ライオンact.35〜act.45     月桜可南子
     act.35
 笙自身はまったく気づいていないが、それは精巧に作られた人形が、本物の人間に変わったような劇的な変化だった。
「このままじゃ、遠からず社長に二人の関係を勘づかれる。バレる前に、おまえから正直に話した方がいい」
 坂本に言われて、大聖は腹をくくった。笙と一線を越えてしまった以上、後戻りする気はもちろんない。初めは久住への対抗心もあって深く考えずに笙とつきあい始めた大聖だったが、今は笙と生きていくために、どんな困難も逆境も耐えようと決意した。
 大聖は翌日、坂本と事務所の社長室に行って、笙との交際を小早川社長に報告した。
「大聖っ!! お、おまえはっ……」
 激昂した社長に胸ぐらを掴みあげられ、大聖は殴られると思って目を閉じた。
「息子同然に可愛がってきたのに……おまえは何をしたのかわかっているのか!? 恩を仇で返すとはこのことだっ!!」
 しかし、いつまで経っても殴られないので、恐る恐る目を開けると、坂本が社長の拳を掴んでいた。
「顔は止めてください。この後、取材が入ってるんです。むろん写真撮影もあります」
 坂本の冷静な物言いに社長も理性を取り戻したのか、坂本が手を離した途端、大聖はみぞおちを一発殴られた。激痛に立っていられず膝を着いたが、当然のことながら坂本も社長も助け起こしてはくれなかった。
「手加減、ありがとうございます。二人のことは、私が細心の注意を払って監督しますので、ご安心ください」
 坂本が穏やかな声で言うと、小早川社長は脱力して椅子に腰を下ろした。
 今や天野大聖は事務所の看板俳優だ。一番の稼ぎ頭でもある。マネージャーの坂本省吾と、独立でもされたら大打撃だし、世間知らずの笙は迷うことなく大聖に付いていってしまうだろう。ここは、高柳家にバレないようにするのを条件に目を瞑るしかなかった。
 小早川社長はこれ以上、間違いが起きないよう、40台後半の女性事務員を笙の運転手兼付き人にした。妻の由美は、「笙くんに彼女ができたみたい」と見当外れなことを言って喜んでいたが、今の笙は触れなば落ちんといった風情で、気が気ではなかったのだ。
 
 
 年明け2日に、大聖は笙の実家へ出かけた。笙と音楽ユニット『spica』を組むことになったので、その挨拶のためだ。笙の祖母・高柳世津は、大聖を大歓迎してくれた。
 年末から、小早川夫妻と共に里帰りしていた笙は、大聖の挨拶が終わるやいなや、大聖と一緒に帰京してしまった。母親が大聖に、笙の学業を優先して欲しいと訴えたのが癇に障ったからだ。笙は母を大切に思っているが、溝は深まるばかりだった。
「なんか、結婚の挨拶に行くみたいで、スゲー緊張した」
 新幹線の個室に落ち着いた大聖は、未だ興奮冷めやらないといった様子だ。
「笙は我関せずってカンジで、平然としてたよな。『俺達』のことなのに」
 大聖が文句を垂れると、笙はバツの悪そうな顔をした。
「ごめんなさい」
「よし! じゃ、許してやるからチューしろよ」
 大聖が尊大に言うと、笙は真っ赤になり、チラリと個室のドアが閉まっていることを確認した。それから大聖の唇に触れるだけのキスをして、再びドアが閉まったままなのを確認する。
「本当に笙は、小心者だよなぁ」
 大聖は呆れたように言うと、面白そうに笑った。


 笙は、『spica』のファースト・アルバム『Tommorow Memores』のレコーディングを済ませ、3月1日の卒業式を待って、翌2日からロサンゼルスに飛んだ。ピース・レーベルからの強い要望で、凛々花のレコーディングに立ち会うことになったのだ。
 笙は英語が苦手だった。耳が良いので聴取りは申し分ないが、無口なのが災いして発音が苦手なのだ。そのため、アメリカ育ちで英語に堪能な坂本が同行した。大聖には坂本の代わりに、柔道部出身だという澤田伸一郎がボディーガードを兼ねて付き人になった。
 声域の狭い大聖と違って、凛々花は大聖の倍以上、つまり3オクターブ半の声域を持っている。その上、抜群の音楽的センスと表現力に恵まれていた。笙にとって、この1歳年下の少女との出会いは、まさに運命だった。
 凛々花は歌っているときは大胆なのに、それ以外の時は大人しい少女だった。人種を感じさせない、だがあらゆる人種のいいとこ取りをしたような神秘的な美貌とスタイルで、いつも感情のない目で人を見た。
 彼女は、日本語がほとんどわからないし、笙も英語は片言しか話せなかったが、音楽は万国共通語とはよく言ったもので、コミュニケーションには困らなかった。ダイアモンドが同じ硬さのダイアモンドでしか磨けないように、二人は互いに競い合い、時に共鳴し、たった二週間のレコーディングで猛烈な進化と成長を遂げた。
 それは、相手のことが手に取るようにわかる、もう一人の自分に出会ったような不思議な感覚だった。もし笙が、まだ大聖と出会っていなかったら、恋と勘違いしていたかもしれない。


 帰国した笙は、髪を明るめのアッシュブラウンに染め、根元にパーマをかけて、ふんわりとした中性的なスタイルにしていた。坂本が、レコーディングの合間を縫って、現地のカリスマ美容師のところに連れて行ったのだ。
「うわぁ、すげぇイメチェン。別人みたいだ〜!」
 新しい付き人の澤田と一緒に、空港まで出迎えに来た大聖は、笙を見て開口一番、そう叫んだ。陰気に見えがちだった黒髪を明るくしたことで、笙の地味な印象が消え、柔らかな雰囲気を醸し出している。
「笙くんの中身は変わってないから安心しろ」
 大聖の感嘆を余所に、坂本がつまらなさそうに言った。
「凄く有名なスタイリストだって聞いたから、お任せしたらこうなったんだ。大聖さんが嫌いなら、黒髪に戻すよ?」
 笙がオドオドと言ったので、大聖はなるほど中身(性格)は変わっていないと納得した。
「逆、逆! 怖いくらい似合ってる!」
 大聖が笑って笙の肩を抱き寄せると、周囲を取り巻いていた人集りから女性達のキャーという黄色い声が上がった。
「立ち話はまずい。早く駐車場へ移動しよう」
 坂本が促すと、付き人の澤田が気を利かせて笙の荷物を持ってくれた。
「高柳くん、ホント、似合ってますよ!」
 澤田からも興奮気味に褒められて、笙はほっとしたように微笑んだ。



     act.36
 帰国してゆっくり休む間もなく、笙は大聖と共に、プロモーション・ビデオやジャケット撮影、雑誌の取材に追われた。4月からは笙の大学生活がスタートし、大聖も映画の撮影があって慌ただしい毎日だった。
 『spica』のファースト・アルバムは特に同業者達から熱狂的な支持を受け、海外からも注目を浴びた。笙の学業が優先ということで、ライブは夏に東京・大阪・福岡の3カ所で計7公演しか行われなかったが、返ってそれがファンの稀少感を煽ったようで、どの会場も満員御礼の即日ソールド・アウトだった。
 笙はこれまで大聖の忙しさを端で見ていただけだったが、いざ自分がその渦中に投げ込まれると、しみじみ大聖の凄さがわかった。笙には、大聖のように常に体調をベストに保ち、24時間パワフルに動き回ることなどできない。笙の体力では一日8時間の労働が限界だ。
 それでも、笙は月に一度、大切な儀式のように、大聖とセックスをするのは欠かさなかった。大聖が疲れているからと面倒がると、笙はこの世の終わりのような顔で大泣きした。そのため、大聖は笙の機嫌を取るのに苦心し、以来、大聖は笙の誘いを決して断らないことにした。
 行為の後、笙は足腰が立たなくなるので、いつも大聖が笙の身体をタオルで清めてくれる。笙としてはセックス以上に恥ずかしくて堪らないのだが、大聖はバカ話でうまく笙の気を紛らわせてくれた。
「大聖さんは、身体を拭いたりするの上手だね」
 パジャマを着せられ、シーツを交換するためソファーに移された笙は、感謝の眼差しで大聖に言った。
「親父が入院してた時に、覚えたんだ。あの頃は、今みたいに売れてなかったから時間もあったし」
「そうなんだ。お父さん、どんな人だったの?」
 笙は、チェストの上に置かれた仏壇に視線を移した。
「普通のサラリーマンだったよ。部品メーカーの営業マン。俺の顔はお袋似だけど、性格は親父に似たと思う」
 大聖は、シーツを取り替える手を休めることなく話し続けた。
「親父は離婚してから同棲してた恋人がいたけど、病気になって逃げられてさ、10年も会ってなかった俺んとこに連絡がきて、俺が世話することになったんだ。いろいろあったけど、親孝行できて良かったと思ってる」
 勝手に入院先の病院を抜け出して大聖の舞台を観に来たり、パチンコに出かけたりと、かなり破天荒な人だったと、笙は葬儀の後、カフェ『ミルク・クラウン』の岡村さゆりから聞いた。
 しかし、父親のことを話す大聖は、屈託なく楽しそうだ。なにかと迷惑をかけられても、大聖は父親が好きだったのだ。
 反対に、大聖は母親のことを決して話さない。笙の伯母・由美が、大聖を養子に望んだ時、大聖の母親と一悶着あったのは、笙も知っていた。由美が岐阜の実家で泣いているのを笙も見ていたからだ。だから、大聖の母親の話題はタブーだった。
 その時突然、インターホンが鳴った。時刻は深夜11時を過ぎている。
「こんな時間に誰だろ? 坂モッチャンかな?」
 足早にインターホンのモニタを見に行った大聖は、驚いて息を飲んだ。
「春菜……!?」
 その呟きに、ソファーのクッションに身を預けていた笙も驚いて起き上がる。インターンホン越しに春菜の震える声が聞こえた。
「お願い、大聖……助けて……」


 大聖が人づてに、かつての恋人・近藤春菜(旧姓・木村)が、夫のDVに耐えかねて、実家に逃げ帰ったと聞いたのは、夏の終わりだ。心配だったが、今の大聖の立場ではどうすることもできなかった。
 春菜は、夫に追われて友人宅を転々としていた。夫に離婚を懇願する手紙と離婚届を郵送したところ、逆上した夫が友人宅に乗り込んできて大暴れした。
 彼女は着の身着のまま、素足で友人宅を逃げ出したが、もう頼れる友人は残っていなかった。貯金も尽きて金銭的にも行き詰まり、追い返されるのを覚悟で大聖を頼ったのだ。売れっ子モデルで、あれほど美しかった春菜の、見る影もなくやつれ果てた姿に、大聖は少なからずショックを受けた。
 大聖は、春菜が乗ってきたタクシー料金を払ってやると、その夜は、坂本と相談して春菜を駅前のビジネスホテルに匿った。翌日には、坂本が春菜を説得して、配偶者暴力支援センターへ連絡をしたので、彼女はシェルターに身を寄せることになった。
 笙には、男が女に暴力をふるうということが理解できなかった。笙の父親は、結婚して20年経った今でも、12歳年下の妻を溺愛して甘やかすのを生き甲斐としているし、伯父と伯母も恋人同士のように仲が良い。
「大聖は、彼女に借りを返したいだけなんだ。君が気に病むような関係ではないからね」
 坂本が、やんわり笙に釘を刺した。
「借りって、何ですか?」
 笙の鋭い突っ込みに、坂本はたじろいだが、隠し事をすれば笙が疑心暗鬼になるのは目に見えているので話すことにした。
「春菜さんは、大聖と付き合っていたとき妊娠したんだ。当時、大聖はまだ売り出し中で、結婚なんかできる状況ではなかった。だから、彼女は大聖に黙って中絶した。大聖は、彼女と別れるときにそのことを聞かされて、酷く彼女を詰ってしまったんだ。それをずっと後悔していた。精神的にも肉体的にも、自分以上に辛い思いをしたのは彼女のほうだったのにってね」
「春菜さんも、本気で大聖さんが好きだったんですね」
 別れたとはいえ、春菜は大聖が結婚まで考えた恋人だ。笙は、大聖が春菜に優しくするのは当然のことだと思った。


 年末の音楽賞に向けて、賞取りレースが始まっていた。大聖が歌手デビューした年に新人賞を取れなかったので、所属事務所も大聖も今度こそ! と張り切っていた。実際、『spica』は最有力候補と噂されているのだ。
 大聖に、春菜とのスキャンダルが持ち上がったのは、12月に入ってすぐだった。最初、大聖と春菜が仲睦まじそうにホテルから出てくるところを週刊誌にスクープされたのがきっかけだった。
「春菜が実家の近くで、カフェを出す相談をしたときの写真だ」
 大聖が忌々しそうに説明してくれた。2人の真後、ほんの数メートル離れたところを坂本が歩いていたのだが、写真はうまく大聖と春菜だけを切り取っていた。
「春菜が離婚して自立するには、仕事するのが一番だろ。それで、俺も少し出資するってことで、坂モッチャンにも相談に乗ってもらったんだ」
「彼女はセンスがいいから、ギャラリーを併設したら固定客が掴めるんじゃないかって話してたんだ。大丈夫だよ、笙くん。こんな根も葉もない記事、誰も相手にしやしないさ」
 坂本は笑い飛ばしたが、春菜の夫はとんでもない行動に出た。大聖を春菜の不倫相手として訴えたのだ。さらに、大聖と春菜が以前付き合っていたこともマスコミに暴かれてしまい、とんでもない大騒ぎになってしまった。事務所は、もはや新人賞どころではなかった。
 大聖は記者会見を開いて「彼女の結婚前に交際していたが、不倫は事実無根」と弁明したが、多くのファンが離れてしまった。プロデューサーの泉川公章は、悩んだ末、年明けに予定されていた『spica』のライブツアーを中止した。笙をスキャンダルから守るためだ。



     act.37
 大聖は、予定されていた仕事がすべてなくなり、新しい仕事もぱったりと入らなくなった。もちろん、Spicaの仕事もだ。
「俺のせいで、ごめんな」
 ションボリと大聖に言われて、笙はぎゅっと大聖に抱きついた。
「僕なら平気。久しぶりに大聖さんとのんびりできて嬉しい」
 大聖はまだ春菜に未練があるのだと考えると悲しかったが、笙が「恋人です」と名乗り出るわけにもいかず、大聖を責めることもできなかった。
「ね、もう一回しようよ」
 笙は、不安を消し去ろうと大聖を誘う。
「いいのか? 今日はもう3回もしたのに……」
 大聖が笙の身体を心配して眉を顰めた。
「したいんだ……すごく……」
 笙は小さく囁きながら、大聖の耳を甘噛みする。大聖が耳に弱いのは、つい最近知ったばかりだ。狙い通り、笙はたちまち大聖に組み敷かれ、後孔を探られる。その性急さに笙は安堵した。過去はともかく、今、大聖が愛しているのは自分なのだと。


 年が明け、大聖は不倫裁判に勝って、春菜もDV夫からそれなりの慰謝料をもらって離婚した。大聖は、もう直接、春菜と会ってはいなかったが、彼女の身を案じて、頻繁にメールのやりとりを続けている。
 幼い頃から芸能界に身を置く大聖は、ファンの心が離れやすいのは、よくわかっていたが、今回のスキャンダルで手のひらを返したように多くのファンが離れていったのはやはり堪えた。
 それも徐々にではなく、スキャンダルでいきなりだ。精神的に相当キツかった。もはや、大聖の人気に以前の勢いはなく、仕事も半分以下に減っている。対して笙は泉川のニューアルバムに参加することになり忙しい日々だ。大聖との別行動が増えた。
 大聖が鬱々とした毎日を送る中、凛々花が初来日することになった。今やアメリカのみならず世界の歌姫と称される彼女の初来日に、日本のマスコミは浮き足だった。
 笙は凛々花の指名を受けて、テレビ番組のミニ・ライブでキーボード演奏を務めた。端から見れば、2人は仲の良いカップルに見えたし、一部のメディアもそう書き立てた。大聖の笙に対する態度が、なんとなくギクシャクし始めたのはそれからだ。
 凛々花が帰国した後、笙は、伯父の小早川社長に頼まれて、事務所が今、最も力を入れて売り出している女優・望月結香の歌手デビュー曲を作った。結香は、新人発掘で有名なコンテストで準グランプリを獲得し、小早川社長自ら口説いて事務所に入れた女優だ。笙より一学年上だが、芸能活動に専念するため大学へは進学しなかった。
 大聖が不倫スキャンダルで人気が落ちた今、事務所で一番の稼ぎ頭は望月結香だ。彼女は、大聖のお陰でドラマや映画の脇役の仕事をもらい顔を売っていた。小早川社長は『日本の凛々花』をキャッチ・コピーに、結香を歌手としても売り出すことにしたのだ。
 しかし、笙は決して結香と一緒にテレビ出演することに同意しなかった。レコーディングにさえ立ち会わなかったほどだ。大聖への遠慮もあるが、結香の気性の激しさが苦手だったからだ。その激しさは、敏腕マネージャーの坂本でさえ手を焼くものだった。
 笙は、結花の半径3メートル以内には決して近づかないほど徹底的に彼女を避けていたが、結香はまんざらでもないらしく、事あるごとに笙にアタックをかけていた。関係者から漏れ聞こえてくるそんな噂話は、大聖の神経を逆撫でし、大聖はますます鬱ぎ込んでいった。。


 坂本が大聖と『ムーン・セレナーデ』で酒を酌み交わすのは一年ぶりぐらいだった。正木幸宏と同棲を始めた坂本は、仕事が終わると自宅に直行なのだ。
「俺、引っ越したいんだ」
 坂本が現れるやいなや、大聖はきっぱりと言った。
「笙くんと二人で暮らすのか?」
 確かに今のマンションでは、二人で暮らすには手狭だ。しかし、小早川家に近くて、由美の手料理が食べられ、由美に日常の細々とした雑用(洗濯や掃除、日用品の買物)をしてもらえる今の環境を手放すのはあまりにも惜しい。
「逆だよ。笙と距離を置きたいんだ」
 大聖の発言に、坂本は面食らったように大聖を凝視した。
「うまくいってないのか?」
「笙は悪くない。俺のわがままだから……」
 大聖は気まずそうに目を伏せる。およそ大聖らしくない弱音に、坂本は耳を疑った。
「大聖、ちゃんと話してくれよ。俺はどんな時でも、おまえの味方をしてきただろう?」
 かき口説くように言われて、大聖は力なく顔を上げた。
「俺は……笙の若さや才能が怖いんだ。笙に捨てられるのが怖いんだ」
 大聖はたまっていた鬱憤を吐き出すように話した。
「俺、デビュー作は売れたけど、その後の作品はさんざんだった。みんな、すぐに新しい子役に飛びついた。でも、俺は希望を捨てなかった。まだこれからだって考えてた。俺はほんの子どもだったから。けど、今は違う。俺、もうすぐ30だ」
 コツコツと下積みから努力を重ねて今の地位を掴んだ大聖にすれば、何の苦労もなく運と才能だけで成功した笙は脅威なのだ。特にスキャンダルで精神的に参っている今はなおさらだ。
「おまえは“まだ30”だ。90年の長い人生からすれば、ほんのひよっ子だ。そんな弱気になるなんて、らしくないぞ」
 坂本は努めて明るい声で励ました。
「俺さ、恋愛って、もっと楽しくて、ドキドキわくわくするものだと思ってた。けど、笙といると楽しいことより不安なことの方が多いんだ」
 今までの大聖の恋愛は、どろどろとした嫉妬や葛藤など皆無だった。おそらく大聖は無意識のうちに物わかりの良い相手ばかり選んできたのだ。そして、女達は皆、大聖をふんだんに甘やかした。
 大聖にとって恋は人生のスパイス、日常を刺激的にするもの。ゲームのように駆け引きを楽しむことはあっても、笙のように全身全霊で相手にのめり込むものではなかった。
「本物の恋愛をしてるってことさ。本物は苦しいんだ。明るく楽しいだけじゃない、暗くてどろどろしたものや何か得体の知れないものがあるんだ。それが怖いと感じるときもあるが、そういった感情と上手く折り合いを付けてこそ大人なんだぞ」
「わかるけど、最近それができないんだ」
 坂本は、自分の恋愛に現を抜かして、大聖を疎かにしていたいたことを後悔した。大聖がここまで行き詰まるまで気づいてやれなかったとは。
「笙くんのことは考えないようにして、楽しいことだけ考えろ。いつもみたいに『やりたいことリスト』や『好きなことリスト』を紙に書き出して気持ちを切り替えろよ」
「ああ、そういえば前は二人でよくやってたよな。『野望リスト』なんてやつも書いたっけ。あの紙、どうしたかな。しばらく手帳に挟んで持ち歩いてたんだけどな」
 大聖は懐かしそうに笑った。
「新しい部屋は、どんな部屋がいい? 立地は? 間取りはどうする? この際、インテリアも変えるか?」
「うん、俺、インテリアも変えたい!」
 坂本が矢継ぎ早に質問すると、ようやく大聖は目を輝かせた。



     act.38
「由美さん、これが新しい部屋の鍵だから」
 大聖は、3月に新しいマンションに引っ越した。坂本と正木が暮らすマンションのすぐ近くだ。
「ありがとう! 今までのように頻繁には行けないけど、ダイちゃんはもう立派な大人なんだから仕方ないわよね」
 大聖から鍵を渡された由美は、淋しそうに笑った。切れ者で口達者な坂本の手にかかれば、由美を説得するのはたやすいことだった。
 母親代わりの由美さえ説得できれば、夫である小早川社長が異存を唱えることはない、という坂本の読みは当たっていた。家賃の半分を事務所経費で落とすという契約で、大聖は以前より一部屋多い2LDKのマンションに引っ越した。
 笙は、引っ越し前日に由美から聞いて、初めて大聖の引っ越しを知った。事前に大聖から何の相談もなく決められたことに、笙は少なからずショックを受けた。
「他に好きな人ができたんじゃないよね?」
 笙が恐る恐る確認すると、大聖は明るく笑った。
「いい歳した男が、いつまでも由美さんに甘えてるわけにいかないだろ? マザコンみたいでカッコわりぃじゃん」
「それだけ?」
 笙は、大聖の新しいマンションが坂本と正木の暮らすマンションと近いのも気になった。それに、大聖が引っ越して伯母の夕食を食べに来なくなったら、大聖に会う時間が激減してしまう。
「ん−、ダブルベッドにしたかった! だって、笙と一緒に寝るのに窮屈だろ?」
 予想外の答えに笙は真っ赤になった。よもや、その答が坂本の入れ知恵とも知らず。
 大聖の引っ越しで、二人はこれまでのように頻繁に会うことはできなくなったが、一日に何通もメールのやりとりをし、週に一度は電話で話した。だが、笙のスケジュールが空く日に限って、大聖は仕事や用事で出かけてしまう。
 鈍い笙も、さすがに大聖が自分を避けていることに気がついた。やっと月に一度か二度、顔を合わせれば、大聖は今まで通り優しく笙に接してくれるが、そこにかつての甘さはなかった。


「久しぶり。連絡くれて嬉しいよ」
 待ち合わせのカフェに現れた正木幸宏は、ゆったりとした仕草で席に着いた。カーテンで仕切られたセミ個室なので、混み入った話をするのにピッタリだ。
 正木は、オーダーを済ませると、笙が口を開くのを我慢強く待ってくれた。注文した二人分のケーキセットが運ばれてきて、しばらくは黙々と二人でケーキを食べる。正木が紅茶のお代わりをオーダーして、ようやく笙は重い口を開いた。
「……不安なんです。大聖さんとダメになりそうで――」
「笙くんは、彼に別れようって言われたら、別れるの?」
 静かな声で、正木が問う。笙は急いで首を横に振った。
「省吾が言ってたけど、彼のほうから君と別れることなんてあり得ないよ。君と別れるってことは、事務所から独立するか移籍するってことだからね」
 淡々と説明されて、笙は正木が何を言いたいのかわからず首を傾げた。
「つまり、君は何も不安がることはないってこと」
 正木が、笙を安心させるようにニッコリと微笑んだ。笙はしばらく惚けたようにその笑顔を見つめていたが、不意に口元を引き結んだ。
「大聖さんは、本当は僕と別れたいんだ。やっぱり、僕、避けられてたんですね」
 笙が半泣きで呟いたので、正木は慌てた。坂本に指示された通りに話したのに、笙は安心するどころか泣いてしまった。
「あのね、笙くん、違うんだ。たぶん、大聖くんは『男のプライド』ってヤツで苦しんでいるんだと思う」
「男のプライド?」
 笙は鼻を啜りながら、上目遣いに正木を見上げる。
「大聖くんは、スキャンダルで仕事が減って、今は君の方が売れてるだろう? 省吾もそうなんだけど、常に僕より優位に立っていたいらしくて、絶対に家賃や生活費を折半にしてくれないんだ。でもまあ、専業主夫になれって言わない限り、僕は我慢するよ」
「……僕も、我慢してればいいの?」
「う〜ん、でも、それが辛いから僕に相談したんだよね」 
 正木はしばらく難しそうな顔をして考え込んでいたが、ふと思いついたように声を潜めて訊いた。 
「あのさ、新しいベッド、使ってみた?」
「え?」
 笙は、突然の話題転換について行けず、間抜けな声を出してしまった。
「省吾に聞いたんだけど、大聖くん、そりゃあもう、凄いこだわりでベッドを選んだんだって。君のこと、愛してる証拠だよ!」
 正木は、そのベッドに大聖が違う誰かを連れ込むことは、これっぽっちも心配していないらしい。笙は、相談相手を間違えたのではないかと後悔した。


 その日、大聖は久しぶりに雑誌の取材を受けていた。準主役を演じることになった舞台宣伝のためだ。
 30分ほどのインタビューの最後に、年配の女性記者は優しい笑顔で言った。
「実は私、5年前にも天野さんのインタビューをさせていただいたんですよ」
 大聖は驚いて彼女を見た。
「申し訳ありません。憶えていなくて失礼しました」
「いいえ、気になさらないでください」
 そして、彼女はまっすぐに大聖を見つめて訊いた。
「では、あの時と同じ質問を、もう一度させてください。天野さんの夢は何ですか?」
「夢……」
 大聖は口の中で小さく呟いてみた。スキャンダルで仕事が減って以来、夢を見ることなど、すっかり忘れていた。頂点に立つことを目指していた頃は、たくさんの夢を持っていたのに。
「5年前、天野さんは『世界に通用する役者になることです。世界最古の歴史を持つベネチア国際映画祭で評価されるのが目標です』っておっしゃってましたが、その夢は今も持ち続けていらっしゃいますか?」
 大聖は思わず目を見開いた。演じることが大好きで楽しくて堪らなかった自分をはっきりと思い出したのだ。
「はい……!」
 大きく肯くと、大聖は溢れる涙を見られまいと顔を伏せた。
「私、5年前のインタビューの後、天野さんのファンクラブに入ったんです。あなたが、ベネチアに行くのを楽しみにしています。頑張ってくださいね」
 大聖は、その言葉に再び顔を上げた。満面の笑みをたたえた女性記者と目が合った。
「ありがとうございます! 本当にっ……」 
 うまく言葉が続かず、代わりに大聖は深々と頭を下げた。


 女性記者と別れると、大聖はすぐに坂本に電話した。大切な相談があるから今すぐ会いたいと、子どものように駄々をこねると、坂本は不承不承、時間を作ってくれた。
「ワガママ女王様がご機嫌斜めで大変なのに、急用って何だよ?」
 結花の高飛車ぶりに振り回されているのか、坂本は疲れた顔をしていた。
「企画書の書き方、教えて欲しいんだ」
 事務所近くの喫茶店で坂本を待っていた大聖は、意気込んで言った。
「はあ? おまえが企画書?」
 頭を使うのがあまり得意ではない大聖だ。その彼が、自分で企画書を書きたいと言うのに、坂本は目を見開いた。
「俺、ベネチア国際映画祭に行きたいんだ。だから、企画書作って自分で売り込む!」
「売り込むって、どこに? 誰に?」
「どこがいいと思う?」
 坂本は思わず眉を顰めてしまった。大聖の心意気は買ってやりたいが、いかんせん段取りや根回しに欠けている。
 ベネチア国際映画祭は、高い芸術性を評価する傾向がある。そういった作風の監督は、大衆向け作品の仕事が多かった大聖を嫌うだろう。
「わかった。考えてやるから、二、三日時間をくれ」
 坂本は、自分の面倒見の良さに呆れながらも、久しぶりに見る大聖の生き生きとした瞳が嬉しかった。



     act.39
 大聖が『ムーン・セレナーデ』で軽く飲んで午後8時過ぎに帰宅すると、笙がドアの前に座り込んで待っていた。由美が持たせた総菜を詰めたパックや、クリーニングから戻った服など、荷物がどっさりだ。
「笙! どうした? 中で待ってればいいのに」
「大聖さんが部屋にいると思って、伯母さんに鍵を借りてこなかったんだ」
 本当は鍵を借りてきたのだが、勝手に入って、生けられた花や女物のハンカチ、長い髪が落ちているのを見つけてしまうのではないかと怖かった。
「だったら、なんで電話しないんだよ」
 大聖は急いで鍵を開けると、てきぱきと荷物を中に運び込む。笙は、それをぼんやりと見ながら、言い訳のように呟いた。
「すぐ帰ってくるかなって思って……」
「で、今夜は泊まっていけるのか?」
 大聖は玄関ドアが閉まらないよう押さえると、動こうとしない笙を招き入れながら訊いた。それは、セックスしてもいいのか? という質問と同義だ。笙は耳まで真っ赤になりながら肯いた。
 その夜の大聖は、とてつもなく優しかった。初めて身体を繋いだ時のように時間をかけて笙の蕾を解し、卑猥な言葉で巧みに笙の官能を高める。快感に弛緩した笙の身体は、いつもより奥深くまで大聖を受け入れることができた。そして、大聖はついに笙の快楽の鉱泉を探り当てた。
 笙は、最奥に隠されたその場所を突かれると、これまで経験したことのない快感を得ることができた。セックスが気持ちいいものだと、初めて思った。


 坂本から「先日の件で、話し合いたい」と連絡があったのは、それから5日後の事だ。
「さっきから、何、ニヤついてるんだ。気持ち悪いぞ、大聖」
 事務所の会議室で坂本に指摘されて、大聖はさらにヤニ下がって言った。
「この間、笙がセックスの後、初めて言ってくれたんだ。『気持ち良かった』って。あの笙がさ、すげぇ、恥ずかしいそうに! 俺、感動しちゃったぜ」
 坂本は、大聖を蹴り飛ばしたい衝動をぐっと堪えた。代わりに冷淡な声で忠告する。
「そりゃ、良かったな。だからって、あんまりヤリ過ぎるなよ。俺と違って、笙くんは体力がないんだ」
「ごめん、坂モッチャン。俺、浮かれ過ぎてた」
 かつてのセフレにする話ではなかったと、大聖は反省した。
「いいよ、許してやる。それより、仕事の話をしよう」
 坂本が穏やかな声で言って手元のファイルを開いたので、大聖は急いで姿勢を正した。
「昨日、社長とふたりで神崎美耶子先生のところに伺ってきた。社長が直々に頭を下げたところ、神崎先生の夫でプロデューサーの柳原毅(やなぎはら・つよし)氏が、プロデュースを引き受けてくださった。脚本は、神崎先生が書いてくださる」
「俺……ベネチアに行けるんだ……」
 話があまりにトントン拍子に進んだことに、大聖は感動していた。
「話はこれからだ」
 坂本が、厳しい顔で大聖をたしなめた。柳原氏がこの話を引き受けてくれたのは、愛妻がずっと暖めていた手中の珠とも言える脚本を世に出したいと考えたからだ。
「おまえと笙くんを共演させるのが条件なんだ。脚本は、笙くんでも無理なく演じられるように、『花眠』を兄視点で書き直すとおっしゃった」
「え……?」
 この期に及んで、大聖は笙を利用するのを躊躇った。第一、笙に満足な演技ができるとは思えない。
「おまえが、どうしても自分ひとりの力でやりたいと言うなら、この話は断るが、どうする?」
 坂本は、大聖のプライドを気にかけてくれているのだ。そして、話が思わぬ方向に進んだことに、坂本自身も戸惑っていた。


 演技経験のない笙を説得したのは、大聖のプライドを気遣った坂本だ。そもそも笙が引き受けなければ、映画の話自体が流れるのだが、そんなことはおくびにも出さずに坂本は言った。
「君がやらなければ、他の俳優がやるだけだ。大聖は、その子とキスしてセックスする。もちろん演技だけどね。他の子が大聖に愛されても、君は寛容な恋人だから平気だよね」
 坂本に淡々と言われて、笙は大聖が杉原要と共演したときのことを思い出した。あの時の悔しさは、今も笙の胸にしっかりと刻まれている。笙は、出演する覚悟を決めた。
 『花睡』は、笙が演じる弟ではなく、大聖が演じる兄を主人公として書き直され、映画は9月にクランクインすることになった。メガホンを握るのは、ドラマ『ライジング・サン』で監督を務めた大林悟朗監督で、大聖は絶大な信頼を寄せていた。映画音楽は、むろん笙が担当する。
 笙はクランクインまでの4ヶ月間、演劇スクールに通って滑舌などの基礎の特訓を受けることになった。大聖の足を引っ張るようなことは絶対にしたくないと必死だった。
 監督、脚本、俳優、そして映画音楽――『花睡』はすべてにおいて話題性に事欠かない作品だった。その中心にいた大聖が、体調の不調を訴えて緊急入院したのは、映画がクランクインする僅か1ヶ月前の8月初めだった。
 当初、大聖は暑さで夏バテしたのだと考えていた。それで食事に気を配ったり、睡眠時間を増やしたりしてみたが、身体のだるさは一向に取れなかった。ついには仕事中に貧血で立っていられなくなり、救急搬送された病院での精密検査の結果、大聖は血液の癌と診断された。
 主役の入院で映画『花睡』は一旦、白紙に戻された。むろん代役を立てての制作も検討されたが、それは脚本家・神崎美耶子の猛反対で却下された。皆、大聖の回復を信じたのだ。



     act.40
「俺の人生って、天国と地獄が交互にやって来る。面白いよなぁ」
 ベッドに横たわりながら大聖は、小さく笑った。笙は、どう答えていいかわからず、黙り込む。大聖が、笙と繋いだ手に力を込めた。
「俺達、別れよう」
「え…?」
 笙は唖然として大聖の顔を見つめた。
「今が地獄だから順番からすれば、次は天国だろう? 治療がうまくいって、俺が元気になったら、また付き合おう。でも、運悪く本当に天国に行っちまったら、その時は勘弁な」
 大聖は、屈託のない笑顔でさらりと言った。
「もう、病院には来ないでくれ。治療に専念したいんだ」
 父親を癌で亡くした大聖は、これから受ける抗癌剤治療が、どれほど過酷なものか誰よりもよく知っていた。笙に、かつての自分と同じ苦しみを絶対に味あわせたくなかった。
 どこをどう歩いて自分の部屋まで戻ったのか、笙は憶えていない。ベッドに突っ伏して、泣き疲れて眠った。
 目が醒めて時計を見ると夕方の5時だった。喉の渇きを覚えて水を飲むために階下に降りると、伯母の由美が笙と同じく目を赤くしてダイニング・テーブルに座っていた。
「笙くん、ちょっと座ってくれる?」
 笙は促されるまま、由美の前に座った。
「ダイちゃんに聞いたわ。あなた達、付き合ってたのね」
 答える代わりに、笙はコクリと肯いた。
「私からも、お願いするわ。ダイちゃんと別れてあげて」
 由美に懇願され、笙は唇を噛みしめて俯いた。
「今のダイちゃんには、笙くんは重荷なのよ。わかってやって。ダイちゃんは、私やみんなでしっかり支えていく。万一の時は、そんなことは絶対に嫌だけど……もしその時が来てしまったら、ちゃんと笙くんにも立ち会わせてあげるから」
 笙は椅子を蹴って立ち上がると、大声で叫んだ。
「大聖さんなんか、大嫌いっだ!!」
 時間をかけて優しく育んできた想いが、そんな簡単には他人に戻れないと激しく主張する。混乱と混沌の中、ひたひたと絶望が押し寄せてくるのを感じる。
 大聖は慈悲深くて寛大な恋人だった。いつも、ありのままの笙を受け入れてくれた。笙はそれに甘えてばかりいた。それがこんな形でしっぺ返しされるとは――。
 大聖の発病で、二人が積み重ねてきた愛情と信頼はあっけなく消え去ってしまったのだ。これは、大聖の優しさや包容力に甘えてきたツケだ。罰は甘んじて受けるしかない。


 由美は献身的に大聖の看病をしていた。由美の様子を見ていれば、大聖の体調が悪いことも、治療があまりうまくいっていないことも、手に取るようにわかった。笙は由美の負担を減らそうと、それまで無関心だった家事を積極的に手伝うようになった。
 泉川公章はもちろん、神崎美耶子も、そして坂本や正木も、大聖と笙の関係を知るすべての人が、笙を案じてくれた。だが、皆に優しくされればされるほど、惨めになっていく。笙は、なぜ大聖が自分を遠ざけたのかわかるようになった。
 音と戯れることで、笙は、かろうじて自分を保つことができた。音の世界にダイブすれば、あらゆる苦悩から解放される。笙の音は、痛々しいほどに磨きがかかり、研ぎ澄まされていった。
 凛々花の誘いを受け、笙は年明けから6ヶ月間、ロスの大学へ語学留学することにした。これまでにも何度か誘いを受けていたが、大聖の傍を離れたくない一心で断ってきた。
 だが、今度は迷わず行くことに決めた。日本に居たら、大聖の病室に押しかけてヒステリックに泣き叫びそうで怖かったのだ。距離と時間をおけば、冷静に自分の気持ちと向き合えるだろう。もう精神的に限界だった。
 本来なら留学にはもっとも反対するであろう母親は、夫からプレゼントされたトイプードルに夢中で、以前ほど笙を束縛しなくなっていた。笙は、凛々花の屋敷にホームステイしながら、彼女の3枚目のアルバム制作に参加した。
 笙にとって、唯一、大聖と繋がる細い糸は、正木幸宏だった。坂本の恋人である彼は、週に一度メールで、坂本を通して手に入れた大聖の情報を知らせてくれた。その、実にさり気なく自然な気遣いが、笙には本当にありがたかった。
 大聖は、長く疎遠になっていた実母と、発病をきっかけに和解した。正式に所属事務所社長の小早川夫妻と養子縁組もした。これまで実の母親以上に愛情を注いでくれた由美に報いたかったからだ。
 薬の副作用で髪がごっそり抜け落ち、猛烈な吐き気、高熱や下痢、口内炎に悩まされていたが、『花睡』を演じきるまでは死にたくないと、懸命に病気と闘った。それが辛い治療に耐えるためのたった一つの希望だった。
 時折ふと、笙のことを思い出した。しかし、今の自分が笙にしてやれることは何もないと自嘲した。そして一日も早く、笙が音楽的パートナーである凛々花と幸せになってくれることを願っていた。


 2011年3月11日、日本で大地震が起こった。アメリカにいた笙は、建物が津波に流されていくショッキングな映像の数々に、大聖が死んでしまったのではないかと本気で怯えた。
 ほどなくして泉川や伯母・由美からのメールで、皆が無事だとわかったが、いても立ってもいられず、パスポートと財布をデイパックに投げ込むと、凛々花たちの制止を振り切って帰国便に乗った。
 しかし、飛行機が放射能の影響や余震を恐れて成田空港ではなく中部国際空港への着陸に切り替えたため、笙は空港のゲートを出たところで父親に捕まってしまった。アメリカから実家に、連絡があったのだ。
「福島の原発が危険な状態なんだ。東京なんかに行かせられない。ママは気も狂わんばかりに心配している」
 この日、11時1分に3号機の建屋が爆発し、大量の煙が上がった。
「でも、伯母さんや大聖さんは?」
「大聖くんは今、無菌室に入っているから動かせない。由美は東京から離れないと言い張ってるが、今、靖彦くんが里帰りするよう説得している」
「やっぱり僕、東京に行きたい!」
 笙は父親に懇願したが、父親はいつになく険しい顔で笙に命じた。
「原発が落ち着くまで家にいるんだ。これ以上、ママを泣かせるな!」
 笙は強引に岐阜の実家に連れ戻された。これでは何のためにアメリカから帰ってきたのかわからない。だからといって、父親に逆らう勇気もない。笙は、自分の小心ぶりを呪った。
「東京には大切な人がたくさんいるんだ。だから、東京へ行きたい!」
 笙は、父親に必死になって頼んだ。母親はもちろん、祖母も大反対だったが、なんとか許しが出たのは原発事故が収束に向かい始めた3月の終わりだ。伯母夫婦の顔を見たら、すぐに留学先へ戻るというのが条件だった。笙は父親と二人、大量のミネラル・ウォーターや食料を車に積んで小早川家へと向かった。


「大聖さんに…会いたい。会いに行ったらダメかな……」
 津波で壊滅した町のテレビ映像を観ていた笙が、ポツリと言った。傍らで洗濯物を畳んでいた由美が手を止めた。笙は3日間、小早川家で過ごし、その後、留学先のロサンゼルスに戻ることになっていた。
「そうね……ダイちゃんにバレないようにすれば、平気よね」
 翌日、笙は大聖が昼寝をする僅かな時間、彼の寝顔を見ることができた。頭髪が抜け落ち、目は落ちくぼみ、かつての美貌は見る影もなくやつれ果てた大聖の姿に、笙は絶句し涙が止まらなかった。時間にすれば、たった10分か15分くらいの面会だったが、笙の動揺と胸の痛みは果てしなく続いた。
 笙は、自分の弱さが情けなくて堪らなかった。大聖が、闘病生活から笙を閉め出したはずだ。これでは、とても大聖の支えにはなれない。それどころか大聖の精神的負担になってしまう。強くなりたい! 強くならなければ――笙は切実に願った。



     act.41
 ロスに戻るとビッグニュースが待っていた。凛々花がアメリカで最も有名な音楽賞を受賞したのだ。受賞曲は笙が作曲、凛々花が作詞した『Mon seul tresor(たった一つの宝物)』だった。お陰で、笙もアメリカのみならず全世界で一躍脚光を浴びることになった。
 笙は、連日の取材やパーティーで、『英語の嵐』の中に投げ込まれた。これで英語が話せるようにならないはずがない。いつの間にか、あれほど話すことが苦手だった英会話ができるようになっていた。
 笙と凛々花が婚約するのではないかと噂が広まる中、5月10日に凛々花の誕生パーティーが開かれた。
 笙が「凛々花とは親友だが恋人ではない」と懸命に説明しても、記者達は一向に信じてくれない。凛々花には好きな男がいるのだが、それは笙と凛々花だけの秘密で話すことはできない。笙には凛々花のように上手く記者達をあしらうことができなくて、這々の体でバルコニーへ逃げ出した。
「一段と綺麗になったね。見違えたよ」
 夜風に当たっていると懐かしい日本語で話しかけられ、笙は声の主・久住啓介をゆっくりと振り返った。日系アメリカ人である凛々花の誕生日パーティーには、日本の著名人も数多く招かれていた。これは、凛々花の悪戯だろう。
「お久しぶりです、先輩」
 不思議と動揺はなかった。久住は留学先のドイツに拠点を置いて、精力的にコンサート活動をしており、ボストンやNYでのコンサートでは、笙にチケットを送ってくれた。むろん、笙がそれに足を運ぶことはなかったが。
「天野さんと別れたって聞いたけど、本当なのか?」
 単刀直入に質問されても、笙は動揺しなかった。我ながら神経が図太くなったものだと思う。
「僕の大聖さんへの気持ちは変わっていませんから」
 笙が静かに答えると、久住は優しく微笑んだ。
「だろうと思ったよ。それでも、やっぱり俺の気持ちも変わらない。お互い様だから許してくれるよな?」
「そんな風に僕を甘やかさないでください。僕はまた甘ったれた子どもに戻ってしまう。やっと、『あのこと』も大聖さんと出会うために必要な通過点だったと思えるようになったのに」
 笙はそう言って穏やかな眼差しで久住を見つめ返した。
「あの幼くて可愛らしい笙は、もういないんだね」
 久住は哀しそうな声で呟くと、頭上に広がる夜空を見上げた。


 笙がアメリカに来たときは、ほとんど荷物がなかったが、気がつくとずいぶん増えてしまっていた。お陰で、帰国する前日まで荷物の整理に追われるハメになった。
『笙、ホットココアよ。少し休憩したら?』
『ありがとう、凛々花』
 笙が嬉しそうにマグカップに口を付けると、凛々花が躊躇いがちに話しかけてきた。
『本当に帰るのね、大聖のもとに……』
『うん』
 笙は、凛々花の目を見てしっかりと肯いた。
『気持ちの整理はついた?』
 凛々花は心持ち心配そうだ。
『僕、決めたよ。命ある限り、大聖さんの傍らにいるって。傷つけられても罵られても、彼の人生から閉め出されるより、ずっといいってわかった』
 笙は、胸のつかえが取れたように明るく微笑んだ。

 
 笙が帰国した翌月の7月、大聖は治療を終えて自宅療養に入れることになった。笙は、驚喜して病院に駆けつけたが、大聖に会う寸前に廊下で坂本に捉まり、談話室に連れて行かれた。
「ヨリを戻すのは、あと4年無事に過ぎてからにして欲しい。大聖の病気は5年を一区切りとして考える病気なんだ。だから再発の可能性があるうちは、笙くんとは他人でいたいそうだ。もちろん、それまでに君に好きな人ができたなら、その人と幸せになってくれることを望んでる」
「そんな……」
 淡々と大聖の意志を伝える坂本を、笙は信じられない思いで凝視した。
「はっきり言わせてもらう。君に大聖を支えるのは無理だ。傷つけあって共倒れになるのが目に見えてる。だから、あいつの傍らから離れてくれ」
「僕は……大聖さんの気持ちを尊重して離れたのに、その結果がこれなのっ!?」
 笙は、悲鳴のように叫んだが泣かなかった。怒りと悲しみとで身体が震えたが、泣かなかった。代わりに、まっすぐに目を反らすことなく坂本を睨み付けた。
 笙の気丈さに坂本は驚いた。内気で気が弱く、決して坂本と目を合わせることなどなかった少年が、ずいぶん成長したものだ。
「まあ、笙くんの好きにすればいい。取りあえず、大聖は生き延びたんだからな」
 坂本は、思わず破顔した。笙だって、いつまでも子どもではないのだ。それが堪らなく嬉しかった。


 大聖には会えず、とぼとぼと病院から戻った笙は、必死で考えた。こんなに頭を使ったのは、大学の入試以来ではないかと言うくらい脳細胞を絞った。
 がむしゃらに泣いて縋ったところで、大聖が気持ちを変えてくれるとも思えない。だからといって、他の誰かと幸せになれるはずもない。なりたくもない。
 考え抜いた末、笙はひとりで神崎美耶子を訪ねた。
「初めて『花睡』を読ませていただいたとき、僕は17でした。その時はまだ『花睡』の良さがわかりませんでした。大聖さんに『修行が足りないからだ』って笑われました。でも今は、あの作品がどんなに素晴らしいか理解できます。僕達は……大聖さんと僕は、『花睡』を演じるために出会ったんだと思います。どうか、僕達にチャンスをください!」
 病気のためとはいえ、仕事に穴を開けてしまった大聖を主役に据えるのは、大きな博打だ。それを承知で深々と頭を下げた笙に、美耶子は静かに言った。
「天野くんが病気と闘っている間、私は何度も何度も『花睡』を練り直していたわ。これ以上ないくらい最高の作品にするために。夕べ、それが納得のいく形に完成したの。これはきっと運命ね。『花睡』はあなたに初めて脚本を渡した4年前でも、映画化のプロジェクトが動き出した1年前でもなく、あなたが大人になった今、制作されるべき作品だったのよ」



     act.42
 翌年1月、映画『花睡』の制作発表で、大聖は実に1年半ぶりに笙と再会した。大聖は退院しても、笙が下宿している小早川家を訪れることはなかったのだ。
 坂本が気を利かせて、控室で二人だけにしてくれたので、別れて以来初めて胸襟を開いて話すことができた。大聖はかなり痩せていたが、由美がせっせと大聖のマンションまで食事を作りに出かけているせいか、顔色は悪くない。
「この話、笙が神崎先生に頼んだんだってな。ありがとう」
 大聖は、入り口に一番近いスチール椅子に腰掛けると、静かに言った。笙を見るその瞳に、かつての熱情はなかった。
「恋人に戻れなくてもいい。ずっと他人のままでいい。僕は大聖さんと仕事したいんだ。だから、僕から逃げたりしないで」
 大聖の余所余所しさにも挫けることなく、笙は正面から大聖を見据えて訴えた。 
「逃げたりはしないさ。笙は仕事の相棒だからな。そうだろう?」
 確認するように問われて、笙は大きく肯いた。以前のような甘い関係に戻れないなら、せめてビジネス・パートナーとしての結びつきだけでも失いたくなかった。
「うん、また一緒に仕事ができて嬉しい!」
「俺はもう、前みたいに笙を守ってやれないかもしれないぞ?」
 大聖は酷く不安そうに言った。
「大丈夫だよ、僕はもう子どもじゃないし、今度は僕が大聖さんを守るよ。ジムで鍛えて筋肉だって付けたんだ」
 笙が茶目っ気たっぷりに笑って応えると、大聖も釣られて笑った。
「笙に守られる日が来るなんて考えたこともなかったなぁ。長生きはするもんだ、うん!」
「大聖さんてば、僕は本気で言ってるのに、信じてくれないのっ?」
「んな、ムキになんなよ。そんなにムクれるとほっぺたが破裂するぞ」
 屈託なく笑う大聖を見て、笙は胸の内が暖かくなるのを感じた。
「やっぱ、留学は正解だったな。すげぇ大人っぽくなった」
 大聖は眩しそうに笙を見た。笙の成長が嬉しい反面、笙が手の届かない遠い存在になってしまったような複雑な気持ちだった。


 制作発表の後、神崎美耶子の発案で、大聖の退院祝いを兼ねた親睦パーティーが催された。『花睡』の主要キャストとスタッフ、総勢30人あまりの賑やかなパーティーになった。
 酒は好きだが、もともとあまり酒に強くない大聖は、シャンパン一杯で見事にできあがってしまった。宴の途中で主役が抜けるのは憚られたが、大聖が体調を崩しては本末転倒なので、坂本と笙が連れ帰ることにした。
 坂本の運転する車が大聖のマンションに着いた時には、すでに大聖は爆睡状態だった。身長180センチ、体重70キロの大聖が、どこかに身体をぶつけて怪我をしないよう、細心の注意を払いながらベッドに寝かしつける。
 笙が2年近く訪れていなかった大聖の部屋は、すっかり様変わりしていた。衛生面に配慮して観葉植物は撤去され、カーテンはブラインドに変わっている。転倒を恐れてか、ラグやマットの類も一切取り払われていた。
「坂本さん、僕はタクシーを拾って帰りますから、先に帰ってください。もう少し、大聖さんの寝顔を見ていたいんです」
「そうか……じゃあ、俺は帰るが、社長の奥さんに連絡を忘れないでくれよ」
「はい」
 笙は坂本に小さく会釈すると、大聖が眠るベッドの端に腰を下ろした。だが、背中で玄関ドアが閉まる音を聞いた途端、気が緩んで涙が溢れた。
「生きていてくれて、ありがとう」
 大聖の寝顔を見つめながら、そっと囁く。例えこのまま、大聖が自分の身体に指一本触れてくれなくても構わない、傍らにいられる幸せを忘れないでいよう。笙は、寂しさを振り払うかのように頬を伝う涙をぬぐった。


 映画は大聖の体力が戻るのを待って、季候の良い4月中旬にクランクインした。撮影スケジュールも、大聖の身体に負担がかからないよう、ゆったりと組まれていた。
 笙は、監督に何度もダメ出しをされながらも歯を食いしばって頑張った。初めて『花睡』を読んだとき、さっぱり理解できなかった緻密な心理描写も、「切ない想い」や「純愛」も、今なら理解できた。大聖も、素人同然の笙を上手くリードし、巧みに演技を引き出してくれた。
 神崎美耶子の言った通り、『花睡』は、笙が成長した今、制作されるべき運命だったのだ。


 その日は、笙がオールアップする日だった。すべてのしがらみを捨ててイギリスへ留学しようとする弟を兄が引き留めるが、弟はそれを振り切って兄と決別するシーンの撮影がある。大林監督から間の取り方から視線の動かし方まで、細かく注文があり、笙はいつになく緊張していた。
   「行くな! どこにも行くなっ!! 俺の傍を離れるんじゃない!!」
   「ごめんね、兄さん……」
   「許さないぞ、イギリスなんかに行ったら絶対許してやらないからな!」
   「兄さん――」
   「憎んでやる! 俺を見捨てたら一生、憎んでやるっ!!」
 大聖の血を吐くような表情に、笙は圧倒されて台詞を忘れてしまった。まるで、大聖と別れた後、逃げるようにアメリカへ留学したことを責められているようで、言葉が出てこない。
「ごめんなさい……」
 笙は、演技などすっかり忘れて無我夢中で大聖に抱きついた。
「バカ、違うだろ。台詞は?」
 耳元で大聖に囁かれ、ようやく笙は我に返った。
   「……それでも、僕は行くよ」
 なんとか絞り出すように台詞を言う。叱られるかと思いきや、すんなり監督のOKが出た。
「撮り直さないんですか?」
 放心したように椅子に座り込んでいる笙を横目に見ながら大聖が訊くと、監督は苦笑した。
「今のをNGにするほど、僕はバカじゃない」
 そう言って監督が見せてくれた映像は、大聖からは死角になって見えなかった笙の表情を、しっかりと捕らえていた。
 笙は、今にも崩折れそうになりながら唇を奮わせていた。別れを告げながらも全身で兄への思慕を訴えていた。見る者の心臓を鷲づかみにするような哀しみを纏って――。それは息を飲むほど美しく、暴力的なまでにエロチックだった。
 大聖は、しばらくそれを食い入るように見ていたが、やがて怯えたように目を閉じた。



     act.44
 『花睡』の完成試写会で、2ヶ月ぶりに顔を合わせた大聖と笙は、決して互いに目を合わせようとしなかった。その余所余所しさは、集まったマスコミやファンが不審がってざわつくほどのものだった。
 大聖はともかく、笙はカメラの前で笑うことすらできなかった。これでは、世間に二人の不仲説が流れても文句は言えない。試写会に集まったファンが、次々と二人のギクシャクとした様子をツイートしているのを見て、坂本は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「次の舞台挨拶ではもう少し愛想良く笑ってくれよ」
 笙を小早川家まで送るため二人で地下駐車場に向かいながら、坂本が笑顔で言うと、笙はぎこちなく肯いた。
「すみません」
「ところで、社長に聞いたんだが、先週、見合いしたんだって?」
 坂本は、エレベーター前で足を止め、周囲に人がいないのを確認すると小声で訊いた。
「はい」
「君は本当にそれでいいのかい?」
 坂本の声はいつになく優しい。坂本なりに笙を気遣っているのだ。
「……はい」
 笙は居たたまれず目を伏せた。
「笙くんは若くして名声も富も手に入れてしまったからね。お祖母さんにしてみれば、逆にそれが危なっかしく感じるんだろう。しっかり者のお嫁さんを宛がって、君を支えてもらおうという目論見は悪くない。だけど、君は本当に大聖を諦められるのかな?」
 淡々と問われて、笙は急いで首を横に振った。見合いしたのは、単に大聖が「普通に結婚して子どもを作れ」と言ったからに過ぎない。
「気持ちを残したまま結婚するのは、相手の女性に失礼だよ」
「だって……だって、大聖さんが――」
 まるで自分の不実を責められているようで、笙は半泣きになった。
「だったら笙くんは、大聖に死ねと言われたら死ねるのかい?」
 坂本が意地悪く訊くと、笙は迷うことなく当然とばかりに答えた。
「大聖さんがそうしろって言うなら」
 これにはさすがに坂本も怯んだ。大聖が笙を重荷に感じるのも道理だと納得する。
「相手の言葉を鵜呑みにするんじゃなく、その裏にあるものを考えるんだ。君はもう少し駆け引きってものを学ばないといけないな。でもまあ、それができれば、こんなことになってないか」
 坂本は溜息吐くと柱の陰に向かって声を掛けた。
「大聖、立ち聞きするなんて、行儀が悪いぞ!」
「わりぃ、俺はただ……笙に、この間のことを謝りたくてさ、出るタイミングを計ってただけで……」
 柱の陰から現れた大聖は、決まり悪そうにもごもごと言い訳した。
「だったら笙くんはおまえに預けるから、きちんと仲直りしろ。俺は幸宏が待ってるから帰る」
 坂本は笙の背中を大聖の方へと押しやると、わざと突き放したように言った。笙は困惑して立ち尽くしたままだ。
「笙、俺の車、こっちだから」
 ぶっきらぼうに言うと大聖は笙に背を向けた。混乱しながらも、笙はその背を慌てて追いかけた。


 てっきり小早川家に送り届けられるかと思いきや、笙が連れて行かれたのは大聖のマンションだった。大聖はリビングのソファーにどっかり腰を降ろすと、リビングの入り口で立ち尽くしている笙を見上げた。
「俺は、見合いしろなんて言ってない!」
「でも『結婚して子ども作れ』って……」
 この間の件を謝りたいと言っていたはずなのに、不機嫌そのものの大聖に、笙は戸惑った。
「なんで普通に恋愛して結婚できないんだよっ」
「普通って何? お見合いで結婚しちゃダメなの? 勝手なことばっかり言って、訳わかんないよっ!」
「俺だってわかんねーよ! 笙には幸せになって欲しいだけなのに!!」
 思わず笙を怒鳴りつけてしまった大聖は、泣きそうな顔をした笙を見て我に返った。
「アホだ、俺。何やってんだろ……」
 自己嫌悪で額を押さえて蹲った大聖に、笙はそろそろと近づいてその足下に膝を付いた。気配に大聖が顔を上げると、笙が心配そうに大聖を見ていた。
「笙には、プライドってもんはないのか?」
 ふと思いついて尋ねてみる。
「ないよ。とうの昔に大聖さんにあげちゃったもの」
 笙は微苦笑しながら即答した。大聖は唖然と笙を凝視し、それから目を伏せると胸の内すべてを吐き尽くすように話した。
「俺、笙のこと、見くびってたんだと思う。だから、すげぇ軽いノリで『付き合おう』って言えたんだ。けど、笙が本当は凄い奴で、俺を真剣に愛してくれてるってわかって、怖くなった。笙の存在が重くてたまらなくなったんだ」
 大聖が俯いたまま話すのを、笙は黙って聞いていた。決して大聖が自分を見ようとしないことからも、それが大聖の本音なのだとわかる。
「ノリと勢いで始めちまったけど、俺はずっと後悔してた。おまえは気づいてなかったかもしれないけど、病気になるずっと前から、俺はおまえが怖かった。おまえの若さや才能が怖くてたまらなかった」
 苦しげに告白されて、笙は頭からすうっと血の気が引いてゆくのを感じた。
「俺は、笙が考えてるほど、強くもなければ寛大でもない。それがバレて、おまえに捨てられるのが恐ろしかった。だから、そうなる前に別れたんだ」
 大聖の端正な横顔が苦渋に歪むのを見て、笙は胸が締め付けられるように痛んだ。自分の存在が、こんなにも大聖を苦しめていたとは想像だにしていなかった。
「気がつかなくてごめんなさい。僕は……僕は大聖さんの傍にいちゃいけなかったんだね」
 笙はのろのろと立ち上がると、一途の望みを失ったように悲痛な表情で後退った。
「僕は、ありのままの大聖さんを愛してるよ。大聖さんが、ありのままの僕を受け入れてくれたように。だけどもう、大聖さんの前から消えるから、僕なんかのせいで苦しまないで……」
 さよなら――笙の声は聞き取れないほど小さく掠れていたが、大聖の耳には絶望の鐘のように大きく鳴り響いた。大聖は反射的に立ち上がり、部屋を出て行こうとしていた笙を背後から抱きしめた。
「な、なんでこうなるんだよ!? 俺、笙に謝りたかっただけなのに、なんで『さよなら』なんだよっ!!」
「大聖…さん?」
 訳がわからず、笙は抱きしめられたまま大聖を振り仰いだ。大聖の顔は涙でぐしょぐしょで、気取り屋の大聖が自分の前でこんな風になりふり構わず泣くのを見たのは初めてだった。
 苦しい体勢のまま乱暴に唇を奪われ、性急に衣類を剥ぎ取られる。抗うこともできず、笙は引きずられるようにしてベッドに連れ込まれた。
 大聖は熱に浮かされたように笙を抱いた。まるで堪え性のない子どものように……。笙は黙って大聖を受け入れ、あやし、情熱のありったけで脚を絡ませた。愛していると伝えるために――。



     act.45
 笙の最奥で欲望を解き放った大聖は、ようやく理性を取り戻し、怯えたように身を引いた。激しいセックスに精根尽き果てて身動きできないでいる笙から、目を反らしたくて起き上がって背を向ける。
「ごめんな……」
「どうして謝るの?」
 笙はしどけなく横たわったまま、力なく訊いた。
「……別れたのに抱いたから」
 低く抑揚のない声でそう言われ、笙は大聖が自分を抱いたことを後悔していると悟った。悔しくて思わず半身を起こして叫ぶ。
「謝らないでよ!」
「やっぱり怒ってるじゃないか」
 大聖は笙を振り返ると困惑して呟いた。笙はもう苛立ちを隠し切れなかった。
「大聖さんが謝るからだよっ」
 言った途端、笙は堪らなく惨めになった。大聖の前では絶対に泣きたくなかったのに、涙で目の前が霞んでくる。泣き顔を見られまいと慌てて大聖から顔を背けた。
 大聖は、そんな笙を見て、愛しさにどうしようもなく胸がときめいた。咄嗟に笙を抱き寄せてしまう。そして、覚悟を決めて白状した。
「愛してないのに抱いたりなんかしない。でも、優しくできなくてごめんな。身体、きついだろ?」
 大聖が耳元で囁くと、笙は驚いて惚けたように大聖を見た。大聖は笙の瞳を覗き込むようにして告げた。
「笙……俺はいずれ、おまえを残して先に死ぬよ。だって俺の方が10コも年上なんだから、しょーがねーじゃん。俺、おまえを泣かせてばっかりだけど、それでもやっぱり一緒に生きていきたい。1分一秒でも長く一緒にいられるよう頑張るからさ、最期まで俺の傍にいてくれるか?」
 歓喜のあまり、笙は大聖に抱きついた。天にも昇るような至福がゆっくりと全身に満ちてくる。
 こんな風に幸せな時間をたくさん積み重ねて行けば、それを糧にどんな辛いことだって耐えられる。耐えてみせる。例え、再発への果てしない不安と恐れの中で生きていくことになっても、笙は「幸せだ」と胸を張って言える。
「うん、離れないよ。今度は大聖さんに頼まれたって、誰に何を言われたって、もう絶対に別れない!」
 まるで誓いのキスをするように、笙は大聖に唇を重ねた。


 10月の定期外来に、大聖は笙を連れて行ってくれた。診察の順番を待つ間、入院病棟でお世話になったという看護師長さんや看護師さんにも紹介してもらう。
「まあぁ、ダイちゃん、可愛い子を連れてるじゃない」
 中年の看護師にからかわれて、大聖ではなく笙の方が赤くなってしまった。
「俺が主演した映画がもうすぐ公開されるんだ。これ、試写会のチケット。非番で来られそうな人に渡してよ」
「ありがとう。珠美ちゃんもきっと喜ぶわ」
 初めて聞く名前に、笙は説明を求めて大聖の顔を見た。
「女優になりたいって頑張ってた女子中学生だよ。半年前に亡くなった。俺によく懐いてくれてたんだ」
 淋しそうな大聖の声に、笙は絶句した。ここでは、死は身近で日常的なものなのだ。大聖は、死を目の当たりにし、死の恐怖と戦いながら生き抜いた。改めて笙は、大聖と共に生きることの厳しさを実感した。
「大丈夫か?」
 病院から帰宅する途中、大聖が車の運転をしながら静かに訊いてきた。笙が、死を間近に感じて怯えているのではないかと心配したのだ。笙は、ハンドルを握る大聖の横顔を見ながら臆さず答えた。
「大丈夫。胸が痛いのは、僕が生きてる証拠だから」
「そうだな……そうだよな」
 大聖は、笙の言葉を噛みしめるように呟いた。


 『花睡』の舞台挨拶や雑誌の取材など、慌ただしい日々が過ぎて落ち着くと、大聖と笙は一緒に暮らし始めた。
 大学を卒業した笙は、日本のみならずアメリカやイギリスのシンガーにも楽曲を提供し、海外と日本を行ったり来たりするグローバルな活動をしている。しかし、大聖の定期外来だけは何があっても必ず同行した。
 今、大聖は、神崎美耶子・脚本のドラマ『おとぎ話の始まり』でヒロインの相手役を演じている。ヒロインは、同じ事務所の望月結香だ。結香の我儘ぶりは相変わらずだが、坂本のマネージメントが効を奏して、今では視聴率女王と呼ばれるようになっていた。
 『花睡』がカンヌで脚本賞を受賞したという吉報があったのは深夜で、大聖と笙はすでにベッドの中だった。
「次は、ベネチア国際映画祭の金獅子賞だ!」
 神崎美耶子からの電話を切った大聖が意気揚々と宣言した。
「どうして男優賞じゃなくて金獅子賞が欲しいの?」
 笙は、常々思っていた疑問を口にした。笙としては、『花睡』で渾身の演技を見せた大聖に、男優賞を取って欲しいのだ。
「作品に与えられる最高賞だからだよ。監督も脚本も役者も、音楽も衣装も裏方さんも、とにかく作品の全部が優れてるって評価される賞だからさ、すっげぇお得感いっぱいじゃん」
「そっか、なるほどね」
 笙は、クスクスと笑ってしまった。あまりに大聖らしい理由だったからだ。
「なぁ、笙、知ってるか? 金獅子ってライオンのことなんだけどさ」
 大聖がふと思いついたように言った。
「交尾期に番のライオンは、食事もとらずに1日に20回から40回の交尾をするんだってさ」
 笙は嫌な予感がしながら訊いた。
「へーえ、凄いね。それ、誰に聞いたの?」
「坂モッチャン」
 やっぱり、と呆れながらも、笙は何とか話を反らそうと試みる。
「象徴学では、ライオンは太陽の回帰と――」
 笙は最後まで言えなかった。大聖に羽交い締めにされ、首筋をねっとりと舐めあげられたのだ。
「俺さぁ、今、交尾期みたいだ……だから、何回できるか…試してみようぜ」
 情欲に掠れた声で囁かれ、笙はぞくり、と背筋に甘い震えが走った。広い胸に抱きしめられ、その体温を感じる。それは、笙にとって人生を差し出す価値のある尊いものだった。
 象徴学に於いて、ライオンは太陽の回帰と、宇宙と生物のエネルギー再生、そして生きる喜び、野心、自尊心、上昇を表す。笙は、快楽の波に身をゆだねながら、大聖こそが自分にとってライオンそのものだと思った。
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