ライオンact.1〜act.10     月桜可南子
   act.1
 洒落たカフェの一角で行われているインタビューに、店内の客がチラチラと視線を投げてくる。天野大聖(あまの・たいせい)は、そんな視線に動じることもなく、にこやかに質問に答えていた。
 顎ラインで切りそろえた髪に毛先だけ緩いウエーブを入れた茶髪と『SAKURA』のメンズ服のモデルを務めたこともある180センチの長身は一見、ホストのように見えるが、大聖は天才子役としてデビューした演技派俳優だ。もっとも最近は、映画や舞台の脇役ばかりで、これと言った大きな仕事はしていない。
「それでは最後に、天野さんの夢を教えてください」
「世界に通用する役者になることです。世界最古の歴史を持つベネチア国際映画祭で評価されるのが目標です」
「すてきな目標ですね。頑張ってください、応援しています」
 年輩の女性記者は社交辞令を口にすると、ちらりと腕時計で時間を確認した。次の予定を気にしているらしい。
「ありがとうございます、頑張ります」
 大聖は、彼女が再び自分に視線を戻すのを待って微笑んだ。26歳になった今も「少年のような」と表される天真爛漫な笑顔だ。大聖の狙い通り、彼女は愛くるしい子犬を見たとき誰もがそうするように口元を綻ばせた。


 大聖が車に乗り込むと、マネージャーの坂本省吾(さかもと・しょうご)が上機嫌で口を開いた。
「すっかりインタビューの受け答えもうまくなったな。昔は失言ばかりで、フォローが大変だったのが嘘みたいだ」
 大聖より5歳年上の坂本は、12歳までアメリカで育ったという秀才で、すべてにおいてそつがなく頭の回転が速い。大聖が17歳の時からマネージャーとしてついてくれているが、大聖は一度として坂本に口で勝てたことがない。
「そりゃあ、数こなしてきたからさ。もう、ひとりで大丈夫だよ」
「いや、インタビューだけは必ず同席しろって、社長からきつく言われてるんだ」
「ちえっ、信用ないなぁ」
 大聖は不満そうに口を尖らせたが、元来、お調子者で、物事を深く考えるのが苦手な性格だから仕方ない。
「ところで、この後の撮影、中止になったから、今日はもうマンションへ送ってやるよ」
「えっ、なんで中止に?」
「ヒロイン役のミナちゃんが、栄養失調で倒れたってさ。今、病院で点滴受けてるそうだ。あの子のダイエットは過激だったからなぁ」
「ふーん、さっきの電話、その連絡だったんだ」
 大聖は、インタビューが始まってすぐ、坂本がコソコソと席を立ったのを思い出した。
「おまえは幸せだな、社長の奥さんがきちんと栄養管理してくれてるもんな」
「俺も太りやすいからさ、由美さんが食事管理してくれなけりゃ、この体型は維持できないだろうなぁ」
 子どものいない小早川由美(こばやかわ・ゆみ)は、大聖を実の息子のように可愛がってくれていた。仕事で帰宅できない時を除いて、大聖は毎日ジョギングをしてから社長宅で風呂に入り、ついでに由美に洗濯をしてもらい、由美の作った夕食を食べて、小早川家から徒歩10分の自分のマンションに帰って寝るという生活だ。
「そういえば、先週から社長の家に下宿してる奥さんの甥っ子とは、うまくやってるか?」
 ふと、坂本が思い出して聞いてきた。
「うーん、あいつとは最悪の出会いだったからなぁ」
 大聖は、苦々しく呟いた。
「おまえが、ジョギングで汗臭かったからだろ」
「だからって、吐くことないだろ? 初対面でいきなり吐かれた俺の心の傷はどうしてくれるんだよ!」
 事務所の社長夫妻が、妻の弟夫婦の子どもを預かって、9月からこちらの高校に通わせると聞いたのは8月初めだ。何でも不登校になって、医者の勧めもあり環境を変えることにしたのだという。初めは、由美の愛情がその甥に移るのではないかと不安だったが、由美から「弟だと思って仲良くしてやってね」と頼まれて、大聖はすっかりその気になった。
 しかし、精一杯、愛想を振りまいて好感を持たれようと、ハグしたのが裏目に出てしまった。由美の甥・高柳笙(たかやなぎ・しょう)は、大聖を突き飛ばしてトイレに駆け込んだのだ。
 あの時のショックと気まずさは、生放送のバラエティー番組で失言してしまったときの比ではなかった。一週間あまり過ぎた今でも、大聖が夕食に行くと、笙は部屋に閉じ籠もって出てこない。由美も「懐かない野生動物みたい」とボヤいている。
「俺、あいつと仲良くなんて一生無理かも」
「そんな弱気でどうする! どんな共演者とでも仲良くやれるってのが、大聖のウリなんだから頑張れよ」
「ちえっ、人ごとだと思って」
 坂本は、バックミラー越しに大聖のふくれっ面を見ると、声を上げて笑った。


 坂本にマンションそばのコンビニ前で降ろしてもらい、大聖がビールとつまみを物色していると、携帯が鳴った。液晶画面に表示された「由美さん」という文字に、買い食いが見つかった子どものように心臓が跳ね上がる。由美にはさっき車の中で、撮影が中止になったから、夜までのんびりできるとメールしたのだ。
「ダイちゃん、今、どこにいるの?」
 由美はいつも大聖を「ダイちゃん」と呼ぶ。「タイセイ」と発音するのが面倒だからだ。
「自分の部屋に戻るとこだけど?」
 その前にコンビニでビールを調達していることはちゃっかり省略する。
「あのね、笙くんを学校まで迎えに行ってやって欲しいの」
「え?」
「学校から、熱があるから迎えに来るように連絡があったんだけど、私は今、横浜にいて時間がかかるから、ダイちゃんの方が近いのよ」
 今日は由美のお稽古の日で、横浜にあるフラワー・アレンジメント教室まで出かけているのだ。
「わかった、俺が迎えに行くよ。病院へは連れて行かなくてもいいのか?」
「私が戻ったら、すぐに連れて行くから、部屋で休ませておいて」
「了解。車を借りていい?」
「ええ、もちろん。鍵はいつものところよ」
 大聖は社長宅の合い鍵をもらっているし、家族同然の付き合いで勝手知ったる家だ。キッチンのキーボックスから車の鍵を取り出すと、カーナビを使って1時間後には、笙が通う高校(ミッション系の私立校だ)に駆けつけることができた。



     act.2
 高柳笙は保健室のベッドにぐったりと横たわっていた。いつも大聖の顔を見ると、そそくさと自分の部屋に逃げ込むか、決まり悪そうに背を向けるかだが、今はその気力もないらしい。
 大聖の肩を借りて、なんとか車まで自力で歩いたが、後部座席に倒れ込むように乗り込むと一言も口を利かなかった。
「おい、着いたぞ」
 小早川家に着いて大聖が声をかけると、笙は死んだように眠り込んでいた。起こすのも憚られ、明日は腰痛だなぁと覚悟を決めて、笙を担ぎ上げる。が、笙は予想外に軽かった。ガリガリに痩せて、高校1年生とは思えない貧弱な体格だ。
 大聖は、笙をリビングのソファーに寝かしつけると、サニタリールームから大判のバスタオルを持ってきて笙にかけてやった。それからようやく、笙がメガネをかけていないことに気がついた。保健室に忘れてきてしまったのだ。
 由美の帰宅を待って、メガネを取りに行かなくてはと考えながら、大聖を遠巻きに見てキャピキャピと騒いでいた女子高生を思い出してげんなりした。幼い頃から芸能界で大人に囲まれて生きてきたせいか、大聖は自分より年下の子どもが苦手だった。笙のように、10歳も年下の高校生など、何を考えているかわからない宇宙人だ。
 汗で張り付いた前髪をかきあげてやりながら、大聖が初めて間近で見た笙は、美男美女を見慣れた大聖ですら驚くほど整った顔立ちをしていた。肩幅こそないが、頭が小さいのが幸いして、8等身近くある。なにより、手足が長い。
 これだけの素材を、伯父の小早川社長が放っておくのが信じられなかった。この少年には何か大きな問題がある――大聖は本能的にそう感じた。
 その時、ぼんやりと目を開けた笙は、自分の上に覆い被さるようにしていた大聖に驚いて悲鳴をあげた。大聖を突き飛ばして逃げようとしたが、身体にかけてあったバスタオルが脚に絡まって、ソファから転げ落ちてしまう。
 大聖が事の成り行きに唖然としていると、急激に動いたのがまずかったのか、笙は口を押さえてえずき始めた。
「ちょっと待て、そんなとこで吐くな!」
 大聖は慌てて笙を肩に担ぎ上げて、トイレへと走った。


「吐き気は治まったか? ほら、口を濯げよ」
 大聖は笙が落ち着くのを見計らって、水の入ったコップを差し出した。のろのろと大聖を振り返った笙は、ひどく幼く見えた。
「……すみません」
 笙が口を濯ぐと、大聖は手際よくトイレの水を流してコップを片づける。
「立てるか?」
 聞かれて笙は口籠もった。体中の力が抜けて、立てたとしてもまともに歩けるか自信がなかったのだ。
「ほら、俺の首に腕を回せ」
 笙は、怖ず怖ずと言われたように大聖の首に腕を回した。ふわりと身体が宙に浮く感覚とお姫様抱っこに、笙は戸惑いの表情を見せたが、大聖が優しく笑いかけてやると、恥ずかしそうに目を伏せた。
 大聖は、笙をソファに降ろし、熱を確かめようと笙の額に手をあてた。一瞬、笙の身体がビクリと震えたが、笙はおとなしくしていた。
「やっぱ、冷やした方がいいな」
 大聖は、氷枕を作り、笙の額に冷えピタシートを貼り付けると「頭寒足熱だ」と笙の脚の方だけバスタオルをかけてやった。それから蒸しタオルを作って、笙の額や首筋の汗を優しく拭ってやる。
 笙は、かいがいしく動き回る大聖を見ているうちに、暖かなものが胸の中に広がっていくのを感じた。
「ところでさ、予備のメガネは持ってるか?」
 不意に大聖が訊いた。
「……メガネ?」
「ここに着いてから気がついたんだ。笙くんのメガネ、学校に忘れてきたかも」
「コンタクト、持ってるから……平気です」
 大聖が、初めてまともに聞いた笙の声は、しっとりと落ち着いた、どこか淋しげな声だった。
「けど、体調が悪いのにコンタクトはキツくだろ? 笙くんが由美さんと病院へ行っている間に学校へ行って取ってきてやるよ。どこに置いたか憶えてるか?」
「あ……、先生が鞄の中に入れてくれたような気が……。僕の鞄は?」
「しまった! まだ由美さんの車の中だ」
 大聖が、ガレージの車から鞄を取ってくると、笙は上体を起こして中身を確認した。
「これ……」
 鞄の中から笙が取り出したのは、女物のハンカチにくるまれた何かだった。横から素早く手を伸ばした大聖がそれを確認すると、やはり笙の銀縁メガネだった。ほっとして、二人で顔を見合わせて微笑みあう。
「これ、女物のハンカチだよな。て、ことは、担任は女ってことだよな? 美人か?」
「えっと……優しいです」
 一瞬、返答に詰まった笙が、当たり障りのない答えを返すと、大聖は盛大に溜息をついて見せた。
「つまり、性格で勝負しなけりゃならない程度の容姿ってことか」
「天野さん、ひどい!」
 大聖の軽口に、笙は思わず苦笑して抗議した。
 由美が帰宅する頃には、笙の顔色はかなり良くなっていた。まだ微熱はあったが、吐いたことで胃のつかえが取れて楽になったようだ。病院へ行くより眠りたいと言うので、大聖が二階の笙の部屋まで肩を貸してやった。



     act.3
 翌日の夕方、いつものようにジョギングを終えた大聖が、所属事務所の小早川社長宅に行くと、高柳笙がダイニングでお粥を食べていた。伯母の由美が心配して、学校を休ませたのだ。話しかけようかと思ったが、笙にまた汗臭いと吐かれてはかなわないので、由美への挨拶もそこそこに、まずはバスルームへ行く。
 大聖が着替えてダイニングに戻ると、笙はまだテーブルに着いていた。お粥がきれいに平らげてあるのを見て、食欲があることに安心する。
「ダイちゃん、いつものジャスミン茶でいい?」
「うん、ありがとう」
「笙くん、お代わりは?」
 笙の茶碗が空になっているのに気づいた由美が、声をかける。
「いえ……ごちそうさまでした」
「そう? 後でお腹が空いたら言ってね」
「はい」
 大聖は、由美からジャスミン茶の入ったグラスを受け取ると、笙の左隣のイスに座った。そこが食事をするときの大聖のいつもの定位置なのだ。
 笙は、少し緊張した様子で自分のグラスに手を伸ばすと一口お茶を飲んだ。これまでなら、速攻で席を立って自分の部屋に逃げ込むところだ。
 しかし、今日は時折チラチラと大聖を見ながらお茶を飲むばかりで動こうとはしない。昨日のことで、やっと大聖に対する警戒心が解けたのだろう。
「笙くん、部活は何にしたんだ?」
 気を利かせて大聖から話しかけてやる。
「将棋部に……」
 笙は、やっと聞き取れる程度の小さな声で答えた。
「小学3年生の時、地元のピアノ・コンクールで優勝したお祝いに、お爺ちゃんから将棋セットをプレゼントしてもらったのよね」  
 夕食の準備をしていた由美が、口数の少ない笙に代わって説明した。
「へ〜え、ピアノ・コンクールで優勝なんて凄いなぁ」
「笙くんは二歳からピアノをやっていたのよ」
 大聖は笙の関心を引こうと大げさに感心して見せたが、笙は相変わらず自分からは何も話そうとしない。なかなか大聖と打ち解けない笙に、由美も困惑気味だ。
「ねえ、ダイちゃん、今週の土曜日に笙くんを『ジュエル』に連れてってくれない? 田舎の母が来る前に、さっぱりさせたいのよ」
 『ジュエル』は、芸能人が多く通う美容室で、大聖も常連だ。
「ああ、俺も気になってたんだ。今のスタイルは陰気臭いからさ。もう少しレイヤーを入れて軽くした方がいいよ」
 大聖が、笙の髪を手櫛で梳いて、指先で髪質を確かめる。笙は一瞬、身を竦めたが逃げたりはせず、大聖にされるがままじっとしていたいた。
「まだ高校生だからカラーリングはダメだろうけど、カットの上手い原ちゃんに頼めば、いい感じに仕上げてくれると思う」
「じゃ、原田さんに予約を入れておくわ。付き添いお願いね」
「了解」
「グランマが……来るんだ」
 笙がぽつりと呟いた。人前で、祖母を恥ずかし気もなく「グランマ」と呼ぶことに、大聖は呆れたが、同時に笙の育ちの良さを感じた。
「そうよ、笙くんの様子を見にね」
 キャベツを刻みながら由美が笑って応えた。しかし、笙の顔は浮かない。大聖は、昨日と同じ秘密の匂いを嗅ぎとったが、それを口にするのは憚られて黙っていた。


「スッゲー、大変身じゃん!」
 髪を切った笙は、見違えるほど垢抜けて、大聖を驚かせた。
「素材がいいから、久々に燃えたわ。我ながら会心の出来よ」
 カットした美容師の原田典子も得意げだ。店内にいた客までもが口々に笙を褒め称える。笙だけが、仕上がりに興味もないようで平然としていた。
「せっかくだから、食事して帰ろう。俺、世界中におまえを見せびらかしたい気分!」
 大聖が上機嫌で言うと、笙は露骨に嫌な顔をした。
「僕、7時から塾があります。それよりジーンズを買いに行かないと……」
 笙にしては珍しく苛ついた口調に、本気で怒っていることが伺える。どうやら大聖は、何か地雷を踏んでしまったらしい。
「そうだったな、由美さんがショップへ連れてってくれって言ってたな」
 まだ岐阜から上京して一ヶ月というのに、実家から持ってきたジーンズの丈が短くなってしまったので、新しいものを見立ててやって欲しいと、由美に頼まれたのだ。
 笙は、大聖が連れて行ったジーンズ・ショップで、ものの10分とかからずオーソドックスなデザインのジーンズを2点選んだ。センスは悪くないが、ファッションを楽しむという考えはないようだ。
 裾直しの採寸が終わると、笙は当然のように言った。
「そっちの股下は、これより5センチ長くしておいてください」
 笙のオーダーに、大聖は驚いてしまった。16歳の笙が育ち盛りなのは認めるが、普通、上には伸びても下にはそうそう伸びないものだ。
「まだ、育つ気かよ」
「いつも母がこうしてたから」
 どうやら、服装への無頓着さは母親譲りのようだ。服を購入するために、いちいち店へ足を運ぶのが煩わしいのだ。
「そっか……だけど、もう少し横にも育てよ。なんか、針金みたいで痛々しいぞ」
 痩せ過ぎていることは本人も自覚しているようで、笙は神妙な面持ちで肯いた。


 裾直しを待つ間、二人はパイで有名なカフェに入った。大聖は、カフェオレ、笙は、パンプキン・パイとダージリン・ティーをそれぞれ注文する。
 十月も終わりに近づき、窓際の席からは、黄色く色づき始めた銀杏の木が見えた。
「甘いものが好きなんだ」
「……はい」
 笙が、恥ずかしそうに目を伏せた。今まで前髪が長過ぎて表情がよくわからなかったが、今は繊細なカットで目元がスッキリと見えるため、笙の喜怒哀楽が手に取るようにわかる。
 大聖は、自分のサングラスを外すと、身を乗り出して言った。
「なあ、メガネを外してくれないか? 俺といる時だけでいいから」
「え?」
 笙が顔を上げて不思議そうに大聖を見た。
「そのメガネ、似合わない。すごく冷たく見える。なんか、近づくなオーラを発散してる!」
 大聖は、真顔で笙の瞳を覗き込んで力説した。
「あの……」
 大聖の力説に面食らった笙は、視線を彷徨わせ、やがて大聖の期待に満ちた視線に耐えきれず、渋々と銀縁メガネを外した。
「ほら、やっぱり! すっげぇ可愛い!!」
 途端に破顔した大聖は、天真爛漫そのものだった。笙は、その華やかな笑顔から目を離すことができず、惚けたように見つめてしまった。



     act.4
 次の週末、笙の祖母・高柳世津(たかやなぎ・せつ)が上京し、大聖もフレンチ・レストランでの夕食会に招かれた。由美が世津に、「笙くんとは兄弟のように仲良くしてもらっているの。笙くんが垢抜けたのは、ダイちゃんのお陰よ」と話したからだ。 
 シャネル・スーツを粋に着こなした世津は、いかにもやり手の女社長という感じの女性だった。夫亡き後、不動産会社を切り盛りし、リーマン・ショックや不動産不況の荒波をくぐり抜けてきた女傑だ。由美はもちろん、娘婿である小早川靖彦も彼女には頭が上がらない。
「靖彦さん、笙をくれぐれも頼みますよ。高柳家の跡取りはこの子しかいないんですからね」
「もちろんです、お義母さん」
 いつになく神妙な面持ちの小早川社長を目の当たりにして、大聖は驚いた。笙だけが大人達の会話に無関心で、黙々と鴨肉を口に運んでいる。
「天野さんも、どうぞ笙を宜しくお願いします。この子の不器用さを見ていると、亡くなった主人にそっくりで本当にもどかしいのだけれど、不思議とそこが可愛くてね」
 世津が、威厳のオーラを纏いながらゆったりと微笑んだ。大聖は、笙の引っ込み思案や人見知りの激しさは、世津によって増幅されたに違いないと確信した。
「それで、由美。明日の校長先生との面談は何時からに決まったの?」
「午後2時からに決まったわ。教頭先生が校内を案内してくださるそうよ」
「笙のためなら、寄付金は惜しみませんよ」
 世津は、慈しむように笙に目を向けた。
「グランマ、もう残してもいい? お腹いっぱいなんだ」
 食の細い笙は、コース料理が苦手だった。メインに辿り着くまでに、前菜やスープで満腹になってしまうのだ。
「そうね、無理をすると大好きなデザートが食べられなくなるものね。デザートはね、笙の好きなクリーム・ブリュレを頼んであるのよ」
 普通なら、デザートより栄養価の高い肉や魚を食べさせようとするものなのに、世津はニコニコしながら言った。
「残りはグランマが食べてあげるから、お皿を換えっこしましょう」
「ありがとう」
 嬉しそうに笑った笙は、まるで3歳の子どものようだった。それは大聖が初めて見る笙の明るい笑顔だった。
 世津は、実に忍耐強く笙に接していた。笙は寡黙なタイプだが、こちらが話を聞く姿勢を根気よく続ければ、少しずつだが自分の考えていることを話してくれる。
 他人に対する興味が薄い笙だが、面倒がらずにきちんと話して説明すれば、こちらの気持ちを汲み取って、要求を飲んでくれる。根は素直で優しい子なのだ。
 この日、大聖は世津を通して笙の扱い方を学んだ。


 天野大聖のデビューは、7歳の時、映画の子役としてだった。女優になりたかった母親が、息子に夢を託して、あちこちのオーディションを受けさせまくり、ようやく掴んだ役だった。
 妻に先立たれた夫が、残された子どもと共に、妻との思い出の地を回るというストーリーだった。父親を元気づけようとする大聖のいじらしい演技が高く評価され、日本で最も権威のある映画祭で、史上最年少の助演男優賞に輝いた。
 皮肉なことに、大聖のブレイクは両親の離婚へと発展した。大金を手にした母親は、派手に遊び回るようになり、大聖が10歳の時、男の元に走ったのだ。やがて父親も若い女と同棲するようになり、大聖は両親の離婚をきっかけに、母親に引き取られた。
 大聖は母親の恋人と折り合いが悪く、家出を繰り返した。それを見かねた所属事務所『ワンダースター』の小早川社長が、大聖を自宅に引き取ってくれた。大聖が11歳の時のことだ。社長の妻・由美に実の息子のように可愛がられ、大聖は小早川家で20歳になるまで暮らした。
 大聖の成人を機に、正式に社長夫妻との養子縁組話が持ち上がったが、大聖の母親が半狂乱になって反対した。母親の狂言自殺で話は流れてしまい、けじめをつけるため、小早川社長が寮という形で近所にマンションを借りてくれた。
 だが、大聖はそこに寝に帰るだけで、26歳になった今でも、ほとんどの時間を社長宅で過ごしている。寂しがりやの大聖にとって、由美は母親以上に大切な心の拠り所なのだ。

 
 仕事柄、大聖の生活は不規則だった。丸一ヶ月働き詰めということがあれば、一ヶ月仕事がないこともある。早朝ロケで午前4時起きがあれば、撮影が長引いて明け方近くまでかかることもある。
 その日、高柳笙は伯母の由美に頼まれて大聖のマンションへ洗濯物を届けることになった。日曜日で笙の学校が休みだったのと、由美が夫の小早川靖彦と結婚記念日の日帰り旅行に出かけるためだ。子どものいない二人は、こういった記念日をとても大切にしていた。
 大聖はここ一週間、深夜までドラマの撮影で、昨夜も小早川家の夕食に顔を出さなかった。それまで毎晩、一緒に夕食を食べて、大聖に打ち解けてきた笙は、伯母の頼みを二つ返事で引き受けた。
 由美に書いてもらった地図を手に、大聖が住むマンションへ辿り着いたのは、まだ午前9時少し前だった。由美から、9時を過ぎるまでインターホンを押さないよう言い含められていたので、エントランス入口でぼんやりと時間をやり過ごす。11月も中旬を過ぎ、朝夕はめっきり肌寒くなってきた。笙は、長袖のトレーナー1枚で出かけてきたことを後悔した。
 暫くすると、入り口のガラス越しにエレベーターから脚の綺麗な若い女性が降りてくるのが見えた。まだ9時まで数分早かったが、笙は咄嗟にインターホン・パネルにある大聖の部屋番号を押してしまった。彼女に怪しい人物と思われたくなかったのだ。



     act.5
 初めて訪れた大聖の部屋は、あちこちに段ボール箱が積まれ、雑然としていた。なんだか物置のようで、住んでいるという生活感がない。実際、大聖の生活のほとんどは、笙が下宿している小早川家なので、それは当然かもしれない。
「この紙袋がクリーリングから戻ってきた衣類で、こっちのボストンバッグがジャージとシャツだそうです」
 笙が説明すると、冷蔵庫からお茶を取り出してグラスに注いでいた大聖が背中越しに応えた。
「サンキュー、奥のベッド脇に置いといてくれ」
 笙は言われた通り、床上の段ボールの隙間を縫いながら荷物を運んだ。寝乱れたベッドに、神経質な笙は思わず眉を顰める。ずり落ちかけたベッドカバーの脇に荷物を置いたその時、笙は甘い残り香に気がついた。さっきエントランスですれ違った女性が付けていた香りだ。
「天野さん、恋人がいるんですか?」
 笙は、躊躇いがちに質問した。
「さあ、どうかな……いると思うか?」
 振り返った大聖が面白そうに笙を見た。
「下で女の人とすれ違いました」
 笙が上目遣いに報告すると、大聖は悪戯が見つかった子どものように口元を引き上げた。
「由美さんに9時まではインターホンを押すなって言われたろ?」
「あ……」
 笙は、てっきり疲れている大聖をゆっくり寝かせてやりたいという、伯母の心遣いだと考えていたが、恋人との時間を邪魔しないようにという配慮だったのだ。つまり、彼女とは事務所公認の関係というわけだ。
「すみません……」
「いいさ、別に謝るようなことじゃない」
 大聖は、笙にお茶の入ったグラスを差し出しながら微笑んだ。
「それより、今日はメガネじゃないんだな」
 笙は自分の迂闊さに落ち込みながら、グラスを受け取る。
「だって……」
 大聖に似合わないと力説されて、コンタクトにしたのだ。笙は照れくさくて口籠もり、グラスのお茶を飲んだ。
「ああ、俺が言ったこと、気にかけてくれたんだ。ありがとな!」
 大聖が嬉しそうに笑って、笙の頭をよしよしと撫でた。
「そんじゃ、お近づきの印に俺様のお下がりの服をやる。あそこの段ボールに入ってるから、気に入ったヤツがあったら持っていけよ。ファンからもらったけど、趣味に合わなかったりサイズが合わなかったりで着なかったんだ」
「ありがとうございます」
「笙はいつもブルー系が多いよな。けど、赤とか紫も似合うと思うぞ」
 ミカン箱二つ分ほどの箱には、タグがついたままのシャツやトレーナーなどがぎっしりと詰め込まれていた。ファッションに疎い笙だが、どれも上質で縫製のしっかりした高価な物であることはわかった。
 それから昼近くまで、大聖は笙を着せ替え人形にして遊んだ。あまりにも大聖が楽しそうなので、笙も釣られてしまった。大聖に命じられるまま、ポーズを取っての写真撮影など、普段の笙なら絶対にしないことだ。
 なぜか笙は大聖に頼まれると嫌と言えない。どんなに面倒なことでも苦手なことでも、大聖が望むなら叶えてやりたいと思ってしまう。大聖にはそんな不思議な魅力があった。
 弱肉強食の芸能界で、大聖が生き抜いてこられたのは、このカリスマ性ゆえなのだと、笙はぼんやりと感じた。


 二人で遊び過ぎたため、昼食はすっかり遅くなってしまった。それでもマンションから歩いて20分ほどのカフェ『ミルク・クラウン』のランチタイムにはギリギリ間に合った。由美の友人の店で、カフェというより洋食屋に近い。表通りから外れているが、クチコミで人気が広がって、店はそこそこ繁盛していた。
「ダイちゃん、久しぶりねぇ」
「こいつが由美さんの甥っ子の高柳笙くんだよ」
 大聖が、水とおしぼりを運んできた中年の女性に、笙を紹介した。
「こんにちは、あたしは岡村さゆり。由美ちゃんとは料理学校で知り合ったのよ」
「……よろしくお願いします」
 笙は、でっぷり太ったさゆりに気圧されながら礼儀正しく頭を下げて挨拶をする。
「あなた達、なんだか太陽と月みたいに対照的ね。ダイちゃんは目鼻立ちのはっきりした華やかなイケメンで、笙くんは楚々とした感じの涼やかな美少年って感じ」
 さゆりの言葉に笙が途端に顔を曇らせた。どうやら容姿についてあれこれ言われるのは笙にとって苦痛らしい。それに気づいた大聖が、話題を変えようと質問した。
「今日のランチは何?」
「豆腐ハンバーグと鶏入りチャーハン、季節のスープとサラダよ」
「じゃあ俺はそれ。笙くんは?」
 大聖にメニューを見せられて笙は迷った。どれもボリュームがありそうで、小食の笙には食べ切れそうにない。由美の友人の店で、料理を残すのは気が引ける。
「魚介のリゾットとスープとサラダのセットはどう? スープはお代わり自由だから、物足りなかったらスープをお代わりすればいいわ」
 さゆりのアドバイスに笙はホッとして肯いた。
「はい、そうします」
「うちのみどりも食が細くてね。世話をしてくれてるおばあちゃんを困らせてるわ」
「さゆりさん、7歳の女の子と16歳の笙くんを一緒にすんなよ」
 大聖が茶化すと、さゆりはコロコロと笑いながら厨房へ戻っていった。
「悪い、ちょっと電話だ」
 さゆりが立ち去ってすぐ、大聖も携帯を持って席を立ってしまった。途端に、それまで遠慮がちだった店内の客の視線が、露骨に笙に集まる。特にOL風の4人グループの好奇の視線が居たたまれなかった。
 大聖が早く席に戻ってこないかと、笙が視線を彷徨わせると、店のすぐ外で、暗い表情で話し込む大聖が見えた。お調子者の大聖が、演技以外でこんな顔をするのは初めて見た。しかし、電話を終えて戻ってきた大聖は、いつも通りの明るさを取り戻していた。
「なんだ、先に食べてれば良かったのに」
 運ばれてきたサラダに手を付けずに待っていた笙に、大聖は屈託のない笑顔を向けて言った。笙は、なんだか照れくさくて俯くと、そそくさとフォークを手に取った。
「笙くんは、ここから一人で小早川の家まで戻れるか?」
 突然、大聖に訊かれて、笙は面食らった。大聖の案内で、この店まで歩いてきたのだが、ほとんど道を覚えていない。
「えっ? ……わかんない……」
「そっか、じゃあ食事が終わったら、さゆりさんに地図を書いてもらえ。俺は急用ができたから送ってやれないんだ。ごめんな」
 笙は不安になって、黙って大聖を見つめた。
「入院してる親父の容態が少し悪化したんだ。ちょっと様子を見に行ってくる。由美さんには心配かけたくないから言うなよ」
 大聖は渋々といった様子で説明してくれた。そして、昼食もそこそこに慌ただしく出かけてしまった。ひとり残された笙は、さゆりがサービスで付けてくれたアイスクリームの味もわからなかった。 



     act.6
 薄暗い店内には、しっとりとしたジャズが流れていた。『ムーン・セレナーデ』という名のこのバーは、坂本省吾のお気に入りの店だ。担当しているタレントのひとり、天野大聖が二十歳の誕生日を迎えた時、二人で祝杯をあげた思い出の店でもある。
「坂モッチャン、こっち、こっち!」
 奥のボックス席で椅子から腰を上げた大聖は、無邪気に手を振っていた。底抜けに明るい笑顔からは、彼が抱えている複雑な家庭問題など微塵も感じられない。
 坂本が初めて大聖に出会ったのは、大聖が13歳の時だ。大学の友人に誘われて、映画のエキストラに参加した坂本は、ヒロインの弟役だった大聖の演技を間近で観た。
 大聖は、求められた演技をきっちりとこなしていたが、決して求められる以上の演技はしなかった。『適度に頑張って、適度にサボる』というのが、7歳の時から子役として芸能界で生きてきた大聖のスタンスだった。その年齢にそぐわない諦観に、坂本は驚いた。
 大聖は、知れば知るほど不思議な子どもだった。静と動、光と影、聖と俗、大人と子ども、それほど大聖の内には、相反するものが奇妙に同居していた。この子が本気で演技をしたら何かが起こる。それを見たいと思った。
 在学中に、大聖の所属する芸能事務所『ワンダースター』でアルバイトを始めた坂本は、就職も迷わずそこに決めた。田舎の両親は芸能事務所への就職に難色を示したが、坂本に躊躇いはなかった。
 新米マネージャーの坂本に、5歳年下の大聖は無邪気に懐いてくれた。すべてを計算し尽くして動く坂本と、本能の命じるまま飄々と動く大聖。文字通り二人三脚の活動が始まった。


「折り入って話があるなんて、どうした?」
 オーダーを済ませると、坂本は早速、切り出した。
「んー、坂モッチャンなら社長に信用されてるから何か知ってるだろうと思ってさ」
「何かって?」
 大聖にしては珍しく、まだるっこしい話し方だ。
「由美さんの甥っ子だよ。会ったことあるだろ?」
「ああ、一度だけ顔を合わせたことはある。あの子のことなら、社長の奥さんに聞けばいいのに」
 坂本は、酔っ払った社長を自宅まで送ったとき、由美の陰に隠れるようにして挨拶を口にした高柳笙をぼんやりと思い出した。年齢的には生意気盛りのはずなのに、親や年長者に逆らうことなどまったくできそうにない、気弱で大人しそうな少年だった。
「たぶん由美さんは何も知らない。知ってるのは社長の方だ、きっと」
「だから、何を?」
 普段、思ったことは何でも後先考えずに口にしてしまう大聖が、一向に具体的に話さないので、坂本は少し苛ついてきた。
「あいつが親元を離れてまで転校した理由。それと社長があいつを芸能界に入れない理由」
 坂本の不機嫌さを感じ取った大聖が、やっとストレートに質問を口にした。
「そんなこと、俺が知ってるわけないじゃないか。社長にすれば、甥っていっても、あの子は奥さんの実家から預かった大切な子どもだし、奥さんの実家が中部地方でも有数の凄い金持ちで、うちの事務所の設立資金の大半を出してもらってることは、おまえも知ってるだろ?」
 坂本の呆れたような口調に、大聖は黙り込んだ。ちょうど坂本のオーダーしたバーボンのロックが運ばれてきて、お互い沈黙のままグラスを傾ける。大聖にしては本当に珍しく、何やら真剣に考え込んでいた。
「これ……」
 ウイスキー・グラスを空にした大聖が、意を決したようにデジカメを坂本の前に取り出した。液晶画面に映し出されているのは先日、大聖が撮った笙の写真だ。はにかんだ笑顔、そして甘く誘うような瞳。その奥には、妖艶な情欲の炎が垣間見える。坂本は、ゾクリと鳥肌が立った。
「あいつ、男を知ってる」
 ぽつりと漏らした大聖の言葉。その表情はどこか苦しげだった。
「なんだって!?」
 坂本は反射的に叫んでいた。大聖は、酔うと簡単に理性の箍が外れてしまう。それは一度だけだが、うっかり大聖と寝てしまった坂本自身が一番良く知っている。坂本は、大聖が笙と関係を持ったのかと焦った。
「誤解すんなよ。俺はあいつとヤってない」
 坂本の大声を窘めるように、大聖が小声で言った。
「当たり前だ。淫行罪で訴えられるぞ」
 大声を出してしまった照れ隠しで軽口を叩きながらも、坂本は愕然としていた。大聖に言われなくとも、ゲイの坂本には写真を見れば、笙がただの子どもではないことくらいわかる。
「それよりさ、調べてよ。あいつが実家を出た理由。ほら、前に俺のお袋の男を調べたとき使った探偵がいい。口が堅くて調査も速かった。金は俺の口座から幾らでも使っていいからさ」
 大聖が一気に捲し立ててきた。まるで妻の浮気を疑う夫のようだ。
「そんなこと調べてどうするんだよ」
「んー、単なる好奇心」
 大聖は視線を泳がせて、すっとぼけた。
「やめておけ。好奇心でそんな無神経なことをするな」
「ちぇっ、本人に直接聞く方が無神経だから坂モッチャンに頼んでんのに」
 坂本に咎められて、大聖はふて腐れた。自分の立場が悪くなると、こうして虚勢を張るのが大聖の悪い癖だ。
「誰にだって触れられたくない過去はある。おまえがそれを知ることで、あの子を傷つけることになってもいいのか?」
「それは……ヤダ」
 さすがに大聖も即答した。
「もう大人なんだから、好きな子の過去なんて、いちいち気にすんな」
「はぁ? 俺って、あいつのことが好きなのか?」
 大聖が驚いたように坂本を見た。これには逆に坂本の方が驚いてしまった。
「なんだ、自覚してなかったのか」
「うん、ぜんぜん。だって俺には春菜がいる」
 木村春菜は大聖より1歳年上のモデルだ。バラエティー番組で知り合って、かれこれ3年の付き合いになる。だが、残念ながら二人とも、付き合い始めた当初の情熱はもうない。
「ガタイばっかデカくなっても、おまえはまだ子どもだなぁ」
 坂本は思わず苦笑してしまった。しかし、それが大聖なのだ。だからこそ惹かれた。そして坂本は、大聖の恋人ではなく戦友になることを選んだのだ。



     act.7
 夕食後、大聖が由美と雑談をしながらテレビを観ている傍らで、笙は宿題をしたり予習をしたりするようになった。大聖と由美の会話には一切、参加しないのだから、わざわざ二人がいるリビングで勉強をする必要などないのだが。
 大聖は、脚本を読んだり台詞を憶えたりする時に、周りに人がいると集中できないタイプだ。ところが勉強している笙は、きちんと名前を呼んで注意を引かなければ話しかけても気づかない。
「ほんと、凄い集中力だよな」
 由美が入浴中で、話し相手のいない大聖は、かれこれ30分ずっと笙を見ているが、当人は全く気づいていない。何ら感情の読み取れない無表情で、黙々とシャープペンシルを走らせている。
 決して愛想が良いとは言えない笙だが、大聖は嫌いではない。では、好きかと問われたら首を傾げてしまう。ましてや恋愛の対象としてなど想像もつかない。ただ一つわかっているのは、笙が気になって仕方ない、ということだけだ。
 昔から、大聖は物事を深く考えるのが苦手だ。大抵のことは考えても解決などしないし、すべてはなるようにしかならない。だから大聖は、坂本にからかわれただけだと結論づけて納得した。
 すると、不意に顔を上げた笙と目が合った。いつものように目を反らすかと思いきや、笙はにっこりと笑った。
「どうしたんですか? 退屈?」
 あどけない笑顔の奥に、ぞくりとするような色香があった。大聖は凍りつき、食い入るように笙を見つめた。心臓がバクバクして恐怖さえ感じるのに、笙から目を離せない。
「天野さん?」
 笙が表情を曇らせ、怪訝そうに首を傾げた。大聖はうまく言葉が出てこなくて焦った。たったひと言「なんでもない」と笑って言えば済むことなのに。
「ただ今。笙くん、まだ起きてたのか」
 ちょうどそこへ、この家の主・小早川靖彦が帰宅した。お陰で笙の注意は伯父の小早川へと移り、大聖の挙動不審は関心の対象から外された。
「はい、数学の予習をしていました」
「大聖、おまえはまだ居たのか。十時までには自分のマンションに帰る約束だろう」
「あー、はいはい」
 大聖が、そそくさと自分が飲んでいた紅茶のマグカップを持って立ち上がったその時、大聖の携帯が鳴った。初期設定音なので親しい相手ではないことが、笙にもわかった。携帯のディスプレイで相手を確認した大聖の顔が曇る。
「もしもし」
 その場で携帯に出た大聖は、相手と二言三言、会話しただけですぐに通話を切った。そして、携帯とマグカップを持ったまま、再びソファーに座り込んでしまった。
「どうした、大聖。何かあったのか?」
 敏感に異変を察知した小早川が、声をかける。大聖は、引きつった顔でのろのろと小早川を見上げた。
「病院からです。……親父の容体が……」


 笙は、伯父と伯母が大聖に付き添って病院へ向かった後、木枯らしの音を聞きながら眠れぬ夜を明かした。伯母の由美からメールがあったのは、明け方4時近くだ。それは、大聖の父親が亡くなったことを知らせるメールだった。
 大聖の父親が息を引き取ると、所属事務所の社長である小早川が、すぐに葬儀の手配をした。マネージャーの坂本も一時間経たないうちに駆けつけて、大聖に食事をさせ着替えを用意してくれた。
 喪服を着せられ喪主席に座らされた時、大聖はようやく父親が死んだのだと理解した。半年前、医師から余命宣告を受けたときはショックだったが、あの時から心の準備ができていたのかもしれない。涙は出なかった。


 笙は、大聖の父親の通夜に出席した後、伯母の友人・岡村さゆりに連れられて帰宅した。由美が弔問客の途絶える深夜まで大聖に付き添うためだ。途中、さゆりが行ってみたい店があるというので、そこで夕食を摂ることになった。
 クリスマスのイルミネーションに彩られた街を歩きながら、あと一ヶ月で一年が終わるのだと実感する。
「ここの創作懐石は、通の間で評判なのよ。雑誌とかで紹介されちゃうと予約なしでは食べられなくなっちゃうから、今のうちにね」
 親族控室でちゃっかり着替えたさゆりは、ニットのツーピースだが、笙は高校の制服のままだ。40席ほどの落ち着いた店内で、場違いな学生に向けられる視線が痛い。
「ダイちゃんのママは、来てなかったわね」
 料理に舌鼓を打っていたさゆりが、ぽつりと言った。
「何年も前に離婚したって聞きましたけど」
「夫婦の縁は切れていても、息子が心細い思いをしているんだから、側に付いていてやりたいのが、母親ってものじゃない? 現に由美ちゃんは、ああしてダイちゃんに付き添っているじゃないの」
「天野さんは、もう大人なのに?」
 笙は、不思議そうに首を傾げた。さっきも、大聖は涙一つ見せず、通夜の弔問客に丁寧に挨拶をしていた。
「笙くんから見れば、ダイちゃんは大人に見えるでしょうけど、あの子は無理矢理、大人にさせられた可哀想な子なのよ。大人にならなければ生きられなかったから……」
 返す言葉が見つからず、笙は黙り込んだ。
「だからね、笙くんもダイちゃんには、う〜んと優しくしてあげてね」
 さゆりは朗らかに言うと、再び箸を取った。
「さっ、しんみりするのはこのくらいにして、食べましょ! この煮魚、いいお味よ、食べてみて!」
 料理はどれも洒落た盛りつけと、品の良い味付けで、食が細い笙にしては珍しく完食してしまった。舌の肥えたさゆりは、茶碗蒸しに難癖をつけていたが、笙にはとても美味しかった。
 食事を終えて、笙が会計をしているさゆりを待っていると、若い男女のカップルが店に入ってきた。さりげなく女の腰に回された男の掌が、二人の親密さを物語っている。
 二人が笙の側を通り抜けたその時、ふわりと漂った香水で、笙は気づいてしまった。カップルの女の方は、大聖のマンションですれ違った女性だと。甘えるように男の腕に絡みつく彼女の横顔を、笙は愕然と見つめた。



     act.8
「俺、結婚したい! 春菜にプロポーズする!」
 弔問客が途絶え、やっと親族控室で寛ぐことができると、大聖が思い詰めた表情で、マネージャーの坂本に訴えた。春菜との交際を報告した時、小早川社長には「二人の交際を認める代わり、結婚するなら大聖が30歳を過ぎてから、タイミングを見計らってするように」ときつく言われていた。
「協力してくれるよな?」
 坂本は、湯飲みに緑茶を注ぐ手を止めることもなく応えた。
「協力って何を? 社長の説得か? プロポーズのセッティングか? どっちもお断りだ」
「なんでだよ!?」
「おまえ、結婚なんかして、その歳で仕事を干されたいのか? いくら社長がおまえに事務所を継がせるつもりだからって、その歳で結婚させるわけがないだろう」
 差し出された湯飲みを黙って受け取り、大聖は上目遣いに坂本を見た。
「通夜が始まる前に、春菜に電話したんだ。そしたら、マスコミに交際を秘密にしてるから通夜にも告別式にも顔を出せないって」
「それで結婚かぁ。大聖、頼むから、その短絡的なノーミソをなんとかしろよ」
 坂本は溜息をつくと、大聖の向い側の椅子に座った。そして、淡々と言い含めるように話す。
「だいたい、彼女はおまえと結婚する気なんてカケラもないぞ。なんたって『堅実な女』だからな。もし奇跡が起こって、彼女がおまえのプロポーズにイエスと……」
「あっ!! 茶柱が立ってる!」
 大聖が嬉々として叫んだ。むろん坂本の話など、大聖の耳には入っていなかった。
「俺、明日の朝イチで指輪を買ってくる!」
 純粋な笑顔を向けられて、坂本は盛大な溜息をついた。


 笙が学校から戻ると、天野大聖は喪服姿のまま、小早川家のリビングでソファーにぐったりと身体を投げ出していた。告別式を終えて、体力自慢の大聖もさすがに疲れ果てていた。
「よぉ、おかえり。夕べは通夜に来てくれてサンキュ」
 リビングの入り口から心配そうに自分を見ている笙に気づいた大聖が声をかけてきた。それは父親を亡くしたばかりとは思えない明るい声で、笙は面食らってしまう。
「この度は、ご愁傷様でした。あの…伯母さんは……?」
「んー、由美さんなら買物だ。今夜は俺の好きなエビチリを作ってくれるってさ。それより笙くん、いい物、見せてやる。来いよ」
 大聖が手招きするので、笙は素直に大聖の側まで歩み寄った。
「まだ、みんなには内緒だけど、笙くんは口が堅いから特別に見せてやるよ」
 大聖が得意げに取り出したのは小さなビロードのケースだった。中に入っていたのは、ダイヤのリングだ。
「これ…婚約指輪ですよね……。天野さん、誰かにプロポーズするんですか?」
 笙は、硬い表情で訊いた。
「木村春菜って言うんだ、俺の彼女。明日の夜、逢うから、その時にプロポーズする」 
「僕が、天野さんのマンションですれ違った女性?」
 笙は、声が上擦りそうになるのを必死で押さえながら確認した。
「ああ、そういえば、そんなことがあったっけな」
 何も知らない大聖は、呑気に笑っている。笙は絶句し、途方に暮れた。父親を亡くしたばかりの大聖に「あなたの恋人には、他に男がいます」などと言えるはずもなく、黙って大聖の顔を見つめることしかできない。
「そんな顔すんなよ。由美さんにはもう話してあるんだ。応援してくれるってさ」
「……僕、あの人……嫌いです!」
 悲鳴のように発せられた笙の言葉に、大聖は面食らった。そして沸々と怒りがこみ上げる。
「なんでだよ? 春菜のこと、よく知りもしないで……」
 笙は、大聖を怒らせてしまったことに驚き、慌てて身を翻した。
「おい!」
 大聖は咄嗟に笙の肩を掴み、力任せに引き寄せた。細い身体は、あっけなく大聖の腕の中に捕らえられた。
「春菜のどこが気に入らないんだよ!?」
 笙の両肩を押さえつけて、大聖が強い口調で問い質しても、笙は固く唇を引き結んで大聖を見つめ返すばかりだ。どのくらいそうしていたのか、やがて笙の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、思わず大聖は怯んでしまった。そのわずかな隙に、笙は大聖を突き飛ばすと、今度こそ逃げ出すことに成功した。


 六本木にある、瀟洒なフレンチ・レストランの個室で、大聖は木村春菜に指輪を捧げてプロポーズした。春菜は驚き、30秒ほど逡巡してから言った。
「結婚なんてダメよ。あなたのダメージになるだけじゃない」
「……俺と結婚したくないのか?」
「大聖を愛してるわ、だからこそ今のままがいいの」
 そう言って婉然と微笑む春菜に、大聖は混乱した。
「結婚なんかしなくたって、あなたへの気持ちは変わらない。永遠に愛してる」
 甘い囁きに、大聖は無理矢理、自分を納得させた。ここで我を張れば、春菜に別れを切り出されると本能的に感じ取ったからだ。いつも大聖を褒め称えて、甘い言葉をくれる優しい春菜を失いたくなかった。
「わかった。春菜がそう言うなら、俺達、今のままでいよう」
「ありがとう、大聖。大好きよ」
 春菜はニッコリと笑い、手にしたグラスのワインを飲み干した。



     act.9
 懐いてくれたと思った高柳笙は、以前のように部屋に閉じ籠もって、あからさまに大聖を避けるようになった。
「ダイちゃん、笙くんと喧嘩でもしたの? 私、相談に乗るわよ」
 一週間ほどしたある日、見かねた由美が大聖に耳打ちしてきた。
「大丈夫だよ。ちょっと話してくる」
 笙は由美の甥で、この先、何年も付き合っていく相手だ。このままではいけないと大聖もわかっていた。
「笙くん、ちょっといいかな?」
 大聖が、笙の部屋をノックすると、予想に反してあっさりとドアが開けられた。
「どうぞ」
 笙は、大聖を室内に招き入れると、黙って勉強机の椅子に腰掛けた。
「俺達が喧嘩したと思って由美さんが心配してる。頼むから機嫌を直してくれないか?」
「……怒って…ないんですか?」
 笙が気まずそうに上目遣いで大聖を見た。
「春菜にプロポーズしたけど、お預けにされたよ。それよりごめんな、声を荒げたりして俺が大人げなかった」
 大聖は笙を安心させようと精一杯、優しく笑いかけた。笙は狼狽え、視線を彷徨わせたが、やがてポツリと言った。
「春菜さんを悪く言って……ごめんなさい」
 大聖は、笙の不器用さがたまらなく愛しくなった。意固地で気位が高く、警戒心が強いのは、本当は気弱で孤独な子どもだからだと、今ならわかる。
「笙くんは、いい子だな」
 大聖は立ち上がると、笙の頭をよしよしと撫でてやった。笙は照れくさそうに頬を赤らめながら口元を綻ばせた。
 不意にその時、笙の携帯が鳴った。ダイナミックな着メロは、大聖が初めて耳にするメロディだ。
「電話出ろよ」
「いえ、電話じゃなくて、友達からメールです」
 笙は、手早く携帯を操作して音楽を止める。
「カッコいい着メロだな。誰の曲?」
 印象的なメロディが気になって大聖が訊いてみると、笙の答えは意外なものだった。
「あ、えっと……自分で作りました」
「へぇ〜、凄いな、作曲ができるんだ!」
 ピアノをやっていたというのは聞いていたが、これほどまでに音楽的センスがあるとは思ってもみなかった。
「他には、どんな曲を作ったんだ? もっと聴いてみたいな!」
 身を乗り出して好奇心を露わにする大聖に、笙は一瞬怯んだが、おやつのジャーキーを強請る犬のような瞳に、警戒心は溶けて消えた。
「じゃあ、このCDをどうぞ。バックアップとして余分に焼いたので差し上げます」
 こうして、笙がたまたま手元にあった作品CDを大聖に渡したことが、笙の人生を大きく変えることになろうとは、二人とも夢にも思ってはいなかった。


 大聖は、暑いのが嫌いなので、夏より冬の方が好きだ。クリスマスや正月、バレンタインといったイベントが多いのも、お祭り好きの大聖には魅力だった。
「お〜い、大聖、テンション低いなぁ。これからラジオ番組の収録なんだから、もっとシャンとしろよ!」
 マネージャーの坂本がハッパをかけると、いつになくションボリした大聖が力なく言った。
「俺、春菜に避けられてる気がする。来週のクリスマス・デートも断られたんだ」
「おまえがプロポーズなんて、バカな真似するからだよ。諦めて他の女の子と遊べ。今、ドラマで共演してる早瀬沙耶ちゃん、あの子なんてどうだ?」
「マネージャーのガードが固くてムリムリ。彼女、男とは挨拶以外の私語禁止なんだぜ。いくら清純派で売ってるからって、あそこまで神経質にならなくてもいいのにな」
 大聖はうんざりしたようにボヤいた。坂本が大げさに同調してやると、大聖のテンションが上がってくる。しみじみ単純な奴だと、坂本は思わずにいられなかった。
「おはよう、天野くん! 君の『お気に入りの一曲』聴かせてもらったよ。君らしい元気の出る曲だな」
 番組のパーソナリティ、泉川公章(いずみかわ・きみあき)が上機嫌で言った。とうに50を越えたというのに、革ジャンの似合う渋い男だ。
「ありがとうございます!」
 大聖は、ロック界の大御所に礼儀正しく頭を下げた。泉川とは親子ほど年が離れているが、不思議と波長が合うので可愛がってもらっている。
 番組では毎回、ゲストのお気に入りの一曲を紹介するコーナーがある。大聖はその曲に先日、高柳笙からもらったCDに収録されていた『プレシャス・デイズ』を選んで、泉川に渡していた。
「初めて聴いた曲だが、インディーズの曲なのか? 作曲者のSHOW TAKAYANAGIって友達?」 
 白髪の交じり始めた短髪を撫でつけながら泉川が矢継ぎ早に質問してきた。
「あの曲を作ったのは、うちの小早川社長の甥で、今、高校一年生です。社長の家に下宿してるから、けっこう仲はいいですよ」
「へぇ、まだ高校生なのか。驚いたな!」
 泉川は心底、感心した様子で目を輝かせた。
「天野くん、その子、紹介してくれ。頼むよ!」


 泉川公章に懇願され、大聖は笙を呼び出した。正確には、塾の終わった笙がビルから出てきたところを、泉川の付き人が運転する車で拉致したという方が正しい。
 突然、見知らぬ男に紹介されて、笙は今にも泣き出さんばかりに怯えてしまった。車の中で唯一、知っていて頼れる大聖にコアラのようにしがみつく。
 大聖は、そんな笙が可愛くてたまらなかった。泉川も、笙の人見知りぶりに苦笑していた。
「オレは、高柳くんの音楽に惚れてしまってね、ぜび、お近づきになりたいんだ」
 そう言って、泉川は青山にあるステーキハウスへ連れて行ってくれた。三人で食事をし、話をするうちに、笙はやっと少しだけ泉川に打ち解けた。やはり、音楽という共通の話題があるのは強い。なにより泉川はウイットに富み、笙を手なずける術を心得ていた。
 大聖もたらふく御馳走になって、笙と二人、泉川に小早川家まで送ってもらった。恐縮した由美が、お茶を勧めたので、泉川はちゃっかり上がり込み、社長の小早川靖彦が帰宅するまで大聖と話し込んでいた。
 すでに部下の坂本から、泉川が笙に興味を持ったと報告を受けていた小早川はかなり困惑していた。笙をぜひ自分の手元で、ミュージシャンとして育てさせてくれという泉川に、小早川はやんわりと断りを入れていた。本人は、大学への進学を希望しており、今は学業優先だというのがその理由だ。
 笙本人は、大人達の思惑など露知らず、自室で授業の予習をしていた。それでもさすがに泉川が小早川家を辞すときは、由美に呼ばれて二階から降りてきた。
「高柳くん、今夜は楽しかったよ。次はぜひ、オレのスタジオに遊びに来てくれよ」
「今夜はごちそうさまでした」
 笙は、由美の陰に隠れるようにして、気のない返事をした。芸能界に興味のない笙には、日本歌謡界の重鎮として有名な泉川も、ただの音楽好きのオジサンに過ぎないのだ。
 大聖は、笙が泉川にこれっぽっちも興味を持っていないことに呆れながらも安堵した。それは、小早川夫妻も同じだったろう。



     act.10
『木村春菜・婚約』の見出しがスポーツ新聞に載ったのは、クリスマス・イブだった。笙は、塾へ行く途中の電車の中でそれを見た。相手は老舗和菓子店の跡取り息子で、一千万円の婚約指輪をかざして微笑む春菜の写真が掲載されていた。
 失恋したのは大聖なのに、笙は憂鬱になった。案の定その夜、大聖は小早川家の夕食に現れず、笙は心配になった。
「伯母さん、夕食を天野さんに届けてあげてもいい?」
 思い切って、伯母の由美に提案してみると、由美は破顔した。
「ありがとう、そうしてやって」


 笙は、鬱ぎ込む大聖を見るのは辛かったが、それ以上に大聖が心配だった。だから、マネージャーの坂本と、陽気に酒を酌み交わす大聖を見たときは仰天した。マンションが完全防音なのをいいことに、調子外れの歌を歌い、バカ笑いをして騒ぐ大聖を前に、唖然と立ち尽くす。
「そうだ、笙くん! いいもの見せてやる。AVのすっげぇヤツ! チョーおすすめっ!!」
「おい、大聖。ウブな笙くんに、んなもん、見せんなよ」
「へーき、へーき!」
 酒臭い大聖に肩を抱かれ、無理矢理ソファーに座らされる。42インチのテレビ画面に流れ始めたあからさまな映像に、笙は硬直した。
「坂モッチャンお勧めの無修正写真集もあるぞ〜」
 大聖はグラスを片手に大声を張り上げた。
「おいおい、大聖、いい加減にしろよ!」
 坂本が窘めたその時、笙が口元を押さえて屈み込んだ。
「笙くん、どうした?」
「わりぃ、俺、酒臭いかぁ?」
 笙は、大聖の腕をすり抜けると、トイレへ駆け込んだ。


 胃の中の物をすべて戻した笙が、蒼白な顔でトイレから出ると、坂本が心配そうに待っていた。音楽もテレビも消され、静まり返った室内では、大聖がすでに酔い潰れている。
 勘の良い坂本は、笙が吐いたのは大聖が酒臭かったからではなく、AVビデオに嫌悪を持ったからだと勘づいていた。
「ごめんな、笙くんにはちょっと刺激が強すぎたよな」
 坂本が痛ましげに笙を見た。その途端、坂本の憐憫を敏感に感じ取った笙は、坂本を睨みつけた。その射るような鋭さに、坂本は思わず息を飲んだ。
「僕なら大丈夫です」
 笙の高圧的な口調に、坂本は内心、ドキリとした。気弱な子どもだとばかり思っていた笙が、内面に高貴とさえ呼べる剛胆さを秘めていることを感じたからだ。
「虚勢を張らなくてもいい。俺もゲイだからさ。君、酷い顔色してる。送るよ」
 坂本は優しく気遣うように言った。
「一人で帰れます。坂本さんは天野さんに付いていてあげてください」
 それは、相手に否と言わせぬきっぱりとした口調だった。
「そうだな……そうしよう」
 坂本は、笙が怒りの矛先を収めてくれたことに安堵しながら呟いた。そして、15歳も年下の少年のご機嫌を伺っている自分に驚ろいた。
 翌朝、坂本から、自分が笙にエロビデオを見せて絡んだことを聞かされた大聖は、頭を抱えて悶絶した。
「うぎゃあ〜もうダメだ〜、俺、絶対、笙くんに軽蔑されたよぉ〜」
 春菜にフラれたことより、笙に軽蔑されたと落ち込んでいる大聖に、坂本は呆れた。
「取りあえず、メールで謝っておけよ」
「うん……」
 素直に携帯を手にメールを打ち始めた大聖を横目に見ながら、坂本はテーブルに散乱したディスクの中から一枚のCDを拾い上げた。それは、大聖が笙からもらった、あの作品CDだった。


 大聖の謝罪メールを丸一日、シカトした後ろめたさもあり、笙は夕食の時間になっても自室に閉じ籠もっていた。対人関係が激しく苦手な笙は、こじれた感情を修復する術をまったく知らないのだ。
「夕べはホントにごめんな!」
 笙の部屋に夕食を運んできた大聖は、本当に反省しているのか疑いたくなるような脳天気さで言った。しかし、それが大聖の魅力のひとつでもあるのだと、笙は思う。無邪気な大聖の笑顔を見ているうちに、胸の中にあったわだかまりが、きれいに霧散していく。
「ほら、仲直りの握手しようぜ」
 差し出された手を拒むこともできず、恐る恐る握ると、大聖はその手をいきなり引き寄せて笙を抱きしめた。 
「笙くんは、優しいなぁ。あの時も、春菜が二股かけてたこと知ってて黙っててくれた」
 ぽんぽんと笙の背中を撫でながら、大聖は陽気に言った。
「俺を気遣ってくれたんだな。ありがとう!」
 大聖が自分の気持ちをわかってくれたことに、笙は驚いた。口下手で、いつも人から「何を考えているのかわからない」とか「自分勝手だ」などと陰口を言われてきた笙にとって、それは感動に値した。言葉を尽くして説明しなくても、自分を理解してくれる人がいる、という喜びに、張り詰めた糸が切れたように涙が零れた。
 泣き出した笙に驚いた大聖だったが、すぐに笙の気持ちを察して、黙って泣かせてくれた。こういった空気を読む勘の良さは、大聖の天分だ。笙が何か深い心の傷を抱えたまま、癒えない傷に苦しんでいることも、大聖は本能で感じ取っていた。
 腕の中で泣きじゃくる笙を見ながら、大聖は、この不器用で口下手な子どもを守ってやりたいと強く思った。
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