ライオンact.11〜act.22     月桜可南子
     act.11
 年末年始を、大聖は一人で過ごした。小早川夫妻が、笙を連れて実家の高柳家へ里帰りしたためだ。由美が熱心に、一緒に行こうと誘ってくれたが、大聖は父親が亡くなって喪中なので遠慮した。
 年末の30日から年明け3日までの滞在と聞いていたが、驚いたことに、笙が一人だけで元旦の夜に新幹線で戻ってきた。母親と喧嘩をして、目を離した隙に勝手に帰ってしまったのだという。由美から電話で、笙を一晩泊めて、自分たちが戻るまで面倒を見て欲しいと頼まれた大聖は快諾した。
 だが急なことで、笙を駅まで迎えに行ってやることはできなかった。笙が拒絶反応を示すであろうAVやエロ雑誌を隠すのに大わらわだったからだ。大聖は、どこに隠すのが一番安全かと悩んだ末、不謹慎かもと考えたが、笙が一番触れないはずの仏壇の奥にそれらを押し込んだ。
「こんばんは、お邪魔します」
 マンションのドアを開けると、大きなボストンバッグを持った笙がペコリと頭を下げた。寒さに凍えて唇まで血の気を失った笙は、痛々しいほど疲れた顔をしている。
「まずは風呂に入って暖まれよ」
 迎えに行かなかったことを激しく後悔しながら、大聖は笙をバスルームに案内してやった。由美に、笙が無事に着いたことを知らせるメールを打つと、ベッドシーツを取り替えて完璧なベッドメーキングをした。昔から、これだけは得意中の得意なのだ。
「大聖さん、あの、ドライヤーを借りたいんですけど……」
 笙の声に驚いて振り返ると、笙がバスルームのドアから、ちょこんと顔を出していた。濡れた髪が額に張り付いて愛らしいのだが、同時に性的な匂いを感じて、どぎまぎしてしまう。
「洗面台の右側にあるから使えよ」
 内心の動揺を悟られまいと必死に平静を装いながら応えたが、全裸の笙の側まで行って、コンセントの位置を教えてやる余裕はなかった。
 笙は、大聖のベッドを使うのを固辞したが、ソファーで寝かせれば風邪を引かせそうで、大聖は強引に笙をベッドに押し込んだ。
「まだ、9時なのに、こんなに早く眠れません」
 笙は、ハムスターのように頬を膨らませて抗議した。
「絵本でも読んで欲しいのか?」
 大聖がからかうように訊くと、返ってきた笙の応えは意外なものだった。
「世界史の宿題をやってから寝ます」
「元旦から、ベンキョーするのかよ! 受験生でもあるまいし……」
 驚きを通り越して絶句した大聖の横をすり抜けて、笙はスタスタとリビングに戻った。自分のボストンバッグから、筆箱やら教科書、ノートなど一式を取り出して、リビングテーブルに広げる。
「湯冷めするなよ」
 大聖は、自分のパーカーを笙に貸してやり、エアコンの設定温度も上げてやった。笙が、周りの雑音など気にせず集中できるのは知っていたが、テレビをつけるのは憚られ、笙の傍らで読みかけだった小説を読むことにする。
 不思議な時間だった。お互い別々のことをしているのに、相手の存在が心地いい。ページをめくる音、微かな息づかい、穏やかな他人の気配が、こんなにも癒されるものだと、大聖は知らなかった。
 小説を読み終えた大聖が、ふと目を上げると、笙が教科書やノートを閉じるところだった。大聖は、笙の側を離れがたく、自分の座る三人掛けソファーに手招いた。
「終わったのか? だったら、こっち来いよ」
 笙が素直に大聖の隣に移動してきたので、大聖はその身体を引き寄せて、胸の中に抱き込んだ。
「湯冷めしてないな。あ、ボディソープのいい匂いがする。なんだか、酔っ払ったみたいにいい気分だ。スゲー、しあわせ……」
 笙は何も言わなかった。ただ、大聖の胸に身体を預け、じっとしているだけだ。二人は身を寄せ合いながら、ゆっくりと眠りの中に落ちていった。


 真夜中に、大聖は腕の痛みで目を覚ました。笙が、何かから逃れようと必死に大聖の腕に爪を立てていた。「痛い、許して」とうわごとを繰り返し、身体を震わせている。
「笙! 起きろ、大丈夫だから、目を覚ませ!」
 大聖が、二、三度、肩を揺すってやると、笙は弾かれたように目を開けた。溺れて水中から引き上げられた人のように、苦しげに浅い呼吸を繰り返す。痛々しく、そしてエロティックだった。
「怖い夢でも見たのか? うなされてたぞ」
 笙は気持ちを落ち着けようと大きく息を吐き出した。
「ママが……僕は汚れているから洗って綺麗にしなくちゃって……何度も擦られて痛くて、お湯が熱くて……でも、ママはもっと綺麗にしなくちゃって……」
 思わず大聖は笙を抱きしめていた。大聖に抱きしめられたまま、笙は力なく呟いた。
「ママが怖くて、家を飛び出してきたんです。突然、押しかけてごめんなさい」
「いいんだ。そんなことは気にするな。それより、ここで寝たら風邪をひく。早くベッドへ行けよ」
 大聖が促すと、笙は素直に従った。
「もう嫌な夢を見ないように、おまじないをしてやる」
 笙をベッドに寝かしつけると、大聖は笙の額に派手な音を立ててキスしてやった。
「これで、もう大丈夫だからな。安心して寝ろ」
 大聖がおどけて言うと、やっと笙は少し笑った。
「お休みなさい」
「お休み」
 寝室のドアを閉めると、大聖は目眩を起こしそうな胸の痛みに立ち竦んでしまった。笙の抱える闇が哀しくて、母親の虐待に傷ついた笙が愛しくて――。



     act.12
 天野大聖に、歌手デビューの話が持ち上がったのは、年が明けて間もなくのことだった。プロデュースは、泉川公章がするという。
 所属事務所のワンダースターとしては、今年で27歳になる大聖を、いつまでも『お姉様達のペット的好青年』で売ることに限界を感じていたため、渡りに船だった。これを機会に、セクシーさを前面に出し、イメージ・チェンジを図ろうということになったのだ。
 大聖は、髪をショートにし、カラーもダーク・ブラウンに変えた。カラフルな私服はほとんどを処分して、スタイリッシュなモノトーン系の物を新しく買い揃えた。
「デビュー祝いに一曲、書いてくれないかな?」
 大聖に頼まれて笙は二つ返事で承諾し、5曲書いたうちから大聖が気に入った曲を選べと言ってくれた。どの曲も大聖の新しいイメージにマッチしたもので、1曲に絞り込めず、迷った大聖が泉川に相談したら、3曲をアルバムに入れることになった。詞は、泉川が大聖が書いた物を手直しした。
 たが、曲のアレンジを泉川と一緒にやる、ということに笙は難色を示した。「若い高柳くんに自分が培ってきたテクニックを伝えたい」という泉川と、「アレンジは泉川さんにすべて任せます」という逃げ腰の笙との板挟みになって、大聖は頭を抱え込んだ。
「笙くんは人見知りが激しいから、ダイちゃんと一緒ならどうかしら?」
 由美のアドバイスで、大聖は笙を説得することに成功した。大聖が付き添うという条件で、2月の週末ごとに、泉川のスタジオへ、大聖のレコーディングも兼ねて通うことになったのだ。
 泉川のスタジオには、何人ものお抱えスタッフが待機していた。見知らぬ大人達に囲まれて、すっかり萎縮してしまった笙だが、皆から大切に扱われ、泉川には猫可愛がりされ、なんとか現場の雰囲気に馴染んだ。
 大聖は、プロモーション用に撮影されているビデオが、密かに笙を隠し撮りしていることに気づいた。が、泉川にウインクされて、カメラマンを咎めるのをやめた。
「あの子の才能は、どんなに隠したって隠し通せるものじゃない。それなら、いっそオレの庇護の元にいた方が安心だろう?」
 泉川に、そう耳打ちされて、大聖は自分が後ろ盾のないままデビューして苦労したことを思い出した。考えてみれば、泉川ほど理想的な後見人はいない。ミュージシャンとして才能の枯渇に悩む泉川は、自らをインスパイアしてくれる笙を、ミューズとして大切にしてくれる。
「あなたが俺をダシに使ってるってこともわかってますから」
 大聖は不敵に口元を引き上げた。
「じゃ、Win-Win(ウィン-ウィン)てことで」
 泉川はそう言うと、愉快そうに笑った。


 大聖のデビュー曲『ラブマシーン』は、春からスタートするドラマの主題歌に決まった。むろん、泉川のコネだ。
 大聖は歌番組出演とライブツアーの準備、その合間を縫ってドラマ撮影をこなし、超多忙な日々を送るようになった。が、大聖は浮き沈みの激しい芸能界で、それが長く続くことはないと知っていたので苦にならなかった。
 切れ者の坂本が、将来に繋がる仕事を的確に選んでくれているのもありがたかった。順風万風という言葉がピッタリの充実感に、大聖は失恋の痛手を忘れていった。
 笙が大聖と過ごす時間は、以前より長くなった。週末のほとんどを大聖や泉川達と一緒にスタジオで過ごすためだ。
 大聖の練習中、笙はスタジオの片隅で教科書を広げて予習復習に余念がない。休憩時間になると、大聖の横に座って静かに皆の雑談を聴いている。質問されればそれなりに答えるが、自分から会話に加わることは決してない。
「高柳くんは、甘い物、苦手なのか?」
 ギターの本田俊介が、差し入れのプリンを食べようとしない笙を見て、不思議そうに訊いた。
「夕食が食べられなくなるから……」
 笙の伯母・由美は、笙を太らせることに血道を上げている。笙が少しでも食事を残すと嘆くので、最近は同じ食卓に着く大聖が、こっそり食べるのを手伝ってやったりしている。
「それなら半分だけ食べて残せばいい。残りは俺が片づけてやるから。笙はプリン、大好きだったろ?」
「……うん」
 大聖がプリンの封を切って笙に差し出すと、笙は恥ずかしそうに受け取った。
「大聖って、ほ〜んとっ、高柳くんに甘いのね!」
 キーボード担当の崎田美咲が、からかうように言うと、笙は耳まで真っ赤になった。


「ストップ! ストッープッ!! 大聖、今のフレーズ、また音が外れたぞ。レコーディングじゃ、きっちり歌えてたじゃないか、しっかりしろ!」
 都内のライブハウスでの初ライブを前に、泉川の指導は厳しさを増していく。スタジオの片隅で宿題をやっていた笙は、泉川の叱責の鋭さに顔を上げた。何度やっても巧く歌えない悔しさに、大聖が唇を噛み締めるのが見えた。
「あ、あの……泉川さん」
 笙は立ち上がって声を掛けたが、苛ついている泉川は気がつかない。
「もう一度、間奏からだ」
 仕方なく笙は、キーボードの美咲に歩み寄って演奏を代わってもらった。そして大聖が苦手なフレーズの前で、ごく短いアレンジを加えて演奏した。たったそれだけで、大聖はそれまで外してしまっていた音を的確に出すことができた。まるで魔法に掛けられたように。
 泉川が、驚愕の目で笙を見た。静まり返ったスタジオで、笙は自分が何か大失敗をしたのだと思って怯えたように後ずさった。



     act.13
 その夜、笙が大聖のマネージャー・坂本省吾に連れられて帰宅した後、大聖は泉川に誘われて六本木のバーで飲むことになった。酒豪で知られる泉川だったが、その夜の飲みっぷりは常軌を逸していた。
「このオレが、あんな子供に負けるなんて、信じられるか? あの子はまだ16だ。たった16だってのに――オレは今、サリエリになった気分だ」
 笙が、幼い頃からピアノをやっていたのは大聖も知っていた。しかし、ピアニストになるには、笙の手は小さく、本人もプロを目指す気がなかったので、高校受験を期にピアノは辞めたと聞いていた。
 だが、笙の才能はピアノニストではなく作曲家としてのものだったのだ。笙が持つ、音に対するセンスは、素人の大聖でさえ驚嘆するものだ。プロである泉川にはその価値が正確にわかるからこそ、ダイヤモンドのように光り輝いて見えるのだろう。
「笑っちまうよな、オレはあの子を一流のミュージシャンに育ててやろうと思ってたんだ。思い上がりもいいとこだ。音楽の神に対する冒涜だ」
 だんだん自虐的になっていく泉川に、大聖は同情せずにはいられなかった。大聖も、笙の恵まれたスタイルの良さに嫉妬を感じたことがある。
「笙は、才能があるのかもしれないけど、人見知りが激しくて臆病な子どもなんです。あなたの助けなしでは輝けない。そして、笙を発掘したのは他の誰でもない、泉川さん、あなたです。俺はあなたを尊敬しています」
「オレなんかを尊敬するなんて、おまえは見る目がないなぁ」
 泉川は苦笑すると、グラスに残っていたスコッチを飲み干した。
「今夜はとことん飲みたい気分なんだ。最後までつき合えよ」
「わかってます」
 大聖は柔らかな笑みを浮かべると、泉川のグラスに酒を注いだ。泉川はその酒をゆっくりと喉に流し込むと、思い出したように言った。
「オレには、高柳くんがいじめられて登校拒否になったなんて信じられない。あの子は温和しいが、いじめられるタイプじゃないし、もし、いじめられても他人に興味のないあの子が気にするとも思えない。なぁ大聖、あの子は何から逃げてきたんだ?」
 泉川はかなり飲んでいるはずなのに、鋭い眼で大聖に尋ねてきた。それは大聖も気になっていた。なにしろ出会った頃の笙は、がりがりに痩せて明らかに心を病んでいた。だが面と向かって笙に詳しく訊く勇気もなく、ずっとうやむやにしてきた。
「俺にはわかりません。笙が転校してまでやり直そうと努力しているのに、過去のことを聞いて、つらい思いをさせたくないんです」
「おまえはホント、いいヤツだな。相手の気持ちを察して、その心に寄り添うことができる。オレが見込んだだけのことはある」
 泉川は満足そうに笑った。
「さあ、飲め飲め! 今夜はとことん飲むぞ!」
 結局、大聖は明け方まで泉川に付き合わされ、思いっきり二日酔いになった。しかし、当の泉川は酔い潰れこそしたが、翌日はエネルギッシュに皆を怒鳴りつけていたのだった。


 出過ぎたことをしたと思ったのだろう。例によって笙は、大聖の練習について来なくなった。
「あれくらいのこと、泉川さんもみんなも気にしてないさ。笙は人の顔色を伺いすぎだ」
 大聖が言葉を尽くして説得したので、大聖の初ライブに、笙はやっと顔を出した。舞台袖から坂本とリハーサルを観ていた笙に、泉川が言った。
「高柳くん、これからは対等にやろう。手始めにアルバムについて意見を聞かせてくれないか?」
 笙はすっかり萎縮して、小さな声でやっと絞り出すように言った。
「ごめんなさい……」
 それを聞いた泉川は驚いて目を見張り、続いて大爆笑した。
「君って子は、まったく! 頼むからもっと自信を持ってくれよ!」


 6月下旬に期末テストが終わり、笙は一ヶ月ぶりにスタジオへ顔を出した。
「高柳くん、ちょっとちょっと!」
 スタジオに入った途端、笙はキーボード担当の崎田美咲に声を掛けられた。大聖と同い年の美咲は、どこか笙と張り合うところがあって、笙は彼女が苦手だ。
「夏休みは、何か予定ある? 友達と遊びに行くとか、家族旅行とか?」
「将棋部の大会があります」
 笙は、話の先が読めないまま、素直に質問に答えた。
「夏のツアーなんだけどさ、あたしと代わって欲しいのよね」
「代わる?」
 意味がわからず、笙は小首を傾げてオウム返しに繰り返す。
「決まってるじゃない、ステージよ!」
 平然と言ってのけた美咲に、笙の傍らで話を聞いていた大聖の方が驚いた。
「はあっ? どうしてっ!?」
 大聖の派手なリアクションに、美咲は肩を竦めると、朗らかに言った。
「あたし、妊娠したの。今、8週目だから、夏になればお腹も目立ってくるじゃない。つわりも心配だし」
「妊娠!!」
 独身の美咲が妊娠と知り、大聖は大声で叫んでいた。笙も目を丸くして美咲のお腹を見つめた。
「シー! そんな大きな声で、やめてよ」
 慌てて美咲が咎めたが遅かった。スタジオにいた全員の視線が集まってしまう。すぐに泉川が、もの凄い剣幕で駆け寄ってきた。
「大聖っ、おまえ、オレの娘を孕ませるなんてどういう了見だっ!!」
「む、娘?」
 泉川に掴みかかられながらも、大聖は頭に浮かんだ疑問を口にした。泉川には、離婚した妻に息子が一人いるとは聞いていたが、娘がいるなんて初耳だ。
「違うの、相手は大聖じゃないの! 落ち着いてよ、ねっ!」
 皆、あまりのことに唖然として動けない。その時、ドラムスの熊沢幸正が泉川の足下に土下座して叫んだ。
「お父さん、娘さんを俺にください!」
「熊沢、てめぇ、バツイチだろっ! それなのに処女の美咲に手を出したのかっ!!」
 怒りのあまり真っ赤になって、泉川は熊沢を怒鳴りつけた。
「あたしなら、とっくにバージン卒業してたから彼を責めないで。それに自分だってバツイチじゃない」
 美咲が冷ややかな口調で言った。
「そ、それは……おまえのママや美咲のことが、佳子にバレたからだ」
 途端に美咲の目が吊り上がった。
「なによ、あたしのせいにするつもり? ママを捨てたくせにっ!」
「美咲ちゃん!」
 泉川に食ってかかろうとする美咲を、ギタリストの本田俊介が慌てて止めに入る。険悪な雰囲気に、誰もが固唾を飲んで成り行きを見守っていた。
「笙、ちょっと外に出てろ」
 大聖がそっと耳打ちすると、怯えきっていた笙はホッとしたように肯いた。
「信じらんない!! 大聖ってば、こんな時でも、あたしより高柳くんの心配してる!」
「美咲、なんで大聖じゃないんだ? おまえ、大聖のファンだって言ってたじゃないか。熊沢はおまえより一回りもジジイなんだぞ!」
「子守りに忙しい男なんてお呼びじゃないの! それに熊ちゃんは、ジジイじゃないわ。セックスだって、バッチリよ」
 しれっと言ってのけた美咲に、泉川がキレた。
「熊沢ぁあああ!!」
 いきなり熊沢に殴りかかったのである。
「キャア――!! 熊ちゃんに何するのっ、パパ、やめて――!!」
 抵抗しようとしない熊沢をボカボカと殴りつける泉川を、美咲が止めようとする。
「危ない、近づいちゃダメだ!」
 大聖が慌てて美咲を制止した。スタジオは、阿鼻叫喚の大パニックとなった。



     act.14
 熊沢と美咲は、泉川の命令でその日のうちに役所へ婚姻届の提出に出かけた。泉川は、美咲のお腹が目立たないうちに挙式をと気色ばんでおり、勝手に式場まで決めてしまいそうな勢いだ。
 当然、その日の練習は中止である。皆、興奮と混乱が収まらないまま解散となった。
「美咲ちゃん、つわりは大丈夫なのかなぁ」
 事務所の車に乗り込みながら、大聖が心配そうに言った。
「個人差があるっていうからな。俺の姉貴はつわりが酷くて入院した」
 すっかり大聖と笙のアッシーと化した坂本が、渋い顔で答える。
「あの、坂本さん。僕、紀伊國屋に寄りたいので、電車で帰ります」
 笙だけは、とことん冷静でマイペースだった。
 時間が空いたので英語の参考書を買いたいという笙に、坂本は付き合うことにした。いくら日中でも笙を一人で帰宅させるのは不安だ。高速のインターを降りたところに大型書店があるので、そこに立ち寄ることにする。
「大聖は車で待ってろよ。おまえがいると目立つからな。ゆっくり選べない」
「一人で待つなんてヤダよ。俺も行く!」
 大聖は胸ポケットからサングラスを取り出して掛けると、さっさと車から降りてしまった。
「じゃあ、30分後に店の入口で待ち合わせよう。笙くん、おいで」
 笙は不安そうに大聖を見ていたが、坂本に促されて大人しくその後に付いていった。そして騒ぎは、大聖が店内に入ってものの10分と経たないうちに起こった。
「笙っ、待ってくれ! 笙!!」
 鋭い制止の声と脱兎のごとく全速力で店を飛び出していく笙の後ろ姿。それを追いかける大学生くらいの青年を目にした大聖は、反射的に二人を追いかけていた。日頃、ジョギングで鍛えた脚力で、大聖はすぐに男に追いつく。
「やめろ! 笙が怖がってるじゃないか」
 男の腕を掴んで引き留めると、彼はさしたる抵抗もせず足を止めた。
「あなた、誰ですか?」
「おまえこそ、誰だよ?」
 二人は無言で睨み合った。どちらも相手の腹を探ろうと必死だった。男は大聖の知らない笙の過去を知っている。男にすれば、大聖は現在の笙に繋がる手がかりだ。
「大聖、笙くんはどうした!?」
 息を切らせて、やっと二人に追いついた坂本が尋ねた。大聖は、坂本に訊かれて初めて笙を見失ったことに気づいた。いったい笙は、どこまで逃げたのか……。
 笙は携帯にも出ようとせず、刻々と春の陽は落ちていく。仕方なく、大聖は由美に連絡を取り、携帯のGPSで笙の居場所を突き止めてもらった。
「知らない土地で闇雲に走れば、迷子になるのは当たり前だ。せめて携帯ぐらい出てくれよ。心配したじゃないか」
 夕闇の中、大聖が声を掛けると、笙はバス停のベンチに座ったまま、のろのろと顔を上げた。泣いて真っ赤になった瞳が、まるでウサギのようだ。コンタクトも涙で外れて落としてしまった。
「ウサギみたいに瞳が真っ赤だぞ。決めた、これからは『ラビット』って呼んでやる」
 大聖は笑いながら笙の隣に座った。手早く自分の上着を脱いで、笙に着せかけてやる。
「……久住先輩は?」
「もう帰った」
 本当は、「笙からの連絡を待っている」と伝言を頼まれていたのだが、敢えてそれは伝えなかった。坂本が、過去と決別したがっている笙には伝えない方がいいと判断したからだ。
 長い長い沈黙の後、笙がぽつりと言った。
「――何を聞いたの?」
「ああ、同じ高校の先輩後輩だったって。なんか訳ありみたいだったけど、『笙が話さないことを自分の口からは話せない』ってさ」
「そう……」
 笙は足下に視線を落としたまま呟いた。大聖はかがみ込んで、笙の横顔を見つめながら訴えた。
「俺は、笙を大切に思ってる。おまえが何を悩んでるのか知らないけど、一人で抱え込むのが辛くなったら俺を頼ってくれ。ちゃんと受け止めてやるから。いいな?」
 その言葉に顔を上げた笙は、大聖の顔を見つめると、消え入りそうな小さな声で言った。
「僕が、もう少し大人になったら……きちんと話せると思う」
「そうだな、急がなくてもいい。ゆっくり大人になればいい。俺は、笙が話せるようになるのを気長に待ってるから」
「うん……」 
「さあ、帰ろう。由美さんが心配してる」
 大聖が手を上げると、20メートルほど離れて停車していた坂本の車が、静かに二人の側へと寄せられた。笙は、大聖に抱きかかえられるようにして車に乗り込んだ。泣き疲れたのだろう、ほどなくして笙は大聖の腕の中で眠り込んでしまった。



     act.15
 笙が、美咲の代役を固辞したため、至急、オーディションをして代役を選ぶことになった。しかし、それまでは笙が代役を務めるしかなかった。美咲のつわりが日に日に酷くなってきたからだ。
 さしあたってアルバムの発売とライブツアーの宣伝告知のため、歌番組の収録があった。笙は、皆の心配を余所に落ち着いて淡々としていた。
 笙にとって怖いのは見知らぬ他人であって、ステージではない。ピアノのコンクールに何度も出場した経験から、ステージには馴れていた。こと演奏に関しては絶対にミスをしない自信があったし、万一ミスしても上手くカバーするだけの技量もある。
 それに、大聖のバックにいる自分が注目されることなどないと高を括っていたのだ。笙はまだ全国放送の怖さを知らなかった。
 演奏に集中していた笙は、カメラが自分をアップで撮っていることなど全く気づかなかった。慣れないコーラスに苦戦していた時に大聖に笑いかけられ、笙は思わず恥じらうように口元を綻ばせた。
 カメラはその表情も撮り逃さなかった。泉川の指示で、笙を大聖と同等に撮っていたからだ。大聖に向けられた清純で初々しい笑顔は、女性だけでなく男性の心までも鷲づかみにするものだった。
 大聖が番組のインタビューで、笙がきっちりと大聖の声域を計算して作曲することや、大聖のアドリブに合わせて瞬く間にアレンジを変える臨機応変さを褒め称えたのが良かったのか悪かったのか……。番組が放映されるやいなや、ネットで『ミューズに愛された少年』だとか『天才作曲家』だとか書き立てられ、笙は一夜にして有名人になってしまった。
 泉川は、まるでそれを待っていたかのように、新曲のプロモーション・ビデオを発表した。レコーディングの時に撮影された映像がほとんどだったが、笙の寝顔や、大聖と笙がじゃれ合っているところなど、いつの間に撮影したのかと驚くほどプライベートな映像まであった。
 なにより、明るく華やかな美貌の大聖と、華奢で涼しい目鼻立ちの笙が並ぶと、恐ろしく絵になった。大聖が笙に対して、荷物を持ってやったり、ペットボトルの蓋を開けてやったり、うたた寝している笙に上着を掛けてやったりと、細やかな気配りをする映像は、まるで『姫に優しくかしずく騎士』だった。女性達は、笙を自分に置き換えて大聖に夢中になり、男達は、騎士にかしずかれる少年に好奇心を膨らませた。
 マスコミの取材が笙に殺到したが、小早川社長のガードは異様なほど固かった。周囲が呆れるほど、笙のマスコミへの露出は限られ、それ以降はテレビ出演はもちろん、ラジオ番組のゲストも、インタビューすら断っていた。
 学業優先というのが理由だったが、大学までエスカレーター式の高校へ通う笙が、そこまで勉学に励む必要などない。大聖は、過保護を通り越した不自然なものを感じずにはいられなかった。


 新しいキーボード奏者が決まったのは、ライブツアーまで一ヶ月を切った七夕のことだった。
「みんな、聞いてくれ! ツアーのキーボードを担当してくれる久住啓介(くずみ・けいすけ)くん。M音大の学生だ」
 泉川が得意げに紹介した。驚いたことに、大聖が先日、書店で出会った、あの青年だった。
「久住啓介です。宜しくお願いします!」
 久住は見るからに優等生といった感じで、はきはきと挨拶をした。一同から歓迎の拍手が送られる中、笙は大聖の背中にそっと隠れた。それに気づいた大聖が振り返ると、笙はさらに大聖の背中に隠れようとする。
「どうした?」
「……もう二度と会わないって決めたのに……どうしよう」
 笙の声は微かに震えていた。動揺している笙を見て、大聖は焦った。
「もしかして、あいつ、ストーカーなのか?」
 声を潜めて質問すると、笙は大きく首を横に振って否定した。
「先輩は、すごくいい人だよ。ストーカーなんかじゃない。だって僕たち、付き合ってた」
 「付き合ってた」という爆弾発言に、大聖は目を瞠ったが、笙の顔には恋愛の生々しさなどカケラもなく、ただただ怯えしかなかった。大聖は、理性を総動員して平静を装うことに成功した。
「とにかく、笙は普段通りにしてればいい。俺がちゃんと守ってやるから」
 大人の貫禄を誇示するように、大聖は悠然と笑って見せた。笙はそんな大聖を見て安心したらしく、やっと大聖の陰から出た。


 早速、久住を交えて、通しでライブ・セッションをすることになった。笙は、引き継ぎのため、久住に進行表を見せながらいくつかの注意点を説明する。
 相変わらず、一部の隙もなく完璧に楽譜を演奏する久住のテクニックは、素晴らしかった。笙がどんなに努力しても真似することのできない才能だ。
「後でゆっくり話せないかな?」
「………」
 笑顔で久住に話しかけられ、笙は惑乱した。まだ、大聖以外の誰も二人が旧知の中だとは気づいていない。
「笙が突然、行く先も告げずに転校してしまって、ずっと探していたんだ」
「ごめんなさい、先輩」
 笙は唇を噛みしめて俯いた。
「謝らなくていいんだよ。君は何も悪くない」
 優しい口調で囁かれ、笙の心は揺れる。
「もちろん、僕の気持ちは変わってない。笙だって、僕を愛してるだろう? 大丈夫、僕達はやり直せる」
 自信たっぷりに宣言され、笙は観念したように肯いた。



     act.16
 もともと、今日の久住の参加に合わせて歓迎会が予定されていた。しかし、笙は頭痛を訴えて先に帰宅することになった。さすがに大聖は一緒に帰宅するわけに行かず、坂本に付き添われて帰宅する笙を苦い思いで見送った。
 歓迎会は、スタジオ近くのダイニング・バーを借り切って、メンバーとスタッフ、総勢30名あまりの参加者で行われた。美咲も顔を出し、賑やかにノロケ話を披露した。
 美咲が熊沢に伴われて帰宅したのを機に、泉川と主要メンバー6名で二次会のカラオケへと移動する。笙を小早川家へ送り届けた坂本も合流した。
「久住くんは、高柳くんと同じ高校だったんだって? 奇遇だね」
 坂本がさりげなく探りを入れると、久住は素早く他のメンバーに視線を走らせ、皆が本田のカラオケに集中しているのを確認した。
「僕達、付き合ってたんです。僕は笙とやり直すために、オーディションを受けました」
 久住は坂本ではなく、大聖の目を見て挑むように言った。『僕達』という単語に大聖の眉がピクリと跳ね上がる。
 坂本はすでに笙から聞き出していたのだろう、久住の発言に驚くことなく平然としていた。なんと言っても笙はまだ子どもだ。頭の切れる坂本の誘導尋問に引っかかって、図らずも白状させられたであろうことは容易に想像がついた。
「笙は、おまえと別れるために転校までしたんじゃないのか?」
 大聖は不快感を露わにしながら、久住を見据える。
「笙が転校したのは、『忌まわしい事件』を忘れるためです。僕を忘れるためじゃない」
 あまり頭の回転の速いほうではない大聖でも、『忌まわしい事件』がレイプを意味することはすぐにわかった。
「高柳くんは、君がいたら、その『事件』を忘れられないと思うぞ」
 坂本が冷静に指摘した。頭の良い坂本は、事件の内容も勘づいているようだ。
「確かに、あの事件は僕にも責任はあります。僕はもっと慎重に笙と付き合うべきだった」
 久住は苦しげに眉を寄せたが、すぐに毅然とした表情で続けた。
「僕達は、あの事件を忘れることはできませんが、必ず過去の出来事として乗り越えてみせます!」
「笙は、おまえみたいに強くない!」
 大聖は懸命に怒りを押し殺しながら久住を睨み付けた。笙が落ち着きを取り戻すためにどれほど努力したのか、傍らで見守ってきた大聖は嫌と言うほどわかっていたが、久住は全くわかっていない。
「笙は僕の初ステージを観に来てくれるそうですよ。さっき約束してくれました」
 久住が得意げに言った。
「ヨリを戻したってわけだ」
 坂本は、少し驚いたように呟いた。それを聞いて、大聖が苦々しげに視線を泳がせた。
「まあ、お手並み拝見と行こうじゃないか。なあ、大聖」
 坂本の皮肉めいた口ぶりを気にした風もなく、久住は爽やかな笑顔を浮かべた。
「お二人のご期待に応えられるよう頑張ります」


 すっかり落ち込んでしまった大聖を、マンションまで送るタクシーの中で、坂本は苦笑して言った。
「そんなに落ち込むなよ、大聖。どうせ長続きしやしないさ」
「なんでそんなこと言えるんだよ!」
 大聖はむくれて叫んだ。坂本に八つ当たりしている自覚はあるが、どうにも気持ちを抑えられない。
「ゲイ歴20年の俺の勘。笙くんの性格を考えれば、男とセックスなんて二度と無理だ。そんなんで続くわけないだろ」
 しれっと言ってのけた坂本を、大聖は唖然と見た。
「笙くんは気が小さくて押しに弱いから、久住に強く押されてヨリを戻しただけだ。二人ともすぐに間違いだったと気づくさ」
「だから心配なんだ。もし、久住が強引に笙を押し倒したら……」
 大聖も笙が押しに弱いのは、よ〜く知っている。今まで自分もそれをさんざん利用してきた。
「久住にそんな度胸はないさ。だが万が一、そうなったとしたら、あの二人は完全に終わる。まあ、その方がいいかもな」
 坂本が、突き放したように言った。大聖は、久しぶりに坂本の冷徹さを目の当たりにして黙り込んだ。


 坂本の言った通り、ヨリを戻したと言っても、久住と笙の関係は端から見ていてもわかるほどギクシャクしたものだった。笙は、あからさまな拒絶こそ見せないが、決して久住に心を開かなかった。久住と二人きりになるのを避けているのがその証拠だ。
 しかし、久住は落ち着いていた。あらかじめ予想していたのだろう。どんなにつれなくされても、献身的に尽くしていた。
 8月3日のライブ当日、ゲネプロの段階になっても、大聖は久住の演奏に馴染めなかった。ついつい、笙の演奏と比べてしまうのだ。
 父親はチェリスト、母親はピアニストという音楽一家に育った久住の演奏は完璧過ぎて、まるで遊びがない。アドリブでさえどこか計算された機械的なものを感じてしまう。それが久住の個性と言えば個性なのだが……。大聖には窮屈で堪らなかった。
 開演15分前になり招待席に着こうとした笙は、その一つに木村春菜が座っているのを見て仰天した。彼女は天野大聖の恋人だったが、今は他の男と婚約中のはずだ。笙は急いでバックステージに戻ると、坂本に春菜が来ていることを知らせた。



     act.17
「くそっ、忌々しい女だ。よりによって初日に来るなんて」
「誰がチケットを送ったんでしょう? まさか……大聖さんじゃないですよね?」
 笙が不安そうに呟いた。
「いや、あいつもそこまでバカじゃないさ。自分が捨てられたことぐらいわかってる。だが、あいつならやりかねない気も……」
 坂本は眉間を押さえて考え込んでしまった。
「大聖さんに知らせた方がいいでしょうか? ステージが始まってから気づくより動揺は少ないと思うんですけど……」
「そうだな、そうしよう」
 大聖は、楽屋でアルバムにサインを入れていた。開演前の緊張を紛らわせるには、こういった単純作業がぴったりだ。そこへ坂本がノックもなく乱暴にドアを開けて入ってきた。
「大聖、招待席に木村春菜が来てる。おまえがチケットを送ったのか?」
 非難めいた口調に、大聖は手を止めて坂本を見た。それぞれ思い思いのことをしていたメンバーも何事かと視線を向ける。
「まさか! 俺は送ってねーよ」
「じゃあ、いったい誰が……」
「オレが送ったんだ」
 二人の会話を聞いていた泉川が、悪びれた様子もなくさらりと言ってのけた。
「逃した魚は大きかったってことを見せつけてやれば、彼女も考え直して大聖のところに戻ってくるかもな」
 泉川が悪戯っぽくウインクすると、大聖は目を輝かせて立ち上がった。
「そっか! 春菜はまだ結婚した訳じゃない。気が変わって俺とやり直す気になるかも!」
 つくづく単純でおめでたい男である。その場にいた全員が呆れ果てたように大聖を見たが、本人はいたって真剣に信じていた。泉川の、大聖を鼓舞する作戦は成功と言える。
 だが、泉川にチケットを送られた春菜は、どういうつもりでこの会場まで足を運んだのだろう。坂本と笙は、顔を見合わせた。
 その時、大聖の事務所社長であり、笙の伯父でもある小早川靖彦が楽屋に現れた。
「あと5分で開演ベルを鳴らすそうだ。みんな舞台へ移動してくれ」
 その言葉で、一同に緊張が走る。
「なんだ、笙くんはまだここにいたのか。せっかく招待席を用意してもらったのに、こっちで観るのか?」
 目敏く笙を見つけた小早川に言われて、笙は気が進まなかったが慌てて楽屋を出た。


 一回目のアンコールが終わったところで、春菜は席を立った。大聖に会うために楽屋へ行くのかと思い、笙が急いで後を追うと、彼女は会場を出て行こうとしていた。
「木村さん!」
 思わず呼び止めてから、笙は自分の出る幕ではなかったと後悔した。 
「高柳くん」
 一時期、かなりマスコミに騒がれたので、春菜も笙の顔を覚えていたようだ。
「大聖さんに会わないんですか?」
 笙が意を決して質問すると、春菜は柔らかく微笑んだ。
「彼が、いい仕事、いいスタッフに恵まれたことがわかって安心したわ。だからもう充分よ」
「せめて何か……何か伝言はありませんか?」
 笙が勇気を振り絞って食い下がると、春菜は苦笑した。
「あなた、大聖が好きなのね。あの無邪気で向こう見ずな男を。なんて物好きなの」
 慈愛に満ちた目で見つめられて、笙はたじろいだ。
「それじゃあ伝えてちょうだい。私はきっと幸せになるから心配しないでって」
 そう言って笑った春菜は、どこか晴れ晴れとした、まるで何かがふっきれたような顔をしていた。


 笙が、春菜のメッセージを大聖に伝えると、大聖はがっくりと肩を落とした。どうやら本気で春菜が心変わりすると思っていたようだ。
「お〜い、大聖! 反省会に行くぞ!」
 熊沢が楽屋を出ながら上機嫌で大聖を呼んだ。これから反省会と称して、メンバー全員と主要スタッフで六本木のクラブへ繰り出すのだ。
「そんな気分じゃねーよ」
 大聖はバッタリ机に突っ伏した。
「僕、タクシー呼んでもらってるけど、大聖さんも一緒に帰る?」
 伯父の小早川が、泉川と早々にどこかのスナックへ消えてしまったので、笙をひとりで帰すのは心配だからと、久住がタクシーを呼んでくれたのだ。
「主役が帰れるわけないだろ。ほら大聖、行くぞ!」
「ちぇー、どうせ明日のステージがあるから飲ませてくれないくせに」
 坂本に腕を引かれて、大聖は渋々、車へと移動する。笙はその背中を見送ると会場の西口でタクシーが来るのを待った。
 出待ちをしているファンは皆、裏口に詰めかけているので、西口は反対に閑散として人影もまばらだ。手持ちぶさたで、伯母の由美に『これから帰ります』とメールを打っていたとき、突然、背後から肩を掴まれた。
「笙……逢いたかったよ」
 その声に、笙は振り向くこともできないまま凍り付いた。



     act.18
 深夜11時過ぎに、大聖が病院へ駆けつけた時、笙は鎮静剤が効いて眠っていた。由美から「笙が車と接触し救急車で運ばれた」と連絡を受けて、打ち上げ会場から抜け出してきたのだ。
 すでに病院に到着していた小早川社長の話によると、笙は幸い擦り傷だけで、骨折もなく頭も打っておらず、入院の必要もないとのことだった。
 ただ、笙は酷く錯乱しており、警察の事情聴取もまったくできない有様だったので、鎮静剤が投与されていた。それでも、医師から「目が覚めたら帰宅しても良い」との診断が出て、一同は胸を撫で下ろした。
 小早川は、泣きじゃくる妻の由美を宥め賺して先に帰宅させると、大聖と二人、笙に付き添った。
「現場から、男が逃げ去るのが目撃されたそうだ」
 深い溜息と共に小早川が言った。
「それって、事故じゃなく、笙が殺されかけたってことですか?」
「いや、運転手は笙が自分で車の前に飛び出してきたと証言してる」
「……つまり、それは――」
 大聖は意味がわからず頭をひねった。こういう推理するといった思考回路は持ち合わせていないのだ。
「おそらく、笙は男から逃げようとしたんだ」
「変質者に何かされたってことですか?」
 大聖が恐る恐る質問すると、小早川は暗い目をして大聖を見た。そのまま質問に答えることなく黙り込んでしまう。大聖は、気まずい沈黙の中、血の気のない笙の寝顔をじっと見つめていた。


 薬の切れた笙が目を覚ましたのが午前二時。それから笙を連れて小早川家に帰宅し、大聖は由美が用意しておいてくれた客間に泊まった。
 大聖が昼近くに起きると、笙はリビングのソファーでぼんやりしていた。
「おはよう、具合はどうだ?」
 笙は大聖を見て、決まり悪そうに目を伏せた。
「もう、平気です。あの、僕は伯父さんや伯母さんと警察に行かなきゃならないので、今夜のライブは観に行けません。ごめんなさい」
「わかった。心配すんな」
 今夜の公演を終えたら、地方公演のため、大聖はしばらく東京を離れなくてはならない。できれば笙を地方にも連れて行きたかったが、この分では小早川社長が絶対に許さないだろう。
「みんな〜、冷やし中華ができたわよ。少し早いけど、お昼にしましょう」
 泣いて腫れぼったい目をした由美が、努めて明るい声で言った。
 社長夫妻と笙、大聖の四人で昼食を摂った後、大聖は迎えに来た事務所の車で会場入りした。社長がいないので、物販の指揮をとる坂本はてんてこ舞いだ。
「天野さん、夕べから笙と連絡がつかないんです。何か知りませんか?」
「さっき一緒に昼飯食ったけど、別に変わりなかったぞ」
 ミーティングの後、久住が深刻な顔をして訊いてきたが、大聖は小早川社長から事件はいっさい外に漏らさないようにと釘を刺されていたため、シラを切り通した。
 音合わせの後、大聖は笙にメールしても返信が来ないのはわかっていたので、由美に様子を伺うメールをしてみた。由美からはすぐに返信があり、「事情聴取も無事終わったので、気分転換に三人でお茶して帰る」とのことだった。笙が夏休みなので学校の心配をしなくていいのが唯一の救いだ。
「やっぱり何かオレに隠してるでしょう!」
 開演前に、久住が苛ついた様子で大聖に食ってかかってきた。
「大聖、教えてやれよ。久住の奴、高柳くんと連絡がつかなくて荒れてんだ」
 バンド最年長の熊沢が気の毒そうに口添えしたので、大聖は仕方なく白状した。
「笙は夕べ、車と接触して少し怪我したんだ。だから今日は警察に事情聴取に出かけた。精神的にちょっと参ってるから、そっとしといてやれよ。泉川さんにバレると大騒ぎするから内緒だぞ」
「怪我って、どの程度なんですか!?」
 珍しく久住が動揺を見せたので、大聖は焦った。これからステージなのにミスをされてはかなわない。
「左肩の打ち身と、右腕、右足の擦り傷だけだ。頭も打ってないし、むち打ち症にもなってないから、すぐに治るさ」
「やっぱ、大聖さんは特別なんですね」
 ギタリストの本田が感心したように言った。
「へ?」
「高柳くんとは『家族』なんだなぁと思って」
 その途端、久住がさっと顔色を変えると無言で楽屋を出て行った。
「あれ? オレ、なんかまずいこと言った?」
「まったく、鈍い奴だな、おまえは!」
 熊沢が非難の目を向けたが、本田は自分の失言をこれっぽっちもわかっていなかった。


 8/20の大阪公演翌日、大聖は次の公演地・福岡へと移動するメンバー達と別れて、ひとり東京へ戻った。仕事ではなく、8/23の笙の17歳の誕生日パーティーのためだ。これは、笙を元気づけようと、由美が企画したサプライズ・パーティーだった。
 パーティーに招待されていない久住が八つ当たりするのを、優越感に浸りながらかわすのは楽しかった。大聖が、誕生日プレゼントとして両手一杯に花火を買って帰ったので、由美の手料理を堪能した後、社長や由美も誘って4人で公園で花火を楽しんだ。
「笙くんはふさぎがちだったが、いい気分転換になったようだな」
 大聖と二人、花火の残骸を片付けながら、小早川社長が言ったので、大聖は手を止めて、由美と一緒にブランコで遊んでいる笙を見た。
「笙くんは、何か悩みでもあるんですか?」
 薄闇で社長の表情はわからないが、思いきって質問してみた。
「ストーカーに付け狙われてるんだ。先日のテレビ出演で、ずいぶん騒がれたからな。大聖も、気をつけてやってくれ」
 社長は手を止めることなく言った。
「ストーカーって……警察には言ったんですか?」
「もちろんだ。この間の、車との接触事故もそれが原因だ」
 微かな苛立ちを含んだ声に、大聖は驚いた。社長はいつも冷静で穏やかな男だからだ。それに、笙が怪我をしたことで、社長が笙の祖母・高柳世津に、かなり責められたであろうことは、大聖にも容易に想像が付いた。
「わかりました。俺も、できるだけ笙くんから目を離さないよう気をつけます」
 臆病な笙が、ストーカーなどに狙われて、どれほど怖い思いをしているだろうかと、大聖は胸が痛んだ。



     act.19
 順調に地方公演をこなし、大聖は、9/1に横浜で最終公演を迎えた。最終公演は、笙の伯母・小早川由美も招待されていたので、笙は2回目のアンコールで一曲だけ大聖の伴奏を務めた。これは泉川の強い希望を汲んでのことでもあった。
 新曲で、まだほとんど練習していなかったが、大聖は気持ち良く歌うことができた。ステージで何曲も歌った後なのに、不思議と声が伸びるのだ。まるで羽根が生えたような浮遊感と心地良さを感じる。大聖は、改めて笙の才能に驚嘆した。
 それは泉川も同じだったようで、楽屋でしきりに笙に大聖とユニットを組まないかと誘っていた。だが、大聖にはわかっていた。笙は、スポットライトを浴びることを好まないし、笙の周囲は笙が表舞台に出ることに反対するだろう。彼らは、笙をストーカーから隠すことしか考えていない。
「笙、タクシーが来たよ」
 楽屋で大聖と一緒に寛いでいた笙を、久住が呼びに来た。
「それじゃあ、ダイちゃんは打ち上げを楽しんできてね」
 両腕一杯に大聖からもらった花束を持って、由美が微笑んだ。フラワーアレンジメントが趣味の彼女は、大聖の楽屋に来るといつもこうして花々をせしめていく。
「お休みなさい、大聖さん」
 まだ眠るには早いと思うのだが、お子様の笙はすでに眠そうだった。この分ではタクシーの中で眠ってしまうだろう。
「ああ、お休み」
 無事にツアーが終わったという開放感と撤収の喧噪の中、警備が甘くなっていることに誰も気づいていなかった。楽屋で二人を見送った大聖は、その数分後に、タクシーまで二人を送って行った久住が刺されたと知らされた。


「果物ナイフがかすったぐらいじゃ死なないから安心して」
 久住は至って落ち着いて言ったが、由美は蒼白、笙は大泣きだった。これ以上、騒ぎを大きくしないため救急車は呼ばず、坂本と熊沢が久住を病院へ運ぶことになった。
 小早川社長は、取り押さえた犯人の少年・田崎伸也――驚いたことに笙の幼馴染みだった――を近くの警察署へ引き渡すために警備員達と出かけた。代わりに泉川が、会場に残って後を引き受けてくれた。
 大聖は、もはや打ち上げどころではなく、由美と笙に付き添って小早川家へ帰宅した。途中、坂本から大聖にメールがあり、久住は脇腹を二針縫ったが、入院の必要もなく自宅へ帰れるとのことだった。
 放心状態の笙をベッドに寝かしつけ、由美が淹れてくれたコーヒーを飲んで、大聖もやっと人心地つけた。
「本当に久住くんがいてくれて良かったわ。彼がいなかったら、笙くんを連れ去られるところだった」
 由美が溜息と共に呟いた。
「あいつ、笙の幼なじみなんだって?」
 大聖が、世間話のようにさりげなく質問すると、由美は疲れているときの癖で、こめかみを押さえながら答えた。
「ええ、何回か実家に里帰りしたとき、笙くんと遊んでいるのを見かけたことがある。たしか国会議員のお孫さんだって聞いたけど」
「笙が登校拒否になった原因は、あいつなのかな?」
 大聖は細心の注意を払いながら、由美から情報を引き出そうとする。
「田崎くんは、いじめをするようには見えなかったけど……今夜のあの子、どこかおかしかったわ。なんていうか、その……」
 さっきの恐怖を思い出したのか、由美が言葉を詰まらせたので、大聖は慌てて話題を変えた。
「社長が戻ってくるまで俺が起きてるから、由美さんは先に休んでよ」
「ううん、私も眠れそうにないから、起きて待ってるわ」
「でも、顔色が悪い。眠れなくても身体を横にした方がいいよ」
 大聖が心配そうに言うと、由美は小さく笑った。
「それじゃあ、気分転換にお風呂に入ってくるわ」
 疲れた足取りでバスルームへ向かう由美を見送って、大聖はダイニング・テーブルに突っ伏した。緊張が解けたせいか疲れがどっと押し寄せてきたのだ。そうして、あっけなく眠りの中に落ちていった。


 小早川社長が帰宅したのは、午前一時だった。相手が未成年なので、長時間にわたる事情聴取はされず、翌日に持ち越されたらしい。
 由美が用意してくれた夜食を食べて、大聖が自分のマンションに戻ると、マネージャーの坂本省吾が合い鍵で中に入って待っていた。



     act.20
「これ、見ろよ。久住が持ってた」
 坂本がリビングテーブルの上に投げ出したのは、数十通の手紙の束だった。
「田崎から久住に宛てたものだ。ツアーの間中、ファンからの差し入れに混じって毎日届いてたらしい」
 大聖が読んでみると、乱れた文字で「笙を返せ、笙に逢わせろ」などと書き殴ってあった。中には便箋8枚に渡って、笙に対する愛を延々と綴ってあるものまである。
「久住の野郎、もっと早く相談してくれれば、こんなことにならなかったのに。俺は田崎に同情するね。奴をあそこまで追い込んだのは久住だ!」
 久住は笙を守ろうとして刺されたのに、さんざんな言われようである。
「笙のせいで久住が刺されたなんて、マスコミに騒がれたりしないよな?」
 大聖は、一番不安なことを坂本に訊いてみた。田崎と笙の関係がバレて、マスコミにおもしろおかしく書かれるのではないかと心配したのだ。笙がこれ以上、傷つくのだけは嫌だった。
「幸い田崎の爺さんは国会議員だ。孫が男の尻を追いかけ回して痴情沙汰だなんて世間体が悪すぎる。笙くんの婆さんと二人して、上手く処理するさ。今回もな」
 坂本が吐き捨てるように言った。
「今回も?」
 大聖は頭に湧いた疑問を素直に口にした。
「前回、田崎が笙くんをレイプしたのを、なかったことにしたのと同じようにさ。久住の話じゃ、放課後の学校でレイプされた笙くんは、決して相手の名前を言わなかったから、最初は久住が疑われたそうだ。だが、教師の目撃証言や笙くんの体内に残された精液から、犯人は田崎伸也とわかった。田崎の家と笙くんの家は、昔からビジネスでの繋がりが強かったんで、笙くんの父親は被害届を取り下げた。学校や、笙くんが運ばれた校医の病院には、田崎の爺さんから多額の口止め料が支払われたそうだ」
 坂本は、べそを掻いたような顔をして聞いている大聖を一瞥すると、さらに続けた。
「ところが、もともと神経の細かった笙くんの母親は、ノイローゼで笙くんを虐待するようになってしまったんだ。笙くんも怯えて、事件の現場である学校には行けなくなった。それで、笙くんの婆さんは、笙くんを一番信頼できる自分の娘に預けることにしたってわけだ」
 坂本から聞かされた笙の過去に、大聖はショックで身体の芯が冷えるのを感じた。人一倍、気が小さくて内気な笙が、友達と信じていた幼なじみにレイプされ、どれほど傷つき、恐ろしい思いをしたかと考えると、胸が締め付けられるように痛む。
「もっとも、最初に笙くんに色をつけたのは久住だったそうだ」
 坂本は、大聖を挑発するように意地悪く笑った。
「大切にしていた親友が、ある日突然、大人の顔をする。セックスの香りを漂わせて――。田崎は、そりゃあ衝撃を受けただろうな」
「だからって、レイプするなんて……」
 苦しげに呟いた大聖を坂本は鼻で笑った。
「大聖、俺はジュニアスクールの時、子猫を拾ったんだ。白黒の斑で雌だった。ペットを飼うのは初めてで、俺は夢中になったよ。だが、ある日、その子猫の腹がぽっこり膨らんでることに気がついた。子猫は妊娠してたんだ。俺は、可愛くて堪らなかった猫が、一瞬にして憎くなった。俺の知らないところで、知らないうちに穢されたってことが許せなかった。俺はその日のうちに、猫を段ボール箱に密閉してゴミ集積所に捨てた」
「……坂モッチャン、怖いよ」
 大聖が情けない声で訴えると、坂本は大笑いした。
「心配すんな。猫は、お袋がゴミ集積所から連れ帰って、老衰で死ぬまで面倒みたよ」
「あのさ、俺はペットを飼ったことないから、そーゆー気持ち、わかんねぇよ。けど、笙は猫じゃないし、あいつが男を知ってても、俺はやっぱり笙が好きだ」
 坂本は盛大に溜息を吐くと、テーブルの上の手紙を一纏めにして自分の鞄に入れた。
「おまえがどうしても笙くんを傍らに置きたいというなら、俺は止めないさ。その代わり、笙くんにはもう少し強くなってもらわないとな。あの子は、人生から目を反らして逃げてばかりいる。そりゃ、辛い事件があって逃げたいのはわかる。だが、親も周囲も、あの子を守ろうとするあまり、問題を見て見ぬ振りだ。きちんと問題に向き合わなけりゃ、永遠に乗り越えることはできない」
 坂本は手厳しいが、間違いなく正論なので、大聖は黙って肯いた。
「とにかく、おまえに怪我がなくて良かったよ」
 不意に表情を和らげて坂本が微笑んだ。坂本にしてみれば、笙は疫病神だ。優柔不断で臆病で、いつも大聖の陰に隠れてばかりいる。それでも大聖に「笙を切れ」と言えないのは、笙の音楽的才能を高く買っているからだ。笙が紡ぎ出すメロディには、人の快楽を刺激するものがある。
「なあ、坂モッチャン……しよっか? 俺、すごくセックスしたい」
 大聖が甘えるように言った。途端に坂本は不機嫌に眉間にしわを寄せた。
「俺は、おまえみたいに下手くそな奴とは金輪際ごめんだって言ったろ」
 大聖に男の味を教えたのは坂本だが、男を抱くのが初めてだった大聖に、さんざん好き勝手されて翌日寝込む羽目になったのは手痛い失敗だった。
「溜まってんなら自分で抜けよ。手近なところで済ませようとするんじゃない。コーラスのミキと遊んでたのも知ってるんだぞ」
「げっ! バレてたんだ」
「今夜だって、あの騒ぎがなかったら、打ち上げの後、ミキとホテルへ行くつもりだったんだろ?」
「さすが、坂モッチャン。俺のこと、よ〜くわかってるなぁ!」
 目を輝かせて感心している大聖を見ながら、そんな大聖を可愛いと思ってしまう自分に、呆れる坂本だった。


 坂本が予測したとおり、事件は新聞にさえ載らなかった。事件の翌朝には岐阜から弁護士が駆けつけ、田崎伸也を精神科に入院させた。最初は示談などしないと憤っていた久住も、これ以上、おお事にすれば笙を傷つけることになると説き伏せられて、渋々、応じることにした。
 大聖が一番驚いたのは、笙が坂本に諭されて、田崎の入院先へ面会に行ったことだ。小早川夫妻に話せば猛反対されるので、大聖は坂本に頼まれて、笙を小早川家から連れ出すのに協力した。
 笙は怯えて、大聖の腕にしっかりしがみついていた。
「笙……本当にごめんな」
「……うん」
 大聖の肩越しに交わされた田崎との短い会話。3分にも満たない短い面会だったが、それで充分だった。たったそれだけの会話ができなかったがために、笙は怯え続け、田崎伸也は狂ったのだ。
 病院を出た後、大聖は笙の肩を抱き寄せ、何度も頭を撫でてやった。



     act.21
 9月最後の日曜日、熊沢幸正と崎田美咲の結婚式が行われた。美咲が妊娠中なので、式も披露宴もごく親しい人だけを招いた簡単なものだった。
「大聖、忙しいのに来てくれてありがとう!」
「おめでとう、美咲ちゃん。すっげぇ綺麗だよ!」
 結婚の喜びと母親になる誇りで、美咲は自信に満ちあふれ、内側から光り輝くように美しかった。大聖は、別れた恋人・木村春菜を思い出して切なくなった。
 思い返してみれば、春菜はいつも淋しそうだった。二人で、小早川社長に交際を報告したとき、マスコミには絶対にバレないようにすること、結婚するなら大聖が30歳を過ぎてからタイミングを見計らってすること、と厳しく言い渡された。
 春菜は別れるときに、電話で大聖の子どもを二度も中絶していたことを初めて大聖に打ち明けた。大聖は、ショックで思わず春菜を詰ってしまったが、今、冷静に考えてみると、自分にそんな資格はなかったのだと思う。春菜は、先きの見えない大聖との子どもを産むのが怖かったのだ。
 堂々と交際宣言できるぐらい自分が売れっ子だったら、春菜も安心して子どもを産めたし、別れずに済んだのではないかと大聖は悔しかった。そして、次の恋人には決して春菜のような思いをさせないよう、早く一流の芸能人になりたいと思った。


 深夜枠とはいえ、大聖にドラマ『夜から朝の間に』の主演が舞い込んだのはそれから間もなくのことだった。
 亡母の形見の指輪を探し求める宝石商の役で、毎回、有名女優をゲストに迎えて恋のアバンチュールあり、闇組織とのアクションありといった内容だ。これまで、明るい好青年の役が多かった大聖にとって、陰のある屈折した青年役はやりがいのあるものだった。
 ドラマは、大聖が歌番組で顔を売っていたのが幸いし、さらに物憂げでクールなキャラクターが話題となり、高視聴率を得ることができた。大聖は、年末の音楽賞にもノミネートされ、まさに寝る間もない忙しさとなった。
 それでも、大聖は金曜と土曜だけは小早川家に顔を出すようにしていた。学校が休みで、伯母の由美が夜更かしを許してくれる金曜と土曜の夜は、笙が起きて大聖を待っているからだ。
 マイペースで、他人にはまったく関心がない笙が、大聖にだけは一生懸命、気を遣うのがいじらしく、大聖も笙と過ごす時間を楽しみにしていた。
「俺、来週の日曜はオフだから、一緒に映画でも観に行くか?」
「うん、行きたい!」
 リビングで一緒に紅茶を飲みながら、大聖が誘うと、笙は身を乗り出して目を輝かせた。あの田崎との面会で、笙は何かが吹っ切れたのだろう、見違えるほど明るくなった。大聖の馬鹿話を熱心に聞き、今では声を上げて笑うことすらある。
「ダメよ、ダイちゃん! お父様の一周忌があるじゃない」
 慌てて由美が言った。
「午後2時くらいには親族の会食も終わるだろうし、それからならいいだろ? だって笙、『ピアニシモ』観たがってたし」
「しょうがないわね。ダイちゃんには、ゆっくり休んでもらいたいんだけど。その代わり、遅くならないでよ」
 由美に釘を刺されて、大聖は午後9時までには帰宅すると約束した。



     act.22
 華やかな美貌の大聖と、華奢でスタイルの良い笙が並んで歩くと、嫌でも人目を引いてしまう。映画館で人々に囲まれ、さんざん盗み撮りをされ、大聖は苛立っていた。
 自分はともかく、笙まで好奇の目に晒してしまったのが不本意この上なかった。気が小さくて人見知りの激しい笙には、この状況は精神的に、かなりキツいはずだ。その証拠に、笙は青冷めて、溺れた人のように大聖の腕にしがみついている。
 大聖のこれまでのファンは、OLや中年女性といった大人の女性がほとんどだったが、歌手デビューしてからは、十代の若い子やミーハーな女性が増えた。そのため、出待ちや追っかけといった頭の痛い問題が増えてしまった。
 本当は、笙を夜景の綺麗なレストランに連れて行ってやりたかったが、このままでは落ち着いて食事などできそうにもなかった。仕方なく、大聖は笙を自分の胸に隠すようにしてタクシーに飛び乗り、カフェ『ミルク・クラウン』に逃げ込んだ。電話を入れておいたので、由美の友人・岡村さゆりは、店の奥の人目に付かない席を用意して待っていてくれた。
「由美ちゃんが迎えに来てくれるから、笙くんは裏口からこっそり帰ればいいわ。ダイちゃんは、二階のベランダから隣のおうちへ。お隣さんには頼んであるから大丈夫よ」
 さゆりは優しく言うと、二人が他の客から見えないように衝立を調節してくれた。二人をタクシーで追ってきたファンが、店内で飲食しながら二人を盗み見ていたからだ。
 やっと不躾な視線から解放されて、笙の顔に明るさが戻った。
「怖い思いをさせて、ごめんな」
「僕なら平気。だって、これは良いことなんでしょう? 大聖さんの人気がそれだけあるってことだから」
 健気な笙が、大聖はいじらしくて堪らなかった。本当は、『二人が一緒に行動したこと』が騒ぎの原因なのだが、それは黙っておく。笙に、大聖と一緒に出かけると酷い目に会うと思われるのは得策ではないからだ。
 ともあれ、このところ目の回るような忙しさで笙を顧みるゆとりがなかった。こうして大聖が笙と二人だけで過ごすのは本当に久しぶりだ。暖かいビーフシチューを食べながら、大聖はようやく気になっていたことを、笙に聞いてみた。 
「ところで、久住とは、うまくいってんのか?」
「うん、ときどきご飯食べたり、お茶したりしてる」
 笙は、まるで天気の話でもするかのように軽く答えた。その様子から、二人が未だ本当の恋人関係に戻っていないことが伺える。大聖は、久住の忍耐力に感心しながらも安堵した。
 坂本は「どうせ長続きしない」と言っていたが、二人がヨリを戻してかれこれ4ヶ月になる。久住はともかく、いったい笙が何を考えているのか、大聖は知りたくて堪らなかった。
「それで、久住をどうするつもりなんだ?」
「どう…って……」
 笙は、戸惑ったように目を伏せた。難しい顔をして考え込み、やがて大きく息を吐き出すと顔を上げた。
「大聖さんは、どうして欲しいの?」
 内気な笙が、まっすぐに大聖を見た。縋るように詰るように大聖を見つめていた。まるで、大聖が責任のない第三者の立場で、興味本位に久住との関係を尋ねるのは卑怯だと責めるように。
 長い沈黙の後、大聖は意を決して問いかけた。
「俺達、付き合わないか?」 
 その瞬間、笙は泣きそうな顔をした。そして――
「大好き!」
 光り輝くような笑顔で答えた。


 大聖が、坂本省吾を『ムーン・セレナーデ』に呼び出して、「笙と付き合うことになった」と報告すると、坂本は心底、呆れ果てたように言った。
「笙くんに告るなんて、正気か? 笙くんは、小早川社長の甥なんだぞ!」
「なんとなく、そういう流れになっちまったんだよ」
 大聖が、坂本の冷たい視線に耐えながら、懸命に言い訳すると、坂本は、これ見よがしに盛大な溜息を吐いて見せた。
「おまえ、早いとこ身辺整理するんだな。万が一、笙くんに女遊びがバレたら、大泣きされる。たとえ体の関係がなくても、笙くんを泣かせれば、高柳家はもちろん社長からも袋叩きにされるし、下手すりゃ事務所を追い出されるぞ」
 マネージャーの坂本にしてみれば、不倫も困るが、未成年で同性の恋人はもっと困る。二人が真剣に惹かれあっているのは承知だが、笙ほどやっかいな相手はいないのも確かだ。
「わかってるよ」
 大聖は、自分がどこまで禁欲生活に耐えられるかとべそを掻きながら肯いた。
「まあ、笙くんにしても限界だったのかもな。久住から、親に紹介してくれってしつこく迫られてたから」
「坂モッチャン、いつの間にそんな情報を仕入れたんだよ!」
 大聖は、久住が親へのカミングアウトを迫っていた話など初耳だったので驚いた。
「笙くんを、ちょ〜っとツツいたら簡単に引き出せたぜ」
 坂本は事も無げに言ったが、切れ者の坂本の手に掛かれば、笙など赤子も同然。巧みな坂本の話術に引っかかって、うっかりゲロさせられたのは明らかだ。やはり坂本に隠し事などできない、笙との交際を報告して正解だったと、大聖は改めて思った。


 その数日後、大聖が仕事を終えて深夜にマンションへ帰宅すると、久住啓介がエントランスの入口で待っていた。これは想定していたことなので、大聖は驚かなかった。
「笙に『好きな人ができたから終わりにしたい』と言われました」
「そっか、残念だったな」
 憮然としている久住に、大聖は坂本からアドバイスされた通りに返した。
「笙が好きな相手って、天野さん、あなたなんでしょう?」
「笙は言わなかったのか? だったら俺からは言えない」
 これも坂本から教えられた台詞だ。坂本のシナリオは、面白いほど久住のリアクションに合致していた。
「笙が、相手の名前を言うわけないでしょう!?」
 久住が苛立ちを含んだ声で言った。そうだ、笙は自分をレイプした犯人の名前さえ言わなかった。
「ジタバタすれば、笙との溝を深めるだけだぞ」
 大聖は、静かな口調で淡々と告げた。頭の良い久住は、嫉妬に駆られて騒ぎ立てれば、田崎の二の舞になると、すぐに気づいたようだ。
「あなたとは、いい友達になれると思っていたのに残念です」
 久住は射るような目で大聖を見ると、きびすを返して足早に立ち去った。
 その背を見送りながら、大聖に勝利の喜びはなかった。あるのはただ、今まで経験したことのない漠然とした不安だけだった。
 笙は、他人の感情に疎い子どもだ。それも、レイプされた過去を持つ、傷ついた子どもだった。
前のページへ戻る   次のページへ

BLANCHE 更新案内と目次   BLANCHE 小説目次   BLANCHE 掲示板 お気軽にどうぞ