できないシステムはありませんね。それにこのハッキング・ツールは自作ですか? こんなものがバラ撒かれたら“バイオス”といえど、 ひとたまりもない」
「“バイオス”のバージョンアップのし甲斐があるでしょう? 頑張って下さい」
 秀明は醒めた目で笑った。所詮、システムのセキュリティなど、ハッカーとのイタチごっこなのだ。 秀明でなくともいずれ“バイオス”がハッカー達に研究し尽くされれば、セキュリティを破られるのは時間の問題だったろう。
 誰がトロイの木馬を仕掛けたかなど、もう考えるのも嫌だった。調査しても犯人は見つけられないのはわかりきっていた。あの男は、そんなヘマは絶対にしない。
「とんだ置き土産だな」
 秀明はひとり苦笑した。



          act.51
 季節は間もなく春を迎えようとしていた。年末に発売されたR&K社のOS“バイオス”は、企業や官公庁を中心に順調にシェアを伸ばし、セカンド・バージョンの開発も始まっている。
 久しぶりに日本支社を訪れた秀明は、路林環がマタニティドレスを着ているのに驚愕した。
「六カ月に入ったところなの」
 環は得意げに笑った。誰の子かなんて恐ろしくて聞けなかった。彼女は幸せなのだ。それで充分だった。
「出産予定日はいつ?」
「八月十二日だから、七月から産休に入るわ」
「生まれたらぜひ教えて下さい」
「もちろんよ。出産祝いは奮発してね」
 秀明はコクコクと肯いた。涙が零れそうで、それ以上は話せなかった。


 仁が昼食の後片づけをしている間、秀明はジュリエットのブラッシングをしていた。五月になって急激に暑くなったせいか、冬毛がもの凄く抜けるので、マメにブラッシングしてやらないと毛玉になってしまうのだ。
 北京から戻って以来、二人の関係は奇妙な平行線を辿っていた。はっきり言ってしまえば、上っ面な関係なのだ。仁が愛していると囁けば、秀明は優しいキスを返してくれる。 しかしそれはどこか芝居めいた虚しいものだった。
 週末ごとに一緒に過ごすが、セックスは月に一度がいいところで、それも一方的に仁が達かされるだけで終わってしまう。
 日増しに募る砂を噛むようなやり切れなさに、仁は苛立っていた。秀明はそれすら淡々と受け止めて、喧嘩にもならない。
「響くんは最近、どうしてるんだ? もう退院して自宅に帰ったんだろ?」
「そうだけど、また体調を崩してる。当分、外出は無理だろうな」
「今度一緒に見舞いに行こうか?」
「薫さんに暫く遠慮してくれって言われた」
「そうか……。じゃあ何かお見舞いを送ろう」
「そうだね」
 とりとめのない会話を交わしながら、仁は何一つ大切なことを話せないもどかしさに、泣きたくなった。長い沈黙の後、不意に秀明が口を開いた。
「仁…俺と一緒に居るのが辛いなら、別れてもいいよ。知ってるんだろ? 俺が九条と寝たこと――」
 すべてを諦めたような口調で告げられて、仁は凍り付いた。
「冗談じゃない!! 別れるなんて、オレは絶対に嫌だ!」
「ゴメン、……言ってみただけ」
 秀明は何でもないことのように呟いた。
「オレは、何があっても別れたりしない。死んだって秀明を手放したりしない」
「うん、わかってるよ」
 秀明の細い指が仁の頬をゆるゆると撫でる。仁は夢中でその手を掴み秀明を引き寄せると、強く抱き締めた。その腕の中で、秀明は酷く疲れた微笑みを浮かべた。まるで生き疲れたように――。


 その日、秀明は何をする気にもなれず、大学もサボって、ベッドの中でうつらうつらしていた。最近は幾ら眠っても、病院で点滴を受けても、酷い倦怠感が取れず、一日の大半をベッドで過ごすことが増えていた。
 すでに夕方近くなるというのに、朝から何も口にしていないことに、秀明は気づいてさえいなかった。喉の渇きを覚えて、フラフラと階下に降りると、ブランデーをあおる。それを見咎めた宮本が 慌ててグラスを取り上げた。
「秀明くん、飲むなら何か食べてからにしないと」
 宮本は今、秀明に付いているSP(要人の警護に当たる警察官)の中では一番の古株で、年も近いことから、何かと親身になって面倒を見てくれていた。
「ん、そうだね。そういえば食べてなかった」
 秀明は冷蔵庫を開けると、果物ゼリーを取り出した。このところ食欲がないので、口当たりの良いゼリーやプリン、アイスクリームといったものばかり食べている。
 それを見た宮本が、盛大な溜息をついた。秀明は何事かと宮本を振り返る。
「なに?」
 不思議そうに宮本をすくい見る。その上目遣いのあどけなさに、宮本は赤くなった。
「もう少し、きちんと食事をしないと、きれいな肌が荒れちゃいますよ。来週は江口さんが一時帰国するのに」
 宮本がわざと明るく茶化すように言った。
「一時帰国?」
「江口さん、十月に帰国が決まったから、その前に一度こっちに戻って帰国後の住まいを探すんだそうです」
 秀明は、ゆっくりと瞬きを繰り返した。
「俺、聞いてない」
「でも昨日の電話では一度ここにも立ち寄るって言ってましたよ」
「そんなの聞いてない!」
 秀明はだだをこねる子供のように口を尖らせて抗議した。
「嬉しくないんですか?」
 宮本が呆れたように問いかけた。
「もちろん嬉しいよ」
 くるりと表情を一変させ、ふわりと笑った秀明は、少女のように可憐だった。



         act.52
 痩せて生気のない秀明の顔を見た途端、江口は憮然として言った。
「医者に行こう」
「なんでさ?」
「その顔色はなんだ? 一日家に閉じこもって、食欲もない、男漁りもしないなんて、鬱病だ。学生時代の親友が、心療内科を開業したから連れてってやる」
「絶対に嫌だっ! 俺がその手の医者が大嫌いなの知ってるだろう!?」
「貴重な休みを一日潰して会いに来てやったのに、その反抗的な態度はなんだ!!」
 江口は、憤りを少しも隠そうとはせず怒鳴った。
「そっちこそ、その独善的で傲慢な態度は何なんだよっ!!」
 秀明も毛を逆立てて威嚇する猫のように、目を吊り上げて言い返す。
「俺がせっかく親友に紹介してやるってのに、何が気に入らないんだ? そんなに嫌ならもういい! 俺は帰る!!」
 踵を返した江口に、秀明はたちまち弱気になった。
「わかったよ、行くよっ!! その医者に会えばいいんだろ!」
 やけくそで叫ぶと、江口は満足そうにニッコリ笑った。秀明は、してやられたと悔しさに唇を噛み締めた。


 連れて行かれたのは、千葉市のはずれにある小綺麗なレストランだった。ゆったりとした個室で紹介されたその医者は、山岸歩(やまぎし・あゆみ)という女医だった。江口が“親友”と言ったので、てっきり男だと思っていた秀明は面食らった。
「お姉さん、独身なの? 美人なのにもったいないね」
 左手の薬指が空いているのを目敏く見つけた秀明がポツリと漏らすと、歩はコロコロと笑った。幾分、ふくよかな頬にはエクボができる。
「あなたみたいな男の子に、美人だなんて言われるのは面はゆいわ」
 おっとりした穏やかな口調は、外見と同じだった。
「ブスって言ったら張り倒すくせに」
 秀明がむすっと言うと、歩はさらに笑い転げた。江口も愉快そうに笑っていた。
 ランチが終わり、コーヒーが運ばれてくると、歩はバックからA4サイズのファイルを出して秀明に見せた。ファイルには数十枚の紙が挟まれていた。
「これは、一般的な抗うつ剤の成分表よ。製品別に効果と副作用、成分の特徴も書いてあるわ。この中で、あなたが使ってみたいと思うものはあるかしら?」
 秀明は、その詳細な資料に目を通し、一番軽いと思われる薬を選んだ。
「知ってると思うけど、アルコールやカフェインとの併用は避けてね。飲み忘れても、後でまとめて飲んではダメよ。一ヶ月、試しても効果が感じられないようなら、別の薬を検討しましょうね」
 歩は処方箋と一緒に名刺をくれ、何かあったらいつでも電話するようにと言ってくれた。秀明は、十日後に歩のクリニックを訪ねる約束をし、帰る途中、薬局で薬を購入した。
 江口は翌朝、アメリカに戻るので、その夜は秀明の家に泊まった。秀明は、深夜まで江口の側を離れることができず、結局、客間のベッドで一緒に眠ってしまった。
 目覚めると階下で、江口が朝食の用意をしていた。
「ごめん、夕べ眠れなかったろ?」
「セミダブルに男二人はキツかったが、三時間くらいは眠れたから平気だ。食事ができてるから、冷めないうちに食べろ。ホットケーキ好きだろ?」
「うん、ありがとう」
 秀明は、上機嫌で朝食を平らげ、自主的に薬も飲んだ。食後にカフェオレを飲んでいると、非番の宮本が江口を空港まで送るためにやってきた。
 秀明は玄関先で江口を見送った後、すぐに家中のカレンダーの十月三日に印を付けた。江口の帰国する日だ。


 江口の帰国が決まり、カレンダーに×印をつけて、その日を指折り数える秀明に、仁は複雑な気持ちだった。秀明が、江口とただの一度も関係を持っていないにもかかわらず、江口を慕って全面的な信頼を寄せているのが気にくわないのだ。
 六月の初めに一時帰国した江口が、秀明を医者に連れていってくれたお陰で、秀明は日増しに明るさを取り戻していた。酷く落ち込んでベッドから出ようとしないということもなくなったし、食欲も出てきた。
 医者に通わせるのも、きちんと薬を飲ませるのも、仁ではなしえなかったことだと思うと、江口に感謝すべきなのだろうが、仁はどうしても嫉妬を感じてしまう。
「仁、ジュリエットのおやつは、どこ?」
 アイス・ティーを淹れていると、秀明が訊いてきた。
「クッキーの方か、ジャーキーの方か、どっちだ?」
「クッキー」
「階段下の物入れだ」
「サンキュ」
 パタパタと廊下を駆けていく足音がする。一時期は、座っているのも怠そうだったのにと思うと、胸が熱くなる。
 日に日に生きる気力を失い、痩せ衰えていく恋人を為す術もなく見ていることしかできなかったのは、本当に辛かった。自分の無力さをどれほど呪ったかしれない。
 考えてみれば仁は、秀明の心の、江口のいなくなった隙間に潜り込んだのだ。江口が帰ってくれば、仁の存在は江口に押し潰されてしまうのではないかと、仁は真剣に懸念していた。
 江口がFBIで研修を受けていた間、仁は自分なりに精一杯、秀明を愛してきた。だが、秀明の心の中には大きな空洞があって、どんなに愛情を注ぎ込んでも、すべてその空洞に飲み込まれて消えてしまう。 秀明が決して仁に踏み込ませないその心の暗黒に、大切な何かがあるのだと、仁は気づき始めていた。


 夏休みに入ると、秀明は大学の友人達が就職活動に走り回っているのを尻目に、呑気にアルバイトを始めた。それも自動車の整備工場で油まみれになって雑用をこなしているのだ。 驚いたのは、仁だけではない。大学の教授もR&Kの重役もSPも誰も彼もだ。
 当人は至って真面目で、朝が弱いくせにきちんと始業時間の八時に間に合うよう起きて、楽しそうに働いている。職場の仲間も、初めは秀明の発想の奇抜さや常識はずれな言動に戸惑ったようだが、変人ということで納得し、仲間の一人として受け入れていた。
 車熱の高じた秀明は、休日も仁や自分の車を弄くりまわし、ロジャーにもらったコルベットに至っては、形もわからなくなるほど分解してしまった。 しかし、車に熱中している時の秀明には、かつての自信に満ちた明るさが感じられ、仁は嬉しかった。


「八月の終わりに、どこかへ旅行に行かないか?」
 仁が、断られるのを覚悟で恐る恐る切り出すと、秀明は意外にも「涼しいところで、二泊三日くらいならいいよ」と承諾してくれた。驚喜した仁は、あちこち探し回って、なんとかキャンセルの出た信州のペンションを押さえた。
 面倒くさがる秀明を叱咤激励して荷造りをさせ、車に荷物を積み込んでいると、秀明の携帯電話が鳴った。
 仁の胸を嫌な予感が過ぎった。
「……仁」
 電話を終えた秀明は、少し青ざめた顔で仁を振り返った。
「誰から? 何かあったのか?」
「防衛庁の須藤さんから……九条が死んだって」
「えっ!? どうして!?」
 あれほど秀明を苦しめた男の突然の死に、仁は茫然とした。
「酒場で酔っぱらいと喧嘩して刺されたらしい」
 秀明は、少しも取り乱すことなく淡々としていた。
「環さんに知らせた方がいいかな?」
「そうだな……一応、子供の父親なんだし」
 つい先日、環は元気な男の子を出産していた。
「うん。じゃあ、須藤さんから知らせてもらう」
 秀明は緩慢な動作でR&K日本支社にダイヤルすると、産休で実家に帰っている環の連絡先を人事担当者から聞き出し、それを須藤に伝えた。
「さあ、出発しようか」
 気を取り直したように秀明は言ったが、どこか元気がなかった。



          act.53
 いくつか観光地を回ったため、ペンションには夜七時近くに到着した。秀明は努めて陽気に振る舞っていたが、九条の死にショックを受けているのは明らかだった。
 その夜は出された夕食を半分以上残してしまい、早々に部屋へ引き上げると、 秀明は疲れが出たのか、シャワーも浴びずに眠ってしまった。仁は秀明が内心の動揺を押し隠していることが辛くて、夜更けまで秀明の寝顔を眺めて、やるせなさを耐えていた。
 翌日は、一緒にぶらぶらと散歩したりして、のんびり過ごした。すでに初秋を感じさせる草原を気の向くままに歩く。秀明は恐ろしく無口で、二人は何も話さず、ただ静かに寄り添っていた。時間だけが、ゆったりと流れていった。
 夜、一旦はそれぞれのベッドに入ったものの、すぐに秀明が仁のベッドに潜り込んできた。甘えるように仁の胸に頬を擦り寄せる。仁はその身体を優しく撫でてやった。秀明は猫のように身体を丸め、気持ち良さそうに切れ長の目を細めた。
 最近になって仁は、秀明がセックスよりそうしたスキンシップの方が好きなのだと気づいて、ほとんどセックスをしなくなった。振り返ってみると、かれこれ三カ月余りセックスはしていない。
 かつては色情狂とまで噂された秀明が求めてこないのは不安だったが、秀明が静謐な微笑みを浮かべて自分にピッタリと寄り添っているのを見れば安心できた。
「仁……今日行った草原、きれいだったね。来年もまた来よう」
「ああ、次はもっと長い休みを取ろうな」
 思いがけず、秀明から来年の話が出て、仁は嬉しくて堪らなかった。こんな風に一年も先の話をするのは、三年近く付き合ってきて初めてだ。仁は久しぶりに幸せな眠りに就くことができた。
 

 旅行から帰宅した秀明は、すぐに防衛庁の立花に呼び出された。九条の遺品のパソコンを調べて欲しいというのだ。見せられたパソコンは自作のデスクトップ・パソコンで、九条らしいリスキーな改造がされていた。
 秀明は、ハードディスクのコピーを送るように言うと、さっさと自宅に戻った。どうにも立花が苦手で、顔を見ているだけでイライラするのだ。
 コピーは翌日、立花の部下・須藤が直接届けに来た。秀明はそれを自宅地下にある研究室の引き出しに放り込むと、そのまま忘れてしまった。


 十月に帰国した江口は、秀明でなく総理の警護チームに配属になった。そのため出張がやたら多くて、同じ日本にいても、なかなか会うことができなかった。秀明は残念がったが、仁は内心、ほっとした。
 さらに仁は、平日でもよく秀明の自宅に顔を出すようになった。今までは滅多なことでは泊まらなかったのに、ちょくちょく泊まるようにもなった。少しずつ仁の私物が家の中に増えていくのを秀明は複雑な気持ちで見ていた。
 自分のテリトリーを浸食される不快感を覚えながら、それを許している。他の男なら間違いなく許せないであろうことが、どういう訳か仁なら許せてしまうのだ。
 これが『愛している』ということなのだろうか? 秀明にはわからなかったが、このまま仁と自分の生活がそれと気づかないうちに融合されて、一緒に暮らせるようになるといいと思った。


 週末に仁の家を訪れた秀明が、仁のベッドでゴロゴロしていると、入浴を終えた仁が潜り込んできた。いつものように秀明が仁の胸にぴったりと頬を寄せると、やはりいつものように仁が秀明の髪をゆっくりと撫でてくれる。
「……仁」
「ん?」
「俺、江口さんが好きだよ」
 秀明は、思いついたようにポツリと告白した。
「ああ、知ってる」
 仁は頭を撫でる手を休めもせず、ただ小さく笑った。
「なんだよ、妬かないのか?」
 秀明が不思議そうに仁をすくい見る。
「あの人なら仕方ない気がする」
「どうして?」
「秀明と、魂の深いところで結びついてるから……。オレとは身体の結びつきだけの気がする」
「酷いな、俺はこんなに仁を愛してるのに!」
 秀明はわざとむくれて、細い指で乱暴に仁の胸の突起をつついた。
「あの人は本当に賢いよ。いつか終わりがくる恋愛関係にしないんだから。オレもそうすれば良かったな。もっと早く気づいてれば絶対にそうしたのに」
「仁は、今の関係を後悔してるのか?」
 秀明は上半身を起こして、まっすぐに仁の目を見据えた。
「そうじゃない。秀明を愛したことを後悔したことなんて一度もないよ」
 仁は柔らかな笑みを浮かべて秀明を見つめ返す。
「俺は、仁みたいに優しくて思いやりのある恋人がいて幸せだと思ってるよ。ずっとこのまま…できることなら一生側にいて欲しいと思ってる」
「凄いな! 秀明からそんな言葉を貰えるなんて、生きてて良かったよ」
 仁は破顔して秀明を強く抱き締めた。
「バカ、茶化すなよ。人がせっかく……んんっ」
 情熱的なキスで口を塞がれ、秀明はうっとりと仁の背中に腕を回した。初めの頃は、どうしようもなく下手だった仁のセックスも三年のつき合いで、ずいぶん巧くなった。相性がいいとは言い難いが、秀明はそれでも充分満足していた。
 仁の指が秀明のパジャマのボタンを外していく。久しぶりに身体の奥に欲望の炎が燃え上がるのを感じて、秀明は小さく身体を震わせた。
 その時、絶妙なタイミングで秀明の携帯が鳴り出した。無視してキスを貪っていると、今度は玄関のチャイムが鳴らされる。
「ああ、もうっ!!」
 秀明は怒り狂いながら携帯を取った。話しながら秀明が何やら不快そうに顔を曇らせたのを仁は見逃さなかった。ベッドから出て、秀明に歩み寄る。
「俺んちに泥棒が入って、研究室が荒らされたそうだ。これからすぐ戻って、何が盗まれたか調べて欲しいって」
 秀明の説明に、仁は眉を寄せた。
「何か盗まれると拙いような物があるのか?」
「開発中のソフトのフローチャートとか、ハッキング・ツールとか、<サモン・スペル>のテストデータ、それから――もう数え上げたらキリがないよ」
 秀明は頭を抱え込んだ。
「なんにせよ、留守中で良かった。秀明に怪我がなくて」
 仁は宥めるように秀明の頬を撫でた。


 秀明が帰宅してみると、研究室は嵐の後のような惨状だった。
「SPは何してたんだよっ!!」
 秀明が忌々しそうに言うと、宮本が「一人は首の骨を折られて即死、もう一人は撃たれて重体だ」と沈痛な表情で応えた。それを聞いて秀明はようやく事の重大さに気づいた。人を殺してでも手に入れたかったもの――それは一体なんだったのか?
「あっ!!」
 秀明は叫ぶと、弾かれたように室内に飛び込んだ。散乱したディスクの山を一つずつ確認していく。十分近くそうして探し回った挙げ句、秀明はその場にペタリと座り込んだ。
「やられた……」
「どうしたんだい?」
 宮本が不安そうに秀明の顔を覗き込んだ。
「九条のハードディスクのコピーがない」
 秀明は、茫然として呟いた。



          act.54
 翌日、防衛庁に行くと、立花が執務室のデスクの前で仁王立ちしていた。秀明は思わず後退る。この男はどうにも苦手だ。おまけに今は、秀明の失態を猛烈に怒っているはずだ。
「あれの中身は何なんだ?」
 怒りを押し殺した声が詰問した。
「はっきりとはわからないけど……質の悪いウイルスか、クラッキング・ツールか、あるいは政治家の脱税の証拠かマフィアの裏帳簿か売人のリストか、そのあたりじゃないかな」
 秀明は立花と目を合わせないように注意しながら、自分の憶測を並べた。
「調べてなかったのか?」
 怒気を孕んだ立花の声に、秀明は思わず身を竦める。
「バイトや卒論で忙しくて……」
「ふん、男といちゃつく暇はあるのにな」
 立花の嫌味に、秀明は腑が煮えくり返りそうになった。自分にもう少しタッパがあったら殴ってやったのにと思う。
「あんたに、プライベートに口出しされるいわれはないっ!!」
 秀明は火を噴くような勢いで怒鳴った。立花は蔑むような一瞥をくれると背を向けた。
「下の会議室に機材を揃えた。すぐに調べろ!」
 尊大な物言いに地団駄を踏みそうになるのを、秀明は懸命に耐えた。


 須藤に案内されて行った会議室では、すでに何人かの技術者が、ハードディスクのスキャンを行っていた。
「パンドラの箱です。中には、八万前後のウイルスがいて、下手に開けるとウイルスに感染してクラッシュします」
 技術者達のリーダーらしき男が慇懃無礼に、スキャンの結果を報告してきた。思った通りだ。九条はいつもそうやってヤバいものを隠していた。
「鍵穴から中にダミー・ドールを潜り込ませるんだ。ウイルスが食いついたらドールを自滅させる。これを何回も繰り返してウイルスを殺す」
 秀明は上着を脱いで椅子に座った。
「最新のウイルス定義は?」
「これです。駆除ツールもあります」
「念のためにワクチンを打っておこう。あ、それはなるべく処理速度の遅いマシンに繋いで」
 秀明はテキパキと作業を進め、二時間後にはウイルスを制圧して、箱の奥底に隠されていたデータを拾い上げるのに成功した。
「これは――!!」
 データを開いた秀明はその場に凍り付いた。
「変わった言語のプログラムですね。何のプログラムですか?」
 一緒にモニターを見ていた技術者の一人が首を傾げた。
「これは<サモン・スペル>だ! それもR&KのOS“バイオス”と同じ言語で書かれた……」
 秀明の声は興奮に上擦っていた。九条がこの言語に<サモン・スペル>をコンバート(変換)できたということは、核(コア)の解読に成功したということに他ならないからだ。もう何年もの間、世界中の学者や専門家達が取り組んでいるにもかかわらず 解読できていないというのに。
「では、この<サモン・スペル>があれば、“バイオス”を攻撃する事も可能だということですね?」
「ああ……」
 おそらく九条は、これのために殺されたのだ。これを誰かに売ろうとして、値段交渉が縺れたか何かで殺されたのだろう。酔っぱらいに刺されたというのは偶然の不運ではなく、仕組まれたものだったに違いない。
 生みの親・霧乃紀時の命を奪った<サモン・スペル>は、果たして何人の血を吸えば気が済むのだろう。この呪われたソフトは、闇の世界で売買に関わった多くの仲介屋やハッカーの血を吸ってきた。そして今度は、新しい言語の身体を与えた九条希久の命を奪って、再び闇に解き放たれたのだ。
 これからも<サモン・スペル>は、関わる者達の血を吸って闇の中を生きていくのだろう。あまりのおぞましさに、秀明は身体の震えを止められなかった。



          act.55
 大学を卒業した秀明はシンクタンクからの誘いを蹴って、父親のコネで小さな出版社に入ったのを皮切りに、印刷会社やデザイン事務所などを転々とし、どこもすぐに辞めてしまった。コンピュータ 専門学校の講師もパソコンショップの販売員も一週間と保たなかった。
 仕事が退屈だったり、人間関係が上手くいかなかったり、時にはレイプされそうになったりで、どうにもこうにも人の輪からはみ出してしまうのだ。今は、以前バイトしていた自動車整備工場の社長の紹介してもらった小さな町工場で、溶接や板金の仕事をしている。
 防衛庁のお偉方は、秀明が<サモン・スペル>の研究に取り組んでくれるのをヤキモキしながら待っているのだが、当人はネット対戦の将棋に熱中して一向に手をつけようとしない。送られてくる<サモン・スペル>の研究報告やテスト・データにも、ろくに目も通さない有様だった。
 六月の初め、仁が仕事を終えて秀明の家を訪れると、秀明が癇癪を起こして喚き散らしていた。
「あんたなんて、嫌いだっ!!  犯人を捕まえるって約束はどうなったんだよっ!! ペテン師!! 二枚舌!! 強突張り!! 嘘つき野郎!! 」 
 秀明は、全身の毛を逆立てて相手を威嚇する猫のように怒り狂っていた。下手に触れれば関係ない仁までバリッとやられそうな勢いだ。
「やめないか、仁に聞かれるぞ!」
 立花が冷徹な声でビシリと言い放つと、秀明はやっと部屋の入口で立ち尽くしている仁に気づいた。
「何の騒ぎです? 秀明もいい歳して何を熱くなってるんだ?」
 仁がやんわり話しかけると、秀明は何も言わずに二階に駆け上がり、自室に閉じ籠もってしまった。
「秀明が核(コア)の研究を進めてくれないので困っている」
 立花が、これっぽっちも困っているとは思えない余裕の表情でぼやいた。
「せめて強力な防壁(ファイヤーウォール)を作るよう君からも話してくれないか?」
「わかりました。オレもできる限り説得してみます」
 仁は、何とか騒ぎの元凶の立花を追い返すと、ミルクティーをきちんと牛乳から煮出して、秀明に持って行った。
「入るよ」
 声を掛けてドアを開けると、秀明がベッドの上でうずくまっていた。
「ほら、ミルクティーを持ってきた」
「ありがとう」
 暗闇でごそごそと起き上がった秀明は、Tシャツの裾で涙を拭った。
「落ち着いたら夕食にしよう。キッチンに作りかけてあるのはグラタンか?」
「うん。サラダが冷蔵庫の中にある。それとコンソメ・スープも作ろうと思ったんだけど、あいつが来たから……」
「あとはオレが作るよ」
 立ち上がろうとした仁の腕を秀明が掴んだ。
「ねえ、キスしよう」
 甘えた声に、仁は思わず頬を緩めた。仁は自分の銀縁眼鏡をはずして秀明がベットサイドのテーブルにマグカップを置くのを見届けると、すぐに秀明をベッドに押し倒して思う存分、柔らかな舌を味わった。むろんキスだけで納まるはずもなく、 瞬く間にペッティングへと発展してしまう。
 それでも、あとに引けなくなる寸前で、仁は何とか秀明を解放した。どちらも息が上がって名残惜しくて堪らない。最後にもう一度だけ、穏やかなキスを交わして、仁は夕食を作るため、階下へ降りて行った。
 町工場の仕事は体力を使うため、秀明は本当によく食べるようになった。以前の小食が嘘のようだ。
「仕事はもう慣れたのか?」
「うん、楽しい」
 グラタンを平らげた秀明が、アスパラを口に運びながら、チラリと仁に目を向けた。仁はそれに微笑んで見せると恐る恐る切り出した。
「研究のことだけど、今の仕事の片手間にできないかな?」
「俺は<サモン・スペル>とは、関係ないところで生きていきたいんだ。この話はやめよう。食事が不味くなる」
 秀明が吐き捨てるように宣言し、仁は大人しく口を噤んだ。これ以上、秀明を刺激して機嫌を損ねると、楽しみにしていた週末のセックスがお預けになるからだ。仁は、食後のコーヒーを淹れるふりをして、コソコソと席を立った。


 まだ六月の終わりだというのに、蒸し暑い日だった。仕事から帰って、シャワーを浴びていた秀明は、しつこく鳴る電話にうんざりしながら、タオルを腰に巻いただけの格好でバスルームを飛び出した。
「はい、佐藤です」
 少し苛立った声で電話を取ると、美しい女の声が聞こえてきた。
『私は、ダグラス=レーエンの秘書で、ベイツと申します。レーエンがあなたと会食を希望しております。明日のランチのご都合はいかがでしょう?』
 秀明は危うく受話器を取り落とすところだった。
「彼は今、日本に来ているんですか?」
『そうです。セキュリティ上、滞在しているホテルは申し上げられません。ご子息の八神仁様にも今回の来日はご内密に願います。レーエンはあなたに会うためだけに来日しました』
 一体、これはどういうことなのか……。秀明は訳が解らず眉を顰めた。
「わかりました。明日のランチをご一緒します」
『ありがとうございます。明日午前十一時に迎えの車をご自宅まで差し上げますので、宜しくお願いします』
 秀明は電話が切れた後もしばらくその前に立ち尽くしていた。



          act.56
 ペントハウスの明るい日差しが差し込む窓辺のテーブルに、瀟洒なフレンチが用意されていた。私服でくつろいだ様子のダグラスと二人、それを味わい、デザートまできれいに平らげた秀明は、一向に用件を切り出さないダグラスに焦れていた。
「まさかランチを一緒に食べるだけのために、俺をここに呼んだんじゃないでしょう?」
 秀明が堪りかねて尋ねると、ダグラスは優雅に微笑んだ。
「奥でコーヒーを飲みながらゆっくり話そう」
 ダグラスは秀明を書斎に誘うと、書斎机の脇にある応接椅子を秀明に勧めた。給仕が運んできたコーヒーを気品溢れる所為で一口味わうと、ダグラスはようやく口を開いた。
「ミス・ベイツ、あれを」
「はい」
 ブロンドの若く美しい秘書が奥の扉を開けると、ジェラルミンの頑丈なスーツケースを手錠で手首に繋いだ屈強な男が入ってきた。ダグラスがスラックスのポケットから鍵を取り出し、秀明の目の前で開ける。
「これを覚えているね?」
 秀明の心臓がドクンと鳴った。
「<サモン・スペル>のオリジナル・ディスク」
 呟いた秀明の声は、驚きと緊張に掠れていた。
「リチャード=オズモンドは一昨日で死んだよ」
「仁の父親を殺したのか!?」
 秀明は弾かれたように立ち上がった。
「どうして!? 俺はそんなの望んでないっ!! なんで司法の手に引き渡さなかったんだ!?」
「口を慎みなさい。リチャード=オズモンドは“心筋梗塞”で死んだんだ。新聞にそう書いてあっただろう?」
 諭すようにダグラスが言った。
「新聞なんて読んでない。それより仁は、自分の父親が死んだって知ってるのか?」
「あの子は、自分の父親が誰なのか知らない。新聞ぐらいは読んでるだろうがね」
「あんた達の間で何があったか知らないが、こんなことを仁が知ったら……」
 なじるように言う秀明を、ダグラスは冷ややかに見つめた。
「霧乃紀時を殺したのが、自分の父親だったと仁に教えてやる気かい? 仁は知らなくていいんだよ。これまで何も知らなかったように、これからもね」
 秀明は、立っていられなくなってズルズルと椅子に倒れ込んだ。
「さて、このディスクなんだが、君はどうしたい? ペンタゴンはまだ正式にこれを買い取っていないから、これは霧乃紀時の遺産相続人である君のものだ」
「焼き捨てて下さい! そんな呪われたものなんていらない」
 秀明はきっぱりと即答した。
「君は勘違いしているよ。これは呪われてなどいない。これは紀時の生きた証なんだ」
「こんなものを作らなければ、彼は死なずに済んだんだ!!」
 秀明は狂ったような激しさでダグラスを睨み付けた。
「あんたが! あんたが彼を危険に巻き込んだんだ!!」
「ディスクの中に、遺書があったよ」
 静かに優しくダグラスが告げた。
「遺書…?」
 秀明が惚けたようにダグラスを見つめる。
「彼は、自殺するつもりだったんだ」
 ダグラスは、ノートパソコンを開くとディスクをセットした。それを秀明の方へ押しやると黙って席を立つ。ダグラスに促されて皆が部屋を出ていくと、秀明はのろのろと椅子から身を起こした。
 キーボードを操作し、“for hideaki”という名前のファイルを見つけて開く。パスワードを要求され、自分の生年月日を打ち込むとすんなり開いた。

         
  秀明へ
  まず最初に、君に感謝を。
 君は僕の生き甲斐でした。君が、僕に寄せる無限の信頼と愛情に、僕はどれほど癒され励まされたか、上手く言葉にできなくて残念です。君の笑顔だけでなく泣き顔さえも、僕には愛しく心ときめくものでした。
 僕はずいぶん前から生きることに疲れ果てていて、君がいなければとっくに人生にピリオドを打っていたと思う。それが今日まで生き延びて、こうして一つの満足いく作品を仕上げられたのは、君の支えがあったからこそです。
 <サモン・スペル>は、僕の全身全霊を傾けた作品だ。中でも核は、本当に美しく仕上がったと自負しています。これを君に捧げるよ。きっと君なら、僕が核に凝縮させた美を理解してくれるから。
 僕は今、クリエイターとして幸せの頂点にいる。後は、果てしない闇に落ちて行くだけ・・・。だから今、この幸せの頂点で人生を終わらせたいんだ。どうか、僕の我が儘を許して下さい。
 そして君を残していくのは、いつの日か僕を越えてもらうためです。僕の血を引く君なら、きっとできる。
 ねえ、秀明。僕は肉体を放棄するけれど、僕は君の中で生き続け、君に寄り添い君を愛し続ける。君のママが君の中で生きているように。
 永遠の愛を君に。          霧乃紀時

 秀明は静かに泣いていた。窓辺から差し込む初夏の風が、秀明の涙に濡れた頬を、優しく撫でてくれるようだった。しかし、泣くのは今だけだ。仁に何一つ悟らせないために……。


 同じ頃、リチャード=オズモンドの遺言状が開かれ、三人の娘達をはじめ一族は、リチャードに息子がいたことを初めて知った。しかも遺言状には、財産の三分の二をこの息子に譲ると記されていたのだ。
 仁は、弁護士から電話で実の父親が亡くなったことを知らされて驚愕した。ましてや、ある日突然、莫大な財産を与えると言われても戸惑うばかりだ。今後のことや財産相続について話し合うため、とにかく一度、オズモンドの館に来て欲しいと頼まれて、仁はアメリカへ発った。
 ベッドで「一週間で戻るから、浮気するなよ」と笑う仁に、秀明は「じゃあ、もう一回して」とせがんだ。望み通り、仁はたっぷりと愛してくれたので、秀明はクタクタになって、早朝、空港へ向かう仁を見送ることができなかった。
 家を出る前に仁は、まだ眠りの中にいる秀明の唇に軽くキスをした。ぼんやり目を開けた秀明は、歩き去る仁の後ろ姿を見た。それが最後になった。仁はそれきり帰らなかった。



          act.57
 ワシントンにあるオズモンドの本宅へ行った仁と、連絡が取れないまま一ヶ月が過ぎ、結婚するから別れて欲しいとだけ書かれた手紙が届いた。驚いた秀明が、どんなに電話をしても取り次いでもらえず、 メールはもちろん手紙の返事もなしの礫だった。
 秀明は突然の別れに途方に暮れ、情緒不安定で目が溶けそうなほど泣いた。そして仁が、一向に心を開かない自分に不満を抱いているのを知りながら気づかぬフリをし、そのくせ一人になるのが怖くて、 甘い言葉とセックスで仁を縛り付けていたことを深く反省した。
 カウンセリングと周囲の支えによって、秀明は半年かかって仁を諦めた。結婚するからと男に捨てられたのは、これが始めてではなかった。所詮、子供を産んでやれない自分は女には勝てないのだ。 泣き疲れた秀明は自分にそう言い聞かせて納得した。


 目覚まし時計の柔らかな電子音が鳴り、秀明は目を覚ました。隣で眠っていた江口は、すでに起き出していていない。空調の効いた室内は早春の光に溢れていた。
 シーツの中で軽くノビをして、秀明はゆるゆると起き上がった。まだ頭がぼうっとしているが、いつまでもベッドに留まっていると、江口の嫌味と皮肉の鞭でズタボロにされるので仕方なく着替える。
 階下に降りると、江口がダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
「おはよう」
 ぶっきらぼうに声を掛けると、江口が顔を上げた。
「おはよう。朝食を作ってやったぞ。早く食え」
 目で示されたテーブルの上には、フレンチトーストと野菜サラダ、オレンジジュースが用意されていた。秀明はそれを無理矢理、口に詰め込む。朝はどうしても食欲が出ないのだ。
「午後からSOMYの重役に会うんだから、その前に着替えろよ」
「ネクタイは嫌いだ」
「ネクタイはしなくていいが、Gパンはやめろ。俺が白い目で見られる」
「わかったよ」
 秀明がほんの数口食べただけで席を立とうとしたところを、江口は無言で肩を押さえて座らせた。江口が気の向いたとき作ってくれる朝食は、親切より苛めに近いものがあった。仕方なく秀明は野菜サラダにも手を付けた。
「K大から講演の依頼が来てるがどうする?」
「断っといて」
 仁から一方的に捨てられて、淋しさに耐えかねた秀明が、江口が秘書を務めるのを条件に、<サモン・スペル>の研究を引き受けてかれこれ二年半になる。実際、江口は気まぐれで気難しい秀明を、飴と鞭で操ることのできる数少ない貴重な人材だった。
 しかし、周囲の色眼鏡をよそに、二人は一切、肉体関係はなかった。江口は別居中の妻に操を立てて、決して秀明を抱こうとしないのだ。秀明も、昨夜のように、どうしようもなく落ち込んで、何かに縋らなければ息もできないほど苦しい時、江口が優しく抱き締めてくれれば、それで満足だった。
「秀明、のんびりしていると井上くんとの待ち合わせに遅刻するぞ」
 言われて秀明は、ハッと我に返った。研修医の明良が多忙のため、大学病院の側の喫茶店まで秀明の方から出向くことになっていた。秀明はそそくさと食器を流しに運ぶと家を飛び出した。


 約束の午前十一時に明良は十分遅れて走ってきた。
「遅れて、ごめん!」
 明良は、息を切らしながら秀明に詫びる。
「いいよ。それより座ったら?」
 秀明に促されてドカリと向かいの席に座ると、明良はゴソゴソとセカンドバックを探って、白い封筒を取り出した。
「これ、俺のところに送られてきたんだ。八神さんから秀明に……。消印がないところを見ると誰かが直接、俺の家のポストに入れたんだと思う。でも書かれてから随分時間が経ってるみたいで、俺宛の手紙の日付は二年前の十月になってた」
 秀明は身体中の血の気が引いていくのを感じた。口元を引き結んで、テーブルに置かれた封筒を凝視する。
「やっぱり…破り捨てた方が良かったかな? なんなら今からでも」
「いいよ。ありがとう」
 秀明はひったくるように封筒を握りしめた。明良が心配そうに秀明を見ている。
「それで、そっちの手紙には何て?」
 秀明が引きつった笑いを浮かべて訊いた。
「秀明は淋しがり屋だから、響と二人で支えてやってくれって――それだけだよ。住所も電話番号も何も書いてなかった」
「……今さら、何なんだよっ!」
 秀明の顔が苦痛に歪んだ。涙に潤んだ瞳と微かに震える唇。その壮絶な悩ましさに、明良は不謹慎にも見とれてしまった。


 明良と別れた後、秀明は仁と初めて出会った公園に来ていた。たとえレーエンに仕組まれた出会いだったとしても、仁を愛したことに変わりはない。
 ベンチに座り、そっと手紙を開く。懐かしい仁の、几帳面な文字がそこにあった。


 たぶんもう心の整理がついた頃だと思うので、この手紙を書くことにした。
 できることなら秀明を泣かせずに別れたかった。だから結婚するなんて嘘をついた。そうすればオレに愛想を尽かしてくれると思ったんだ。それでもやっぱり秀明を泣かせてしまったようだね。本当にごめん。
 オレは命を狙われていて、秀明にも居場所を教えられない。この状態はまだまだ続くと思う。秀明を巻き込むつもりはないし、秀明には幸せになって欲しい。一日も早く、素晴らしい恋人が見つかるよう祈ってるよ。
 オレにとって秀明は最高の恋人だった。魅力的でセックスも巧くて、本当に申し分のない恋人だった。すべて悪いのはオレだ。秀明は何も悪くない。だから自信を持って生きていって欲しい。
 いつかまた会うことができたら、ほんの少しでいいから笑いかけてくれないか。オレはそれだけを支えに生きて行くから。
                   Jin

 秀明は手紙を読み終わるとその場で破り捨てた。どんな理由があったにせよ、自分は振られたのだ。いつも側にいてくれない男など要らないと、秀明は何度も何度も自分に言い聞かせた。



          act.58
 四月の初め、秀明は見せたいものがあるからと、亡母の従姉である大沢笙子に呼ばれた。一年ぶりで会った笙子は、酷くやつれていた。霧乃製薬の経営状態が芳(かんば)しくないとの噂は秀明の耳にも届いていた。おそらくその心労が祟ったのだろう。
「亡くなった父の骨董コレクションを整理していて見つけたのよ」
 笙子が差し出したのは、菓子箱ほどの大きさの桐の箱だった。怪訝そうな顔をした秀明に笙子が説明する。
「紀時さんが、アメリカから私の父に送ってきた絵葉書や手紙が入ってるわ。私の一存で処分してしまうのはどうかと思って」
「俺がいただいてもいいんですか?」
「ええ、あなたさえよければ」
 そう言って微笑んだ笙子は、いつものおっとりした朗らかな雰囲気の欠片もなく、酷く老け込んで見えた。
「あの…差し出がましいようですが、俺にできることがあれば何でも言って下さい。俺も霧乃の血を引く人間として、どんな協力も惜しまない覚悟です」
 秀明の申し出に、笙子は見る見る涙ぐんだかと思うと、堰を切ったようにわっと泣き出した。
 泣きじゃくる笙子を宥め賺しつつ聞き出したところによると、先日、霧乃製薬はついに不渡りを出し、メインバンクから見捨てられてしまったのだという。当面の資金繰りを何とかするため、亡くなった霧乃太一郎のコレクションをはじめ、換金できるものはすべて売り払い、今住んでいる屋敷も近々手放すということだった。
 秀明は、とりあえず日本の銀行に置いてある自分の三億五千万を当面の資金として提供し、R&Kソフトの会長ロジャー・サミュエル=ローガンに掛け合って、霧乃製薬への資金援助を取り付けた。最初、ロジャーは援助を渋ったが、R&Kソフトの 設立資金の一部を快く霧乃紀時に出資してくれた故・霧乃太一郎の会社を見捨てるなら、絶交すると秀明に脅されて、再建への全面協力を約束してくれた。



 秀明が、居間の床の上に紀時の手紙を広げて読んでいると、インターホンが鳴った。時計はすでに夜十時を回っており、こんな遅い時間に誰だろうとドアから顔を覗かせると、SPが大沢久志(おおさわ・ひさし)とその友人の来訪を知らせてきた。
「どうぞ、散らかってるけど」
 秀明は二人を居間に通すと、ダージリンの紅茶を淹れた。大沢は紅茶好きの母親・笙子の影響で、あまりコーヒーを好まないのだ。
「これ、親爺とお袋と俺が持ってる株券だ。今じゃ紙切れ同然だけど、せめて受け取ってくれ」
 大沢が差し出したのは霧乃製薬の株券だった。
「困るよ、そんなの」
「近いうちに必ず俺が買い戻すから、秀明に持ってて欲しいんだ」
 毅然として言う大沢に、秀明は当惑した。どうしたものかと思案していると、渡辺司(わたなべ・つかさ)と名乗った大沢の友人が口を開いた。
「受け取ってもらえないと、話を先に進められない」
「話って?」
「俺達、君に借金を頼みに来たんだ」
「はあ?」
 秀明は我知らず、素っ頓狂な声を上げていた。渡辺は悪びれた様子もなくニコニコとしている。
「久志兄さん、どういうこと?」
「司は今、凄く画期的な薬の開発をしてるんだ。それが完成すれば、霧乃製薬の負債もすぐに返せる。だけど研究費が足りなくて、開発が進められないんだ」
「上から回ってくる研究費なんて、雀の涙でお話にならない」
 赤字経営の会社がそうそう研究費につぎ込める訳がないから、それは当たり前だ。
「頼むっ!! この通りだ、俺を信じて貸してくれっ!!」
 大沢は、テーブルに頭を擦り付けて懇願した。それを渡辺が冷ややかに見つめて言った。
「ばぁか、それを言うなら渡辺を信じてだろ?」
 秀明は唖然として渡辺を見据えた。一体、この渡辺司という俺様な男は何者なのか……。見たところ大沢より少し年上で三十代前半、黙っていれば眉目秀麗といえる容姿だ。
「まぁ、俺を信じろって。俺の研究が完成すれば、霧乃製薬の株は、あっという間に急騰しておまえは億万長者だぜ。たかだか三千万の投資なんて安いもんだ」
「司、その唯我独尊な態度、いい加減になんとかしろよ! そんなんだから重役連中にも睨まれるんだぞ」
 大沢が、ほとほと困り果てたように窘(たしな)める。秀明はなぜか渡辺という男が憎めず、この男を信じてみようという気になった。尊大な態度の影に、心細げな腕白坊主の顔が見え隠れしているのが気に入ったのだ。
「いいよ、わかった。今、小切手を切るから待ってて」
 寝室のライディング・デスクで小切手を切り、再び居間に戻ると、渡辺が面白そうに紀時の絵葉書を見ていた。
「触るなよ」
 秀明がムッとして言うと、大沢が慌てて渡辺の手から絵葉書を取り上げた。
「なんだよ、ケチ。俺、騙し絵、大好きなのに」
「え…?」
「渡辺! 3000万を気前よく貸してくれる秀明にケチとはなんだよ。ごめんな、秀明」
「いいんだ。それより今、その葉書をなんて言った?」
 秀明は、大沢に小切手を渡すと、渡辺の前に屈み込んだ。
「知らないのか?  これはみんな騙し絵だよ。ほらこれ、よく見ると影が女の横顔だ。こっちは林の中に馬に乗った男がいるけど、よく見ると変だろう? 空間が歪んでる。どれも目の錯覚や既成概念を利用した騙し絵だ」
 渡辺が得意げに一枚一枚、問題の箇所を指差しながら説明する。
「例えばこれ、水の流れが変だろう? 下から上へ流れてる。こっちは前から見ると海しかないけど、ほら! こうして横から見るとカモメが見える。どれも視点を変えれば、すぐにトリックに気がつくはずだ」
「騙し絵かぁ……凄いや。目から鱗ってこういうのを言うんだな」
 秀明は、子供のように目を輝かせた。



          act.59
 二人が帰った後、秀明は<サモン・スペル>の全体像をもう一度、チェックした。今まで細部にこだわり過ぎて全体を見失っていたことに気づいたのだ。
 それからたっぷりの睡眠をとって昼近くに起き出した秀明は、何かが閃きそうな、うきうきとした高揚感に酔っていた。面倒な作業や雑用を手伝わせるため、日曜だったが、電話で古田を呼び出した。
 古田が駆けつけると、秀明は居間で核(コア)の表層プログラムをプリントアウトしたフォーム紙の山に埋もれていた。
「何をやってるんですか?」
「核(コア)の入口を探してるんだ」
 秀明は、プリントアウトした紙を次々と壁に貼り付けていく。やっとすべてを広い居間の壁四面に貼り終えたかと思うと、秀明はそれを何度も何度も並べ替えて、考え込んでいる。 古田は秀明が紙を並べ替える度に、貼り替えを手伝っていたが、だんだん疲れて飽きてきた。
「なにも手作業でこんなことしなくても、コンピュータ上でやればいいじゃないですか」
 堪りかねて進言すると「それだとインスピレーションが沸かない」とあっさり却下された。仕方なく深夜まで辛抱強く秀明に付き合っていたが、午前二時を回ると古田もさすがに眠くなり、「少し仮眠を取ります」と長椅子に横になった。
 秀明は、紙がボロボロになったので、新しいものをまたプリントし始める。古田が、プリント・アウトの音が煩いと思ったのも寝入りばなのほんの僅かな間だけで、すぐに深い眠りに落ちた。
 秀明は、古田の規則正しい寝息を聞きながら、床に散らばった沢山のプログラムの紙の山を眺めていた。
 これまでの研究で学者達が導き出した推論では、核の表層にあるプログラムはダミーのようなもので、おそらくプログラムというより目隠しのようなもので、内部のプログラムを外から見えないようにするために存在するとされていた。
 だが、秀明はそのプログラムに何かが隠されていると考えた。それはコンピュータを動かすためでも、内部のプログラムを隠すためでもなく、何かを伝えるためにあるのだと推測した。
 大切な何かを思いこみで見落としているはずだ。初心に返って、冷静に客観的な目で見直せば、それを見つけられると思ったのに――。九条に解けた謎がなぜ自分には解けないのか。秀明は悔しくて唇を噛んだ。
 古田が寝返りを打って、顔の上に被っていたフォーム紙がふわりと宙を舞った。蛍光灯の光を受けて紙が透ける。その瞬間、秀明は弾かれたように立ち上がった。
「古田さん、起きて! 起きてってばっ!!」
 乱暴に古田を揺さぶって起こすと、秀明は寝ぼけ眼の古田を研究室に引きずって行った。


「俺は、核の向かい合わせになる面の文字列の中で同じものを削除してみる。古田さんは、反対に一致しないものを削除してみて」
 核は32面体で構成されている。つまり向かい合う面は全部で16組ある。
「あ…あぁ、了解」
 古田は半分、寝ボケながらも作業に取りかかった。さっまでの身体を使った単純作業より、コンピュータに向かっている方が、ずっとマシだった。
「ダメだ、核が崩壊しちゃったよ。そっちは?」
 猛烈なスピードでキーボードを叩いていた秀明が、軽く舌打ちして古田を見やった。
「こっちもです」
「じゃあ今度は――数字の2と5、アルファベットのgとqを残して今の作業をもう一度」
「2と5とgとqを残すんですね。わかりました」
 古田は、怪訝そうな顔で復唱すると作業を再開した。古田は知らないが、それらは<サモン・スペル>の制作者・霧乃紀時が好きな文字で、パスワードなどに多用していたものだ。秀明がそれを指摘した時、 紀時が悪戯を見つかった子供のようにバツの悪そうな顔をしたのを今でもよく覚えている。
 秀明が再度、挑戦していると古田が興奮した声で言った。
「何か、見えてきました! なんか螺旋みたいだ」
 秀明は自分のモニターを離れて、古田の横へ移動した。
「やけにいびつな螺旋だなぁ。ちょっとX軸方向に圧縮してみて」
 二人はしばらく、それを圧縮したり反転したり、X軸Y軸Z軸を入れ替えたりして格闘した。しかし核は静かに沈黙したままだ。
「これは一体、何なんでしょう?」
 古田が途方に暮れたように秀明を見た。
「たぶんこれのどこかに核内部への入口があるはずなんだけどな」
 秀明も行き詰まって頭を抱えて座り込んだ。おそらく螺旋は騙し絵のひとつ、アナモルフォーシスだろう。アナモルフォーシスは、視点を変えると像が見える騙し絵だから、その視点を見つければいいと考えたのだが、簡単にはいかないようだ。 秀明は、頭の中が勝手にグルグルと回転して目眩を起こしそうだった。
「あっ!!」
 秀明がいきなり大きな声で叫んだので、古田がのろのろと振り返った。その様子から、かなり疲れているのが見て取れた。時間はすでに早朝五時を回っており、体力的にはもう限界だった。
「螺旋を高速で回転させてみよう」
「そんなことして核が崩壊しても知りませんよ」
「いいからやって! まずX軸から」
 古田が言われた通り、螺旋を回転させると案の定、核はアッという間に崩壊した。
「やり直そう。今度はY軸を」
 古田は欠伸を噛み殺しながら、再び核を螺旋に剥いて回転させた。回転による螺旋の黒い帯が、スルスルと形を変化させ、モニターに鍵のシルエットが浮かび上がる。古田の喉がゴクリと鳴った。
「回転速度をもっと上げて!」
「このマシンのパワーではこれが限界です!!」
 二人は興奮で怒鳴りあった。そして無言で顔を見合わせると一旦コンピュータの電源を切り、研究室にあるコンピュータを手分けして次々に接続した。
「これでパワーは足りると思います」
 二十台あるうちの十五台を繋いだところで、古田が待ち切れないように言った。
「じゃあ、そっちの端から順番に立ち上げて」
 ひどく緊張した面持ちで秀明が命じる。古田は手際よく十五台のコンピュータを起動させるとリソースを確認し、再び螺旋を回転させた。鍵は回転速度を上げるにつれ、黒からベージュに、ベージュから金色に変わり、やがて透明に溶けて消えた。
「……扉が開く」
 秀明が掠れた声で囁いた。
「こんなことって……」
 古田はその場に固まったまま動けなかった。つぎの瞬間、モニターの中は強い光に溢れ返った。中央に透明な三角錐が回転しながら浮いている。その中を無数の光が縦横無尽に飛び回っていた。秀明の唇から小さな吐息が零れた。
「凄い…動態プログラムだ。本当に…きれいだな……」
 秀明は深い感動と共にそれを見つめた。こんなに美しいプログラムは世界中どこを探したって見つからないだろう。
「これが動態プログラムなんですか……初めてみました」
「ああ…理論上、可能だとは言われてるけど、まだ実際に組み立てに成功した者はいない。解読できなかったはずだ」
「霧乃博士は、すでに十年も前に成功していたんですね」
 古田も、感動の余り声が震えていた。



          act.60
 いつものように朝九時に、“出勤”した江口は、キッチンでコーヒーを淹れている古田に出くわして仰天した。
「なんで君がここにいるんだ? まさか秀明と……」
「変な誤解しないで下さいよ、江口さん。僕は環さん一筋なんですから」
 古田はカラカラと笑った。江口は、古田が年上で未婚の母の路林環という女性と同棲していると、秀明から聞いたのを思い出した。
「昨日、秀明くんに呼び出されたんですよ。核(コア)の入口が見つけられそうだから手伝えって」
「見つかったのか!?」
 江口は思わず身を乗り出した。
「ええ、バッチリ! ほんの三十分程前にね。それで一息入れようということになって、僕がコーヒーを」
 完徹したのだろう。古田は疲れた顔をしている。
「やったな! おめでとう!!」
「まだこれからですよ。解読にはたっぷり一年はかかりそうです。でもこれで先が見えました。まったく、かないませんよ、秀明くんには。天才というより神に近いものを感じます」
 古田は浮かれた様子もなく神妙な顔でいった。コンピュータのスペシャリストである古田には、秀明の才能がはっきりとわかる分、自分の卑小さが身につまされるのだろう。
「少し眠ったらどうだ? 顔色が悪いぞ」
「いえ、大丈夫です。徹夜には慣れてますから」
 古田はコーヒーの入ったマグカップを二つトレーに乗せて地下の研究室に戻って行った。


 核の解読は、スーパー・コンピュータでないと不可能なことがわかり、M.I.T.へ解析を委託する事になった。
 秀明は、やっと日本政府からの拘束を解かれたので、アメリカへ移ることにした。ニュージャージーには、紀時と暮らした思い出の家がある。そこに帰るのが秀明の長年の希望だった。
 江口との平行線の関係に、限界を感じていたことも理由のひとつだった。移住は、江口との関係を進展させるための最後の賭でもあったのだ。それは秀明にとって、生まれて初めての勝算のない賭だった。
 心残りは、異母兄の響のことだったが、響から「明良と一緒に暮らしたい」と打ち明けられて面食らった。だが相手が明良なら仕方ないと諦めて、秀明は空家になる自宅を留守宅管理の名目で響と明良に貸すことにした。
 渡米まであと一週間という日に、古田が幹事で、渋谷のレストランを会場に送別会が開かれた。今まで秀明の警護を担当したSPやR&Kソフトの社員、大学やバイトで知り合った友人など約四十名余りが集まった。
 深夜までどんちゃん騒ぎをして、秀明が江口に送られて自宅に戻ったのは、午前一時近かった。
「ほら水だ」
 居間の長椅子にひっくり返っている秀明に、江口が水を持ってきてくれた。
「ん、サンキュ」
「それじゃ、俺は帰るが、ちゃんとベッドで寝るんだぞ」
 そう言って江口は、喉を鳴らして水を飲む秀明に背を向けた。
「江口さん!」
 慌てて秀明が江口を呼び止める。
「俺と一緒にアメリカへ来てよ」
 江口は少しうんざりした顔で秀明を振り返った。
「その話はとっくに断ったはずだぞ。俺達は似た者同士だ。もし付き合ったら、半年もしないうちに罵り合い憎み合うようになる。互いに傷つけあって泥沼になるのは目に見えてる。頭のいいおまえに、どうしてそれがわからないんだ?」
「そんなのやってみなくちゃわからないよ!」
「俺は臆病で、おまえと違って失うものが多すぎるんだ」
「でも、奥さんとはもう……」
 言いづらそうに秀明が口籠もると、江口が盛大な溜息をついた。送別会でお節介な誰かが、江口の離婚を秀明に耳打ちしたに違いない。
「ああ、先週正式に離婚した」
「だったら、もう一度、考えてよ」
「妻とは別れたが、おまえを『一番』にはしてやれない。俺にとっては子供が一番大切なんだ。だから彼女のいる日本を離れる気もない」
 きっぱりと言い切る江口に、秀明は泣きそうな顔をした。
「なあ秀明、おまえは淋しがり屋で、掛値なしの好意ってものに慣れてなくて、俺の優しさを愛だと勘違いしたんだ。渡米して俺と離れるのは、俺から卒業するいいチャンスだ。そう思わないか?」
「好きなのに…こんなに好きなのに、江口さんを忘れられるわけないじゃないか! 伊達に八年も片想いしてたわけじゃないんだからっ……」
 遂に秀明はボロボロと泣き出した。江口の顔が苦悩に歪む。
「泣くなよ、狡いぞ。二十五にもなって大の男が恥ずかしいと思わないのか?」
「だって…涙が勝手に……」
「秀明、怖がらなくていい。一人でだって幸せになれる。一人で生きられる奴こそが、二人でも生きられるんだ」
 江口は秀明の隣に腰を下ろし、その細い身体をゆったりと抱き取った。
「忘れるな。おまえは誰よりも魅力的だ。俺は、おまえの自信に満ちた生意気な瞳が大好きだったよ」
 江口はそうして秀明が泣き疲れて眠るまで、あやし続けてくれた。


 初夏のニュージャージーは美しかった。ロジャーがきちんと管理していてくれたお陰で、紀時の家はたいした痛みもなく快適に暮らせそうだった。
 引っ越しの荷物を一通り片づけ終わると、秀明は向かいの家に挨拶に行った。お向かいの老婦人は男所帯を心配して、よくパイやシチューの差し入れをしてくれたので、明るく朗らかな彼女が今も元気でいるのか気になったのだ。
 玄関口に現れたのは、老婦人の娘のメラニーだった。秀明の帰宅を喜び、秀明の倍はありそうな腕でぎゅうぎゅうと秀明を抱き締めて再会を喜んだ。
『ママは去年の春、天国へ旅立ったわ。とても静かないい最期だった』
『素晴らしい女性を亡くして残念だよ』
『ありがとう、ヒデアキ。こんなに立派になったあなたを見たら、ママもきっと喜んだと思うわ。だってママったら、いつもあなたを“おヤセさん”て呼んでたんですもの』
 メラニーは、とても眩しそうに秀明を見た。
『それはそうと、あなたの右隣のお宅、つい先月、新しい方が引っ越してみえたばかりなの。日系人でとってもハンサムなのよ。きっと、いいお友達になれるわ。ああほら、彼だわ』
 秀明の肩越しにメラニーが手を振った。
『ハーイ、ジン!』
 秀明はそれを聞いて凍り付いた。三年も前に別れた恋人の名前を聞いただけで心臓が高鳴る自分が情けない。背後で犬の鳴き声がして、ゴールデン・レトリバーが走ってきた。
「ジュリエット・・・?」
 犬は嬉しそうに秀明にじゃれついた。
『あら、なぜこの子の名前を知ってるの?』
 メラニーが不思議そうに言った。
『ジン、お宅の隣の空き家に越してきたヒデアキ・サトウよ』
 紹介されて振り返ったそこには、見違えるほど精悍になった八神仁がいた。
          


          act.61
「秀明、会いたかった!」
 満面の笑顔で笑いかける仁を見て、秀明はパニックになった。伸びてきた仁の腕を振り払って一目散に逃げる。しかし家の中に飛び込む前に、追いかけてきた仁の力強い腕に捕まった。
「何、考えてるんだよっ!?」
 秀明は火を噴くような激しさで仁を睨み付けた。
「やり直そう」
「今さら、ご免だね」
 吐き捨てるように言った秀明に、仁は柔らかな笑みを向けた。
「今さらだから急がないよ。時間はたっぷりある。江口さんにも、こてんぱんに振られて来たことだしな」
「なんで、それを……」
「秀明のことなら何でも知ってる。何が好きで何が嫌いで、どんな風に生きて来たか……。離れていてもいつだって想ってた」
「俺を捨てたくせに!」
 秀明は肩を怒らせて、仁に背を向けた。
「もう二度と側を離れない。辛い思いをさせたことは一生かけて償うよ」
 穏やかな口調で熱く語る仁は、人間として一周りも二周り大きく成長していることを強烈に感じさせた。秀明は唇を噛みしめて振り返りたい衝動に耐えた。
 今、振り返ったら、あの神秘的な蒼い瞳に再び捕まってしまう。ただでは済まない、仁なしでは生きていけなくなると本能が警鐘を鳴らしている。そして、もしまた捨てられたら今度こそ自分は狂ってしまうだろう。
「愛してるよ、秀明」
 ひたむきな声が自信たっぷりに囁いた。仁の長い指が、ゆっくりと秀明のうなじを撫で上げる。そうして秀明は、見えない糸に操られるように仁を振り返った。


 人肌の暖かさと心地よさを長いこと忘れていた。もぞもぞと寝返りを打った時、伸ばした腕が柔らかくて暖かいものに当たり、秀明はギョッとして目を醒ました。 それが仁の頬だと気づいて、カアッと頬が火照る。昨夜の情事を思い出して、秀明は額を押さえた。
「やっちゃったよ」
 明け方近くまで仁を銜え込んでいた後は痺れて、まだ仁が中にいるような感じがする。しかし意識を失った後、仁が後始末をしてくれたらしく、身体は綺麗に清められていた。
「おはよう」
 仁が、にっこりと笑いかけてきた。それを無視して秀明はあたふたとベッドから抜け出した。自分の節操のなさが無性に腹立たしかった。捨てられた男に口説かれて寝るなどという失態は、初めてだった。
「オレと寝たことを後悔してるんだな」
 仁が酷く悲しそうな声で言ったので、秀明は服を身につける手を休めて仁を見やった。
「自分のバカさ加減に腹を立ててるんだよ」
 憮然と答えると、仁が破顔した。
「バカはオレだよ。こんなに愛してるのに秀明を手放したんだから。なぁ、朝食の前に、もう一回しよう?」
「夕食抜きであんなにヤリまくっておいて、まだする気なのか!?」
 秀明が呆れて仁を睨み付ける。
「離れていた間の埋め合わせをしたいんだ。オレと別れてから、誰とも寝てなかっただろう? 俺はてっきり江口さんと寝てると思ってたよ。それってオレに操を立ててくれたってことだよな」
「なっ…!!」
 秀明は首まで真っ赤になって硬直した。自分では意識していなかったが、愛してもいない、ましてや愛されてもいない男と快楽のためだけにセックスをする事に罪悪感を覚えて、誰にも抱かれていなかったのは事実だ。それなのに、 昨夜の仁のセックスは、どこでそんなテクニックを覚えてきたんだと怒突いてやりたくなるほど巧かった。
「来いよ、秀明。おまえが欲しいんだ」
 情熱に満ちた官能的な声に呼ばれて、秀明はフラフラとベッドに近づいた。
「俺、どうしてこんなに仁に甘いんだろうなぁ」
 溜息混じりにぼやくと、仁の舌がスルリと口腔内に侵入してきた。上顎をくすぐられて身体の奥が疼き始める。
 裏切られても泣かされても、これからも仁だけは、こうして許してしまうのだろう。我ながら愚かだと思うが、仁には秀明の理性を狂わせ、感情をオーバードライブさせる不思議な力があった。
 叔父・紀時を失って以来、感じることのなかった強く、激しく、切ないまでの執着と情熱。たぶん、これが愛と呼ばれるものなのだろう。
 秀明は優しい愛撫に溺れながら、探し求めていた穏やかな幸福に酔っていた。
             第三部 完 エピローグへ続く
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