ライオン     月桜可南子
     act.43
 『花睡』がクランクアップしたその夜、笙は、大聖や大林監督と共に、神崎美耶子夫妻からディナーの招待を受けた。撮影が終わってしまい、当分の間は大聖と会えないという淋しさで、笙はつい勧められるままにワインを飲んでしまった。
「あ…れ?」
 食事が終わって席を立った笙は、足下がぐらりと揺れるのを感じた。慌てて椅子の背につかまると、美耶子の夫・柳原毅氏が心配そうに言った。
「飲み過ぎたようだね。ワインは脚にくるからなぁ。転ばないように気をつけて」
「天野くん、ちゃんと送ってあげてね」
 美耶子が悪戯を楽しむように笑ったので、大聖は渋面で応えた。
「先生も人が悪いなぁ。俺が送り狼にでもなればいいと思ってるでしょ」
「あら私、なぁ〜んにも期待してないから、安心して」
 笙は、顔を引き攣らせながらも懸命に訴えた。
「ひとりで帰れます。大聖さんは夜十時までに寝て、規則正しい生活をしなくちゃいけないし」
「なら、僕が送ろう」
 見かねた大林監督が名乗り出てくれたが、さすがにそれは大聖も笙も恐縮して断った。結局、大聖は笙を送りがてら、今夜は小早川家に泊まることになった。
「俺の肩に凭れて眠ってもいいぞ」
 タクシーの車内で、大聖が声を掛けてやると、笙は申し訳なさそうに肯いた。ワインの酔いがまわり、睡魔に襲われて限界だったのだろう。ものの10分とかからず眠ってしまった。
 その細い身体を引き寄せると、大聖はまだ少し幼さの残る寝顔をそっと盗み見た。笙は今でも自分を愛してくれている。それは大聖に、喜びと同時に恐怖を与えた。
 アメリカから帰国して以来、笙にはひっきりなしに見合い話が持ち込まれているのも、笙がそれらをすべて断っているのも由美から聞いて知っていた。笙が来春、大学を卒業しても実家には戻らず東京でひとり暮らしするつもりなのも、すべては、大聖の側を離れたくないからだということもわかっている。
 だからといって、だからこそ、大聖は笙が重荷だった。何も欲しがらない笙が、哀れで怖かった。


 9月初めに『花睡』の編集が終わった。笙は、それを大聖からのメールで知った。一般公開は年末になるという。
 その前に、大林監督にラッシュを観せてもらうから一緒に観ないかという大聖からの誘いに、笙は驚喜した。が、同時に不安にもなった。試写会前に監督が観せてくれるのは、大聖の体調が良くないからで、もしや病気が再発したからではないかと考えたのだ。
 しかし、その心配は杞憂に終わった。3ヶ月ぶりに会った大聖は、体重も発病前に戻り、よく笑いよく食べた。髪も綺麗に生え揃い、ウイッグもつけていない。監督の奥さんが勧めてくれたワインを飲みながら、明るく闘病生活を語れるほど元気になっていた。
 帰りは、酒を飲んでいない笙が、大聖の車を運転した。笙はアメリカへ留学する前に車の免許を取ったが、大聖のように車に興味がないし、交通の便が良い都内の小早川家に下宿しているので運転は滅多にしない。
 馴れない運転で事故って、大聖に怪我でもさせたらシャレにならない。行きのように大聖の横顔を盗み見る余裕もなく、笙は必死でハンドルを握った。お陰で大聖のマンションに着いたときは、精根尽き果てていた。
「コーヒー淹れるから、上がっていけよ」
 優しく誘われて、笙は嬉しかった。大聖が自分から進んで笙を部屋へ上げてくれるのは別れて以来、初めてのことだった。なんだか、付き合っていた頃に戻ったようで胸が温かくなる。
「これから、試写会や舞台挨拶で忙しくなるな」
 ダイニングテーブルで向かい合わせに座り、コーヒーを飲みながら、大聖が嬉しそうに笑った。笙は、大聖の笑顔がまぶしくて、そっと目を伏せた。
 30分ほど、他愛のない雑談をして話が途切れたところで笙は席を立った。
「コーヒー、ご馳走様。そろそろ帰るね」
 内心は、後ろ髪を引かれる思いで一杯だったが、長居をして大聖を疲れさせてはいけないと自制した。
「悪い、遅くなっちゃったな。駅まで送るよ」
「平気、平気! 子どもじゃないんだから。僕、もう22だよ」
 上着に手をかけた大聖に、笙はふわりと笑って言った。
「そっか、もう22になったのかぁ……」
 大聖は、感慨深げに呟いた。笙が二十歳になるまでは手を出さないと考えていた頃は、それはかなり先のことのように感じていたのに、今、目の前にいる笙は22歳なのだ。相変わらず線の細さは否めないが、見違えるほど垢抜けて綺麗になった。出会った頃の、怯えた小動物のような暗さはカケラもない。
「確かに、ひょろひょろだった骨格もがっしりしてきたし、顔立ちもずいぶん大人びたよなぁ」
 大聖は思わず手を伸ばして、指先で笙の頬から顎のラインを確認してしまった。今まで自分のことに精一杯で、そんなことにも気づかなかった。
 大聖に触れられた途端、笙は狼狽した。かつて、二人が仲睦まじかった頃、大聖はよくこうして笙の頬に触れた。笙が可愛くて堪らないというように。気がつくと、互いに吸い寄せられるように唇を重ねていた。
 笙の舌が餌をねだる雛のように懸命に潜り込んでくると、大聖はたちまち下半身に熱が集まり焦った。慌てて笙の身体を引き剥がし、逃げを打つ。
「わりぃ、ちょい、ふざけただけだから」
 大聖がなんとかそれだけ言うと、笙は縋るように大聖を見た。
「遊びでいいから……抱いてよ。大聖さんとしたいんだ」
「前にも言っただろう? 俺はおまえとやり直す気はない」
 大聖は、さりげなく一歩後ずさった。
「そんなに……そんなに僕が嫌いなんだ」
「そうじゃない。笙には幸せになってもらいたいんだよ」
「幸せ? 幸せって何? 好きな人の傍にいることじゃないの?」
 気弱な笙にしては珍しく食い下がった。まるで大聖を追い詰めるかのように一歩詰め寄る。
「笙には、普通に結婚して子どもを作って欲しい。休みの日には、家族で遊園地へ行ったりドライブに出かけたり、そういう普通の人生を歩いて欲しいんだ」
「僕は、そんな人生欲しくない!」
 笙は、タダを捏ねる子どものように首を振って拒絶した。
「俺には、おまえのその気持ちが重いんだよ!」
 大聖の言葉に笙はみるみる青ざめて絶句した。笙の悲愴な表情に、大聖はすぐに言い過ぎたと気づいた。しかし、大聖が言い繕う間もなく、笙は無言で踵を返すと、逃げるようにマンションを出て行ってしまった。


 翌日、大聖から事の次第を聞いた坂本は、思いっきり呆れた顔で眉を顰めた。
「幸宏がさ、笙くんに訊いたことがある。『好きなのに、そんな生殺しのような関係で苦しくないのか』って。笙くんは、なんて答えたと思う? 『大聖さんが生きていてくれれば、それだけで幸せです』、そう言ったそうだ。」
 弾かれたように顔を上げた大聖を、坂本は憐れむように眺めた。
「これまで、何一つおまえに逆らったこともなく、何もかもおまえの望むままにしてきて、あの子はそれでも、おまえに何の見返りも求めていないんだ」
 大聖は改めて自分の失言を悔いて苦しげに眉を寄せた。そんな大聖を見て、坂本は虐めすぎたかな、と苦笑する。
「そこまで笙くんに惚れられるなんて、おまえは、たいした奴だよ」
 勇気づけるように言ってやると、大聖は途端に目を輝かせた。相変わらず単純な男である。坂本は、やんわり諭す口調で続けた。
「笙くんは、いつまでも泣いて怯えてばかりいる子どもじゃない。そして今、おまえは生きている。生きて、あの子の手が届くところにいるんだ」
 その瞬間、大聖の中ですべてがひっくり返された。
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