ライオンact.23〜act.34     月桜可南子
     act.23
 大聖にとって、笙とのママゴトのような『恋愛ごっこ』は、それなりに楽しかった。聞き分けの良い恋人は扱いやすく、気心の知れた関係は、恋人というより兄弟のように気楽で、どこか退屈だった。時折、笙が見せる艶めいた表情にドキリとすることはあっても、大聖には笙を抱く気など毛頭なかった。
 一方、笙の心中は複雑だった。大聖が気まぐれに与えてくれるハグや唇が触れるだけの軽いキスに舞い上がるような幸福を感じ、大聖の周りにいるすべての女達に嫉妬して泣きたくなる。それは、笙にとって初めての感情だった。
 年末の歌の賞取りレース番組は、笙が冬休みということで、よほどの深夜でない限り、笙がキーボードを担当した。もともと、久住はライブツアーだけの契約だったし、笙に振られた彼はあっさりクラッシックの世界に戻ってしまったので、プロデューサーの泉川は笙の参加を大歓迎してくれた。
 大聖は、年末の歌の祭典で新人賞を逃したものの、泉川公章が編曲賞を獲ることができた。俳優としてだけでなく、歌手としても知名度を上げた大聖は、スターの仲間入りを果たしたと言えた。
 年末年始に、笙は実家へ帰省しなかった。代わりに祖母の高柳世津が上京し、小早川家に一週間泊まっていった。
 仕事の合間を縫って大聖も小早川家に顔を出し、口数の少ない笙に代わって世津の話し相手になった。マネージャーの坂本が、よく冗談で「大聖は、ホストになっても成功しただろうな」と笑うように、大聖は女性の話を聞くのが本当に上手かった。


 一月最後の週末に、小早川夫妻が一泊二日の温泉旅行に出かけることになった。そのため、高校生の笙が一人にならないよう、大聖が小早川家に泊まることになった。
 笙は、大聖と過ごす初めての夜に、期待と不安の狭間で心が揺れていた。正直、セックスは怖くてたまらない。かといって大人の男である大聖相手に、セックスしたくないとも言えない。
 湯船に浸かりながら、笙はぼんやりと考えた。大聖を愛している。大聖が望むなら、ちゃんと彼を受け入れたい。
 躊躇いつつも後孔に触れた笙は、乱暴にそこを暴かれた時の恐怖を思い出した。暖かい浴室にいるのに、全身に冷たい汗が吹き出す。
 怖かった。惨めで痛くて、悔しくて悲しくて……あらゆる負の感情に押し潰されて、笙は洗い場のタイルの上に座り込んだ。
 なんとか気持ちを切り替えようと、以前、久住とした優しいセックスを思い出そうとした。しかし、レイプされた記憶があまりに生々しく迫ってきてどうしても思い出せなかった。
 悲壮な気持ちで笙はパジャマに着替えて、大聖の帰りを待った。ところが、ドラマ撮影を終えて午後10時に戻ってきた大聖は、すっかり酔っ払っていた。
「今夜わぁ〜、笙と初エッチしよーと思ってたのにぃ……坂モッチャンに飲まされちゃってさ〜、もうダメ……俺、勃たねー」
「人のせいにするなよ。大聖がチャンポンなんかするからだ」
 大聖を送ってきた坂本は、大聖と笙が付き合っていることを知る唯一の関係者だ。いつも二人のために人目に付かないレストランの個室を予約し、大聖のスケジュールを調整して、デートの時間を捻出してくれている。坂本は、足取りの怪しい大聖に肩を貸し、客間の布団に寝かしつけると帰って行った。
 眠りこけている大聖は、なんだかとってもお茶目だった。笙は、暫く大聖の寝顔を眺めていたが、意を決して大聖の布団の中に潜り込んだ。
 寄り添うように大聖の腕にそっと抱きつく。それでも、ハード・スケジュールで疲れている大聖はまったく目を覚まさない。笙は、大聖の温もりを感じながら、そのまま眠りについた。


 翌朝、笙は息苦しくて目を覚ました。見ると大聖の上半身がガッツリ自分に覆い被さっている。間近にある大聖の寝顔は、半開きの口がちょっとマヌケで愛嬌たっぷりだ。
「大聖さん、重い」
 笙はかろうじて動く左手で大聖の肩を揺すりながら訴えた。
「大聖さん、起きてよ。僕、つぶれちゃう!」
 すると目の前の大聖の顔が不機嫌に歪められた。
「んー、あと……5分」
「もおっ、寝ぼけてないで起きてよ! 大聖さんてばっ!!」
 笙が怒鳴ると、ようやく大聖の目がうっすらと開いた。そして、自分が笙を下敷きにしていることに気づいて飛び起きる。
「うわっ! ごめん、笙。大丈夫か!?」
 笙は上半身を起こすと、黙ってコクコク肯いた。なんとなく口を利くのが気恥ずかしかったのだ。
「やっぱ、笙は可愛いなぁ」
 大聖が笙を抱き寄せると、いきなり額にキスをした。笙は驚きのあまり、目を点にして大聖を見つめてしまったが、大聖は気にした風もなく、上機嫌で布団を出る。久しぶりに5時間以上眠って身体が軽い。
「今、何時だ? 笙、朝飯はパンでいいよな?」
 大きくノビをしながら客間を出て行く大聖を、笙は恥ずかしさのあまり硬直したまま見送った。


 撮影の休憩時間に、坂本が昨夜の首尾を聞くと、大聖は正直に「爆睡した」と報告した。目が覚めたら朝で、笙を下敷きにして窒息させるところだったと。
 坂本は絶句し、それから呆れたように言った。
「滅多にないチャンスだったのに、何にもなかったって、マジかよ!?」
「俺はサドじゃねーよ。あんな細っこい腰に突っ込んだら、笙が壊れるだろー」
 二日酔いドリンクを飲みながら、大聖は口をへの字にして坂本を睨んだ。不機嫌なのは、スチール撮りなのに顔がむくんでいて、メイクのマキにド突かれたためだ。
「俺には酔った勢いで、いきなり突っ込もうとしたくせに」
 坂本に嫌みたらしく言われて、大聖は昨夜の失態を思い出したらしく、叱られた子犬のようにしょんぼりとなった。
 昨夜、坂本は、大聖が笙を前にして暴走しないようにと、手で一発抜いてやった。なにしろ大聖の禁欲生活は、かれこれ2ヶ月近くになる。その流れで大聖はすっかり盛って、坂本を押し倒したのだ。
 180センチある大聖と違って、坂本は175センチの中肉中背だが、ジムで鍛えている。スラリとしているように見えても実は大聖より腕力も脚力もあるので、あっさり大聖をはね除けて貞操を守った。
「確かに『清い関係』ってのは身体がキツいけどさぁ。笙に逃げられないように、ステップ踏んで、ちょっとずつエロいことしようかな〜、なんて考えてるんだ」
 キスしたりハグしたり、さりげなく腰を抱いたり……とにかく笙を怖がらせないように距離を縮めていくというのが、大聖の考えた作戦だ。
「おまえが、そこまで笙くんに惚れてるとは思わなかったよ」
 坂本が感心したように呟いた。それから、いじめっ子のようにニンマリと口元を引き上げた。
「まぁせいぜい、トンビに油揚げをかっさらわれないように気をつけるんだな」
「トンビって何だよ?」
「あの子は、俺と違ってまだ若いからな。案外、年上のお姉様に誘惑されてフラフラッと行くかもしれないし、年下の可愛い女の子と本物の大恋愛を始めるかもしれないぞ」
 大聖が手にしていたドリンク瓶を危うく落としかけたので、坂本は素早く手を伸ばしてそれをキャッチした。
「坂モッチャン、夕べの仕返しに、俺を虐めて楽しんでるだろ?」
 大聖は、恨めしそうに坂本を見る。
「俺がそんな狭量な男に見えるのか?」
 坂本は、してやったりと豪快に笑った。



     act.24
 大聖と笙に、大手メーカーから有機栽培紅茶のCMオファーが舞い込んだのは2月下旬だ。二人をセットで出演させるという条件で示された破格のギャラに、普段は笙の芸能活動に決していい顔をしない小早川社長も折れた。
 やり手のCMディレクターは、ビビリの笙が少しでもリラックスして自然な表情を出せるよう細心の気配りをしてくれた。と、言えば聞こえは良いが、早い話、撮影現場のあちこちに隠しカメラを仕掛けたのだ。笙は、3月にオンエアされたCMを観て、そのほとんどが自分の知らないうちに撮影された映像だったので、ショックを受けた。
「良いできじゃない。笙くん、頑張ったわね」
 リビングで、一緒にCMを観ていた伯母の由美は、ニコニコと褒めてくれた。
「ダイちゃんに、おでこを小突かれて上目遣いに拗ねてるとこ、最高よ!」
「見せてもらったコンテとぜんぜん違う……」
 笙は、唖然と呟いた。
「動きがぎこちなくて、使い物にならなかったんだ」
 伯父の小早川靖彦が気まずそうに言った。
「カメラ……一台だけじゃなかったんですね……」
「笙くんに教えると緊張してしまうと思ってね」
「つまりそれって、隠し撮りしたの?」
 由美が呆れたように言う。
「これが芸能界なんだよ」
 小早川は逃げるように席を立った。


 笙は、怒りをどこにぶつけていいかわからず、洗濯物を届けるのを口実にして、翌日の夜、大聖のマンションへ出かけた。
「大聖さんは、隠しカメラのこと知ってたんだ」
 笙が恨めしそうに非難の目を向けると、大聖は決まり悪そうに視線を反らした。
「笙は素人だから演技なんてできないだろ。だから仕方なくだよ」
 実際、監督が納得する演技を笙ができるまでやり直していたら、一日ではとても撮影は終わらない。多忙を極める大聖は、できる限り短時間でCMを撮り終えたかったので、監督に協力して、笙の視線を誘導したり、緊張している笙の笑顔を引き出すのに苦心した。
「大聖さんは『演技ができなくても、俺がフォローしてやる』って言ったのに……」
 この話が来たとき、渋る笙を言葉巧みに説得したのは大聖だ。内気な笙は、初対面の相手とは挨拶以上の会話ができない。見知らぬスタッフが大勢いるスタジオで、演技など限りなく不可能に近い。
「このとーり謝るからさ、機嫌直せよ」
 大聖が大袈裟に両手を合わせて謝ると、笙は困惑して後ずさった。
「許してくれないなら、キスしてやる!」
 大聖はおどけて笙を抱き寄せる。
「もうっ、ふざけてばっかり! 許すから、ねえ離してよ」
 ついに笙は根負けした。
「んじゃ、仲直りのキス」
 大聖が軽く唇に触れるだけのキスをすると、笙は頬を染めて俯いた。
「……もう一回して」
 消え入るような小さな声で笙が囁くと、大聖は破顔した。
 啄むような優しいキスはやがて熱を帯び、大聖の舌が笙の口腔に忍び込んだ。逃げる舌を捕らえ激しく貪る。
「なぁ、ベッドへ…行かないか?」
 長いキスの後、大聖が笙の耳元で甘く誘った。笙の身体が緊張で強張る。
「ちょっとだけでいい、笙に触れたいんだ。最後まではしないから。うんと優しくするし、いっぱい気持ち良くしてやる」
 大聖は、笙を抱きしめたまま、辛抱強く笙の返事を待った。しばらく逡巡した後、笙は覚悟を決めたように肯いた。


「そうなんだ、俺がコンビニ行ってるうちに寝ちゃって。今夜は、こっちに泊めるから」
 大聖の話し声に、笙の意識はゆっくりと浮上した。
「大丈夫、朝6時に目覚まし掛けとく。朝飯もこっちで食べさせるよ。じゃあ、お休みなさい」
 笙は、大聖の手で絶頂に追い上げられ、射精の快感に意識を飛ばしてしまったことに気がついて、恥ずかしさのあまりシーツの中に潜り込んだ。
「風呂に湯を張っておいたから、入ってこいよ」
 大聖に声を掛けられても、さっきまでの自分の痴態を思い出して、笙は返事もできない。
「じゃあ、俺が先に入るぞ?」
 大聖がシーツをめくりあげて訊いてきた。笙は、かくれんぼで鬼に見つかった子どものような顔をした。
「それとも、一緒に入るか?」
 大聖に真顔で訊かれて、笙は慌てて首を横に振る。結局、大聖の後に笙も入浴を済ませ、二人仲良く寄り添って寝付いたのは午後11時だった。
 その夜、笙は夢を見た。田崎に薬を盛られ、耐えきれずに射精したあの時の。 生理的な快感が存在したとしても、無理矢理、射精に導かれることは辱めでしかなかった。レイプされたトラウマは、未だ笙の中から消えていないのだ。
 笙にとってセックスは暴力だった。苦痛と恐怖と屈辱でしかない。淫乱と詰られ、ろくに解してもいない蕾を力づくで貫かれた。禍々しい記憶がフラッシュバックし、笙は悲鳴を上げて飛び起きた。
 上手く呼吸ができなくて、息苦しさに必死で酸素を貪る。手足がすうーっと冷えていく過呼吸の前兆に、笙は青ざめた。実家で、何度も過呼吸発作を起こして救急搬送される騒ぎになったことを思い出して焦る。
「笙、ゆっくり呼吸するんだ。大丈夫、俺がついてる。大丈夫だ」
 大聖が宥めてくれなかったら、笙は本当に発作を起こすところだった。大聖にあやされて、笙は小一時間、泣き続け、疲れ果てて眠りについた。
 翌朝、大聖はいつも通りに接してくれたが、笙は大聖が自分を持て余しているのを感じ取った。昨夜の失態を思えば当たり前なのだが、やはり悲しい。いずれ大聖に見捨てられてしまうのではないかという不安で、笙は落ち込んでしまった。



     act.25
 笙に悟られないよう明るく振る舞っていたが、大聖もまた激しく落ち込んでいた。昨夜のことは、少しずつスキンシップを濃厚にして、笙をセックスに馴れさせていこうという大聖の目論見を打ち砕くには十分だった。
 飲み過ぎた大聖をマンションの部屋まで送ってくれた坂本に、甘えてセックスを強請ったのは、欲求不満だったからではなく自棄になっていたからだ。坂本も何かを察したようで、いつもは決して最後まではさせてくれないのに、珍しく大聖に身体を開いてくれた。
「今日は、溜息ばっかりだな」 
 コトが終わって呼吸が整った途端、大きな溜息を吐いた大聖に、坂本が心配そうに訊いてきた。その顔を見て、大聖は思わず昨夜の一件を話してしまった。
「なんか、お先真っ暗ってカンジでさ……俺、もう泣きたいよ」
 滅多に泣き言など口にしない大聖の弱音に、坂本はやれやれと前髪をかき上げた。
「やっぱり、笙くんはおまえには荷が重すぎたか。しばらく仕事を口実に会わないようにするんだな。電話もメールもやめて、距離を置けば、笙くんも終わりだってわかるさ」
 坂本の言葉に、大聖は弾かれたように顔を上げた。
「別れるのは嫌だ!」
「なんでだよ? だいたい、おまえ、笙くんのどこがそんなに良いんだ?」
 坂本に問われて、大聖は首を傾げた。
「……わかんねぇ。俺、そーゆーの考えるの苦手だし。第一、好きに理由なんて要るのか?」
「そうだな。本能だけで生きてる大聖に、訊いた俺がバカだった」
 坂本は苦笑すると、大聖の肩に軽く手を置いて言った。
「初めて会ったときはおまえの体臭でゲロってた笙くんが、今じゃ千擦りまでやらせてくれるんだ。たいした進歩じゃないか。焦るなよ」
「そっか、そうだよな。すげぇ進歩だ! 俺、焦りすぎてたよ。坂モッチャン、ありがとう!!」
 あっさりと坂本の言葉に立ち直った大聖は、坂本をぎゅうぎゅうと抱きしめた。この脳天気さは賞賛に値する、と坂本は思った。


 学習塾が終わった後、笙は伯母の由美に頼まれたジャスミン茶を買うために明治屋に立ち寄った。近所のスーパーでは売っていないメーカーのもので、由美や大聖のお気に入りのお茶だ。
 由美は、笙の母親に気兼ねして、手が荒れるような家事は一切させないし、決して包丁など持たせない。その代わり、こういったお使いはよく笙に頼んだ。
 レジで会計を済ませて店を出ようとしたとき、50代とおぼしき中年女性が両手に大きなエコバッグを提げてよろよろと歩いているのを見かけた。どうやら、白米を買ったらしい。人見知りの激しい笙だが、小柄な彼女が運ぶにはあまりに大変そうだったので、見かねて声を掛けた。
「あの…大丈夫ですか? お手伝いしましょうか?」
 笙を振り返った女性は、ほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう、助かります。この近くに車を停めているから、そこまで運んでもらえるかしら」
 女性は「この近く」と言ったが、どうやら方向音痴のようで、笙は彼女と一緒に、ぐるぐると路地を歩き回る羽目になった。
「本当にごめんなさいね。視力が悪くて、暗いと遠くがよく見えないの」
 彼女は金縁メガネをいじりながら、心底、申し訳なさそうに言った。
「僕なら大丈夫です。もう塾も終わったし、この後の予定はないから、車が見つかるまでお付き合いします」
 女性があまりに恐縮しているので、笙は頑張って愛想良く笑って見せた。以前の笙なら、絶対にできなかった芸当だ。これは、笙が笑顔を見せると、決まって大聖が褒めてくれるからできるようになったものだ。女性は、花が綻ぶような笑顔に目を瞠り、うっとりと頬を染めた。
 その後、笙は車のトランクに荷物を積み込むまで、結局1時間近く彼女に付き合ったのだった。


 入浴を終えてキッチンに飲み物を取りに行った笙は、伯父と鉢合わせして驚いた。芸能事務所社長の伯父が、午後9時前に帰宅することは滅多にないからだ。
「お帰りなさい」
 笙が挨拶すると、伯父の小早川靖彦は夕食の箸を止めて、改まった顔で言った。
「笙くん、ちょっと座ってくれないか」
 笙は、言われるまま素直にダイニングテーブルの席に着いた。
「先週、塾の帰りに女性の荷物を運んであげたんだってね」
「はい……伯母さんには帰宅が遅れるって、ちゃんとメールしました」
 門限の9時を過ぎたことを叱られると思った笙は身構えた。
「その女性から、今日、私のところにお礼の電話があった。彼女は、有名な脚本家でね、神楽美耶子(かぐら・みやこ)さんというんだ。知ってるかな?」
「大聖さんから、聞いたことがあります」
 女性の顔はぼんやりとしか思い出せないが、笙は、大聖が「いつか神楽美耶子先生の脚本を演じられる役者になりたい」と目を輝かせて話してくれたことは、しっかりと憶えていた。
「そうなんだ。神楽さんは、大聖の憧れの脚本家なんだ。その彼女から、大聖と笙くんに映画のオファーがあった。正確には、彼女の夫でプロデューサーの柳原毅(やなぎはら・つよし)氏からだが」
「……映画音楽ですか?」
 大聖が主演する映画に、サントラをつけるのは笙の夢だった。
「いや、笙くんは大聖の弟役をと言われた」
「えっ……?」
 笙は、伯父の言葉に固まった。CMで演技ができなくて、隠し撮りをされたのは、ほんの2ヶ月前のことだ。そんな笙に、弟役ができるわけがない。
「この脚本は、神楽さんがずっと暖めていたもので、かなりの思い入れがある作品だそうだ。彼女は、笙くんが弟役をやらないのなら、他に自分のイメージにあう俳優が見つかるまで、世に出すのを待つと言ってる」
「お断りしてください。僕が役者に向いてないのは、伯父さんもよくご存じでしょう?」
 笙の返事は、小早川も予想していたようで、さしたる落胆は見せなかった。
「それじゃあ、神楽さんには私からきちんとお断りしておくよ。ただ、脚本だけは一度、目を通して欲しいと頼まれているから、渡しておく。なくさないように気をつけて読んでくれ。読み終わったら、私からお返しするからね」
「はい……」
 笙は、伯父から『花睡』と題された脚本を受け取ると、そそくさと席を立った。



     act.26
 写真集の撮影のため海外ロケに出かけていた大聖と会うのは2週間ぶりだった。大聖と出会って以来、2週間も会わなかったのは初めてで淋しかった反動もあり、笙はいつになくウキウキとしていた。
 帰国したら大聖は真っ先に小早川家に直行するものと考えていたが、笙は大聖からの携帯メールでホテルのロビーに呼び出された。怪訝に思いながらも、大聖に会える嬉しさに胸を弾ませて駆けつけた笙は、大聖の隣に神楽美耶子の姿を見つけて当惑した。
「こんにちは、高柳くん。先日は本当にありがとう。お礼をしたくて天野くんに協力してもらったの」
 美耶子は少女のように悪戯っぽく笑った。
「神楽さんは、大聖さんのお知り合いだったんですか?」
「いいえ、泉川公章さんに天野くんを紹介していただいたのよ」
「そう…なんですか」
 なるほど、大物ミュージシャンの泉川なら神楽美耶子と歳が近く、知り合いだったとしてもおかしくはない。
「だって、こんなオバサンが食事に招待しても、笙くんは来てくれないでしょう?」
 美和子はコロコロと笑って言ったが、事実なので笙は否定できなかった。
「なーんか、俺はダシに使われてばっかりなんだよなぁ」
 大聖はわざとふて腐れたように言ったが、尊敬する脚本家に声を掛けられてまんざらではないらしい。チラチラと美耶子を盗み見している。
 食事をするために、わざわざホテルのスイートを使うなど、笙はもちろん大聖も生まれて初めての贅沢だった。ランチだというのに、運ばれてくる料理はどれも本格的で素晴らしい味だ。
「高柳くんは、クリームブリュレが大好きだって、天野くんに教えてもらったから、デザートはそれを頼んでおいたわ」
「ありがとうございます」
「笙、食べきれないなら手伝ってやろうか?」
 食の細い笙を気遣って、大聖が声を掛けてくれたので、笙は肉料理と魚料理を半分ずつ大聖に食べてもらった。
「あなた達、本当に仲が良いのね。で、どこまでいってるの?」
 まるで世間話のように美耶子が訊いたので、笙は意味がわからず首を傾げる。
「俺達、まだペッティング止まりです」
 大聖が、ワイングラス片手に、さらりと答えた。やっと質問の意味を理解した笙は硬直したが、美耶子はあっけらかんと言った。
「あら、残念」
「俺は、笙が大人になるまで気長に待ちますよ」
 大聖は、お得意の『天真爛漫な笑顔』を美耶子にふんだん振りまいていた。
「高柳くんは愛されてるのねぇ……羨ましいわ」
 美耶子に感心したように言われて、笙は耳まで真っ赤になった。もう恥ずかしさのあまり顔を上げることもできず、大好きなクリームブリュレを味わうどころではなかった。


「大聖さんのバカっ!! 他人にあんなこと話すなんて、最低っ!!」
 脚本家の神崎美耶子が乗ったタクシーが走り去った途端、笙は大聖の口の軽さを詰った。
「神崎さんは、すっげぇ理解のある人だから、味方につけておいて損はないぜ。俺達のことも応援してくれるし、きっと力になってくれる」
 大聖は力説したが、笙は大聖を睨んだまま、不機嫌全開で口元を引き結んだ。
「もしかして、彼女の脚本、読んでないのか?」
 訊かれて笙は焦った。一週間前に伯父から渡された脚本は、ベッドのサイドテーブルの上に放置したまま、すっかり忘れていた。
「まだ……読んでない」
 さっきまで、笙のほうが大聖に対して怒っていたはずなのに、脚本を読んでいないことに引け目を感じて目を伏せると、大聖が呆れたように言った。
「俺なんて、もらったその日に読んだぞ」
「だって、テスト勉強があったし、泉川さんと新曲の打ち合わせもしてたし……」
 もごもごと言い訳してみるが、大聖の視線は冷たい。
「帰ったら、すぐ読め!」
「はい」
 大聖から強い命令口調で言われて、笙はまるで叱られたようにションボリ肯いた。
 笙は大聖に言われたとおり、帰宅してすぐに『花睡』と題された神崎美耶子の脚本を読んだ。華道の名門に生まれた兄と腹違いの弟の、残酷な運命を描いたもので、緻密なプロットと心理描写に長けた内容だが、その分、テンポが悪くて暗い作品だ。
 どこがどう良いのか、笙はさっぱりわからなかった。大聖がべた褒めしていた「切ない想い」とか「純愛」とかも、笙には他人事で難し過ぎた。正直に「難しくてわからない」と大聖に感想を伝えると、「修行が足りないからだ」と笑われてしまった。


 それから間もなく、天野大聖は神崎美耶子脚本のドラマ『ライジング・サン』に主役で抜擢された。ファッション・デザイナーを目指す野心家青年のサクセス・ストーリーだ。笙は、このドラマのサントラを泉川公章と共同で手がけることになり驚喜した。
 これまで事務所は、大聖にゲイ役を演じさせるのには慎重だった。避けてきたと言ってもいい。小早川社長は大聖の天真爛漫なイメージを大切にしていたからだ。
 しかし、人気のある今なら冒険ができた。ドラマ『ライジング・サン』のデザイナー役は、それほどまでにダーティーな役で、人気のある時でなければ演じられない役とも言えた。今なら「演技に幅が出た」「新境地を開いた」と言ってもらえるが、人気が落ちてからだと「こんな役しか、もうないのか」と言われてしまうのだ。



     act.27
 大聖からランチに誘われたのは、5月の終わりだった。笙は、友達と一緒に図書館で勉強する約束を断って、代々木にある中華料理店で大聖と落ち合った。ここ何日か、小早川家の夕食で顔を会わせる度に、大聖は笙に何か話したそうだったが、由美のいるところではできない話だったようだ。
「笙が誤解しないように前もって言っておくけど、番宣のために相手役の杉原とデートするから」
「えっ?」
 笙は、飲んでいたウーロン茶のカップを手にしたまま、驚いて大聖を見た。番組宣伝のために、大聖がなぜ共演者と、それも男性の杉原要(すぎはら・かなめ)とそんなことをするのか理解できなかった。
「今度の役は、ゲイなんだ。杉原とのラブシーンもある。それで、俺と杉原がいい感じ――てネタをマスコミに提供する」
 大聖は不機嫌に言った。ドラマのスポンサーかプロデューサーの意向で渋々、引き受けたのだろう。笙は、あんぐり口を開けたまま大聖を見つめ続けた。
「だから、笙は何にも心配しなくていいからな!」
 念を押すように言われて、笙は黙って肯いた。しかし、不愉快であることに変わりはない。手にしていたカップをテーブルに戻しながら番組宣伝も大切な仕事なのだから仕方ないと自分に言い聞かせる。
 せめて大聖が以前のように、笙に興味のある素振りを見せてくれれば安心できたのだが、真夜中に笙が過呼吸を起こしかけてからは、大聖はすっかり用心深くなってしまった。あれほど頻繁だったキスやハグといったスキンシップが今では皆無だ。それでも笙は、淋しいとも言えず、じっと耐えていた。


 ドラマは、当の大聖が驚くほどの反響を呼んだ。むろん内容が内容なだけに批判や反感も少なからずあった。だが、大聖が「この役は役者としての転機になった」とコメントしたため、ファンからは好意的に受け止められた。
 脚本家の神崎美耶子から笙に電話があったのは、撮影が終盤にさしかかった頃だった。現場へ差し入れに行くので、一緒に行かないかとの誘いで、笙は二つ返事で承諾した。
 大聖の相手役・杉原要が気になったからだ。だがそれは間違いだったと、笙はスタジオに入ってすぐに後悔した。 
 大聖より3歳年下だという杉原は、ジャニーズ系の可愛らしい顔立ちの青年だった。明るく元気な彼は、大聖とも気が合うようで、よく笑い賑やかにしゃべり、子猫のように大聖にじゃれついていた。
 すべてが自分とは正反対の杉原に、笙は猛烈にコンプレックスを抱いた。惨めで泣きたくなるほどに――。いっそ杉原が女性なら諦めもついただろうが、杉原は笙と同じ男だ。落ち込んだ笙に追い打ちをかけたのは、大聖のマネージャー・坂本だった。
「笙くん、悪いんだが本番が始まる前に帰って欲しい。君がいると大聖が演技に集中できなくなる。君だって、大聖が杉原くんといちゃついてるところなんて見たくないだろ?」
 穏やかに諭すように言われて、笙も肯くしかない。美耶子に見せてもらった脚本には激しいラブシーンもあった。演技とはいえ大聖だってさすがに笙が側で見ていては演じにくいだろう。笙は、美耶子に先に帰ると断りを入れ、静かにスタジオを出た。
 悲しくて悔しくて、笙は駅に向かいながら、ぼろぼろと泣いてしまった。道行く人が怪訝そうに見るので恥ずかしくなり、目に付いたカフェに逃げ込んだ。
 まぶしいほどに愛らしく、自信に満ちた杉原が目に焼き付いて離れない。脚本には、大聖が彼にキスをしてベッドに押し倒すシーンがあった。猛烈な嫉妬と怒りで神経が焼き切れそうだ。気持ちを落ち着けようと頼んだコーヒーは、普段飲み慣れていないせいか苦くて堪らなかった。
 鬱々とコーヒーカップを眺めていると、大先輩の泉川から携帯に電話が入った。
「笙くん、今、どこにいるんだ?」
「え……どこって――」
 何も考えずに飛び込んだカフェなので、咄嗟に名前さえ出てこなかった。
「夕飯、一緒に食おう。そこまで迎えに行くから」
「そんな急に……無理です、塾があるし……」
 本当は塾のない日だが、泣いて赤くなった目を泉川に見られたくなくて、笙は必死で断った。
「泣いてるだろ? 声が鼻声だ。落ち込んでるときは旨いもん食って気分転換するのが一番だ」
 見透かされて、ようやく笙は泉川に甘える気分になった。以前、大聖が目の充血に効くからと1ダースもプレゼントしてくれた目薬が、泣いて赤くなった目を治してくれた。
 泉川に車で拾ってもらい、初めて泉川に出会った日のステーキハウスへ行った。酒飲みの泉川に付き合って、笙も時間をかけてゆっくり食事をする。大聖に対する想いとはまた違った意味で、笙は彼が好きだった。
 泉川から1月に生まれたばかりの孫のノロケ話を聞きながら、ゆったりとした静かな時間を味わう。そして午後9時を回った頃、店に神崎美耶子と大聖が現れた。
「高柳くんの子守り、お疲れ様!」
 美耶子の言葉に、笙は目を丸くした。
「王子様のお迎えだぞ。ほら、帰れよ」
 少し酔いの回った目で泉川が笙に悪戯っぽくウインクする。
「泉川さん、ありがとうございました。笙、坂モッチャンが送ってくれるから一緒に帰ろう」
 大聖に声を掛けられて、笙は慌てて席を立った。



     act.28
 大聖は車の中で、目を閉じて一言も話さなかった。神経を使うラブシーンで疲れ果てていたところに、神崎美耶子から、笙を連れてきたが先にひとりで帰ってしまったと知らされて仰天した。妬いているかと思いきや、泣いてしまって、それを泉川があやしていると知り、さらに驚いた。
 笙は、大聖が不機嫌なのを感じ取って身を竦めていた。こんなに機嫌の悪い大聖と接するのは初めてで、どうしていいのかわからない。
「歩きながら、少し話そう」
 坂本に頼んで小早川家のすぐ側の公園で車を停めさせると、大聖は黙って車を降りた。いつものように笙のためにドアを開けてもくれない。笙は戸惑って、坂本の顔を見た。
「デートしておいで。ここんとこ、大聖が忙しくてゆっくり話もできなかったろう」
 坂本に優しく言われて、笙は仕方なく車を降りた。初夏の生ぬるい風が肌に纏わり付いて不快だった。
 不意に数歩先を歩いていた大聖が振り返って、笙に手を差し出してきた。暗くて表情はわからなかったが、笙は黙って、その手を取った。手を繋いで歩くのは本当に久しぶりで、胸の中のわだかまりが少しずつ解けて小さくなっていくのを感じる。
「……もっと俺を信じてくれよ」
 歩きながら大聖が平坦な声で言った。怒りを押し殺しているのがひしひしと伝わってきて、笙は逃げ出したくなる。
「ごめんなさい」
 他に言葉が見つからなくて口にした謝罪の言葉に、大聖は深い溜息を吐いた。大聖は、幼い恋人に手を焼かされるのを覚悟していたが、まさかここまで煩わされるとは想定外だった。
「俺、おまえを泣かしてばっかりだ。もう、どうしていいのかわかんねー」
「き…嫌いにならないで――僕、も…泣か…い…から――」
 笙は大聖の腕にしがみついて訴えた。しかし、言っているはなから自分が泣いていることには気づいていない。
「なんで、そんな簡単に泣けんだよ。その才能を生かせば役者になれるぜ、まったく!」
 大聖は、呆れながらも笙を抱き寄せると、よしよしと背中を撫でてあやした。笙は、同年代の少年達と比べても、精神的にかなり幼い。その上、両親や祖父母に大切に育てられ過ぎて、とてつもなく世間知らずだ。
「わかった、俺はもう諦める。笙は好きなだけ泣け。笙は赤い目のウサギだもんな」
 大聖は苛立ちを吹っ切ろうとするように宣言した。この恐ろしく前向きで楽天的な性格なくしては、笙のような根暗でいじけた子どもとは付き合えないだろう。
「愛してるよ、ウサ公」
 優しく笑うと大聖は、笙の鼻頭に小さなキスを落とした。笙は、大聖が未熟な自分をそのまま受け入れてくれたのが嬉しくて、夢見心地で大聖を見つめる。
「大聖さん、大好き」
 笙は、無意識のうちにそう囁いて口元を綻ばせていた。


 その翌月、笙の両親が、担任教諭との進路相談のため上京してきた。大聖とのことで勉強が手につかなかった笙は、学期末試験の出来がさんざんだった。学年で上位30位以内に入っていないと他大学への推薦が受けられないため、地元の大学に進学させたい両親としては気が気ではなかったのだ。
 しかし、笙が関東での進学を強く希望したため、両親は面食らってしまった。これまで我儘など一切言ったことのなかった息子の強い希望を、両親は戸惑いながらも認めてくれた。
 大聖が、笙の母親・桜子に会うのは、今回が初めてだった。由美が皮肉混じりに語ったところによると、彼女は島根県にある神社の神主の娘で、17歳の時、笙の父親に見初められ、18歳で結婚した。驚いたことに初夜だけでなく一年近くも夫を寝室に入れなかった幼妻だったという。
 笙の父親は商談があるため挨拶もそこそこに帰ってしまったが、母親は2日間、小早川家に滞在した。由美はあまり弟嫁を快く思っていなかったし、桜子も義姉に対して余所余所しかった。
 夫と一回りも歳の離れている桜子は、まだ37歳という若さで、華奢で可憐な女性だった。世間知らずで、おっとりしたところがある反面、笙に対しては病的なほど神経質で保守的だ。大聖は、この母にしてこの子ありと、妙に納得してしまった。
「ママの側にいると、息が詰まりそうになる」
 笙は、冷めた口調で大聖に話した。
「僕が襲われてから、ママは僕を四六時中、監視していないと落ち着かなくてノイローゼになった。それでパパは、僕を家から出したんだ」
「なあ、ママはおまえを守ろうと必死なんだ。親父さんだって笙を手放すのは辛かったと思う。だけど、それがママと笙のためだと考えたから勇気を振り絞って決断したんだ。そのお陰で俺達は出会えたんだから、親父さんには感謝しないとな」
 大聖に力説されて、笙はクスリと笑った。
「大聖さんは、本当にいつもポジティブだよね。羨ましい」
 大聖は、辛いとき、苦しいとき、ユーモアを口にして、上手くその場の空気を和ませる。この能力は極めて重要だ。笙は、どれほどそれに助けられたかしれない。


 天野大聖と杉原要の記事がいくつかの雑誌に掲載されると、ネットでも二人がホテルから出てくるのを見ただの、クラブでいちゃついていただの、まことしとやかに書き立てられた。加えて、ドラマの激しいベッドシーンが話題となり、『ライジング・サン』は同時間帯の番組で最高視聴率を記録する快挙を成し遂げた。 
 この話題性を利用して大聖の写真集『KISS YOU』が発売された。写真集は予約だけで1万部を売り上げ、大聖は同世代のアイドル達とは一線を画するスターとして、まさに一世を風靡していた。
 笙が、坂本に呼び出されたのはそんなある日のことだった。アメリカでデビューする新人歌手の曲を作らないかというのだ。
「コンペ?」
「そう、アルバムの曲をコンペ形式で選ぶそうだ。歌うのは日系人で、16歳の女の子だ。芸名は凛々花(RIRIKA)。これが彼女のデモテープ。大聖より、ずっと声域も広いし素晴らしい歌唱力だよ」
「どうして僕に……」
 笙は困惑して逃げの体勢を取った。
「君が大聖にあげた作品CDを憶えてるかい? コピーを俺のロスの友人に送ったんだ。彼女はそれを聴いて、コンペのメンバーにぜひ君を加えて欲しいと希望した」
 そういえば、あのCDがすべての始まりだったと、笙はぼんやり思い出した。
「お姫様の期待に応えなきゃ男じゃないだろ? 俺はね、君に大聖と釣り合う名声を手に入れてもらいたいんだ」
 まるで自分が大聖に釣り合っていないかのように言われて、笙は承諾するしかなかった。笙には作詞、それも英語で作詞など、とうていできなので、坂本の友人が笙のテーマに合わせて歌詞を付けてくれるとのことだった。
 渡されたデモテープを聴いた笙は、少なからずカルチャーショックを受けた。それは、笙が大聖のために作った曲『プレシャス・デイズ』をカバーしたものだった。豊潤な声量で歌われる『プレシャス・デイズ』はまったく別の曲のように感じられる。
 これは自分への挑戦状なのだと悟った笙は、たった3日で、アップテンポの曲とスローなバラードを一曲ずつ仕上げて、坂本に渡した。



     act.29
 高校3年の夏休み、笙はひたすら勉強に励んでいだ。エスカレーターで付属大学に進むのは簡単だが、坂本のアドバイスで、芸能活動に寛容なN大学を受験することに決めたからだ。
 大聖は、映画化が予定されていた『夜から朝の間に』の撮影と平行して、セカンド・アルバムのレコーディングも始めた。すでに曲は、プロデューサーの泉川と笙で仕上げていたので、笙はレコーディングをすべて泉川に任せて受験勉強に没頭する日々だった。
 見かねた伯母の由美が、大聖が8月の終わりにアルバムのPV撮影で北海道へ行くのに、笙も気分転換に同行してはどうかと提案してくれた。
 むろん笙に異存はない。坂本が大聖のスケジュールを調整してくれたので、3日間の撮影の後、2日間は二人だけでのんびり観光することになった。
 笙以上に喜んだのは大聖だ。半年ぶりのオフで、しかも笙と二人きりで過ごせるのだ。10冊近くガイドブックを買い込んで、大聖はここに行きたい、あれを食べたいと楽しみにしていた。
「なんで美咲ちゃんが、ここにいんだよ? 赤ん坊に乳、やんなくていーのか?」
 それが、北海道へ出発するため、空港に集まったメンバーを見た大聖の第一声だ。
「搾乳機っていう文明の利器があるのを知らないの?」
 美咲はバカにしたように言った。
「俺達、まだ新婚旅行に行ってないだろ。それで撮影の後、ふたりでゆっくり旅行しようってことになったんだ」
 二人分の大荷物を抱えた熊沢が汗を拭きながら説明する。
「瑠璃は、おじいちゃんとベビーシッターさんの三人で留守番よ」
「連れてくれば良かったじゃん。俺、抱っこしたかったのに」
 大聖は残念そうに言ったので、坂本が大聖に説明した。
「小さな赤ん坊の鼓膜には、飛行機の気圧変化は悪影響があるんだよ」
「坂本さんって、ホ〜ント、物知りよね。大聖は少し脳みそ、分けてもらったら?」
 感心したように言う美咲に、坂本は穏やかに微笑んだ。
「姉に子どもが3人もいるんでね。それに、大聖の美点は無邪気で純真なところなんです。俺みたいに計算高いのは大聖に似合わない。狡賢い駆け引きは全部、俺がするから、大聖は今のままでいいんですよ」
 坂本は、大聖の持つ純真さに惚れていた。それは、笙のように育ちの良さからくる純真さとは対局の、辛酸をなめた諦観からくる悟りだ。泥を被ってなお、いや、泥の中だからこそ光り輝くような美しい花を咲かせた大聖を、坂本は愛していた。
「坂本さんて、良くできたマネージャーなのねぇ。大聖が羨ましいわ」
 美咲はまだ、坂本の柔らかな物腰の奥に隠された冷酷さに気づいていなかった。


 笙は、模試があったため、大聖に一日遅れて8/25に北海道入りした。メンバーとスケジュールが合わなかったギタリストの本田が、ロケ先の富良野までのエスコート役だった。
「あっ、高柳くん、そのペンダント、いいね!」
 本田は、笙が誕生日プレゼントに大聖からもらったペンダントを目敏く見つけて褒めてくれた。途端に頬をうっすらと染めた笙は、ドキリとするほど色っぽくて、本田はガールフレンドからのプレゼントだと勘違いした。
「大聖さん、大聖さん! 高柳くん、彼女ができたみたいっすね」
「えっ!? 俺は聞いてないぞ」
 本田の言葉に大聖は内心、動揺した。以前、坂本に言われた「トンビに油揚げ」というのが急に現実味を帯びてきて焦る。
「高柳くんは奥手だから心配してたんですよ」
 兄貴風を吹かした本田がしたり顔で言うのを、大聖は複雑な気持ちで聞いていた。由美から聞いた話では、笙はバレンタインに鞄に入りきらないほどのチョコレートをもらってきたらしい。坂本が管理している笙の公式ホームページには、週に何通も熱烈なファンメールが送られてくるという。
 笙は精神的にはまだまだ子どもだが、年齢的には女性とのセックスに興味を持ってもおかしくない。好奇心や何かの弾みで、関係を持った女の子に夢中になることだってあり得る。
「本田さん、これ、部屋のカード・キーだそうです」
 坂本から部屋の鍵を受け取ってロビーに戻ってきた笙は、本田と一緒にいる大聖の顔を見て嬉しそうに微笑んだ。
「ほーら、あの笑顔。みょーに艶っぽくなったと思いませんか? あのペンダント、きっと彼女からのプレゼントですよ。高柳くんは、ああいうもの自分で買うタイプじゃないから」
 訳知り顔で囁く本田に、大聖は微苦笑した。


 ロケ・スタッフの配慮で、笙は大聖と同じ部屋に割り振られていた。パジャマに着替えて何の迷いもなく自分に割り当てられたベッドに潜り込んだ笙を見て、大聖は苦虫を噛みつぶしたような顔で言った。
「つれないなぁ、せっかく同じ部屋なのに、もう寝るのか?」
「大聖さんは明日の朝、5時起きで撮影でしょう。さっき、坂本さんに夜更かしするなって言われたばっかりなのに」
 どちらかというと寝汚いところのある大聖に、笙は冷ややかに言った。
「わかってるけど……」
 大聖は笙のベッドの端にそっと片膝を乗せる。
「ちょっとだけ、イイコトしたい」
 途端に笙は赤面し、大聖に背中を向けた。大聖は背後から笙を抱きしめると、うなじにキスを落とす。
「笙……なぁ、いいだろ?」
 甘い声で強請られて、笙は小さく肯いた。


 大聖に愛撫されるのは好きだ。大聖の指はとても優しいから。大聖の分身を口に含むのも嫌いではない。大聖が凄く喜んでくれるから。でも、自分の分身に触れられるのは怖い。ましてや身体を繋ぐなど、気が狂いそうだ。
 確かに、かつて付き合っていた久住とは一度、セックスをしたことがある。だがそれは、痛くて苦しいばかりで、とても愛の行為とは感じられなかった。レイプされてからは、身体を繋ぐことは暴力以外の何物でもないと思うようになった。
 笙が口で達かせてやると大聖は満足して眠りについた。手を繋いで身を寄せ合って眠る。笙にとっては、それがセックスだった。
 時折、この関係に大聖が満足していないのではないかと不安になることもある。しかし、以前、勇気を振り絞って「最後までしてみたい」と訴えたら、大聖は「背伸びしなくていい。笙には充分、癒されてるから」と笑って取り合ってくれなかった。
 だから笙は、大聖の優しさに甘えることにした。大聖が欲求不満の解消のため、マネージャーの坂本と寝ていることなど露知らず。



     act.30
 プロモーション・ビデオの撮影は順調で、予定通り3日目の夕方には終了した。大聖と笙は、解散と同時にレンタカーを飛ばして層雲峡の花火大会に出かけた。
 旅館の浴衣を着て、人混みではぐれないよう手を繋いで歩く。花火大会の後、二人で土産物屋を回って由美へのお土産を選んだ。
 目敏い女子大生がそんな二人を隠し撮りしたことなど二人ともまったく気づいていなかった。その女子大生が、画像付きで大聖と笙を目撃したことをツイートしたため、翌日は、どこの観光地に行っても人だかりに囲まれるハメになった。
 大聖は、東京でファンに囲まれた時のように、笙が怯えるのではないかと心配したが、笙は他人の目にかなり慣れっこになってきたようで、屈託のない笑顔で大聖に甘えていた。
 ただ、場所が観光地なだけに皆、カメラを持っている。中にはビデオを回している者までいて、大聖は早々に観光を切り上げて、予約してあった旅館に逃げ込んだ。
「あーあ、止めてって言ったのに、大聖さんが、跡なんか付けるから大浴場に行けない」
 笙が恨めしそうにボヤいた。昨夜、笙の浴衣姿にそそられた大聖が、身体のあちこちにキスマークを付けてしまったのだ。
「だから、内風呂の大きい部屋をリクエストしたんだ。一緒に入れるぞ」
「ばかっ!!」
 しれっと言った大聖に、笙は真っ赤になって叫んだ。


「中途半端な恋人で、ごめんなさい」
 明かりを落とした部屋で、それぞれ並べられた布団に横たわりながら、笙がポツリと呟いた。
「謝んなよ。それに俺、口でしてもらうの、すげぇ好きだから」
「……うん」
「もう、跡、付けたりしないから、そっち、いってもいいか?」
「いいよ」
 笙は上掛け布団をめくると大聖が入れるように横へとズレた。そして、潜り込んできた大聖に両腕を広げて抱きつく。大聖の体温を感じて、ほっとした。
 大聖は、自分の腕の中にすっぽり収まる笙の細い身体をそっと抱きしめた。傷ついて怯えてばかりいた子どもが、自分の胸の中で安堵の表情を浮かべるまでになったことに感動さえ覚える。信頼と恋慕に溢れた瞳で見つめられると、愛おしさに胸が震えた。
 守ってやりたい、誰よりも幸せにしてやりたいと思う。そのためにも、大聖は仕事を頑張って確固たる地位を築きたかった。後は、どうやって笙との関係を周囲に認めさせるかだ。


 12畳の1DKは、ダブルベッドとテレビしか家具がないため、実際より広く感じる。部屋には寝に帰るだけ、という坂本のライフスタイルが透けて見えるシンプルなインテリアだ。
 男と一戦交えた後、ベッドで一服するのが坂本の癖だ。咥えタバコでiPadを操作しながら、ネットに流れた旅行中の大聖と笙の画像を見た坂本が皮肉った。
「まるで子犬がじゃれあってるみたいだな」
「笙の奴、80ぐらいのおばあちゃんに『ずいぶんお兄ちゃんっ子ね』て言われて照れまくってさ、すっげぇ可愛かったぜ」
 先刻まで坂本の身体を傍若無人に貪っていたくせに、何の躊躇いもなく笙のことをノロケる大聖の無神経さに、坂本は微かに苛立った。その苛立ちをぶつけるように、タバコを揉み消す。
「その可愛い弟に、おまえ、何やらしてんだ。さんざん俺を性欲の捌け口にしてるくせに」
 坂本が、たっぷり嫌みを込めて言ってやると、大聖は叱られた子どものようにむくれた。
「だって、笙が『口でしたい』って言うから……。てか、あいつ、だんだん感度良くなってきてさ、そのうち乳首だけで達けるようになるかも!」
「まったく、おまえのノーミソはどうなってるんだ。図体ばっか、でかくなりやがって。笙くんの話はもういい。俺はシャワー浴びてくる」
 坂本は呆れ果てて、ベッドを出た。時々、大聖の精神年齢は、もしかしたら笙より低いのではないかと疑ってしまう。そんな大聖に求められるまま、いけないと知りつつ身体を重ねてしまう自分も自分なのだが。


 9月に入って間もなく、大聖と笙に招待状が届いた。久住啓介が、ドイツの国際ピアノコンクールで金賞に輝き、その祝賀パーティーへの招待だった。この受賞で、久住のピアニストとしての将来は保証されたようなものだ。
「俺は仕事で行けないけど、笙は行ってやれよ」
 大聖にあっさり言われて笙は驚いた。かつて付き合っていた男と会うことになるのに、大聖は心配ではないのかと思ったのだ。
「僕だけ? いいの?」
「笙は浮気なんてしないって信じてるから、いいぜ」
 嫉妬のカケラもない明るい声で言われて、笙は拍子抜けしてしまった。
 大物ミュージシャンの泉川公章と共に、祝賀パーティーに出席した笙は、借りてきた猫のように警戒心も露わに泉川の背中にぴったり張り付いていた。
「祝いの席なんだから、もっとリラックスして楽しめよ」
 泉川が呆れて言ったが、笙はすでに出席したことを海よりも深く後悔していた。久住と目があって微笑まれた途端、回れ右をしてロビーへ逃げ出したほどだ。
「笙、来てくれたんだね。ありがとう!」
 息を切らせてロビーまで追いかけてきた久住が嬉しそうに言った。久住の柔らかな笑顔に少しほっとする。
「あの……おめでとうございます」
「うん、天野さんを見返したくて頑張ったんだ」
 言われて笙は、息を飲んで久住を凝視してしまった。大聖との交際は、ごく一部の人間を除いて秘密にしていたので、まさか久住が知っているとは思わなかったのだ。
「来年の春から、ドイツへの留学が決まったんだ。笙は、あの約束、覚えてる?」
 優しく訊かれて、笙は返答に詰まった。忘れるはずなどない。それは初めて久住と結ばれた夜に交わした約束だった。
「もう絶対に離れたくない。もし、僕が留学することになったら、一緒に付いてきて欲しい」。そう言われて笙は肯いた。幸せだったあの頃。甘い記憶が走馬燈のように笙の頭をよぎった。
「笙、愛してるんだ。約束通り、僕に付いてきて欲しい」
 黙り込んでしまった笙に、久住はかき口説くように囁いた。



     act.31
 なぜ、あの時、はっきりと断らなかったのか。考えても笙にはわからなかった。もしかしたら、漠然と感じる大聖への不審からかもしれない。
 大聖は優しい。いつだって、笙を大切にしてくれる。愛されているし、愛している。それは確かなのに、時折ふと感じるのだ。大聖が巧妙に隠している誰かの存在を。
 自分の気のせいかも知れない。勘ぐり過ぎだと思っても、男盛りの大聖が、まともにセックスできない自分に満足しているとは到底、考えられなかった。
 大聖を信じたいのに信じ切れない自分が大嫌いだ。久住の手を取れば、そんな苦しみから解放される。華やかだが気苦労の絶えない日々を、静かで穏やかなものに変えることができるのだ。なんと甘い誘惑だろう。
 それでも、笙はやはり大聖と生きていきたかった。どれほど泣くことになっても、どんなに辛くても。
 そして、今の笙にはもうわかるのだ。自分が、久住を愛していたわけではないのだと。高校時代、誰もが憧れる先輩を欲しいと思ったのは、単に子どもが高価で珍しいオモチャを欲しいと思ったのと同じだったのだ。『恋に恋する』そう呼ぶのがぴったりの幼い恋だった。
 笙は久住に「約束を守れなくて、ごめんなさい」とだけメールして、久住を頭の中から閉め出した。志望大学に落ちたら、高校卒業と同時に実家で浪人生活だ。大聖とも離ればなれになってしまう。今は、受験に専念しなければならなかった。


 その日、坂本は新しく自分の担当に加わった新人女優・望月結香のドラマ撮影に同行していた。正直、天野大聖と古株の舞台俳優で手一杯だったが、体調を崩した後輩が復帰するまで、ということで引き受けた。
「この衣装、ダサ過ぎ。私のスタイルの良さがちっとも生かされてない!」
 例によって始まった我が儘に、スタイリストが困り果てていた。
「普通の子なら、とても着こなせないデザインだけど、結香ちゃんは何を着ても似合うよ。やっぱり脚が綺麗で足首が細いせいかな」
 坂本がにこやかに褒め称えると、ふて腐れていた結香が目を輝かせた。
「そ、そうかな? 私、太って見えない?」
「ぜんぜん。それに大聖も俺も、がりがりの子は苦手なんだ」
 さりげなく、結香が共演したがっている大聖の名前を出すと、結香は途端に機嫌が良くなった。
「いいわ、今日はこれで我慢してあげる」
「さあ、出番だよ。セットに戻って」
「はぁい!」
 小走りでセットに戻っていく結香の背中を見送る坂本に、スタイリストが深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。結香もこの世界で生き残ろうと必死なんです」
「ええ。それにしても、坂本さんは結香ちゃんの操縦がお上手ですね。前のマネージャーさんはオロオロなさってばかりでしたから」
「おかげさまで、私もこの世界が長いですからね。それより、結香はまだまだ教育不足で本当に申し訳ありません。スタッフの皆さんあっての役者ですから、これからも、どうぞ宜しくお願いします」
 営業スマイルと社交辞令で、うまく相手を持ち上げると、坂本はスタジオを出た。さっきから、ポケットの携帯が振動しているので何か緊急事態が起こったようだ。事務所からの着信を知らせる携帯の表示に、何事かと考えながら電話に出る。
「坂本くん、笙くんの曲をアメリカのピース・レーベルに売り込んだのは君か?」
 滅多に取り乱したりしない小早川社長の興奮した声に、坂本は思わず緊張した。
 ロサンゼルスの友人から坂本に、笙の楽曲が2曲ともコンペで採用されたと連絡があったのは、ひと月ほど前のことだ。坂本はそれを笙と大聖には伝えたが、忙しくて社長に報告するのを失念していた。
 そして採用された2曲のうち、アップテンポの曲『ワンダーランド』が今日、アメリカのヒット・チャートで一位となり、作曲者でうる笙に現地のメディアから取材が入った。突然、海外から取材申込みを受けた事務所はパニックになった。


 大学受験が迫る中、笙は懸命に勉強していた。全国模試ではなんとか前の水準まで順位を戻したが、志望大学への推薦を受けるにはギリギリのラインだった。最悪、一般入試も視野に入れて毎日、学校と塾の往復だ。
 大聖は、映画の撮影と新曲のプロモーションで忙しく、北海道から戻って以来、二人きりになれる時間はまったくなかった。笙には、それを寂しいと感じる余裕も、たまには二人きりになりたいと考えるゆとりもないまま、時間は猛スピードで流れていた。
 坂本に携帯で呼び出されたのは、そんなある日のことだった。笙が待ち合わせのカフェに行くと、坂本は静かに切り出した。
「大切な話をするからね。よく考えて欲しい」
 坂本の真剣な表情に、小心者の笙は途端に身構えた。
「大聖のために、君に協力してもらいたい。大聖と音楽ユニットを組んで欲しいんだ。それも今すぐ。受験前の大切な時期なのはわかってる。だが、君が作曲家として海外から注目された今がチャンスなんだ」
 坂本がアメリカの友人から聞き出したところによると、凛々花のスポンサーには日本贔屓で知られる富豪のオズモンド氏が付いていた。彼の豊潤な資金とコネをバックに、凛々花はいずれ頂点へと上り詰めていくだろう。笙は凛々花に、凛々花はオズモンド氏に繋がっている。これを利用しない手はない。
 笙はまだ『ワンダーランド』がチャートで1位を獲得したことも、アメリカから取材の申込みがあったことも知らされていなかったので、首を傾げた。
「大聖さんは、僕が大学生になってから、伯父さんが許してくれたら一緒に活動しようって……」
「まだ、社長から何も聞いてないんだ」
 坂本は呟いて考え込んだ。小早川社長にすれば、笙は妻の実家からの大切な預かりものだ。受験を目前に控えたこの時期に、笙の気を散らせて受験に失敗でもされたら一大事なのだ。
 しかし、坂本は長くこの業界にいて、幸運の女神には前髪しかないことを嫌というほど知っていた。
「君の作曲した『ワンダーランド』がアメリカのチャートで1位になったんだ。マスコミは、歌手の凛々花(RIRIKA)だけでなく作曲した君自身にも興味を持っている。その君が大聖とユニットを組めば、必然的に大聖も一緒に注目を浴びることになる。大聖の知名度を海外にまで広めるには、君が注目を浴びた今を利用しなければ」
 坂本の説明を聞いても笙はあまり事の重大さを理解できなかったようだ。動じることもなくポツリと言った。
「大聖さんが、それで良ければ……」
 坂本は笙の返事を聞いてほっとすると同時に、改めて笙の強運を感じた。笙が泉川に見い出されたのも、神崎美耶子に気に入られたのも、些細な偶然の産物だ。そして今また凛々花という歌姫に才能を認められた。
 その点、大聖は才能はあっても運には恵まれてこなかった。大聖は、泉川と10年来の顔見知りだったが、歌手デビューの話は笙が現れて初めて実現した。神崎美耶子に至っては坂本がさんざん営業をかけても相手にされなかったが、笙との交際を打ち明けたことで、ようやく関心を持ってもらえた。才能があっても、なかなか運に恵まれなかった大聖に、笙は次々と幸運を運んできてくれていた。



     act.32
 『ムーン・セレナーデ』で坂本の話を聞くと、当の大聖は、しばらく考え込んでから言った。
「笙に芸能人は向いてないよ。だって、あいつ、すげぇ、ビビリじゃん」
「笙くんの家族に、二人の仲を認めてもらう千載一遇のチャンスだぞ。まずは、仕事のパートナーとしての結びつきをアピールするんだ」
「そっか、なるほど! やっぱ、坂モッチャンは頭いいなぁ」
 大聖は坂本に感心しながらも、すでに心は別のこと――セックスに向いていた。さり気なく坂本の胸に指先を滑らせたかと思うと、ワイシャツの上から器用に坂本の乳首を摘み上げる。
「――っ、大聖!」
「ダメ?」
 大聖は、いたずらっ子のような瞳で坂本の顔をのぞき込んだ。
「おまえには、笙くんがいるだろっ!」 
「男のハートとカラダは別物だって、坂モッチャンだって知ってるだろ。なぁ、俺、もう二週間もしてないんだぜ。限界だよ」
 言いながら、大聖は甘えるように下半身を擦りつけてくる。いつもなら、そのまま流されてしまう坂本だが、さすがに今夜は違った。
「だ・か・ら、自分で抜けって!」
 坂本は乱暴に大聖を突き飛ばした。
「それに、笙くんにバレたら、どうするんだ」
「うーん、確かにマズイかも……」
 大聖は呑気に呟くと、ヤラせてもらえないのが心底、残念だというように口をへの字に曲げた。


 翌日、笙は坂本の通訳で、海外メディアの取材を受けた。日本雑誌の取材ですら、笙は「はい」と「いいえ」「わかりません」の三つしか応えてくれないインタビュアー泣かせの困ったちゃんだ。ほとんど坂本の補足説明に終始した取材に、アメリカ人記者は「こんなにシャイなアーティストは初めてだ」とぼやいた。
 大聖と笙が音楽ユニットを組むことに、小早川社長だけは大反対した。策士の坂本があの手この手で説得を試みたが、社長は頑として首を立てに振らなかった。しかし、坂本も大聖も諦めかけたとき、笙が社長の前で一言「伯父さん、わがまま言ってごめんなさい」と頭を下げたると、あっけなく社長の方が折れてくれた。
 ただし、それには条件が付けられた。大聖と笙のユニット『spica(スピカ)』結成のマスコミ発表は今するが、実際の活動は笙の大学合格を待ってからするというものだ。笙は、マスコミの合同取材を一日がかりでまとめて受け、後は今まで通り受験勉強に専念することになった。
 初めは高校に記者や若い女の子達が押しかけて大変だったが、将棋部の仲間や後輩がガードしてくれた。11月からは自由登校になるので、笙は自室に閉じこもって勉強することにした。アメリカのピース・レーベルから依頼のあった新曲も、受験が終わってからにして欲しいと、プロデューサーに無理を言って納得してもらった。


 笙にとって受験勉強の息抜きは、夕食の後、たまに大聖と二人、リビングで雑談をすることだ。大聖は、ライブツアーのリハーサルとダンス・レッスンで相変わらず忙しいが、以前よりはいくらかマシになって、夕食はだいたい小早川家で笙と一緒に食べていた。
 夕食の後、笙がひとり、小早川家のリビングでまったりしていると、大聖が紅茶のマグカップを二つ運んできた。家事にまったく興味を示さない笙と違い、大聖は由美にきっちり躾けられていた。料理も洗濯も掃除も、仕事で忙しいとき以外は、自分のことは自分できちんとこなしている。
「笙、ほら紅茶、ここ置くぞ」
「ありがとう」
 ふと、マグカップを置く大聖の腕を見た笙が、目敏く言った。
「ねえ、神崎先生にもらった時計、どうしたの?」
 笙に指摘されて、大聖は自分が誕生日に神崎美耶子からプレゼントされた時計を嵌めていないことに気づいた。
「あっ、ほんとだ。どこに置き忘れたんだろう……参ったな」
「防水だから、お風呂以外じゃ外さないって言ってたよね」
 憧れの脚本家・神崎美耶子からもらった時計なので、大聖はまさに肌身離さず身につけていた。それを無くして動揺した大聖は、大きなミスを犯してしまった。
「そうだ! ゆうべ、シャワー浴びたときに外した!」
 手早く携帯を操作して、坂本を呼び出す。
「坂モッチャン、俺、坂モッチャンとこに時計を忘れてきてないかな。ほら、神崎先生にもらったヤツ」
「あ、やっぱり!  え? メールくれた? わりぃ、気がつかなかった」
 その時、突然、大聖は笙に腕を引っ張られた。
「大聖さん、坂本さんの部屋でシャワー浴びたの?」
 詰問されて、大聖は初めてそれが何を意味するか気づいたが、後の祭りだ。
「あ…あ、そうなんだ。服に酒こぼしちゃってさ、着替えついでに坂モッチャンとこでシャワー借りたんだ」
 大聖の引き攣った顔と苦しい言い訳に、笙は今にも泣き出しそうな顔をする。大聖が、ゲイの坂本の部屋でシャワーを使う、その理由がわからないほど、笙だって初心ではない。
「だから変な誤解、するなよ?」
 伸ばした手は、力一杯、振り払われた。


「わかってると思うが、絶対に認めるな。どんなに問い質されても、違うって言い張るんだ」
 大聖から事の次第を聞いた坂本は、苦虫を噛みつぶしたような表情で大聖に命令した。
「浮気は認めた瞬間から成立する。だから、絶対に知らぬ存ぜぬで通すんだ。むろん、俺もそうする」
「うん、わかった」
 神妙な面持ちで肯いた大聖だが、実のところ自信はなかった。笙に、まっすぐ見据えられて問われたら、きっと土下座してしまうだろう。
 とはいえ、坂本が言うところの“誤解”を解かないことには、仕事に差し障ってしまう。自分で蒔いた種とはいえ泣きたかった。
 大聖が小早川家を訪れると、例によって笙は部屋に閉じ籠もっていた。
「ダイちゃん、また笙くんと喧嘩したの?」
 笙の伯母・由美は、笙の籠城にはもう慣れっこで、事態の深刻さには気づいていない。
「うん、ちょっとね。俺、謝ってくるから心配しないで」
「そう? ありがとう」
 しかし、笙の部屋はドアを開けられないよう内側に家具が置かれ、大聖は1時間あまりドアの前で粘ったが、口も利いてもらえなかった。



     act.33
 仲違いしたまま迎えてしまった、笙の受験当日。大聖は、自分のせいで笙が受験に失敗したらと気が気ではなかった。ライブの練習で何度もミスって、プロデューサーの泉川に怒鳴られる。だが、泉川自身も落ち着かないようで、休憩の度にイライラとタバコを吸っていた。
『試験が終わったら、新橋の中華料理店で笙くんと夕飯を食う約束になってるから、大聖も来ないか?』
 坂本からのメールを読んで驚いた大聖は即、電話した。
「なんで、坂モッチャンが笙と飯食うんだよ。下手に言い訳するなって言ったのは坂モッチャンだろ!?」
「笙くんに、俺の恋人を紹介するってメールしたら、『ぜひお会いしたいです』って返信が来たんだ」
「ええっ!? 坂モッチャン、決まった恋人なんていたんだ?」
「ばーか、笙くんを納得させるために、わざわざ用意したんだよ!」
 大聖を嘲るように、坂本は喉で笑った。
「おまえがいつまでたっても、笙くんのご機嫌を取れないから、俺が一肌脱いでやる」
 今回の一件は、坂本にも責任の一端があるし、せっかく組んだユニットが活動前に解散ではシャレにならない。坂本は、3人いるセフレの中で、一番大人しくて御しやすい男・正木幸宏(まさき・ゆきひろ)を恋人のダミーに選んだ。
 正木は、坂本より3歳年下のサラリーマンだ。身長165センチと笙よりさらに小柄だが、ファッションセンスが良いので実際より背が高く見える。従順で、どんなプレイでも受け入れるところを、坂本は気に入っていた。絶対にネコはやってくれない大聖とは正反対の根っからの受けだ。
「笙くんの合格を祈って、乾杯!」
 坂本の陽気な音頭で、食事会は始まった。メンバーは、坂本、正木、笙の3人だ。大聖は、笙の誤解が解けてから顔を出すことになっていた。
「正木さんは、坂本さんとどこで出会ったんですか?」
 普段、無口で他人に関心のない笙が、別人のように積極的に正木に質問する。坂本に直接、「大聖さんとセックスしたんですか?」と聞けない代わりだ。
「たまたま、居酒屋で隣合わせてね。話が弾んで、メアド交換したのが始まりだよ」
 正木は、坂本に指示された通り、相思相愛の恋人同士のふりをしていた。本当は、バーで目があってホテルへ直行。セックスの後は、お互いの名前も知らないまま別れたのだが。その後、店で再び顔を合わせてセックスするうちに、いちいち店で相手を見繕うのが面倒でメアド交換した。もちろん、一度たりとも恋人同士のような甘い雰囲気になったことはない。
 席について30分ほどで、天野大聖から坂本に連絡が入った。
「笙くん、ドアはどうする? 開けておくかい?」
 大聖を大通りまで迎えに行くため、席を外す坂本が訊いた。
「はい、お願いします」
 せっかく個室を押さえたのにと、正木は怪訝な顔をする。
「笙くんは、密室で知らない奴と二人きりになるのが苦手なんだ」
 坂本はドアが閉まらないように椅子で固定すると、笑って正木に説明した。
「すみません。正木さんとはまだ会ったばかりだから……」
 気まずそうに笙が目を伏せる。
「気にしなくていいよ」
 正木は笙を安心させるように穏やかに微笑みかけてやった。
「ねえ、高柳くんは女の子とはダメなの? 年上の綺麗で優しいお姉さんとか嫌い?」
 坂本の姿が見えなくなると、正木は世間話のようにさりげなく訊いてみた。すると笙は何のてらいもなく答えた。
「ママが、きちんと責任を取れる年齢になるまで、女の子とお付き合いしてはダメだって……」
 笙の返事に正木は自分の耳を疑った。いったい、いつの時代の話だ。
「もう君は、ママにあれこれ指図される年齢ではないだろう?」
「そうなんですか?」
 笙は不思議そうに首を傾げる。
「まあ、普通は親離れ子離れする年齢だよ」
「そうですね」
 笙が決まり悪そうな顔をしたので、正木は慌てて話題を変えた。
「ところで、天野くんのどこが好きなの?」
「……全部です。特に僕と正反対なところが好きです」
「なるほどね。自分にないものって憧れるよね。隣の芝生は青く見えるってヤツ。で、優しくされちゃったりするとイチコロだよね」
 正木の指摘は的を得ていたらしく、笙は頬を赤らめた。
「ああ、そうだ――君にプレゼントがあるんだ」
 正木はドアの外に人がいないのを確認すると、坂本に言われて用意していた包みを取り出した。
「これ、良かったら使ってみて。僕のお気に入りなんだ」
「ありがとうございます。正木さんのお気に入りって何ですか?」
 笙は、無邪気に袋を開けようとした。
「それはね、セックスするときに使う潤滑剤。滑りがいいと快感を得やすくなるから潤滑剤は大切なアイテムだよ。君もいろいろ試してこだわったほうがいい」
 笙は袋を開けようとしたまま固まった。そろそろと顔を上げると、正木と目が合う。
「僕が前に付き合ってた彼は、女の子としかセックスしたことなくてさ、僕も男とは初めてで、なかなか気持ち良くなれなかったんだ。それで、彼がネットでそれを見つけて、試してみたら凄く良かったんだ」
 それは、坂本にもまだ話していないことだったが、笙に見つめられた正木は、なぜか口を滑らせてしまった。
「その彼とは、どうして別れたんですか?」
 不躾だと思いつつも、笙は訊かずにはいられなかった。
「……彼が優し過ぎたから……かな?」
 正木は、ふんわりと優しく笑った。悲しい笑顔だった。それきり正木は黙り込んでしまい、笙はそれ以上、質問することはできなかった。
 その後、合流した大聖は、持ち前の明るさで場を盛り上げてくれ、笙は久しぶりに大聖と打ち解けて話すことができた。


「話があるから、帰りに大聖さんの部屋に寄ってもいい?」
 食事の後、笙が神妙な面持ちで言ったので、大聖は内心、身構えた。改めて、坂本との関係を訊かれるのではないかと思ったのだ。
「ああ、もちろん」
 役者の本領発揮で平静を装って応えたが、最後まで嘘を突き通す自信などカケラもなかった。大聖と笙が、タクシーで大聖の部屋に戻ったのは午後10時近くで、二人きりになるのは、実に一ヶ月ぶりくらいだ。
「何か、飲むか? って言っても、ジュースはないけど……今、あるのは、日本茶とミネラル・ウォーターと……ビールは飲めないよな」
 冷蔵庫を物色する大聖の背中に、笙はぎゅっと抱きついた。
「笙……?」
「……僕は、大聖さんを信じてるから――それで、いいんだよね?」
 涙声で問われて、大聖は焦った。恐る恐る振り返ると、案の定、笙の瞳には涙がてんこ盛りだ。
「サンキュ」
 大聖がなんとかそれだけ言うと、笙は泣き笑いを浮かべた。大聖は愛おしさのあまり、力一杯、笙を抱きしめた。



     act.34
 11月中旬、笙は、第一志望のN大に合格し、晴れて自由の身になれた。
「高柳くん、目線、こっちにもお願いします」
 芸能界復帰、最初の仕事になったのは、大学合格を報告する記者会見だ。笙は、プレッシャーから解放された喜びに、終始笑顔を絶やさなかった。
 平凡な顔立ちだが、笙の笑顔には見ている者をハッとさせる色香がある。大聖のように笑顔を大安売りしない分、それは貴重なものだった。
 12月に大聖は全国ツアーを回り、年明けから本格的に笙との音楽ユニット『spica(スピカ)』の活動に入る。それまでに笙は、ピース・レーベルから依頼のあった楽曲を仕上げなくてはならなかった。
 クリスマスは、大阪城ホールで行われた大聖のライブに、笙もゲスト参加した。ネットでその情報が流れたため、チケットは即日完売し、プラチナ・チケットとまで呼ばれた。
 笙は会場の広さに驚いた。昨年までの300人から400人クラスのハコとは雲泥の差だ。それでも、近視で遠くがよく見えないのが幸いして、近くに客の顔がない分、リラックスして演奏することができた。
 笙は大聖の歌声が好きだった。柔らかくて優しい声、透き通って良く伸びる。ほんの少しセクシーで、砂糖菓子のように甘い。惚れた欲目を差し引いても、ずっと聴いていたくなる心地よさだ。
 凛々花のように声域が広くなくても、魂が震えるような表現力なくても、笙は、自分の才能すべてを大聖に捧げたいと思った。


「先に寝てれば良かったのに」
 打ち上げを終えてホテルに戻ってきた大聖は、笙が起きて待っていたので目を丸くした。時刻はすでに深夜零時を回っている。
「大事な用があったから……」
 口籠もった笙の表情は、照明を落とした室内ではよくわからない。大聖はサイド・テーブルの電灯スイッチに手を伸ばした。
「明るくしないでっ!」
 悲鳴のように笙が叫んだので、大聖は慌てて手を引っ込めた。
「なんだよ、深刻な用か?」
 ベッドに座っている笙の隣に腰を下ろすと、大聖は笙の肩を抱き寄せた。
「大聖さんからクリスマス・プレゼントをもらいたかったんだ」
「そっか、ライブでバタバタしてて渡すの忘れてた! 笙に似合いそうなコートを見つけたんだ。坂モッチャンに聞いて知ってたのかぁ」
 本当は選ぶ時間がなくて、スタイリストの加世子さんに頼んで買ってきてもらったのだが、それは内緒だ。
「違う……」
「じゃあ、誰から聞いたんだ?」
「そうじゃなくて……」
 かみ合わない会話に焦れながら、笙は勇気を振り絞って言った。
「大聖さんが欲しい! 大聖さんと最後までセックスしたい!」
 笙は顔から火が出そうなくらい恥ずかしいのに、大聖は絶句したまま動かない。
「……ダメ?」
 薄闇の中、懸命に大聖の様子を探りながら、笙は訊いた。
「ええっと……笙、あのな……」
 大聖は気まずそうに自分の額に手を当てた。
「そういうのは、笙がもっと大人になってから、時間をかけて、ゆっくりでいいんだ。俺、笙が成人するまでは手を出さないって決めてるし」
 大聖がしどろもどろになりながらも、なんとかそれだけ言うと、笙が小さく身じろぎした。
「だからそれまで、他の人とセックスするの?」
 笙の声は冷たく、絶望に満ちていた。まるで、何もかもお見通しだというように。
「笙……」 
 大聖は再び言葉を失って黙り込んだ。重い沈黙の中、どれくらいそうしていたのか……笙の細い指が強い力で大聖の腕を掴んだ。
「ずっと、心の準備をしてきたから……痛くても苦しくても我慢できる。だから、大聖さんの全部が欲しい!」
 大聖の腕を掴んでいた指が、まるでそれ自体が生き物のように、大聖の股間へと伸びた。そして、拙い動きで大聖の分身を育てようと蠢く。
「笙……わかったよ。わかったから、ちょっと待てよ。まずは、一緒にシャワーだ」
 大聖は覚悟を決めて囁いた。


 案の定、翌日、笙は37.5度の熱を出した。明け方近くまで時間をかけて身体を拓き、身体を繋いだのは一度だけだったが、それでも笙の負担は大きく、コトが終わった途端、意識を失ってしまった。
 大聖は、午後から取材が入っていたが、やむなく坂本にキャンセルしてくれるよう電話で頼んだ。壊れた人形のように生気をなくして眠る笙を一人になどできない。
「良かったじゃないか、やっと本物の恋人になれて」
 コトの成就に、坂本の声は明るかった。
「けど、笙はメチャクチャ痛そうで、俺まで萎えそうだった」
 笙が怖ず怖ずと差し出してきた潤滑剤で、大聖はすぐに裏で糸を引いたのが坂本だと勘づいた。坂本の部屋にあったものと同じだったからだ。
「あのな、笙くんはバージンみたいなもんだから仕方ないさ。馴れれば楽しめるようになる。それためにも、今夜はもう一回、頑張れよ」
「ええっ!?」
 坂本の発言に大聖は、驚きのあまり素っ頓狂な声を上げてしまった。
「初めのうちは、あまり間を開けない方がいいんだ。時間が空くと、せっかく体が覚えたおまえの大きさを忘れて、一からやり直しになるからな。できることなら、三日三晩ハメまくって、おまえに馴染ませるのがベストなんだが」
 大聖が、ゲイである坂本のデリカシーのなさを痛感するのは、こういう時だ。むろん、彼が二人の仲を気遣っての発言とは充分承知しているが、赤裸々な内容に耳を塞ぎたくなる。
「とにかく、俺は笙の体調が良くなるまで傍らに付いてるから、明日も動けないかも」
「ふ〜ん、まあ、好きにしろ。スケジュールは俺がなんとかしてやるよ」
 坂本にしては珍しく、気前よく調整を請け負ってくれたことに、大聖は心の底から感謝した。
 笙は、夕方には何とか動けるようになったが、大聖は大事を取って、もう一泊することにした。翌朝9時の新幹線で東京に戻れば、仕事には間に合う。
 なにより、無言ですり寄ってくる笙が無性に可愛くて、少しでも長く二人で触れ合っていたかった。とはいえ、さすがに疲れ切っている笙を抱こうとは思えなかったが。
 東京駅まで二人を迎えに来た坂本は、笙の醸し出す色気に目を瞠った。たった一晩の情事でこうも変わるものかと驚嘆するほど、笙は美しくなっていた。大聖に愛されているという自信と誇りが、笙を内面から変えたのだ。まるでサナギが蝶へと羽化するように――。
「笙くん、それじゃ顔にエッチしましたって書いてあるようなものだ。サングラスをかけなさい」
 坂本に言われて、笙は真っ赤になりながら、あたふたと自分の荷物を探ってサングラスを取り出した。
 考えてみれば、大聖も坂本も、レイプされ心に傷を負ってからの笙しか知らなかった。しかし、これが本来の笙だったのだ。坂本は、かつて田崎伸也が嫉妬に狂って笙をレイプしたのがわかる気がした。
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