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イノセント・前編     月桜可南子
           act.1
 春眠暁を覚えずと言うが、大河内恭介(おおこうち・きょうすけ)の場合、暁を遙かに通り越して昼近くになってもベッドを出ない自堕落な生活だ。昨夜も午前2時まで編集者と飲んで、二日酔いで呻きながらベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
「先生、おはようございます。お風呂の支度ができました」
 寝室のドアがノックされ、控えめな声が告げた。声の主は先月から大河内の秘書を務めている遠野優(とおの・すぐる)だ。名前の通り、もの柔らかな性格の優は、我が侭で癇癪持ちの大河内をやんわり受け止める寛容さを持っていた。年齢は大河内より一周りも年下なのに、優といるとまるで母親に庇護されているような錯覚を覚える。細やかな気配りで、執筆のためにベストの環境を整えてくれる優を、大河内は雇って僅か一週間で手放せなくなった。
「トマトジュースだけでいい」
 羽布団の中に潜ったまま大河内が言うと、優はそれ以上、無理に起こそうとはせず「わかりました」とだけ答えて、静かに部屋を出て行った。
 結局、大河内はそれから30分余りも経ってから、やっとキッチンに現れた。ダイニングテーブルの椅子にドカリと腰を下ろすと、優が用意したトマトジュースを無言で飲み干す。
「13時から、インタビューの記事に使う写真撮影のため、カメラマンの方がいらっしゃいます。16時には、K社の田所さんが原稿を取りにみえ、ついでに次回作の打ち合わせもしていただきます。夜19時からは画廊のオープニング・パーティーがあります」
 優が一日のスケジュールを告げると、大河内は黙って頷いた。しかし、ちゃんと頭に入ったかどうかはかなり怪しい。寝起きの大河内は信用できないと、優はこの一ヶ月でしっかり学習していた。
 小一時間ほどで、大河内は風呂を使い、髭を剃り、髪を整え、写真撮影に備えてブルーのスーツを着て書斎に現れた。机の上に散乱した資料を整理していた優は、すぐに手を止めて大河内を執筆に集中させるべく、軽く一礼すると仕事部屋を出て行った。
 午後12時30分、優は小さくノックすると静かに室内に滑り込んできた。手に持ったトレーには、仕事をしながら食べられるよう一口サイズにカットされたサンドイッチとコーヒーが載っている。それを黙ってサイドテーブルに置くと、入ってきた時と同じように物音を立てないよう静かに出て行く。流れるような動きは、見る者を魅了する優雅さがあったが、執筆に夢中になっている大河内は目もくれなかった。


「先生は、ご趣味がいいですね。品のいい子を秘書にしてみえる」
 撮影の合間、カメラマンに言われた一言で、大河内は初めて優の容姿を意識した。そういえば野暮ったい黒縁眼鏡に邪魔されて、優の素顔をきちんと見たことがない。
「大人しくて、気のつく子だから、助かってるよ」
 大河内がチラリと優に目をやると、優は家政婦の昌代と何やら話し込んでいた。真横から見るせいか、黒縁眼鏡に邪魔されることなく、優の整った横顔のラインがはっきりと見て取れる。華やかさこそないが、優には育ちの良さを感じさせる気品があった。顔立ちは平凡そのもので、特に目を引く美しさや存在感もない。しかし、その平凡さが安らぎや癒しを醸し出していることに、大河内は初めて気づいた。



           act.2
 編集者の田所は、大河内の大学時代のゼミ仲間で、仕事だけでなく、遊びでも良き相棒だった。学生時代から好奇心旺盛で、大抵の悪さは大河内と二人でやり尽くしていた。
 一昨年、駆け出しのファッションモデルと電撃結婚し、周りを驚かせた。今では愛妻料理でぶくぶく太ってしまったが、昔はソース顔のハンサムで、醤油顔タイプの大河内と並んで歩くと、女達は皆、目をハートにして群がったものだ。
「帆乃香に子供ができたんだ」
 開口一番、仏頂面でそう言った田所に、大河内はだから何だと言わんばかりに形の良い眉を寄せた。
「安定期に入るまで、寝室は別にするって言うんだ」
「そりゃ、お気の毒」
 ざまあみろと言わんばかりにせせら笑った大河内を、田所は憎々しげに睨み付ける。
「久しぶりに二人でナンパでもするか?」
 大河内らしい不謹慎な考えに、田所は盛大な溜息をついた。


 大河内が田所を伴ってパーティーに出かけた後、すぐる は書斎の掃除を始めた。書斎には、大河内の書き散らかした大切な創作メモがあるが、素人目にはゴミと判別がつかないため、家政婦の昌代は、書斎の掃除を許されていないのだ。
 極力、物を動かさないよう注意しながら、優は丁寧に机周りの埃を払い、散乱した物をあるべき場所に戻していく。主(あるじ)に不快感や違和感を与えないで、整理整頓された快適な空間を作り上げていくこの作業ができるのは、今は亡き大河内の母親と優だけだった。
 優は、一通りの整頓が終わると、両足に微かな痺れを感じて
リビングのソファーに腰を下ろした。昨夜から風邪気味で体調が良くないのだ。倦怠感に耐えきれず、背もたれに身体を預けると、猛烈な睡魔が襲ってきた。
 家政婦は、夕方4時に帰ったので、防音の完璧なマンションの中は恐ろしいほど静まりかえっている。大河内は田所と出かけると決まって午前様だ。優は、ほんの少し眠ってから、自分のアパートに帰ろうと目を閉じた。


 大河内が、売り出し中の彫刻家のお披露目パーティーに、出席する気になったのは、ぜひにと、画商の内田奈々衣(うちだ・ななえ)に請われたからだ。人気作家の大河内がパーティーに出席すれば箔がつくというわけだ。
 奈々衣は、大河内と離婚した後、父親の画廊を継いでやり手の画商として成功していた。別れた後も、頻繁にデートを重ねる二人に、周りの者は皆、なぜ別れる必要があったのかと首を傾げる。二人ともはっきりとした理由を語らないが、どちらも家庭向きの人間ではなかったというのが、友人達の憶測だ。
 パーティーの人混みの中、大河内の姿を見留めた奈々衣がシャンパングラスを掲げて優雅に微笑んだ。その指先には、口紅と同色の深紅のマニキュアが施されている。
「ありがとう、来てくれたのね。嬉しいわ」
 軽やかに歩み寄りながら、奈々衣は言った。ワインレッドのオーガンジーを贅沢にあしらったドレスが、彼女を神秘的に見せている。
「田所も連れてきた。ほら、そこのバーに張り付いてる」
「あらあら、困った男ね」
 さして気にした風もなく鷹揚に笑うと、奈々衣は大河内を見つめた。
「どう? 優くんとは、うまくやってる?」
「ああ、いい子を紹介してくれた」
「よかった」
 心底、安堵したように奈々衣が目を細めたので、大河内は苦笑した。
「なんだか子供を案じる母親みたいだな」
「そうよ。私くし、あの子を養子にしたいと考えてるの。両親も賛成してくれたわ。後は、あの子次第ね」
 意外な発言に、大河内は顔色を変えた。かつて奈々衣は、大河内の子供を堕胎したことがあるのだ。
「どうしたんだ? 子供は足手まといになるから欲しくないって言ったじゃないか!?」
「恭介、怒らないで。あの子は特別なの」
「どこが特別なんだ!? あんな、何の取り柄もない平凡なガキ…どこが!?」
 こみ上げる怒りを懸命に抑えながら、大河内は震える声で詰問した。奈々衣は、当惑した表情で大河内を見つめ、それから囁くように言った。
「いずれ、あなたにもわかるわ」



           act.3
 馴染みのバーで飲み始めてすぐ、田所の携帯が鳴った。そして妻から、つわりが酷いので早く帰ってきて欲しいと懇願され、巨体を揺らしてあたふたと帰ってしまった。
 一人取り残された大河内は、仕方なくバーボンを一杯飲み干すと店を出た。田所がいなくては、酔いつぶれる訳にもいかないからだ。自宅で心置きなく飲んで、やり場のない怒りを忘れたかった。
 タクシーでマンションに戻る途中、雨が降り出した。案の定、タクシーを降りた途端、冷たい風が吹きつけてきて、大河内は足早にエントランスに向かった。
「恭介…」
 消え入るようなか細い声で呼ばれて振り返ると、少女が素足で立っていた。殴られたらしい顔は、見るも無惨に赤黒く腫れ上がっている。季節はずれのサマーセーターには、ぽつぽつと血のシミがついて、少女は寒さに震えていた。
 3月中旬とはいえ、夜はまだ冷える。大河内は無言のまま、自分のジャケットを脱ぐと、少女に着せかけてやった。


 すぐる が目を覚ますと、あたりは深い闇に包まれていた。ほんの少し、そう1時間か2時間、眠ったら帰るつもりだったが、すでに時刻は深夜になっているらしい。
 慌てて起き上がり、帰宅するために火の元と戸締まりを確認していると、カチャカチヤと玄関ドアの開けられる音が聞こえた。大河内が帰ってきたのだ。
「すみません、ソファーでうたた寝してしまって……」
「なんだ、まだ居たのか」
 優を見た大河内は、不機嫌そうに言った。しかし、萎縮する優にはそれ以上関心を示さず、足早にバスルームへと向かった。
 優は居たたまれず、早く帰ろうとリビングを抜けて廊下に出た。そこで、玄関にうずくま る少女を見つけて仰天した。少女は素足で、おまけに血だらけで、明らかに尋常ではない。
「こんばんは、お邪魔してます」
 少女は、優を見るとふらふらと立ち上がって挨拶をした。しかし優は言葉が出てこなかった。ただ凍り付いたようにその場に立ちつくしていた。
「優、まだ居たのか。早く帰れ、もう12時を回ってるぞ」
 大河内のイライラした声に我に返り、優は助けを求めるように大河内を振り返った。だが、大河内は何一つ説明しようとはしなかった。
「千紗、そんなところで何してる。早く風呂に入れ」
「でも、あたし、足が泥だらけで……」
「馬鹿だな、そんな遠慮なんかしなくていい」
 大河内は、優しく笑うと少女を抱き上げた。白い腕が、縋り付くように大河内の首に回される。二人が奥へと消えていくのを、優は茫然と見ていた。



           act.4
 すぐる が、築25年の鉄筋アパートに帰り着いたのは、深夜一時過ぎだった。質素だが整然と片づけられた部屋は、まるで住人の心の内を現すかのようにひどく孤独だった。
 優は上着も脱がず、放心したようにダイニング・テーブルの椅子に腰掛けた。突然、荒野に放り出された子供のような心細さと、ちりちりとした胸の痛みに眠ることはおろか、動くこともできなかった。
 これまで大河内は、決して優をぞんざいに扱ったりはしなかった。気難しい大河内が、時折見せる不器用な優しさは、優に大きな幸福感を与えてくれた。
 それなのに今夜の大河内は、ひどく冷たかった。女性をマンションに連れ込んだのも初めてだ。
 突然現れた少女に動揺している自分に気づいて、優は苦笑した。全く、どうかしている。
 のろのろと立ち上がり、熱い紅茶を淹れた。喉が灼けそうなほど熱い紅茶を一口飲んで、胸の中に膨れあがっていた得体のしれない不安をなんとか鎮めることができた。
 

 いつも通り、優が午前9時に出勤すると、少女はダイニングでトーストを頬張っていた。
「おはようございます。あの…先生は?」
 優が、躊躇いがちに声を掛けると、少女は驚いたように顔を上げた。
「まだ、寝ているわ。彼が朝に弱いのは知ってるでしょう?」
「ええ…でも、今朝はあなたがいるから……」
「千紗よ、宮川千紗(みやがわ・ちさ)というの。これでも、君よりひとつ年上で、21歳なのよ」
 千紗は屈託のない笑顔を浮かべたが、殴られたらしい左頬は青く腫れ上がって痛々しかった。
「これはね、同棲してる男に殴られたの。恭介に殴られた訳じゃないから安心して」
 優の視線に気づいた千紗が、小さな声で言った。どうやら千紗は大河内の恋人ではないらしい。しかし、遙かに年上の大河内を呼び捨てにする彼女は、一体何者なのか……。
 優が考えあぐねていると、千紗が軽く舌打ちした。
「ああもうっ、鬱陶しいったら! 悪いけど、この包帯を巻き直してくれない?」
 言われて目をやると、千紗の右手に巻かれた包帯は、ずれてほどけかけていた。
「先生に巻いてもらったんですか? ひどい巻き方だなぁ」
 思わず笑ってしまうほど不器用な巻き方に、優は目を細めた。
「そうなのよ、一時間もしないうちに解けてきちゃった」
 優は千紗の包帯をいったん解き、ざっくり切れた掌の傷口に目を見張った。おそらく、ナイフで斬りつけられたのだろう。千紗の恋人は、とんでもない男だ。
「あなたって、器用ねぇ・・・」
 手際よく包帯を巻いていく優の指先を見つめながら、千紗が感嘆の溜息をついた。
「これくらい普通ですよ。先生が不器用すぎるんです」
 優が苦笑して答えると、二人の頭上から不機嫌な声が降ってきた。
「不器用で悪かったな」
 寝起きの大河内は、恐ろしく機嫌が悪かった。
 


           act.5
 3年前、大河内の勧めで新人賞に応募して小説家になったという宮川千紗みやがわ・ちさ は、締切り破りの常習犯だった。そのため、編集者の槇美保子まき・みほこ は、 千紗の担当になってから、生きた心地がしないとぼやきまくっていた。
 男運の悪い千紗は、次から次へと質の悪い男に引っ掛かって、トラブルを起こす。それが原因で原稿を落としたことも一度や二度ではない。今も締切りを4日後に控えて、この騒ぎだ。
 大河内からの連絡で駆けつけた槇が、デパートで千紗の着替えを買いそろえている間、すぐる は文房具売り場で、シャープペンや消しゴムといった文房具を買った。どれも千紗が愛用しているというメーカーのものだ。
 千紗は、身に付ける物にはまったく無頓着だったが、こと仕事道具に関しては煩かった。お気に入りの道具でなければ、執筆がはかどらないというのだ。
「大河内先生って、千紗さんを年の離れた妹だなんて言いながら、ずいぶん甘やかしているでしょ。案外、あの二人、うまくいくんじゃないかしら。ちょっと年が離れているけれど、二人がくっついてくれたら、どんなにいいことか……」
 何気ない槇の一言が胸に突き刺さり、優はそっと目を伏せた。昨夜見た、大河内に縋り付く千紗の細い腕が鮮明に蘇り、胸が苦しくなった。それが『嫉妬』と呼ばれる類のものであると、優はまだ気づいてはいなかった。
 領収書を貰うのに手間取って、待ち合わせ場所に5分ほど遅れてしまった優は、そこで男と揉めている槇を見つけて驚いた。
「槇さん! どうしたんですか?」
「遠野くん!!」
 優が駆け寄ると、男が振り向いた。鼻筋の通った甘い顔立ちだが、どこか軽薄そうなその顔に、優は凍り付いた。
 男は、大人しそうな優の外見から人畜無害と判断したのか、すぐに関心を槇に戻した。
「千紗の居場所を聞くまで、放さないぞ。はやく教えろっ!」
 男の苛々とした口調に、槇の表情がますます強張った。
「だからっ、千紗さんから連絡があるまで待ちなさいって言ってるでしょう!」
「このバカ女!! 殴られたいのか!?」
 男が拳を振り上げたのを見て、優はとっさに男に体当たりした。


「あたしは、ゴンチャロフのチョコが食べたいの! モロゾフなんてキライ!!」
 千紗のヒステリックな声が書斎まで響いて、大河内は眉を顰めた。どうやら家政婦の昌代が、ゴンチャロフとモロゾフのチョコレートを間違えて買ってきたらしい。
 締め切り前のストレスや、恋人との諍いで神経が高ぶっている千紗は、些細なことでヒステリーを起こす。大河内も身に覚えがありすぎるだけに、千紗の心境は手に取るようにわかった。しかし、昌代に泣かれても困るので、仕方なく仕事を中断して、千紗をたしなめるため客間に向かった。
 こんな時、優がいてくれたらと思わずにはいられない。千紗の身の回りの物を買いに行くという編集者の荷物持ちについて行かせたのが悔やまれた。
 優は、どんな理不尽な怒りもやんわり受け止めて宥めてくれる。優が側にいると、どんなに締切で切羽詰まっていても、心穏やかに平静でいられるから不思議だ。
 いつの間にか自分の中で、優がかけがえのない大きな存在になっていることに気づいて、大河内は動揺した。
 その時、玄関のインターホンが鳴った。これ幸いとばかりに、昌代が千紗から逃げ出して、玄関へと走って行く。それを見送って、大河内がそっと客間をのぞくと、千紗は布団の中に潜り込んで、ふて寝を決め込んでいた。大河内は、げんなりして溜息をついた。
 編集者の槇と優が戻ったらしく、リビングでは賑やかな話し声がしている。大河内が、優にモロゾフのチョコレートを買ってきて貰おうとリビングに顔を出すと、槇と昌代が優のシャツを剥ぎ取ろうと大騒ぎしていた。
「何をやってるんだ?」
 呆れた声で大河内が問うと、その隙に優は女達の手を逃れて大河内の背後に隠れた。
「優くんの怪我の手当をしようとしたら、嫌がって……」
 昌代が、大河内の冷たい視線に戸惑いながら答えた。
「たいしたことありませんから」
 大河内に無言で見つめられて、優は困惑した表情を浮かべた。
「でも、痛みで腕も上げられないじゃない」
 槇が心配そうに言い、昌代も隣で肯いた。
「見せてみろ、どこを怪我したんだ」
「肩を少しぶつけてしまって…でも本当に、たいしたことないんです。平気です」
「俺の部屋で手当てしよう。女どものいないところでなら、脱げるだろう?」
 大河内は、昌代から救急箱を奪い取ると、すたすたと書斎に入ってしまった。優はしばらく躊躇ったが、やがて諦めたように大河内の後を追った。


 午後の柔らかな陽射しの中で、優は怖ず怖ずとシャツを脱いだ。大河内は、その緩慢な動作に苛々したが、優の背中一面の醜い傷跡を目にして息を飲んだ。それは紛れもなく火傷と鞭の痕だった。
   
   

           act.6
 その夜、すぐる は悪夢にうなされて目を覚ました。身体がほてったように熱く、全身びっしょりと汗をかいていた。今さら、あの男のことなど思い出したくもなかった。気分が悪くなるだけだ。
 大河内が苦心して巻いてくれた包帯を解くのは躊躇われたが、汗ばむ身体をすっきりさせたくて、優はシャワーを浴びた。
 優は、力任せに壁に打ち付けられただけで、男からそれ以上の反撃にあうことはなかった。槇が、殴りかかろうとした男の脚にしがみついて動きを封じてくれたからだ。すぐに駆けつけた警備員に取り押さえられた男は、どこかに引きずられていった。
 紫色に腫れ上がっていた左肩は、湿布が効いたのか、幾分腫れも引いて痛みも和らいでいた。幸い内出血だけで、骨に異常はなかったから、3日もすれば痛みはなくなるだろう。それよりも背中の焼け付くような痛みがフラッシュバックして、優は唇を噛みしめた。
 10歳で養父に引き取られてから、7年もの間続いた虐待は、醜い傷跡となって、今も優を苦しめていた。優は傷跡を見られるのを怖れて、真夏でも決してタンクトップを着ないし、人前で素肌をさらすような水泳などは絶対にしない。だからアパートを借りるに当たって、優がたったひとつ望んだのは、風呂付きという点だけだ。
 ぬるめの湯に肩まで浸かると、身体の中から悪夢が溶け出していくようで、優は心底、ほっとした。
 優の背中を見ても、大河内は何も言わなかったし、何も尋ねなかった。黙って湿布を貼り、眉間に皺を寄せて包帯と格闘していた。不器用な大河内の指が不用意に患部に触れても、優は決して痛いとは言わなかった。ただ、少しでも長く大河内に触れていて欲しいと願っていた。
 大河内が、無神経な詮索や好奇心を一切示さず、見て見ぬふりをしてくれたのは、本当に嬉しかった。それは、決して優に対する無関心からではなく、大河内なりの思いやりなのだと思う。大河内はそういう男だった。
 口元を引き結んで、懸命に包帯を巻く大河内の顔を思い出して、優は胸が熱くなった。涙がこみ上げてきて戸惑い、そしてようやく自分の中に芽生えた大河内に対する恋心に気づいたのだった。


 リビングでひとり、ブランデー・グラスを傾けながら、大河内は眠れない夜を過ごしていた。脳裏に焼き付いて離れない優の背中の傷跡……。
 昔、田所と遊び回っていた頃、好奇心からSMクラブに行ったことがある。そこの常連客が自慢げに見せてくれた鞭の傷跡と同じだった。
 すぐる にそんな趣味があるとは思えないが、ならば一体どうしてそんな傷跡があるのだろうか……。
 元妻の奈々衣は、優を養子にしたいと望んでいるくらいだから、傷跡のこともきっと知っているに違いない。優のプライバシーを詮索する権利など自分にはないと知りつつも、大河内は電話に手を伸ばしていた。
 5回目のコールで、少し眠そうな奈々衣の声が聞こえた。
「相変わらずの夜鷹ね。こんな時間にどうしたの?」
「聞きたいことがあるんだ。遠野のことだ」
 側に誰かがいるわけでもないのに、大河内は無意識に声を潜めていた。
「優くんのこと?」
 大河内の声音に、電話の向こうの奈々衣が身構えるのがわかった。
「背中の傷跡を見たんだ。あれは…鞭の痕だろう? それに火傷の痕も。遠野は、誰かに虐待されていたのか?」
 しばらくの沈黙の後、奈々衣が大河内の好奇心を咎めるような声で言った。
「お願いだから、あの子をそっとしておいてやって。あれは、翼をもがれた痕なのよ。」



           act.7
 痛む左肩を庇いながらも、すぐるは、テキパキと住所録を整理していた。熱中しているのか、大河内の視線にも気づかない。それをいいことに大河内は、息を殺して優の横顔を見つめていた。
 優の顔は、可もなく不可もなくといった平凡なもので、取り立てて目を引くものではない。しかし、額から鼻筋、顎に掛けてのラインが美しかった。特に横顔となるとそれが顕著に現れて、その理想的なラインに見惚れてしまう。
 奈々衣は、優の背中の傷跡を「翼をもがれた痕」だと言った。もしかしたらそれは、本当なのかもしれない。一心不乱に仕事をしている優を見るとそんな気がしてくる。
 その時、客間からガタガタと物音がした。居候の千紗が、やっと起き出したらしい。
 千紗は、明け方、小説の後編をようやく書き上げて、張り付いていた編集者の槇を驚喜させた。当初の締切を8日も過ぎていたから、印刷が間に合うかどうかの瀬戸際だった。槇が密かに代替え原稿を用意していたことを大河内は知っている。
 作品を書き上げた千紗を労ってやろうと、大河内はドアをノックした。
「あたし、自分のアパートに戻るわ。彼が心配してるだろうから」
 大河内の顔を見るなり、千紗が切り出した。大河内は、呆れたように形の良い眉を顰めた。
「なんで、あんな男の処に戻るんだ? 暴力を振るわれて、憎くないのか?」
「普段は、優しい男なのよ。それに、いつまでもここに居候してるわけにもいかないもの」
「ずっとここにいればいい。ここが手狭だというなら、もっと広い所に引っ越してもいい」
 事務所と仕事場を兼ねた大河内のマンションは、5LDKもある贅沢なもので、二人で暮らしても十分な広さがあったが、旧家の広大な屋敷で生まれ育った大河内は、口癖のように狭いとボヤいていた。
「あなたと一緒に暮らす理由がないわ」
 大河内の思惑を推し量ろうとするかのように、千紗は首を傾げた。
「だったら、結婚しよう」
「そんな重大なことを思いつきで言わないでっ!」
 千紗は、声を荒げて一回りも年上の大河内を叱責した。その声に、仕事に熱中していた優も我に返った。何事かと、客間のある方の廊下をそっとのぞく。
「思いつきなんかじゃない、よくよく考えてのことだ。俺は、おまえがつまらない男に振り回されて、人生の無駄遣いをするのが耐えられないんだ」
「だけど達郎は、あたしを一人の女として愛してくれてるわ。恭介が愛しているのは、あたしの作品であって、あたし自身じゃない」
 図星を指されて、大河内の自信に満ちた瞳が、みるみる翳った。
「ごめんなさい。あたしを作家として育ててくれた恭介には感謝してる。けど、あたしは恭介の持ち物じゃないの」
 千紗は踵を返すと、逃げるように客間に戻った。大河内は言葉もなく立ち尽くしていたが、やがて大きな溜息をつくと諦めたように書斎に入った。


 しばらくすると、千紗が大きなバッグを持って客間から出てきた。書斎の隣に設けられた六畳半の事務室で、息を殺して事の成り行きを見守っていたすぐるに声を掛ける。大河内に丸聞こえなのは承知の上だ。
「タクシーを呼んだの。階下まで荷物を運ぶのを手伝ってくれない?」
「千紗さん…僕は、暴力を振るうような男のところに戻って欲しくないです!」
 優は懸命に訴えた。初めて会ったときの千紗の痛々しい姿が脳裏に蘇る。千紗は微笑し、静かに首を振った。
 優は途方に暮れて俯いた。千紗に、あの男の本性を洗いざらい話したら、考え直してくれるだろうか? しかし優には、とてもそんな勇気はなかった。おぞましい過去を知られるのは、気が狂いそうなほど怖かった。
「優は肩を痛めているんだ。荷物は俺が運んでやる」
 怒りを押し殺した声に、優が顔を上げると、大河内が腕を組んで立っていた。千紗は肩を竦めると、一番大きな段ボールを指さした。
「これをお願い」 
              


            act.8
 新刊のサイン会だというのに、大河内恭介は不機嫌だった。もともと愛想を振りまくのは大嫌いな性格だが、さらに今日は、無愛想に拍車がかかって手に負えない状態だった。宮川千紗の新刊の装丁をすることになった優が、千紗との打合せのため、サイン会に付き添わなかったからだ。
 担当編集者であり、大河内の親友でもある田所は、大河内の機嫌をとってくれる優がいないので、仕方なく予定を30分繰り上げてサイン会を終わらせた。
「飲みに行こう」
 ぶっきらぼうな大河内の誘いに、田所は肯きながらも憂鬱だった。こういう時の大河内は、決まって荒れるからだ。
「千紗ちゃんと優くんの交際に反対なのか?」
 優が、頻繁に千紗と連絡を取り合っているのは、田所も知っていた。どこか陰のあった優の顔に、わずかだが輝きが出てきたのは、恋をしているからに違いない。
「あの二人は付き合ってなどいない。千紗の本の装丁を遠野がやることになったから、その打ち合わせのために会ってるんだ」
 ジロリと睨まれて、田所は気まずさに饒舌になった。
「彼なら、きっといい装丁にしてくれるよ。今回のおまえの『黒いロザリオ』も、本当にいい出来だったからな。編集長も絶賛してたよ。闇とも海とも取れる濃紺の色彩が作品のテーマを巧みに暗喩していて、地味なようでいて存在感があるんだよな」
 大河内の本の装丁は、離婚してからもずっと元妻の内田奈々衣が担当していたが、本業の画廊の仕事が忙しいこともあり、奈々衣が優を代役として推薦したのだ。優は、画家だった養父から絵画の手ほどきを受けていたから、色彩には卓越したセンスを持っていた。
「確かに、俺もあんまりイメージにピッタリで、正直、驚いた。あいつを俺の秘書で終わらせるのは、惜しいと思ったから、千紗の装丁も引き受けるように言ったんだ。あいつには絵の才能がある」
「奈々ちゃんが、養子にして美大に通わせようとしたけど、断ったって聞いたぜ。あの仕事の鬼の奈々ちゃんが、養子に望むくらいだから、よっぽど才能があったんだろうなぁ」
 大河内は、優が養子の話を断ったと聞いて、優に対して抱いていた、嫉妬にも似た怒りが消えていくのを感じた。つまらない自分のプライドから、優に冷たく接したことに後悔を覚えながらも、優を手放さなくてよいのだという事実に安堵する。
「あいつは、装丁に興味があるようだから、そっちの方面で才能を伸ばしてやればいいさ」
 久しぶりに晴れ晴れとした気分になり、大河内は極上の微笑みを浮かべた。


 優は、真実を話せない良心の呵責から、ずっと千紗の身を案じていた。幸か不幸か、男には他にも女がいるらしく、千紗から巻き上げた金で遊び回り、金がなくなるとまた千紗の元に舞い戻るという生活だった。
 久しぶりに会った千紗の表情は明るく、毎晩、男からラブコールがあるとノロケていた。どうせ他の女のベッドから掛けているに違いないが、千紗は仕事で出張と信じ切っている。人一倍、洞察力のある彼女が、なぜか男の事となると盲目になるのが、優には不思議でならなかった。
 喫茶店で千紗のノロケを一通り聞き終わると、優は冷めてしまった紅茶をテーブルの脇に除けた。スケッチブックに描いた装丁のラフを見せるためだ。
「これ、僕なりにイメージを形にしてみたんですけど、見てもらえますか?」
「早いわね、もうできたの?」
「いいえ、これはまだ下描きです。直したいところや、気になるところがあったら教えて下さい」
「ふーん、下描きねぇ…」
 千紗は、興味深そうにスケッチブックを覗き込んだ。端から見れば、仲の良いカップルが和気あいあいと話し込んでいるように見えただろう。
「千紗っ!!」
 怒気を孕んだ声に、二人は飛び上がらんばかりに驚いた。
「タッくん!」
 千紗は、男を見ると心底、嬉しそうに立ち上がった。その様子に怒りが薄れたらしい男は、皮肉っぽく笑い返した。
「俺の目を盗んで浮気か?」
「やーね、仕事の打合せよ。装丁をお願いした遠野優くん」
 カラカラと笑い飛ばした千紗とは正反対に、優はみるみる青ざめた。男は値踏みするような視線で優を見やり、やがて面白そうに呟いた。
「すぐる…あの、優か?」
 男の目に宿った残忍な光に、優は叫びだし出したいほどの恐怖を感じた。そして千紗の呼び止める声にも振り向かず、まさに脱兎のごとく自分のアパートに逃げ帰ったのだった。



           act.9
 その夜、すぐるは一睡もできなかった。一晩中、何度も何度もドアや窓の鍵を確認し、周囲の物音に耳を研ぎ澄ませ、怯えながら朝を迎えた。
 すっかり神経をすり減らして、フラフラになりながらも、優は一人でいるのが怖くて、明るくなると逃げるようにアパートを出た。合い鍵で大河内のマンションに入り、寝室で熟睡している大河内の寝顔を見た瞬間、安堵のあまり涙が零れた。なぜだか、この男の側にいれば安全だと思えた。


 大河内は浅い眠りから、ぼんやりと覚醒した。ウトウトとまどろむ幸福に酔いながら、枕元に優が蹲っていることに気づき、のろのろと半身を起こした。
「優…?」
 優は眠っていた。まるで泣き疲れた幼児のような寝顔に、大河内は戸惑った。その痛々しさに、胸を締め付けられるような苦しさを覚える。
 起こそうとして手を伸ばしかけ、思い直して毛布を掛けてやることにした。しかし優は、大河内が毛布を掛けようとしたその瞬間、弾かれたように飛び起きた。
「……ぁっ!!」
 怯えた獣のように、優は部屋の隅まで一息に逃げると、ようやく相手が大河内であることに気づいて赤面した。
「すみません…僕……」
 うまい言い訳が思いつかなくて、優は狼狽した。
「シャワーを浴びるから、コーヒーを淹れておいてくれ」
 大河内も気まずさから、手にした毛布をベッドに放ると、バスルームへ向かった。
 叩きつけるような熱いシャワーを浴びると、大河内はしだいに頭がはっきりとしてきた。だが、脳裏に優の寝顔がこびり付いたまま消えない。
 なんだか優はひどく疲れているようだった。千紗の装丁で行き詰まっているのかもしれない。装丁に専念できるよう休暇を与えた方がいいのだろうか……。
 しかし、大河内は優を側に置いておきたかった。優が側にいるというだけで心が落ち着くからだ。精神安定剤のような優を、手放したくないという執着は日増しに大きくなるばかりだ。いっそ優をこのマンションに同居させようかと考えて、大河内はその考えを自嘲した。
 他人に、こんなにも執着し、のめり込むのは危険だ。それは、奈々衣との結婚生活で得た教訓でもあった。


            
           act.10
  大河内はコーヒーを飲むため、リビングに腰を落ち着けると、朝刊を読み始めた。すぐるは事務所部屋で、大河内がサイン会でもらってきた名刺をパソコンのデータベースに入力し始めた。どちらも、普段より3時間も早い朝の始まりについては触れなかった。
 優が用意してくれた昼食を食べると、大河内は睡魔に襲われた。珍しく早起きをしたためだ。差し迫った仕事がないのをいいことに、昼寝をすることにする。サボろうとすると、いつもやんわり引き留める優も、何も言わなかった。
 大河内が、ベッドに潜り込んでしばらくすると、枕元に置いた携帯が鳴り出した。電源を切り忘れたことに舌打ちし、大河内は携帯に手を伸ばした。


 優は、大河内の新刊を、取材でお世話になった人達に発送する準備をしていた。リストと通数を確認していると、昼寝をすると言って寝室に入った大河内が、突然、飛び出してきた。
 およそ彼らしくない乱暴な足音が気になって、大河内の駆け込んだリビングに顔を出した。すると、リビングの大きなテレビ画面には、目を真っ赤に泣き腫らした編集者の槇美保子が映し出されていた。
『宮川千紗さんは、バスローブの紐で首を絞められて殺されており、遺体は訪ねてきた編集者によって発見されました。警察は室内が荒らされ、現金や貴金属が無くなっていることから、強盗殺人事件として捜査を進めている模様です』
 千紗が…死んだ。あの男が殺したのだ。優は、本能的に直感した。他人を痛めつけることに悦びと快感を感じるあの男に……。
 だが、優は男の危険性を千紗に警告しなかった。自分の過去を知られたくない一心で……千紗を見殺しにしたのだ。
 食い入るようにテレビ画面を見つめている大河内の横顔を、優は怯えたように見つめた。千紗を見殺しにしたことを知ったら、大河内は自分を軽蔑し、憎むだろう。誰よりも尊敬し、愛して欲しいと願っている男に見捨てられるのだ。
 激しい後悔に襲われて、優は為す術もなくその場に座り込んだ。懺悔することもできず、罪の意識に苛まれながら、ただ千紗の冥福を祈ることしかできなかった。
 

 事務所の電話は鳴りっぱなしだった。千紗と親交のあった大河内のコメントを取ろうと、マスコミがこぞって掛けてきたのだ。FAXで千紗の死を悼む追悼文を流して、ようやく騒ぎが収まったのは夜の8時を回ってからだった。
 優は冷蔵庫をかき回して酒のつまみを作ると、大河内の仕事部屋をノックした。案の定、大河内はスコッチをストレートで煽っていて、酔いの回った目で優を見た。
「さっき、槇さんから電話がありました。お通夜は、明後日の夜6時30分からだそうです。花と盛り籠の手配をしておきました」
「冷静だな…千紗が死んだのに」
 大河内は皮肉っぽく言うと、グラスにスコッチをつぎ足す。優は、居たたまれず、黙ってその前につまみを置くと、部屋を出ようとした。
「優、もう少しだけ、ここにいてくれ」
 振り返ると、大河内の縋り付くような視線とぶつかった。優は小さく微笑み、大河内に歩み寄った。それから、泣き顔を見られまいと俯いた大河内の背中を、労るようにゆっくりと撫でた。
 あまりにも千紗の死が突然すぎて、大河内は混乱していた。生意気で我が儘放題だった千紗。勝ち気そうに見えても、精神的には酷く脆くて繊細だった。大河内を心から信頼し、頼り切っていた。彼女のナイフのように煌めく才能を愛していた。
「泣かないで下さい。千紗さんが、笑顔で旅立てるように…どうか泣かないで……」
 柔らかく抱きしめられ、大河内はその細い身体にしがみついた。怒りと悲しみに押しつぶされそうだった。
 不意に、額に優しいキスが落とされた。そして慈愛の雨のように顔中にキスの雨が降り注ぎ、ほんの一瞬、唇も掠めた。
 その瞬間、大河内は本能の命じるまま、優を抱き寄せていた。荒々しく貪るように唇を重ね、強引に舌を差し込んだ。
             


           act.11
 優は、大河内の悲しみを和らげたい一心で慰めていたのに、いきなり唇を奪われてパニックになった。驚きのあまり抵抗するのも忘れているうちに、仕事机に押し倒され、乱暴にシャツがはだけられて、ようやく状況を理解した。
 そこにいるのは、見知らぬ男だった。自分を貪り食おうとする獰猛な獣。
「い…ヤダァ!!」
 力一杯、大河内を突き飛ばすと、優は部屋を飛び出した。


 優に突き飛ばされ、床に尻餅をついた大河内は、しばらく放心したように座り込んでいた。酔いが冷め、しだいに冷静さを取り戻すにしたがって、激しい後悔が襲ってくる。
 いくら酔っていたとはいえ、よりによって優に欲情するとは……。誰よりも大切な存在だったのに。
 しかし、優の背中の傷跡を見た時から、大河内は自分の裡に暗い欲望が育ち始めていたことを知っていた。過去に、好奇心で男娼を抱いたことはあったが、どれも遊びに過ぎなかった。それなのに優に対して抱いた性的な欲望は、遊びと呼ぶにはあまりにも次元の違うものだった。
 大河内は、優のすべてが欲しかった。奪い、征服し、身体の奥深くで繋がり、一つに同化したい。それは未だかつて経験したことのない渇望だった。これを『恋』と呼んでいいものだろうか……。


「おい、玄関が開いていたから、勝手にあがらせてもらったが、鍵をかけないのは物騒だぞ」
 ドアからひょっこり顔を覗かせたのは、親友の田所だった。
「優と…すれ違わなかったか?」
「いや、何かあったのか?」
 田所が訝そうな表情で、のそりと室内に入って来る。大河内は、こめかみを押さえて逡巡した後、白状した。
「欲情したんだ……よりによって優に…」
「ふーん、千紗ちゃんがあんな死に方をして、相当、落ち込んでいると心配して来たが、坊やに手を出す元気があるなら大丈夫だな」
 飄々と言う田所の右手には、大河内の好きなスコッチの瓶が握られていた。
「犯人は、わかったのか?」
 大河内は、交友関係が広く、警察にコネのある田所なら何か知っていると思い訊いてみた。
「今、千紗と半同棲していた桑田達郎を重要参考人として捜しているらしい」
「こんな事になるなら、千紗を帰さず、ここに置いておけば良かった」
「彼女の運命だったんだ。もう考えるなよ。それより、坊やはどうだった。キスぐらいしたんだろ? それとも、うまいことハメたのか」
 好奇心丸出しで訊いてくる田所を、大河内は剣呑な表情で睨んだ。


                       
           act.12 
 夢中でマンションを飛び出したため、すぐるは財布の入ったジャケットを置いてきてしまった。仕方なく小雨のそぼ降る中、アパートまでバスで6区間の距離を歩いた。40分ほどかかってやっとアパートに辿り着いた頃には、すっかり疲れ果てていた。こんなに長距離を歩いたのは、久しぶりだった。
 優がボイラーの裏に隠したスペアキーで鍵を開け、電気をつけようとしたその時、室内を黒い影が動いた。身構える間もなく、鳩尾に拳を入れられ意識が遠退く。乱暴に室内に引きずり込まれて、首筋に冷たいものが突きつけられた。ナイフだ。
「優、遅かったじゃないか。待ちくたびれたぜ」
 男は、桑田達郎だった。千紗の恋人であり、かつて優の養父が命じるままに、優を犯した男だ。おそらく千紗のアドレス帳からこのアパートを突き止めたのだろう。
「ビクビクするなよ。それより話があるんだ」
 ひどく優しい声だった。優は、男に腕を引かれて促されるまま、ダイニングテーブルの椅子に座った。
「おまえに俺のアリバイを証言してもらいたい」
「アリバイ……?」
「俺は、おまえに再会して、昨夜からずっとこの部屋にいた。俺は、千紗を殺してない。警察にそう証言するんだ。いいな?」
 まるで子供に言い聞かせるように男が言った。優は男を凝視し、それから恐る恐る口を開いた。
「どうして……千紗さんを殺したの?」
「おまえに会ったからだ、優。会って思い出して、もう一度経験したくなったんだ。あのスリルを…。加減は知ってるつもりだった。まさか死ぬなんて、思わなかった」
 淡々と語る男は、罪の意識をこれっぽっちも感じていないようだった。
「僕は、嘘の証言なんてできないっ! 自首して下さい!!」
「忘れたのか? 俺がおまえのために嘘の証言をしてやったことを」
「!!」
 優は息を飲んで硬直した。すうっと身体の芯が冷えていく。
「だから優、今度はおまえが証言する番なんだ。嫌だというなら、俺はおまえの大事な男に、おまえが人殺しだってことを話してやる」



           act.13
 田所と二人で、家中の酒瓶を開けた大河内は、しつこく鳴らされるインターホンの音に目を覚ました。二日酔いで痛む頭を押さえながら時計を見ると、すでに午前10時を回っている。今日は日曜なので家政婦の昌代は休みで、仕方なく自分で玄関に出ると、二人組の刑事に警察手帳を突きつけられて面食らった。
「宮川千紗さんの事でお話を伺いたいのですが。先生は、かなり親しいお付き合いをなさっていたそうですね」
 二人のうち、若い方の男が慇懃無礼に質問してきた。
「それが何か? 俺が千紗を殺したとでも?」
 大河内は、容赦なく刑事を睨み付けた。
「いえ、そういうわけではありませんが、一応、関係者の聞き込みをさせて頂いているのです」
 大河内に気圧された若い刑事は、やりにくそうに目を逸らす。その時、奥から現れた田所が助け船を出した。
「大河内のアリバイなら、俺が証言します。一昨日の夜は、俺と赤坂のバーをハシゴして午前4時まで飲んでました。店の女の子達も証言してくれますよ」
「俺を調べる前に、千紗をしょっちゅう殴っていたヒモ男を調べたらどうなんだ」
 皮肉な口調で大河内が言うと、年配の刑事がようやく口を開いた。
「お宅の秘書の遠野優がアリバイを証言したのでね。捜査は振り出しに戻ったというわけです」
「優くんが!?」
 田所が驚いて身を乗り出した。
「古い知り合いだとかで、久しぶりに再会して、一晩中、遠野くんの部屋で飲んでいたそうです」
 若い刑事が得意げに話した。途端に大河内の顔が険しくなる。
「遠野とあの男は、ひと月ほど前にデパートで会っているが、知り合いだなんて言わなかった。それにその時、遠野はあいつに怪我をさせられているのに、酒なんか酌み交わすわけないだろう!」
 大河内の言葉に、二人の刑事は顔を見合わせた。


 優は、刑事達が帰った後、緊張が解けて、しばらく放心したように玄関に立ち尽くしていた。それから桑田に、「腹が減った」と言われて、朝食を作ったものの、とても喉を通らず、ガツガツとスクランブル・エッグを掻きこむ男をぼんやりと見ていた。
「おい、何をぼんやりしているんだ。早く荷物をまとめろよ」
 咎めるような口調で言われて、優は我に返った。
「東京を離れるんだ。しばらくは、沖縄にでも行って、のんびり暮らそう」
「どうして…? 僕はどこにも行きたくない」
 大河内の側を離れるのだけは絶対に嫌だった。それは生きる目的を失うことに等しい。
「俺と一緒に来るのが嫌だってのか?」
「お金ならあげる。全部、あげるから、僕を放っておいて!」
 男は大きな音を立ててフォークを投げ出すと、懸命に首を横に振る優の襟首を掴んだ。
「優…俺を見捨てるつもりなのか?」
 男の目に宿る怒りに、優は竦み上がった。それでも気丈に口元を引き結んで男を見返す。
「僕は、ここにいる。先生の側を離れたりしない!」
「心底、あいつに惚れてるんだな」
 男は嘲笑うかのように言うと、いきなり優の頬を力一杯、平手打ちした。その衝撃に眼鏡が吹っ飛び、優が痛みで茫然としているうちに、男はローリングの床に優を引き倒して、のし掛かってきた。
「やッ…なにを……」
「手荒くされるのが、好きだろう?」
 霞む視界の向こうで男が下卑た笑いを浮かべているのが感じられた。男の意図するところを悟った優は、死にもの狂いで逃れようと暴れた。しかし、男は難なく優の両腕を押えつけ、優が抵抗する気力を失うまで容赦なく殴り続けた。
 ぐったりと弛緩した優の身体から、男が手際よく衣類を剥ぎ取っていく。優の頬をぽろぽろと涙が零れ落ちた。これは、千紗を見殺しにした自分への天罰なのだろうか。絶望に蝕まれながら、優は為す術もなく泣き続けた。
            


           act.14
 両腕を縛られ口を塞がれたまま、優は男の陵辱に耐えた。何度、男に貫かれたのか、もう憶えていない。ただ、延々と続く責め苦が、一秒でも早く終わることだけを祈っていた。
 口の粘着テープを外され、反射的に目を開けると、唇に血にまみれたペニスを突きつけられていた。
「しゃぶれよ。やり方は、教えてやっただろう?」
 命じられるまま、優は口を開いた。かつて男から教えられた通りに舌を使う。後ろに挿れられるのが嫌で、積極的に口で仕えていたのを昨日のことのように思い出した。こみ上げる吐き気や息苦しさを懸命にやり過ごし、男を絶頂へと導いていく。
 あと少しというところで、男は優の口腔からペニスを引き抜くと、なんの躊躇いもなく優の顔に白濁した汚液をぶちまけた。怒りと屈辱で胸の内に凄まじい憎悪が沸き起こり、優は男を激しく睨み付けた。
「その目はなんだっ! おまえはいつからそんな目をするようになったんだ!!」
 男は、ヒステリックに喚くと、優を二度三度と殴りつけた。そして乱暴に優の左脚を肩に担ぎ上げると、残忍な薄笑いを浮かべた。
「たっぷりお仕置きをしないとな」
 優が恐怖に身を竦ませるのと同時に、男は裂けた後腔に五本の指を強引にめり込ませた。
「い、いぁ…ヤメ……アアァッ…」
 男の手が下肢を引き裂きながら侵入してくるのを感じて、優の全身にドッと冷汗が吹き出す。逃れようと無意識のうちに身を捩ると、さらに痛みが増した。
「フィストは、初めてだったな。じっとしてないと大怪我をするぞ」
 嬉々としてして言う男は、歪んだ欲望に酷く興奮していた。
『殺される!』
 朦朧とする意識の中で、優は漠然と死を予感した。


 大河内が、田所や刑事達とアパートのドアを蹴破った時、桑田達郎は優の身体に深々と右腕を埋めていた。あまりにショッキングな光景に立ち尽くした大河内だったが、刑事達の動きは俊敏だった。逃げる桑田を押さえつけ手錠を掛けると、すぐさま救急車を手配してくれた。
 優は、直腸からの大出血で一時は、ICUに入れられたが、なんとか5日ほどで一般病棟に移ることができた。
 病室には、奈々衣が付きっきりになっていた。できることなら大河内も付き添ってやりたかったが、優は男性を見ると怯えるのだ。大河内は、ナースセンターの側にある休憩室で、奈々衣から優の様子を聞くのが日課になった。
「頼まれた優の下着だ。他に必要なものはないか?」
「ありがとう、今のところ大丈夫よ」
 微笑んだ奈々衣は、看病疲れからか、少しやつれた様子だった。
「それで、具合はどうなんだ?」
「ええ、身体の方は順調に回復しているし、精神的にもかなり落ち着いてきたわ。でも面会は、もう少し待って」
「わかった……」
 傷ついた少年のように目を伏せた大河内に、奈々衣は慰めるように言った。
「あんな目に遭ったのだから、優くんが男性を怖がるのは当然よ」
 その言葉に、大河内は遂に溜め込んでいた不安を吐露した。
「…あの事件の前夜、俺は……優に欲情して押し倒したんだ…。だから優は、俺を怖がるんじゃないかと思う」
 奈々衣の瞳が、信じられないというように大きく見開かれた。
「まさか…優くんをレイプしたって言うの!?」
「いや、その前に逃げられた」
「どうかしてるわ! 一周りも年下の、それも男の子に手を出すなんて……。あなたは遊び人だけど、傷ついた人間や弱い人間には、とても優しい男だから、あの子を大切にしてくれると信じて任せたのに!!」
 語気も荒く、大河内を非難する奈々衣を、大河内は救いを求めるかのように見つめた。
「俺は、自分の感情をコントロールできないほど優に溺れているんだ」
 まるで血を吐くような告白に、奈々衣は絶句した。


   
   
          act.15
 自分の怒りを静めようと、奈々衣は休憩室の長椅子に腰を下ろし、数回、深呼吸を繰り返した。その間、大河内は審判を待つ罪人のように項垂れて立ち尽くしたままだった。その、およそ彼らしくない神妙さに、奈々衣はようやく怒りを静めることができた。
「二度と、あの子に近づかないで」
 奈々衣は、氷の女王のように冷ややかな瞳で大河内を見つめると、厳かに罰を宣告した。


 傷害罪での民事訴訟に、すぐるは同意しなかった。いぶかしむ刑事に、優は「生きていくために早く忘れたいんです」とだけ答えた。桑田達郎が宮川千紗の殺害を自供したことを、優が知ったのは、それから間もなくのことだった。
 優は、紅葉が真っ盛りの秋になってやっと退院することができ、静養のため、奈々衣の実家である内田家へと引き取られた。鎌倉にある屋敷は、大正時代の洋館を改築したもので、かなりの広さと部屋数に恵まれており、奈々衣の母親は大層世話好きな女性だったからだ。
 当初、優の父親が引き取ろうとしたのだが、父親の家は2LDKのマンションで、父の後妻が年頃の娘と義兄の優を同居させることに難色を示したため、優は奈々衣の実家で世話になることにした。できることなら一人で頑張りたかったが、弱った身体は思うように動かず、陰惨な記憶の残るアパートに戻るのも辛かった。いずれ体力が回復したら、新しいアパートを見つけて移り住もうと考えていた。
 退院したその夜、優は事件以来初めて大河内に電話した。一度、見舞いに来てくれた時、酷く取り乱してしまったせいか、それ以来一度も大河内は病室に現れなかった。もしかしたら、優が桑田の危険性を知りながら千紗に警告しなかったことを恨んでいるのかもしれない。あるいは、桑田に蹂躙された自分を軽蔑しているのかもしれない。そんな不安が頭をよぎって、優は携帯に伸ばしかけた手を何度引っ込めたことか……。
 退院の報告をするという大義名分ができた今こそ、大河内に電話しなければ、永遠に電話することができなくなるだろう。そうして自分は、永遠に大河内から忘れ去られてしまうのだ。そんな焦りに駆られて、優は勇気を振り絞ってダイヤルした。
『はい、大河内です』
 耳に心地よいバリトンに、優は思わず胸が熱くなった。改めて、自分は大河内を好きなのだと強く思う。
「もしもし、遠野です。今日、無事退院しました」
『そうか、良かったな。おめでとう』
 応えた大河内の声は、いくぶん固かった。やはり、せっかく見舞いに来てくれたのに取り乱してしまったことを怒っているのだろうか? と優は心配になった。
「お忙しい中、見舞いに来て頂きまして、本当にありがとうございました」
『ああ、気にしなくていい』
「体力が回復するまで、奈々衣さんのご実家にお世話になることになりました」
『そうか……』
 およそ大河内らしくない平坦な声音に、優は唇を噛みしめた。大河内のよそよそしさが、優の心に棘のように突き刺さり、血を流した。
「あの、どうぞお仕事頑張って下さい」
 震える声で、何とかそれだけ伝えると、優は電話を切った。どす黒い悲しみが毒のように全身に広がり、優は動くことができなかった。



          act.16
 10月の終わりともなると、朝晩の冷え込みも厳しくなる。夜型人間の大河内は、午前9時の電話にベッドの中で無視を決め込んでいた。やがて電話は留守電に切り替わり、奈々衣の取り乱した声が流れ出した。
『恭介、いるんでしょう!? すぐるくんが居なくなったのよっ! お願い、電話に出て』
「奈々衣、どういうことだ? どうしてなんだっ!?」
 跳ね起きた大河内は、受話器を掴んで叫んでいた。


 優は夜明けを待って、奈々衣の実家である内田家を出た。荷物は小さなボストンバックひとつ。宮川千紗の墓参りを済ませるまでの数日を生きるためだけなら、それで充分だった。身寄りのない千紗は、遠縁の親戚に位牌を引き取られ、岐阜県の山村の墓に遺骨が納められたと、編集者の槇から聞いていた。
 銀行のATMで交通費を引き出した優は、残高の多さに首を傾げた。家賃や光熱費の引き落としで、預金はマイナスになっているはずだったからだ。不審に思った優は、通帳を記帳して驚いた。未だに大河内からの給料振り込みが続いていたのだ。


 奈々衣から優が、『お世話になりました』と、だけ書き残して消えたことを聞かされた大河内は、昨夜の電話を思い出し、激しい後悔に襲われた。罪悪感と気まずさで、優に優しい言葉ひとつ掛けてやることができなかった自分が不甲斐なく、腹立たしかった。
 立ち回り先として最初に思いついた優のアパートに、車を飛ばして行ってみたが、気配はなかった。考えてみれば、あんな事件のあった現場に優が戻ってくるはずがない。大河内は、改めて自分が優の事を何も知らないと実感した。衰弱した身体で、優は一体どこに消えたのか……。
 奈々衣と携帯で連絡を取り合いながら、優が養父と住んでいたという目黒の洋館を訪ねた。現在そこには、養父の妹・英子が住んでいた。玄関に現れた英子に事情を話して、優が現れたら連絡してくれるようにと頼むと、英子は眉を顰めて言った。
「どの面下げて、この家に戻ってくるっていうんです。兄を見殺しにしたっていうのに」
「え?」
 大河内は、英子を凝視した。
「あの子は、発作で苦しんでいる兄を、見て見ぬふりして殺したんですよ。すぐに医者を呼べば助かったかもしれないのに」
「まさか…! どうしてそんなことを……」
「半身不随だった兄の世話をするのが嫌になったからに違いありませんよ。おまけに兄のモデルだった男と関係まで持って…汚らわしいったらありゃしない」
 吐き捨てるように言う英子に、大河内は激しい嫌悪を抱いた。この女は、優が虐待を受けていたことを知らないのだろうか。 ノーマルの優が、自分から男と関係を持つはずがない。レイプされたのだ。おそらく養父の差し金で……。優は、どんな思いでそれに耐えたのだろう。再婚した父親に助けを求めることもできずに。
 大河内には、養父の死を怯えて待つ優の心の内が手に取るようにわかった。あの優しい優に、それがどれほどの罪悪感をもたらし、苦しめたか。それを思うと、キリキリと胸が痛んだ。
        


          act.17
 横浜は坂が多い。すぐるは改めてそう思った。
 この坂を上りきれば大河内のマンションなのに、弱った脚は鉛のように重く、一向に前に進まない。坂の途中の民家の壁に凭れて休んでいるうちに立っていられなくなり、優はぐずぐずとその場に座り込んでしまった。
 大河内に給料を返したら、岐阜行きの新幹線に乗るつもりだったのに、体力を使い果たして指一本動かすのさえ億劫だ。思うように動かない自分の身体が情けなくて、優は唇を噛みしめた。
 秋の夕暮れは瞬く間に闇に取って代わり、薄手のトレーナーを通して冷気が押し寄せてくる。朦朧としてくる意識の中で、優は懐かしい母の声を聞いたような気がした。


 腕に刺すような痛みを感じて、優は目を覚ました。
「ああ、動かないで。すぐ済むからね、熱を下げるための注射だよ」
 白衣を着た初老の男が穏やかに微笑んだ。その背後に大河内と田所の顔を見つけて、優はここが大河内のマンションであることに気づいた。しかし全身が怠くて起き上がることができない。
「すみません」
 なんとかそれだけ言うと、大河内が固い表情のまま頷いた。
「熱が下がれば、ぐっと楽になる。脱水症にならないよう水分をたっぷり摂るんだよ」
 医師から注射器を受け取った看護婦が、テキパキと医療器具を片づけていく。大河内は、医師と看護婦を見送るため二人について部屋を出て行った。
「みんなを心配させやがって。俺が見つけなかったら、肺炎を起こしてたかもしれないんだぞ」
 田所が鼻の穴を膨らませて言った。
「すみません」
 優は自己嫌悪で泣きたい気分だった。
「まあ、いいさ。もうすぐ奈々ちゃんもここに来る。たっぷりお説教を聞くんだな。女は説教が大好きだから、黙って聞いてやるのが男の甲斐性ってもんだ」
 田所はそう言って豪快に笑った。
 

 それから一時間ほどで到着した奈々衣は、優の顔を見るなり安堵のあまりへなへなとその場にくずおれた。
「無事で良かった…本当に良かったわ」
「ごめんなさい」
「どうして大河内の所へなんか…うちがそんなに居心地悪かったの?」
「まさか、そんなことありません。大河内先生から振り込まれた給料をお返ししようと思って来ただけです」
「給料?」
 奈々衣は、不思議そうに大河内を振り返った。大河内が、決まり悪そうに口を引き結ぶ。
「僕のデイバッグに引き出したお金がありますから、先生にお返しして下さい」
 淡々と話す優に、大河内は憮然として言った。
「それで、俺との繋がりを断ち切るつもりなのか?」
「先生…?」
 優は、大河内の苛立ちに狼狽したように目を見張った。大河内は、優を怯えさせてしまったことに気づき、慌てて言った。
「俺は、身体が回復したらまた戻ってきてもらいたいと思っているから、給料を振り込んでいたんだ」
「呆れた人ね」
 奈々衣が怒りを露わにして言った。
「あなたみたいなロクデナシの所に、優くんが戻るわけないじゃないの!」
「ロクデナシに、優を紹介したのはおまえだろう!」
「まさか優くんを押し倒すような馬鹿な真似をするとは思わなかったからよっ!!」
「死ぬほど後悔してるから、おまえに懺悔したのに、まだ俺を責めるのか!?」
「あなただって、私が子供を堕胎したことをしつこく責めたじゃない!!」
「それとこれとは、話が違うだろう!」
 激しい言い争いに険悪な空気が流れ、大河内が部屋を出ようとしたその時、ようやく優が口を開いた。
「僕は、先生の秘書を続けたいです」
 奈々衣が、信じられないというように優を振り返った。
「決まりだな。優の面倒は俺がみる」
 大河内は不敵な笑みを浮かべて宣言した。

 To be continued      後編へ  

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