ずっと君だけを・中編     月桜可南子
          act.6
 兄貴が死んで会社の経営を委された叔父は、俺の若さを怖れて系列の子会社で経験を積むようにと言った。俺は言われるまま、大学を卒業すると叔父の勧める長谷川家具に就職した。家具を扱うその会社は、主にオフィス家具やホテル・レストランの装飾家具を商っていた。
 俺が営業に駆け回るのにも慣れた入社二年目の春、営業部にとんでもないトラブルが舞い込んだ。業務提携しているアメリカのパシフィック・ファニチャー社が提携を打ち切りたいと言ってきたのだ。
 急遽、専務と営業部長がニューヨークに飛ぶことになり、大学で経済の国際法を専攻していた俺も同行することになった。


 時差ボケの睡魔と戦いながら、俺は専務にP.F.(パシフィック・ファニチャー)社との契約について説明した。
「提携期間が明記されていない契約書なんて何の役にも立ちませんよ。『提携期間は双方の合意に基づいて』ということは、どちらかが嫌になれば、いつでも打ち切るってことなんですから」
 俺は契約書を作成した担当者を呪いながら溜息を吐いた。
「しかし、契約を打ち切られれば、我が社は年間売り上げの三十パーセントを失うことになるんだぞ」
「専務、正確には二十八パーセントです」
 苦虫を噛みつぶしたような顔の専務に、部長が訂正する。
「P.F.社を説得して提携を続行させるか、新しい提携先を見つけるかだな」
 専務は、タクシーの車窓から見えるロックフェラービルに気を取られながら言った。新しい提携先を見つけるなんて、今の提携を続行するより遙かに難しい。専務の発言に、部長は動揺しながら俺に訊いてきた。
「来生君、新しい契約書は用意できたのかね?」
「はい、あとはP.F.社のサインをもらうだけになっています。契約書のコピーも、日本を発つ前にP.F.社に送ってあります」
「我々のアポイントに応じるということは、話し合いの余地ありと考えていいのだな」
 今ひとつ状況が飲み込めていない専務は、おめでたいほど楽観的だ。むこうは無理難題を押しつけるつもりだからこそ、わざわざ部長より上の者を話し合いに指名してきたのに。
「とにかく、難しい交渉になることは確かです」
 部長の返事に、専務はむっつりと黙り込んだ。


 マンハッタンを見下ろす地上二十八階の会議室に通された俺達は、まだ三十代前半の若い営業部長から、新しい契約書のコピーを突き返された。ジェイク=キャシディというその男は、流暢な日本語で、すでに他社との提携が決まったことを告げた。
 善後策を練るため、専務はその夜の便で帰国し、部長と俺は指示があるまで、ニューヨークに留まることになった。
 ホテルのバーでやけ酒を始めた部長を置いて、俺はタイムズスクエアにあるP.F.社のショールームを訪れた。P.F.社の新しい提携先が気になったからだ。
 ノルウェーとイタリアの有名ブランド家具を中心に展示されたショールームは、中高年の女性客を中心に混み合っていた。年若い男女は仲買のバイヤーらしく、胸にIDカードを付けた店員と熱心に商談をしている。
 しばらく店内を観察しているうちに、俺は強い視線を感じて振り向いた。店の一番奥にある高級家具コーナーに立つ青年と目が合った。マオカラーの白いシャツに薄い水色のスーツをラフに着こなして、肩まである褐色の髪を後で一つに束ねている。幾分、大人びてはいたが、凛とした目元を裏切る、キスを乞うような甘い口元は、紛れもなく岸森直記だった。
 驚きと喜びに脚を縺れさせそうになりながら、俺は大股で駆け寄った。岸森は困惑した表情で俺を見つめていたが、やがて諦めたように笑った。
「久しぶりだね、ヒロ」
 再会したら伝えたいことはたくさんあったのに、どんなにそれを夢見たかしれないのに、いざ本人を目の前にすると、俺は何も言えなかった。
「逢いたかった……、本当に逢いたかった……」
 人目もはばからず岸森を抱き締めて、俺はバカみたいに何度もそう繰り返していた。


 岸森に誘われるまま、俺達は近くのコーヒーショップに腰を落ち着けた。繁華街にある割には、客が少なく落ち着いた店だ。しかしメニューを見て納得した。コーヒー一杯が6ドル50セントもする。どうりで客層がいいわけだ。
「手紙、ありがとう。僕は……誰も恨んでなんかいないから安心して」
 岸森は、いくぶん緊張した面持ちで言った。
「そうか……よかった」
 三年前、俺は突然の別れに納得できず、岸森が住むボストンの住所を調べて手紙を書いた。それこそ何十回も書き直して、祈るような気持ちで投函した。しかし、四ヶ月待っても返事は来なかった。
 俺は悩んだ末、春休みにボストンへ行った。ところが岸森の家族はすでに引っ越した後で、転居先もわからず、俺はすごすごと帰国したのだった。
「それで、岸森は今、どうしてるんだ?」
「さっきの店で働いてる。デコレーターなんだ」
 俺が知りたいのはそんなことじゃなかった。岸森が今、一人なのか、恋人がいるのかということだ。
「親爺さん達と暮らしてるのか?」
「まさか! もう、そんな歳じゃないよ」
 岸森は、癖のない髪を掻き上げながら苦笑した。その時、ウェイターが俺達の注文したコーヒーを運んできた。値段に相応しい豆を使っているらしく、素晴らしい香りが鼻孔をくすぐる。
「いいなぁ、俺なんか未だにお袋と暮らしてるんだぜ」
「ヒロは仕方ないよ、お母さんひとりなんだから。それに僕だって、家賃が高いから友達とシェアしてて、一人暮らしじゃないよ」
 コーヒーに、たっぷりのミルクを入れながら、岸森が言った。コーヒーが好きなのに、ブラックで飲めないのは相変わらずのようだ。
「友達ってどんな奴? 日本人?」
「アメリカ人だよ。同じ会社の同僚」
 岸森の口ぶりから、深い関係ではないことが伺えて、俺は小躍りしたい気分だった。
「ナオキ!」
 鋭い呼びかけに、岸森が入口を振り返った。釣られて俺もそちらを見る。
「ジェイク」
 岸森の浮かべた信頼しきった微笑みに、俺は身構えた。まだ俺達が親友と呼ばれていた頃、岸森が俺に向けた微笑みと同じものだったからだ。



          act.7
 ジェイク=キャシディは、俺の顔を見て露骨に嫌な顔をした。それは、俺が提携を打ち切った会社の社員だからではなく、明らかに恋のライバルに対する不快感を表すものだった。
『ミーティングの時間だぞ』
『すみません、すぐ、行きます』
 早口の英語だったが、それくらいは俺にだって聞き取れた。
「僕は先に出るけど、ヒロはゆっくりしていって」
 言いながら岸森は、お義理のように一口だけコーヒーを口にすると、伝票に手を伸ばした。俺は慌ててその手を掴んだ。
「いいよ、ここは俺が払う。それより、住所と電話番号を教えてくれないか?」
「……どうして?」
 驚きを隠せない様子で岸森は俺を見た。
「手紙を書いたり、電話したりするのに必要だ」
 小さな沈黙。それから岸森は怒ったように言った。
「今さら、元の友達に戻れるとでも思ってるのか?」
「俺は、そうしたいと思ってる」
 岸森は、怒りとも悲しみともつかない表情を浮かべた。
「僕は、妻子のある君の兄さんと暮らしてたんだよ。君の周りの人達がどう思うか、わかってるのか? 友達に戻るなんて……できるわけないじゃないか」
 乱暴に俺の手を振り解くと踵を返す。俺は慌てて追おうとしたが、キャシディに阻まれた。
「ストーカーとして警察に突き出されたくなかったら、ナオキに付きまとうな」
 毅然とした口調で言い渡されて、俺はハッとした。容姿こそ違うが、キャシディの持つ雰囲気が兄貴に似ていることに気づいたからだ。
 岸森は、今でも兄貴を愛している。その事実は、俺を激しく打ちのめした。


 落ち込んでホテルに戻ると、部長がロビーで俺を待っていた。
「来生君、どこへ行っていたんだ。探したじゃないか!」
「すみません。P.F.社のショールームを見てきたんです。何か情報が掴めないかと思って」
「それで、何かわかったのか?」
「いえ、何も」
「私は君が無駄に動き回っている間に、情報提供者を見つけたぞ」
「えっ?」
 さすが年の功、営業一筋三十年の狸親爺は抜かりない。
「オースティンを憶えているか?」
「以前、P.F.社から研修で、うちに来ていた男ですね」
 俺は、自分とたいして歳の変わらない小狡そうな男の顔を思い出した。
「これから彼にあって話を聞く。君、今、幾ら持ってる?」
「キャッシュは五百ドルほど、後はチェックで二千ドルです」
「足らないな。オースティンはキャッシュで三千ドル要求してきてるんだ」
「馬鹿正直にそんな大金を払わなくてもいいんじゃないですか?」
 いくら情報収集のためとはいえ、領収書の出ないそんな大金を経費で落とせるわけもない。
「仕方ない、カードでキャッシングしよう」
「待って下さい。いいアイデアがあります」


 待ち合わせのバーは、思ったより品のある店だった。しかし、場末の酒場に変わりない。目つきの悪い男達がたむろしているのを見て、俺は回れ右をして帰りたくなった。
「キスギさん!」
 研修中に何回か皆と飲みに行ったので、オースティンは俺の顔を憶えていたらしい。懐かしそうな顔で、奥のテーブル席からこちらへ向けて手を挙げた。
「やあ、久しぶり」
「ブチョウさんも、おヒサしぶりです」
「挨拶はいいから、早く話を聞かせてくれ」
 部長は、反対側に陣取っている柄の悪い男達が気になるらしく、落ち着かない様子で言った。
「そのマエに、おネガいしたモノ、ホシイです」
「そのことなんだが……」
 部長が言い淀んだので、俺が後を引き継いで話した。
「部長と俺のポケット・マネーじゃ、これが精一杯なんだ」
 部長が手渡した袋の厚みに、オースティンは露骨に不快な顔をする。
「その替わり、これを用意した」
 俺が胸の内ポケットから取り出した二枚の野球チケットに、オースティンの瞳が輝いた。
「ヤンキースの大ファンだったよな」
 コンシェルジェに掛け合って手に入れたチケットのお陰で、オースティンは、上機嫌で話してくれた。うちの代わりに業務提携するのが、花房家具という東京の小さな会社であること、提携は営業部長ジェイク=キャシディの独断で決められたことをだ。
「じゃあ、社長に直談判すればまだ、提携続行の可能性はあるってことだな!?」
 身を乗り出すようにして部長が訊くと、オースティンは気の毒そうに首を振った。
「ウチのボスは、ギリのムスコがキめたこと、モンクいわない」
「義理の息子?」
「ソウだ。ジェイク=キャシディは、ボスがサイコンしたジョセイのコドモだ」
「なるほど、継子ってわけか。そりゃ、微妙な関係だなぁ」
 部長と俺は顔を見合わせた。
「うちが花房家具より良い条件で、P.F.社上部に提携を持ち掛けたらどうですか?」
「『良い条件』というのは何だね」
「それは、花房家具との契約書を見ないことには、提示しようがないですよ」
「契約書の写しは手に入らないか?」
 部長が期待に満ちた目で、オースティンを見た。
「むちゃです。ソレ、ワタシのチカラではフカノウ。ジェイク=キャシディのヒショでもバイシュウしてクダさい」
 オースティンは、これ以上関わり合いたくないとばかりに、諸手を挙げて身を引いた。



          act.8
 翌日、ホテルで、情報収集のための裏金をどうやって作るか、部長と話し合っていると、フロントから内線が入った。どこで俺達の滞在を聞きつけたのか、マンハッタン郊外の小さな家具工房が商品を見て欲しいと、売り込みのために訪ねて来たのだった。部長は、それどころじゃないと渋ったが、俺は興味を持って会ってみることにした。
 一階のティー・ラウンジで、シャーリー=ブレアという四十代後半の女性が待っていた。若い頃はさぞかし美人だったのだろう。見事なプラチナブロンドを結い上げて、理知的で、いかにもやり手そうな感じがした。
 見せられた家具の写真は、どれも造りの良さを伺える素晴らしいものだった。それなのに価格は驚くほどリーズナブルで、理由を尋ねると、先々代からのつき合いで、カナダの材木業者から材料を安く仕入れることができるからということだった。この価格なら日本までの運搬料を加算しても充分に採算が取れる。
『一点一点、手作りで量産はできませんが、どれも芸術作品のように完成度の高いものばかりです。ぜひ、工房に見学にいらして下さい』
 と言われて、俺は二つ返事で了解した。部長と裏金作りの方法を考えるより、ずっと楽しい。所詮、裏金なんて俺達下っ端には作くれっこない。必要なら、会社上部が工面するだろう。部長をホテルに残し、俺はシャーリーと工房に向かった。


 シャーリーが亡くなった父親から引き継いだという、巨大なログハウスのような工房は、木の匂いに満ちていた。工房長でシャーリーの夫・ハリーは、無口で社交的とは言えなかったが、見るからに真面目そうな男だった。職人達は皆、ハリーを信頼して慕っているのが感じられ、工房は陽気な活気に満ちている。
 出荷前の作品をいくつか見せてもらったが、中でも俺が気に入ったのは、黒いベルベット生地のカウチだった。優雅な曲線と猫足は、貴婦人を連想させる。女性だけでなく、男性客にもウケそうな作品だった。
 じっくり工房を見学した後、工房の片隅にある休憩用のテーブルで、職人の気難しさや後継者不足など、シャーリーの苦労話を聞いていると、パタパタと軽やかな足音が聞こえてきた。
『こんにちは、シャーリー。イートンのアイスクリームを買ってきたよ。早くフリーザーに――』
 息を切らせて駆け込んできた青年は、俺を見てその場に固まった。
「岸森……」
『あらまあ、ナオキのお知り合いだったの?』
『はい、俺達、高校の同級生なんです』
『ちょうどよかったわ。アイスクリームをフリーザーに入れて来るから、ナオキ、お相手をしていてね』
 シャーリーは声をなくして立ち尽くす岸森の腕からアイスクリームを奪い取ると、弾むような足取りで工房の隣に作られた自宅へと消えた。
「なんで、ここにいるんだ?」
 平静を装ってはいるが、岸森が警戒しているのは明らかだった。
「シャーリーに、工房を見てくれって言われたんだよ。俺、長谷川家具に入ったんだ。俺は兄貴みたいに出来が良くないんで、叔父貴に系列会社でしばらく修行しろって言われたんだ」
「ふうん」
 長谷川家具と聞いて、顔色一つ変えないところを見ると、岸森はうちとP.F.社の業務提携打ち切りについては何も知らないらしい。
「おまえこそ、なんでここに?」
「家具の特注に来た。イメージに合ったものがないときは、自分で図面を引いて、ここで作ってもらうんだ」
「へぇ」
 作業をしている職人達が、素知らぬ顔をしながらも耳をそばだてているのが感じられて、俺達はひどく気まずかった。
「いつまで、こっちに?」
 そわそわと落ち着かない様子で岸森が訊いた。
「はっきりとは決まってないが、一週間か…長くても十日ぐらいだと思う」
 もともと長居する予定ではなかったから、たいして金も着替えも持ってきていない。どう考えてもそれ以上の滞在は無理だ。
「これ、宿泊しているホテルの名刺だ。部屋は、1605号室。気が向いたら訪ねてくれ」
 意外にも、岸森はすんなりとホテルの名刺を受け取った。拒絶して険悪な雰囲気になるのが嫌だったのだろう。


 シャーリーに押し切られる形で、俺は岸森にホテルまで車で送ってもらうことになった。俺は小躍りしたい気分だったが、岸森は渋々といった様子で助手席のドアを開けてくれた。
「あの工房には、よく行くのか?」
「うん」
「どんなものを特注したんだ?」
「カウチ」
「あの工房とのつき合いは長いのか?」
「うん」
 岸森の返事は素っ気ない。もともと口数の多い奴じゃなかったが、その冷ややかな態度は、俺を酷く傷つけた。だから、つい口を滑らせた。
「今、つき合ってる奴はいるのか?」
「そんなこと、ヒロに関係ないだろ!」
 岸森は、不快を露わにして言った。
「昨日、コーヒーショップへおまえを呼びに来た男、何となく雰囲気が兄貴に似てた。あいつと…つき合ってるのか?」
 ちょうど信号が赤に変わったところで、岸森は乱暴にブレーキを踏むと、火を噴くような瞳で俺を睨み付けてきた。
「たまに一緒に飲みに行くだけで、つき合ってなんかいない! 僕には一生、隆之さんだけだっ!」
「健気だな。だけど、あいつはそれが許せないらしい。嫉妬に狂って、うちとの業務提携を打ち切ると言ってきた。うちは大打撃だ。大和物産は傘下の子会社をひとつ失うことになるかもしれない」
「僕のせいだって言うのか?」
 岸森の声は震えていた。俺は自分の迂闊さを呪いながらも、わざとおどけて言った。
「誰もそんなこと言ってない。それこそ兄貴の不徳の致すところ。因果応報ってヤツさ。兄貴と付き合ったおかげで、おまえは高校を退学になった挙げ句、青春の一番いい時期を捧げたのに手切れ金ひとつもらえなかったじゃないか」
 信号が青に変わり、岸森は無言で車を発進させた。それきり会話が途絶えてしまい、俺の宿泊するホテルに着いた。
「ありがとう。御礼に夕飯を奢るから、一緒にどうだ?」
「仕事があるんだ。失礼するよ」
 予想通りのつれない返事。岸森の車がホテルの車寄せから出て行くのを、俺はなんとも後味の悪い気分で見送った。



          act.9
 それから三日間、俺はホテルの部屋に閉じこもって、企画書作りに精を出していた。ブレア工房のあの黒いカウチを冬のボーナス商戦の目玉にした企画を思いついたのだ。三十代から四十代の働く女性をターゲットにする。キャツチコピーは、『優雅なくつろぎ』。その間、部長はジェイク=キャシディの秘書を買収しようとして玉砕し、意気消沈していた。
 日本から最終的な妥協案がFAXで送られてきたのは、ニューヨークに来て五日目、金曜の朝だった。アメリカでP.F.社が販売した、長谷川家具の委託売り上げのうち、六十パーセントを手数料として支払うという屈辱的なその案を携えて、部長と俺はP.F.社を訪れた。
 意外にもキャシディは、すぐに俺達の面会の求めに応じてくれた。通されたのは会議室ではなく、キャシディのオフィスだ。面食らっていると、秘書嬢がコーヒーまで運んできた。
 キャシディは、パラパラと提案書をめくっただけで、ろくに読もみもしないで言った。
「いいでしょう。この案で、うちの弁護士と契約書の作成に取りかかって下さい」
 信じられない言葉に、部長も俺も驚きの余り、開いた口が塞がらなかった。
 部長は帰国し、日本から長谷川家具の顧問弁護士が来るまで俺が残って、P.F.社の弁護士と契約書作成に当たることになった。
 予想外の展開に驚きながら、俺はこれからの滞在に備えて、デパートへ着替えを買いに走った。買い物袋を抱えて信号待ちをしているとき、黒のロールスロイスが目の前を通過した。
 ほんの一瞬だが、キャシディに肩を抱かれた岸森が、後部座席に座っているのが見えた。間抜けにも俺は、それを見てやっとキッャシディが提携を承諾した理由を悟った。


 翌朝、俺は岸森が働いているショールームの駐車場に張り込んで、出勤してきた岸森を捕まえた。
「こんな遅い時間に出勤か? 営業部長の愛人ともなると違うな」
 嫉妬と怒りで、まず口をついて出たのはそんな嫌味だった。
「つき合ってないって言っただろ」
 岸森は、俺には目もくれず、足早に社員用出入口に向かって歩き出す。
「キャシディが、うちとの提携継続に同意した。おまえが奴と寝たからだろ? 裏切り者! 一生、兄貴だけだって言ったくせに!!」
 岸森は振り返ると、不敵な笑みを浮かべて言った。
「欲しいものがあるとき、どうすれば手に入るか、最初に教えてくれたのはヒロじゃないか」
 その言葉に足下がぐらりと揺れた。岸森は、俺を憎んでいる。兄貴の形見をエサに、その身体を抱いた俺を――。
「ジェイクと深入りする気はないよ。不倫は隆之さんで懲りたからね」
 大仰に肩を竦めてみせると、岸森は再び俺に背を向けて歩き出した。
「さよなら、ヒロ。もう、僕にかまわないでくれ」
 暗い絶望が俺を蝕んでいく。岸森の背中が涙で霞んで見えなくなる。俺は、駄々をこねる子供のように訴えた。
「こんなのは嫌だ。岸森とこんな風に終わるのは嫌だ……」
 悲しみに立っていることさえできなくなって、俺はグズグズとその場に座り込んでしまった。みっともないとか、情けないとか、そんなことはもう、どうでもよかった。
「いい歳して、何をやってるんだ」
 岸森の戸惑った声が頭上から降ってきた。顔を上げると、優しい目と視線が合った。
「隆之さんの墓参りに行ったときは、声を掛けるよ。一緒に飲んで、思い出話でもしよう」
 子供をあやすように言われて、俺は何度も肯いた。どんな形にせよ、岸森と繋がっていられるなら、それでいい。
「住所と電話番号、教えろよ」
 鼻を啜りながらそう言うと、岸森は俺の抜かりなさに苦笑した。


 それから俺は毎晩、岸森に電話した。不思議と岸森は迷惑そうな素振りも見せず、俺の長電話につき合ってくれた。一週間後、俺が帰国するときは、空港まで見送りに来てくれた。
 俺が一足先に帰国した部長に預けた企画は、企画会議で承認され、俺は当面の間、日本とアメリカを行ったり来たりするはずだった。しかし、岸森と再会を約束して日本に戻った俺は、それから間もなく、岸森がP.F.社を辞めて姿を消したことを知った。
                To be continued          
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