BLANCHE 更新案内と目次   BLANCHE 小説目次   BLANCHE 掲示板 どこのリンクから来たのか教えてね

ずっと君だけを前編     月桜可南子
     act.1
「なぁこれ、来生の兄さんだろう?」
 二コマ目の講義が終わって席を立とうとした俺に、高校からの腐れ縁の野村が雑誌を差し出した。『若手トップの可能性』と題された特集のグラビアで自信に満ちた精悍な微笑みを浮かべているのは、紛れもなく十歳年上の俺の兄貴だった。
 俺は途端に不機嫌になった。出来のいい兄貴を持つと弟は苦労する。ことあるごとに比べられて、お陰で俺は劣等感の固まりだ。
 俺が小学六年の時、親爺は癌で亡くなった。以来、兄貴が父親代わりだった。兄貴は、大学卒業と同時に親爺の会社を継いで社長になった。この不況の時代に会社を守るだけでも大変なのに、業績を伸ばし続けるなんて神業をやってのけてる。俺にとって兄貴は、羨望と嫉妬と畏敬の対象だ。
「いいよなぁ、おまえは就職の心配がなくて」
 大学の三回生ともなると、嫌でも就職が視野に入ってくる。野村にしみじみと言われて、俺はきっぱりと答えた。
「俺は兄貴の会社には入らない!」
 兄貴の会社には、“彼”が就職することになっていた。不倫相手を秘書するなんて悪趣味だが、カリスマ社長の決めることに異論を唱える者などいない。
「それじゃ、どこか当てがあるのかよ?」
「院へ上がろうと思ってる」
 それは、大卒の兄貴に対する俺のささやかな対抗心だった。就職も、兄貴の会社以外ならどこでもいい。できることなら海外赴任のある会社に就職して、海外で生活したい。そうすればきっと、“彼”のことも忘れられるはずだ。
 彼、岸森直記きしもり・なおきは高校のクラスメートだった。出席番号が並び(きしもり→きすぎの順番だ)で、一緒に何かをする機会が多く、俺達はすぐに意気投合した。あの綺麗な顔で笑いかけられて心を開かない奴なんていない。おまけに岸森は、顔だけでなく心も素直で優しく綺麗だった。
 夏休みに、俺は自慢の友人を兄貴に紹介した。今、思えば多忙な兄貴が、別荘での滞在を一週間も延ばした時点で気づくべきだった。
 俺が、兄貴と岸森の関係を知ったのは、翌年の夏だった。出産のため妻が実家に帰っているからと、兄貴は一人で長野の別荘へ避暑に出かけた。岸森は亡母の実家に帰省していて、暇を持て余した俺は気まぐれに別荘を訪ねた。そして、二人の関係を知ってしまったのだ。岸森の首筋に散った赤いキスマークを見たときの衝撃を、俺は一生忘れないだろう。
 「裏切り者」「恥知らず」「変態」と罵る俺に岸森は一言も弁解しなかった。当然のことながら、俺は岸森と絶交した。兄貴は息子が生まれたにもかかわらず、岸森との関係を続けた。やがて妻に不倫がバレると、家を出た。そして岸森と同棲を始めたのだ。
 岸森の父親は海外赴任中で、後妻である母親は継子の行状を知っても無関心だった。岸森が、亡くなった前妻の子供だったからだ。
 気丈にも義姉は、兄貴からの離婚の求めに応じなかった。相手が女ならまだしも、男に夫を取られるなど、彼女のプライドが許さなかったのだろう。三角関係は膠着こうちゃく状態のまま、すでに三年の月日が流れていた。


 コンパに出るのは半年ぶりだった。女を抱けない訳ではないが、どうしても岸森のことを考えてしまう。どんな顔で兄貴に抱かれるのか、どんな声で快感に喘ぐのか、考えれば嫉妬で狂いそうになるのに、考えずにはいられないから、俺は女に近づかないようにしていた。だけどGWにすることもなくぶらぶらしていたら、お袋から「いい歳をして、まだ彼女もできないの」と嫌味を言われて、岸森を忘れるためにも彼女を作るろうと考えた。それにいい加減、岸森を思って一人で抜くのにも疲れてきていた。
 野村が作ったあみだくじで、俺の右には美登里ちゃん、左には小夜ちゃんが座った。真向かいの席は、胸のでかい真由ちゃんだ。取り敢えず、今夜は胸のでかい真由ちゃんを狙うことにする。
 たいして綺麗でもない髪や肌を誉め、せっせと飲ませた甲斐あって、二次会では、真由ちゃんの方から隣に座ってくれた。
「ねね、ケータイの番号、交換しちゃわない?」
「いいの? やったー!!」
 大袈裟に喜んで見せ、互いの番号を教え合う。番号を打ち込む真由ちゃんの指を見て、俺はげんなりした。ちんまり短くて爪の形も扇のように広がっている。岸森の指は、本当に綺麗だった。すらりと細くて長く、爪の形だって……。
 そこまで考えて俺は慌てた。岸森を忘れるために彼女を作ることにしたのに、岸森と比べてどうする!
 その時、俺の携帯が鳴った。兄貴のマンションからだった。兄貴は時々、身体の弱いお袋を心配して、様子を聞くために俺に電話してくる。大抵、早く仕事が片づいて帰宅できたときにかけてくるから、俺は珍しく遅い時間だなと思って電話に出た。
「ヒロ……僕、岸森だ」
 兄貴が、俺の名前・寛之ひろゆきの下を省いて「ヒロ」と呼ぶせいか、いつの間にか岸森も俺を「ヒロ」と呼ぶようになった。
「ヒロ、聞こえてる?」
 岸森の声は、微かに震えていた。
「ああ、聞こえてるよ」
 わざとぶっきらぼうに答えると、小さな安堵の吐息が聞こえた。
「隆之さんが、交通事故に遭ったんだ。僕はこれから秘書の太田さんと病院に向かうから、ヒロはお母さんを連れてきて欲しい」
「わかった。それで、兄貴の怪我の具合はどうなんだ?」
 沈黙……岸森は答えない。
「教えろよ! 命に別状はないのか?」
 不安になった俺は、思わず声を荒げた。周りにいたみんなが一斉に俺を注視したが、そんなことは気にならなかった。
「……亡くなったよ」
 絞り出すような声で岸森が告げた。



     act.2
 岸森は、霊安室で兄貴に最期の別れをした。家族でもない、ましてや妻でもない岸森には、兄貴の遺体を引き取ることも葬儀を出すことも許されないからだ。俺は、岸森が兄貴の妻と鉢合わせしないよう用心しながら、岸森を病院からマンションへ連れ帰った。
 ダイニングテーブルには、二人分の夕食が並べられたままだった。岸森が兄貴のために作ったのだろう、どれも手の込んだ料理ばかりだった。いかに兄貴を愛しているか、ひしひしと感じられるその料理を、俺は複雑な気持ちで冷蔵庫に入れた。
「ほら、ブランデーだ。これを飲んでもう寝ろ」
 リビングボードから一番高そうな酒を取り出してグラスに注ぎ、ソファーで放心している岸森に手渡した。岸森は黙ってそれを受け取ったが、口を付けようとはしない。
「じゃ、俺はもう帰るから。葬儀が終わったら連絡するよ」
 岸森が泣くのを見るのが辛くて、俺はそそくさと背を向けた。
「どうして……」
 小さな呟きに振り返ると、岸森が俺をじっと見つめていた。激しい怒りを孕んだ瞳に、俺の背筋をゾクリと戦慄が駆け抜ける。
「隆之さんは、どうしてここに帰って来れないんだ? 隆之さんの家はここなのに! あのひととはとっくに終わってるのに、どうしてっ……」
 大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、岸森は泣いているのに目が眩むほど綺麗だった。だけど俺は、兄貴のために泣く岸森が許せなかった。
「兄貴が結婚してることを知ってて、つき合ったんだろ。おまえは男で、妻でもない。兄貴の家庭をメチャメチャにして、義姉さんやお袋がどれだけ泣いたと思ってるんだ」
「それでも…隆之さんには僕が必要だったんだ。自分の弱さを曝らけ出せる相手として」
「兄貴はそんな弱い人間じゃない!」
「ヒロは、本当に何にもわかってないんだな」
 蔑むような瞳が向けられ、俺は反射的に手を上げていた。手加減したつもりだったが、岸森の身体はあっけなくソファーに沈み込んだ。
「出て行けっ、ヒロなんか嫌いだ! 大嫌いだ!!」
 岸森の捨て台詞に、俺の理性は完全に吹っ飛んだ。
「売女っ、どうやって兄貴をたらし込んだんだよ!! 教えろよっ! 俺にも脚を広げてみせろっ!」
 俺は泣き叫ぶ岸森を張り手で黙らせ、力任せに狭い体内に押し入った。恐怖ですくみ上がった身体には、先端を潜り込ませるのが精一杯で、俺自身、激しい締め付けに耐えきれず、あっという間に射精してしまった。
 岸森のすすり泣く声に我に返った俺は、あまりの惨状に愕然とした。岸森の下半身もソファーも血だらけで、俺のペニスにもべっとりと血が付いていた。
「ごめん、岸森……ごめん……ごめん……」
 オロオロと、ただ「ごめん」を繰り返す俺に、岸森は吐き捨てるように言った。
「早く、帰れよ……ヒロの顔なんて見たくない」
 その言葉に、俺は逃げるようにマンションを後にしたのだった。 

 兄貴の葬儀や遺産相続などで忙殺され、気がつくと6月も終わろうとしていた。俺がマンションを訪れるのは一ヶ月振り、岸森に会うのもあの夜以来だった。激情に流され、岸森を強姦してしまったという事実に怯え、俺は葬儀が終わってからも電話一本かけることができなかったのだ。
「兄貴の荷物を引き取りに来た」
 気まずさから、開口一番そう言った俺に、岸森は絶句した。
「義姉さんの強い希望なんだ」
 義姉は、自分や子供を捨てて出て行った夫を、執念のように愛していた。夫のものは、たとえ髪の毛一本でも岸森に渡したくないというほどに。四十九日の法要の後、義姉から泣いて訴えられて、俺は渋々、岸森から兄貴の遺品を引き取ってくることを承諾したのだった。
 岸森は、すべてを諦めてしまったかのような表情で、俺がダンボール箱に兄貴の遺品を詰め込むのを黙って見ていた。やつれた青白い頬に長い睫が陰を落としている。この一ヶ月、ろくに食事も睡眠も摂っていないことが伺えた。しかし、どんなに憔悴していても、やはり岸森は綺麗だった。
 そう、昔から岸森の中性的な美貌は皆の憧れの的だった。挑むような瞳で微笑まれると、魅入られたように目が離せなくなったものだ。今、ダイアモンドのように輝いていた瞳は、月光のように静かに息を潜めている。誰一人味方のいない四面楚歌の孤独が、岸森から太陽の輝きを奪い去ったのだ。
「時計……」
 物思いに耽っていた俺は、突然、耳元で岸森の声がして驚いて顔を上げた。岸森は、じっと俺の手首を見つめていた。
「その腕時計どうしたんだ?」
「あぁ、兄貴が事故に遭ったとき、身に着けていたやつだ。あれだけ酷い事故だったのに時計だけ無傷で、義姉さんが形見として俺にくれたんだ」
「……れ…いか……」
「え?」
「……その時計、僕に……くれないか?」
「何、言ってるんだ。義姉さんが、兄貴のものは何一つおまえに渡したくないって言うから、こうして俺が遺品を引き取りに来たんだぞ?」
「だって、その時計はもうヒロのものなんだから、僕にくれたっていいじゃないか」
「屁理屈言うなよ」
「……」
 岸森は、叱られた子供のように唇を引き結んで、涙を堪えているような表情を浮かべた。見ているこちらまで痛々しくて胸がキリキリしそうな表情だ。まだ、そんなにも兄貴を愛しているのかと思うと、悔しさで歯ぎしりしたくなる。
 だから俺は、咄嗟に囁いた。
「そんなに欲しいなら、おまえにやってもいいよ。ただし条件がある。一週間、俺につき合え。俺と一緒に暮らして、毎晩、俺に抱かれるんだ」
 驚きに瞳が見開かれ、唇が戦慄おののいた。俺は殴られるのを覚悟したが、岸森は再び唇を引き結ぶと、はっきりと肯いた。
「わかった、言うとおりにする」



     act.3
 大学が夏休みに入るのを待って、俺達は長野の別荘を訪れた。俺が初めて兄貴に岸森を紹介した場所。そしておそらく二人が初めて結ばれた場所。神聖な思い出のその場所で岸森を抱く。
 岸森にとって、それがどれほど苦痛か、俺は百も承知で残酷な復讐心からその場所を選んだのだ。しかし行き先を告げた時、岸森は形の良い眉をわずかに顰めただけで何も言わなかった。
 途中で食材を仕入れ、別荘に着いたのは夕方だった。岸森は勝手知ったる他人の家で、慣れた様子で食事の用意に取りかかろうとしたが、俺はその腕を制して言った。
「食事なんて後だ。早くシャワーを浴びてこいよ」
「わかった」
 不機嫌そうにチラリと俺を一瞥すると、岸森は身を翻した。バスルームへ向かいながら、シャツを、ベルトを、ジーンズを、床に転々と投げ捨てていく。俺はそれらを拾い集めて主寝室へ行った。
 事前に管理会社に連絡しておいたので、室内は綺麗に掃除され、切り花まで生けてあった。ところが、岸森と入れ違いにシャワーを浴びて寝室に戻ると、花がなくなっていた。
「おい、岸森。花をどうした? いい匂いだったのに」
「捨てた」
 素っ気ない返事に、俺は迂闊にも深追いしてしまった。
「なんでだよ、花は嫌いなのか?」
「隆之さんが、ここに来るといつも僕に贈ってくれた花だ」
 気まずい空気が流れて、俺は手にしたビールを無言であおった。やがて、沈黙に耐えかねた岸森が口を開いた。
「さっさとヤろうぜ」
 なんだかすっかりソノ気がなくなっていたが、俺は誘われるままベッドに入った。何度も夢見た岸森とのセックス。しかも今度はちゃんと合意の上でだ。
 きめ細かな白い肌に、俺はすぐに夢中になった。岸森が持ってきたオイルを使って、たっぷり前戯を施したから、今度は前よりずっと楽に挿入できた。岸森は少し痛がったけど、出血させることもなかった。
 中で一回放った後は、残滓の滑りを借りてスムーズに動けるようになり、岸森を楽しませることもできた。なにより快感に喘ぐ岸森は、潤んだ瞳が壮絶に色っぽくて、俺はそれだけでイキそうになった。
 結局、俺達は明け方近くまでヤり続け、夕食どころか朝食も忘れて昼近くにやっと目を覚ました。それから腹が痛いと悪態を吐きまくる岸森を宥め賺して昼食を摂り、俺は町の薬局までコンドームを買いに車を飛ばした。


 別荘に戻ると、岸森はカウチでぐっすり昼寝中だった。リビングの上には『シーツ、替えろ』のメモ。俺は二人分の汗と精液でどろどろになったシーツを取り替え、夕食の準備を整えて岸森が目覚めるのを待った。
「不味い」
 俺の手料理(といってもインスタントを温めただけだが)を口にした岸森の第一声は、それだった。
「だったら食うなよ」
 思わずムッとして言うと、岸森は苦笑した。
「まあ、僕が初めて作った料理もこんなものだったけどな。隆之さんは、美味しい言って全部食べてくれたんだ」
 懐かしそうに話す岸森に、チクリと胸が痛んだが不思議と腹は立たなかった。岸森の中で、兄貴との関係が過去の思い出に変わりつつある兆しを感じたからかもしれない。
 実家からくすねてきた年代物のワインを一本開ける頃には、岸森は夢の国の住人だった。幼さの残る寝顔に、出会った頃の純粋なときめきを思い出した。癖のない褐色の髪はサラサラで、凛とした瞳と、小さめの鼻、キスを乞うようなふっくらとした唇。この世に、こんなに綺麗な人間がいるのだという感動と、それが自分と同じ男だという驚き。
 岸森は、自分の容姿が同性から性的対象として見られることを何より嫌っていたから、俺は最大限の注意を払って自分の欲望をひた隠しにしてつき合っていた。それなのに、妻子持ちの兄貴と関係を持ったと知ったときのショック。
 それは裏切られたという激しい怒りに変わり、苦労して築き上げた友情を自ら断ち切ってしまった。挙げ句、兄貴の形見をエサに岸森と関係を持った。
 もう、元の友達にも戻れない。ここでの一週間が終われば、俺達は他人以上の他人になるんだ。道で会っても、挨拶をかわすことすらないだろう。激しい後悔に一睡もできないまま、俺は岸森の寝顔を見つめて夜を明かした。


 明け方、少しウトウトした俺は、下半身の疼きに目を覚ました。そして岸森にフェラチオされていることに気づいて仰天した。
「きっ、岸森っ! おまえ、何やってんだ!?」
「昨夜は酔い潰れて寝ちゃったから、埋め合わせしようと思って」
 岸森は俺のモノを握ったまま、事もなげに答えた。そして再び俺のモノを口に含んだ。さぞかし兄貴に仕込まれたのだろう、その舌の動きは実に的確に俺を追い上げていく。このままでは、岸森の口内で果ててしまいそうだ。俺はパニックになりながらも必死で叫んだ。
「ダメだっ、も……イクッ、はな…せっ」
 しかし岸森は俺を離すどころか、鈴口を押し広げるように舌を潜り込ませると、フィニッシュとばかりに強く吸い上げた。
「うっ、あ…アアアッ――!!」
 あっけなく弾けた俺は、岸森の口内で目一杯、射精してしまった。羞恥で茫然としていると、岸森が口元を拭いながら顔を上げた。
「お…おまえ、もしかして俺のを飲んだのかっ!?」
「そうだけど、いけなかった? 顔にかける方がよかった?」
 真顔で信じられないセリフを言う岸森に、俺は卒倒しそうだった。兄貴はいったい岸森に何を教えたんだ。二人はどんなセックスをしてたんだ。
「やっぱり、顔にかける方がよかったんだ。ごめん、もう一回するから」
 俺がショックで凍り付いているのを、怒っていると勘違いした岸森は、再び俺の股間に顔を埋めようとした。
「いいよっ、もう充分だ」
 俺は慌ててベッドから飛び出した。岸森は怪訝そうな表情を浮かべたが、俺が怒っていないことがわかると、安心したようにベッドから降りてきた。



     act.4
 その日は岸森にドライブをねだられて、俺達は近くの観光地をいくつか回った。驚いたことに、岸森はこれまで何回か長野の別荘に来ているはずなのに、どこの観光地も初めてだった。どうせ兄貴とのセックスに夢中で、ベッドから出なかったんだろう。
 俺達は、見渡す限りのひまわり畑を散策したり、小さな美術館で絵画を鑑賞したりした後、洒落たレストランを見つけて、豪華な食事を楽しんだ。なんだか恋人同士のデートみたいで、俺の心はウキウキと弾んだ。
 岸森は生成のサマーセーターにジーンズというありふれた服装だったが、どこに行っても人々の注目を浴びた。学生時代はただ綺麗というだけだったが、今の岸森は憂いを含んだ艶があり、人間の心の奥底にある、よこしまな欲望を煽り立てるセクシャリティがあった。俺は、兄貴が岸森を人前に連れ出すのを嫌った理由がよーくわかった。
 俺達が別荘に戻ったのは、深夜に近かった。
「岸森、先に風呂使っていいぞ。俺はもう寝る」
「疲れたのか? だから交代で運転しようって言ったのに」
「俺の大事な“恋人”をおまえなんかに運転させられっかよ」
 頭金こそ兄貴に出してもらったが、ローンはちゃんと自分で払ってる俺の愛車は、購入してまだ半年の新車なのだ。しかもギア・チェンだから、オートマしか運転したことのない岸森には、とてもじゃないがハンドルは任せられない。
 俺の言葉に、岸森はひどく淋しそうな表情を浮かべたが、睡眠不足と運転の疲れで限界に来ていた俺は、さして気にも留めなかった。


 避暑地に位置するだけあって、志賀高原の早朝は肌寒い。甲高い小鳥のさえずりに目を覚ました俺は、自分がしっかりと岸森に抱き締められて眠っていることに気づいて赤面した。昨夜は、爆睡してしまい岸森がベッドに潜り込んで来たことにも気がつかなかった。
「ん……、おはよう」
 眠そうな目で岸森が言った。動転した俺が身じろぎしたため、岸森まで起こしてしまったらしい。
「まだ寝てろよ」
「よく眠れたみたいだね」
「まあな」
「……する?」
 まるで朝食を食べるかどうかを尋ねるように訊かれて、俺は間抜けにも問い返してしまった。
「え、何を?」
「……セックスに決まってんだろ。僕達はそのために、ここへ来たんだから」
 岸森の冷ややかな物言いに、俺は反射的にムッとした。
「そんな言い方しなくたっていいだろう! 昨日は観光に連れて行ってやったじゃないか」
「だって観光でもしなけりゃ、ずっとヒロと二人きりで退屈だったんだ」
「退屈で悪かったな! 兄貴みたいに朝から晩までおまえとセックスしてろっていうのか!?」
「ふん、そんな体力ないくせに」
 売り言葉に買い言葉とわかっていたが、小馬鹿にしたように言われて、俺はすっかり頭に血が上ってしまった。
「お望み通り、ヤッてやるよ。朝から晩までな!」
 パジャマの上を脱ぎ捨てた俺を見て、ヤバイと感じた岸森はベッドから逃げ出そうと身を翻した。しかし俺は、獣さながらの獰猛さで岸森を引き倒した。乱暴に岸森のパジャマを剥ぎ取ると、バックで受け入れる姿勢を取らせる。俺が力任せに押し入るつもりだと思った岸森は、半狂乱で叫んだ。
「ヒロ、止めて!  こんなのはイヤだッ――!!」
 恐怖でガタガタと震える身体に、俺はやっと冷静さを取り戻した。
「泣くなよ、岸森。いきなり突っ込んだりしないから安心しろ」
「な…泣いてなんか…いな……あっ、アアッ!」
 なおも意地を張る岸森の蕾に、俺はそっと舌を這わせた。緊張で張りつめていた身体から、みるみる力が抜けていく。
「バ…カ……、そ…んなトコ…舐め…なっ……」
 逃げようとする腰を押さえつけ、尖らせた舌で執拗にノックを繰り返すうち、ソコは小さく蕾を綻ばせた。舌で唾液を送り込みながら指を潜り込ませる。その途端、岸森の身体が強張った。
「力を抜けよっ」
 叱咤するように言ってみたものの、岸森は小さな子供がイヤイヤをするように首を横に振るばかりだ。これまで兄貴とヤリまくってただろうに、一向に俺とのセックスに慣れない岸森に、俺は内心で舌打ちした。
 岸森の意識を他へ向けようと、空いている左手でペニスを扱いてやると、少しずつ力が抜けてきた。
「ふっ……あぁ…いやぁ……」
 先端から透明な先走りを零しながら、細い嬌声を上げる。俺は辛抱強く、指を一本から二本、二本から三本と増やし、なんとか挿入できるまで慣らすのに一時間近くを費やした。挿入だって、岸森が協力的じゃないから、さんざん手間取った。
 まったく、なんて面倒なんだろう。いかに男同士のセックスが、不自然な行為か、俺は改めて思い知らされたのだった。



     act.5
 岸森が怒っているのは明らかだった。ベッドで、どんなに俺が情熱を傾けても、セックスが終われば義務は果たしたと言わんばかりに背を向ける。食事も別々、会話もない。俺は意地になって、岸森の身体を弄んだ。
 細い腰に欲望を突き立てて、思うさま蹂躙する。連日連夜、男を受け入れさせられて、すっかり馴染んだソコは、女のモノよりずっと具合が良かった。初めは痛みで強張っている身体も、快感のポイントを責め立てれば、すぐに甘く蕩ける。俺が意地悪く焦らしてやると、岸森は屈辱に頬を染めながら自ら腰を揺らすことさえあった。それなのに、情事が終われば逃げるようにベッドを出て行く。
 こんなに……好きなのに!!
 身体を繋げば、心も繋げると思った俺は、すれ違い続ける心に泣きたくなった。兄貴との思い出の場所で岸森を抱けば、岸森の中から兄貴を消し去れるんじゃないかと期待していた俺は、なんてバカだったんだろう。出会った頃は本当によく気が合って、喧嘩らしい喧嘩をしたことのなかった俺達なのに、どうしてこんなに噛み合わなくなってしまったんだろう。いったい、どこでボタンをかけ間違えたんだろう。
 

 約束の一週間が終わって、名古屋に帰り着いたのは夕方五時過ぎだった。岸森は俺が差し出した形見の腕時計を硬い表情で受け取ると、逃げるように助手席を降りた。
「岸森、待てよ!」
 一分一秒でも長く一緒に居たかった俺は、咄嗟に岸森を呼び止めた。足を止めた岸森は、今さら何の用だと言わんばかりに怪訝な顔をして振り向いた。俺はゆっくりと、殊更ゆっくりと岸森に歩み寄った。
「なあ、兄貴と俺と、どっちのセックスがよかった?」
 決まり切った答え。だけど、岸森を諦めるために、俺はどうしてもその答えを聞きたかった。
 岸森はじっと俺を見つめた。そして暫く躊躇った後、小さな声で淡々と言った。
「わからない……隆之さんとは後ろを使ったことないから、比べようがないよ」
「ええっ!?」
 俺の素っ頓狂な声に、岸森は不快そうに眉を寄せた。兄貴と本番をしたことがないだって? 五年近く付き合ってて、それも熱烈に愛し合ってて!?
「時計、ありがとう。それじゃ……」
 俺が金魚みたいに口をパクパクさせながら絶句しているうちに、岸森はくるりと背を向けると、マンションのエントランスの中に消えてしまった。


 その夜、俺は悶々として眠れなかった。
 兄貴はバカだ。あの極上の身体を前に、ペッティングだけで我慢してたなんて……。よっぽど、十歳年下の恋人が可愛かったんだろうな。
 道理で岸森も痛がるはずだ。アナル・セックスは初めてだったんだから。それなのに俺は、兄貴の死を嘆き悲しむ岸森を強姦してしまったんだ。
 自分のしでかしてしまった事の重大さに、俺は改めて青くなった。岸森は、口にこそ出さないが、俺のことをもの凄く憎んでいるんじゃないだろうかという恐怖に、まんじりともせず一夜を明かした。


 翌朝、俺は岸森に土下座して謝ろうとマンションへ行った。だが、マンションはもぬけのカラだった。びっくりして監理人に尋ねると、一週間前に引き払われたということだった。
 嫌な予感がして、俺は急いで岸森の実家を訪ねた。予感は的中し、そこも引き払われて何一つ残っていなかった。
 後で調べてわかったのだが、タンザニアに単身赴任していた岸森の父親が、ボストンに転勤になったため、妻子を呼び寄せたのだ。岸森は、俺から時計を受け取った後、空港へ向かい、その夜の便で旅立ったのだった。
 呆気ない幕切れに、俺は為す術もなく、ただ呆然とするばかりだった。


   遠い夏 愚か者の恋 ずっと君だけを見ていた
   君以外、望むものはない ただ君だけを想っていた
                 
中編へ続く次のページ・中編へ