*しおり* | 前編へ | act.17へ | act22へ | act.26へ |
イノセント・後編 月桜可南子 | |
act.18 「優…あまり長居すると風邪をひく。そろそろ帰るぞ」 宮川千紗の墓前で、どれくらい冥福を祈り続けていたのだろう。優は大河内に声を掛けられて我に返った。 昨日、今年初めての雪が降ったという岐阜県の山村は、あちこちに溶け残った雪が見られる。肌を刺すような寒気に、大河内は不機嫌この上ない。それでも、優を一人で墓参りに行かせることに不安を覚えて、ここまで付いて来たのだ。 「納骨で来たときは汗だくになったのに、今度は寒さで凍えそうだ」 ぶつぶつと文句を言いながらも、さりげなく優の肩を抱いて、寒さから守ろうとする。 「早く温泉につかって、美味いものを食おう」 悲しみを振り切るように、大河内は明るく言った。優は終始無言だったが、大河内は気にした風もなく、優の歩調に合わせて墓地を後にした。 人前で肌を晒すのを嫌う優のために、大河内は露天風呂付きの部屋を取った。それでも、外が明るいうちは決して風呂に入ろうとせず、夜の帳が降りてようやく湯につかった優に、大河内は心の傷の根深さを痛感した。 部屋に運び込まれた夕食は、豪華で食べきれないほどだった。いつも食の細さで家政婦の昌代を嘆かせる優も、昼間、外を歩き回ったせいか、よく食べた。 「正月はどうするんだ? 奈々衣がニースへ連れて行きたいと言っていたが」 大河内が、熱燗をあおりながら尋ねた。 「そのお話なら、お断りしました。アパートの片付けをしたいので」 優は、大河内のマンションで二週間ほど静養した後、新しいアパートに引っ越した。溜まった仕事を優先したため、荷解きは半分もできていない。 「まだ整理していない段ボールが4つもあるんです」 秋に大河内の代表作『視線』の映画化が決まり、大河内は多忙を極めていた。そのスケジュールを管理する優も、当然ながらハードな毎日だ。加えて大河内はどこへ行くにも優を離したがらず、それに付き合わされる優は大変だった。 小さく肩を竦めた優に、大河内が仕方なさそうに言った。 「不自由はないのか? 一日くらいなら休んでもいいぞ」 「いいえ、大丈夫です。生活に必要なものは揃っていますから。整理していないのは、母の形見や思い出の品とかなんです」 優の返事に、大河内はふと思いついたように質問した。 「お袋さんは、どんな女性だったんだ?」 「奔放な人でした。僕には優しかったけれど……」 言葉を濁した優は、困惑したように目を伏せた。大河内はすぐにそれが優にとってタブーな話題だと悟り、話題を変えようとした。 「親父さんには、ちゃんと電話してるのか?」 「はい。父には、いろいろ迷惑を掛けてしまったから……。入院費も少しずつ返していこうと思ってます」 「親子なんだから、もっと甘えてもいいんじゃないか?」 大河内は、優の遠慮が理解できず、呆れたような声を出した。優はまだ19才だ。いくら養子に出したとはいえ、未成年の子供を、実の親が面倒を見るのは当たり前のことだ。 「僕はたぶん…高岡の父の子供ではないと思います」 優が、消え入るような声で言った。 「どういう…ことだ?」 刺身をつまみかけた大河内の動きが止まった。 「母は、養父の愛人だったそうです。母が亡くなってすぐに、伯母が教えてくれました。でも母は、本当の父親が誰なのか、姉である伯母にも話さなかったそうです」 そして優は、苦しそうに呟いた。 「養父が僕を抱かなかったのは、自分が実の父親だと考えていたからだと思います」 act.19 仲居が並べて敷いてくれた布団に入り、照明を落としても、大河内はなかなか寝付けなかった。それは優も同じなのだろう。隣の布団で息を殺して横たわっているのが感じられた。大河内が何度目かの寝返りを打ったとき、優がひっそりと口を開いた。 「先生…裁判が進めばいずれわかることですから、今、お話ししておきます」 天井を見上げたままの優の横顔を、大河内は黙って見つめた。中性的で柔らかな線を描くその横顔を、今まで何度、盗み見たことだろう。 「桑田は、養父の愛人でした。僕は、桑田の残虐性を知っていました。でも、自分の過去を知られるのが恐くて、千紗さんに桑田の危険性を教えませんでした」 優は高ぶる気持ちを抑えようとするかのように、大きく息を吐いた。 「僕が桑田のアリバイを偽証したのは、借りを返すためです。僕は、養父を見殺しにしました。発作を起こした養父の側で、呆然と蹲っていた僕を、桑田は何度も犯しました。セックスに夢中で、発作に気づかなかったことにしようと……。その代わり、遺産の半分をよこせと言われました。でも遺産は、僕達に怒った養父の遺族に渡ってしまって、彼は姿を消してしまいました」 「なぜ虐待されたんだ? 実の息子とまで考えていたのに、養父の異常な虐待はなぜなんだ」 「最初の折檻は、脳溢血で半身不随になった養父の絵に、僕が筆を入れたのが原因でした。奈々衣さんに、『受けてしまった仕事だけはこなして欲しい』と頼まれて、描きかけの作品を僕が仕上げたんです。養父のタッチや配色の癖は、誰よりもよく知っていましたから……。でも養父が怒るのは当然です。僕は養父の聖域を冒涜したんです」 皮肉なことに、その作品は画家本人が描くよりも素晴らしいものに仕上がったのだろう。優の才能…それが画家の嫉妬心に火を付けたのだ。そして、思うように動かない身体への苛立ちと相まって、嫉妬は凄まじい憎悪へと成長した。 「僕を折檻した後、養父はいつも涙を流して謝りました。悪かった、二度としないと……。だけど初めは数ヶ月に一度だった暴力も、しだいに間隔が短くなって、どんどんエスカレートしていきました。僕が、桑田に犯されたのは16の時です。初めて逃げたいと思いました。でもすでに高岡の父は再婚していて、僕には逃げる場所がなくなっていたんです」 「奈々衣は、虐待に気づいたんだな」 「はい。奈々衣さんは本当に親切にしてくださいました。僕が自活資金を貯められるようにと、画廊でアルバイトさせてくれたり、養父の機嫌の悪い時には、彼女がうまく養父を言いくるめてマンションに泊めてくれたりしました」 大河内は、躊躇いながらも訊いた。 「奈々衣と…寝たのか?」 act.20 「……どう答えていいのか。僕は…できなかったんです。それで、何となく奈々衣さんと疎遠になってしまって……。でも養父が亡くなって、僕が住んでいた家を追い出された時、真っ先に手を差し伸べてくれたのは奈々衣さんでした。『恋人になれないなら、母親になりたい』と言われました。狡いけれど、僕には頼れる人がいなくて彼女の厚意に甘えたんです」 優の話に、大河内は安堵を覚えた。そしてそんな自分に驚いた。 「奈々衣は利口な女だ。自分の得にならないことはしない。よっぽどおまえの才能が欲しかったんだな」 「僕を軽蔑しないんですか?」 「俺は傲慢な人間ではないつもりだ」 大河内は苦笑した。優は暫く沈黙し、やがて小さく身じろいで言った。 「先生に出会えて、本当に良かったと思います」 闇の中で、優がポツリと漏らしたその一言に、大河内は胸を締め付けられるような感動を覚えた。沸き上がる愛おしさに目が眩みそうになる。優を力一杯抱きしめたいという衝動を堪えようと、大河内は寝返りを打って優に背を向けた。 「おやすみ、時間になっても起きなかったら起こせよ」 わざとぶっきらぼうに言うと、優は小さく「はい」と応えた。昼間の疲れが出たのだろう、優はそのまますぐに寝入ってしまった。そして大河内は、明け方近くまで優の寝顔を見つめていたのだった。 二人が宮川千紗の墓参りから戻ると、すぐに編集者の槇が千紗の遺作となった『聖夜』を持ってやってきた。装丁は出版社のデザイナーに任せたが、表紙のイラストは優が病院のベッドで懸命に描き上げたものだ。 「タイトルに合わせてクリスマス・イブに発売なんです」 そう言った槇は、酷く老け込んで見えた。千紗の葬儀や納骨、遺品や遺稿の一切合切を処理して精魂尽き果てたと言った方が正しいかもしれない。 槇が帰った後も、大河内と優がしんみりしていると、今度は田所がやって来た。妻が出産のため里帰りしていて、どうにも退屈で堪らない田所は、連日のようにやって来て、大河内を飲みに誘うのだ。 いつもなら忙しいからとすげなく追い返すのだが、ブルーな気分を振り払いたいと思ったのか、大河内は連載のエッセイを一本書き上げると、田所と出かけた。 翌朝、優がいつものように合い鍵でマンションのドアを開けると、深紅のハイヒールが廊下に転がっていた。その向こうに落ちているのは大河内のジャケットだ。 寝室の入口まで点々と落ちている二人分の服を拾い集めながら、優は深い溜息を吐いた。大河内は、遊びならホテルを使う。それが自分のマンションに連れ込むくらいなのだから、よほど女を気に入ったのだろう。そう考えると優はいたたまれなかった。 今日は雑誌のインタビューが入っている。銀座の料亭で昼食を摂りながらということになっているので、そろそろ起きないと間に合わない。起こしたものかどうかと逡巡していると、寝室のドアが開く小さな音がした。ダイニングの椅子に座り込んでいた優が、コーヒーを淹れようと立ち上がると、そこに現れたのは大河内のパジャマを羽織った奈々衣だった。 act.21 奈々衣が逃げるように帰った後、優はようやく我に返った。喩えようのない不安と苛立ちに呵まれながらも、大河内を起こして身支度を整えさせる。嫉妬で気も狂わんばかりになっている自分の醜さを悟られまいと、優は努めて平静を装って、銀座の料亭まで車を飛ばした。 大河内が奈々衣を抱いたのは、単に性欲処理として、ホステスやモデルを抱くのとは、明らかに違う。昔、何があって離婚したのかは知らないが、二人は別れてからもずっと友人として付き合ってきた。それは互いに未練があったからに違いない。そんな二人が、再び身体の関係を持ったのは、もう一度やり直す決心がついたということなのだろう。 優は、奈々衣が好きだ。しかし、それ以上に大河内を愛している。大河内が奈々衣と結婚したら、果たして自分はそれに耐えられるだろうか……。いっそ見ず知らずの女なら、まだ耐えられたのにと思う。 その時、優は心の奥底に、大河内に対する肉欲が芽生えていることに気づいた。尊敬と憧憬の対象である大河内に抱いた劣情に、優は怯え狼狽した。 大河内は、後悔に落ち込んでいた。 死んだ千紗のことでセンチメンタルな気分になっていた大河内は、接待のため客を連れてバーに現れた奈々衣に、必要以上に優しくしてしまった。田所が気を利かせて、奈々衣の連れを他の店へ連れ出したのもまずかった。大河内は、白い胸の谷間に吸い寄せられるように、奈々衣を抱いてしまったのだ。 目覚めると、すでに奈々衣は消えていて、固い表情の優に急き立てられて仕事に出た。元々、寡黙だった優が、あの日以来ますます寡黙になった。離婚した元妻と関係を持ったことに呆れているのだろう。 柄にもなく大河内は優の機嫌を取ろうと、忘年会と称して、マンション近くのフランス料理店『シャロン』へ優を連れ出した。だが、大河内の期待に反して一向に会話が弾まない。 「どうした? 料理が口に合わないのか? やけに無口だな」 沈黙に堪りかねた大河内は、黙々と料理を口に運ぶ優に声を掛けた。優は弾かれたように顔を上げ、すぐに微笑みを浮かべて見せた。 「とても美味しいので、食べるのに夢中になっていました。すみません」 「たまには飲めよ。上物を奮発したんだから」 「はい、ありがとうございます」 本当は辛口が好きな大河内が、優のために口当たりの良い甘口のワインをオーダーしたのを無下にもできず、優は普段飲まない酒をかなり飲んだ。うっすらと染まった目元が初々しくて色っぽい。大河内が見惚れていると、突然、優の頬を大粒の涙がぽろぽと零れ落ちた。 「どうしたんだ?」 大河内に戸惑ったように見つめられ、優は真っ赤になって涙を拭った。 「飲み過ぎたみたいです。なんだか涙腺が緩んでしまって・・・」 「泣き上戸だったのか」 大河内は苦笑し、優の気分が落ち着くまでマンションで休ませることにした。 |
act.22 大河内のマンションに戻ると、優は洗面所で顔を洗った。瞼が腫れて情けないありさまだ。アルコールで、張りつめていた気持ちが緩んだのだろう。不覚にも大河内の前で泣いてしまったのが今さらながら恥ずかしく、居たたまれない気分になった。 大河内が奈々衣と関係を持ったことに嫉妬し、報われない恋の惨めさに、気づいたら泣いていた。かつては側に居られるだけで幸せだったのに、いつの間にこんな欲張りになってしまったのかと、優は自分を叱った。 「やっぱり、子供には酒よりこれだな」 優がキッチンへ行くと、大河内は笑ってココアの入ったマグカップを差し出した。端正すぎて冷たく見える大河内の美貌も、こうして笑うと惚れ惚れするほど魅力的になる。 「ありがとうございます」 カップを受け取る瞬間、微かに指先が触れ、たったそれだけで優は涙がこみ上げてきた。大河内が好きだと強く思う。なりふり構わず、泣き叫びたいほどに……。 再び優の頬を零れ落ちた涙に、大河内は目を見張った。 「何か悩みでもあるのか? 話してみろよ、ん?」 額をくっつけるようにして、精悍な微笑みを向ける。優はその微笑みに触発されて、肉欲という甘い毒が全身に広がっていくのを感じた。 「あなたが好きです」 優は囁くように言うと、手にしたマグカップを両手できつく握りしめた。大河内は、叱られた子供のように怯えている優を無言で見つめると、ココアの熱で火傷しないよう優の手からマグカップを取り上げた。 カップが、すぐ側のダイニングテーブルに置かれるのを目で追いかけていた優は、大河内に顎を捕らえられて、びくりと身を竦ませた。大河内の指先が躊躇うようにゆっくりと優の頬を撫で上げる。 涙を溜めて何かに耐えるように唇を噛みしめる優は、怖ろしく扇情的だった。奈々衣との約束がなければ、すぐにでも押し倒してしまったことだろう。しかし一周りも年下の、それも同性の優を抱くということは、決して一夜限りの遊びなどでは済まされない。ましてや酔った勢いなどという言い訳も許されない重大な行為だった。 「まだ酔ってるのか?」 大河内の問いに、優ははっきりと首を横に振った。そして迷うことなくその言葉を口にした。 「抱いて下さい」 愛されなくてもいい。身体を重ねることで、わずかでも大河内の気を惹くことができるなら……。だが、大河内は眉を顰めると、怒気を孕んだ声で優を威嚇した。 「俺を怒らせたいのか?」 優は一瞬怯んだが、真っ直ぐに大河内を見つめ返した。一途でひたむきな眼差しに、反対に大河内の方が気圧されてしまう。 「せっかく理性を総動員して我慢してるのに…自制が利かなくなるじゃないか……」 小さな吐息と共にぼやく。それを聞いた瞬間、優は夢中で大河内に縋り付いて唇を重ねた。 最初は唖然としていた大河内も、すぐに理性のタガがはずれて情熱的に舌を絡ませた。抱き寄せた優の身体は小刻みに震えていたが、縋り付く腕は溺れる人のようにしっかりと大河内を掴んで離そうとはしない。いじらしさに思わず胸が熱くなった。 物静かで慎重な優が、ここまで思い詰めてしまったのだ。もう作家と秘書の関係に戻ることなどできないと悟り、大河内は観念したように腕の中の細い身体を組み敷いた。 act.23 翌朝、何事もなかったかのように、優は有能な秘書の顔で大河内を起こした。新潟の旧家に生まれた次男坊の大河内は、上京するに当たって母親と、正月には必ず実家に帰るという約束をした。それは母親の亡くなった今も律儀に守られており、大河内は優の素っ気なさに戸惑いながらも、急かされるまま慌ただしく帰省の新幹線に乗車したのだった。 成功した男のご多分に漏れず、大河内も下半身のだらしない男だ。しかし遊びで優を抱くほど、ロクデナシではない。それなりの覚悟を決めて、優を抱いた。 ところが、優は行為が終わった途端、夢から醒めたように大河内の腕を逃げ出した。もしかしたら優は、作家と秘書という一線を越えたことを後悔しているのだろうか? 大河内は、優が調達してくれた弁当と缶ビールを眺めながら、なぜ自分の隣に優が居ないのだろうと思った。優には帰省する家はない。優が、ひとりぼっちで新年を迎えることに思い至り、大河内は愕然とした。 優は、大河内をホームで見送って自分のアパートに戻るなり熱を出してしまった。予定通り大河内を帰省させて気が緩んだのか、朝はなんともなかった身体のあちこちが痛む。 かつては、おぞましいとしか感じることのできなかったその行為が、たまらなく愛しかった。大河内の巧みなキスに翻弄されているうちに、慈しむように蕾を解され灼熱の肉棒がねじ込まれた。男の情熱を受け止めながら、この瞬間が永遠に続けばと、どんなに強く願ったことだろう。 しかし、優は奈々衣に対する後ろめたさに、大河内と関係を持ってしまったことを激しく後悔した。所詮、自分が奈々衣に敵うはずもなく、大河内にしてみれば、遊びで据え膳に手を出したに過ぎない。愛される可能性などないのだと優は自嘲した。 腰の怠さに勝てず、ベッドで横になっているうちに眠ってしまったらしい。しつこく鳴らされるドアホンの音に目を覚ますと、すでに外は真っ暗だった。ノロノロと起き上がって玄関に出る。 「どちら様ですか?」 用心深く声を掛けると、苛ついた声が応えた。 「大河内だ」 帰省したはずの大河内の声に、優は飛び上がらんばかりに驚いた。 「先生っ、どうして……」 ドア・チェーンを外すのももどかしく、慌ててドアを開ける。そこには仏頂面の大河内が立っていた。 「具合が悪いのか?」 いきなり詰問されて、優は困惑した。寝癖のついた髪を手櫛で整えながら、「どうぞ、入って下さい」と大河内を招き入れる。大河内は、朝持って出たボストンバッグを部屋の隅に投げ出すと、寝乱れたままのベットを一瞥し、視線を優に戻した。 「熱はあるのか?」 「いえ…ひと眠りしたら、楽になりました」 優は、大河内が何を怒っているのかわからない不安に戸惑いながら答えた。 「そうか…携帯に出なかったのは、眠っていたからなのか…そうか……」 大河内は独り言のように呟いて、ほっと安堵の色を浮かべた。 「あの…ご実家へ戻られなかったんですか?」 優が不思議そうに尋ねると、大河内は照れ臭そうに前髪をくしゃくしゃと掻き上げた。 「気が変わったんだ。正月は、こっちで過ごすことにした」 「でも、年末年始は昌代さんはお休みですよ?」 家政婦の昌代は、一昨日から沖縄の娘夫婦の家に泊まりに行って、年明けの4日まで戻ってこない。掃除も炊事も苦手な大河内が、ひとりで生活するのは大変だ。 「邪魔が入らなくてちょうどいいじゃないか。二人きりで過ごせる」 甘く囁かれて、優は驚いて大河内を見つめた。 「僕は、この部屋を片づけないと……」 耳まで赤くなり、逃げるように隣室に積まれた引っ越しの段ボールに視線を泳がせる。大河内は、そんな優を抱き寄せてさらに掻き口説いた。 「一緒に新年を迎えたくて戻ってきたんだ」 「え?」 信じられない言葉に、優は絶句した。恐る恐る大河内の顔を見上げると、いくぶん緊張した面持ちの大河内と目が合った。 act.24 優は、大河内のベッドで新年を迎えた。まるで壊れ物のように丁寧に愛され、回数を重ねるにつれ、少しずつセックスに対する嫌悪感が払拭されていく。大河内は、不感症といってよいほど反応の鈍い優に対して、実に根気よく我慢強く接してくれていた。 優の方も、大河内を悦ばせようと必死だった。大河内が望めば、どんなことでもした。大嫌いだったフェラチオも、恥ずかしくて堪らない騎乗位も、躊躇うことなくした。大河内の快感を優先し、コンドームなしでの挿入や中出しすら許したのだ。 明け方近くまで愛し合い、疲れ果てて眠っていた優は、携帯の着信音に目を覚ました。覚醒しきらない頭に、大河内の明るい話し声が届く。何時だろうと枕元の時計に目をやった優は、時計が午前11時を指しているのを見て仰天した。慌てて食事の支度をするためベッドを降りる。 その時、わずかに甘えを含んだ大河内の声が耳に飛び込んできた。 「ああ、構わない。おまえに全部、任せるよ」 身体の芯がすうっと冷える気がした。大河内の話している相手が奈々衣だと自然にわかってしまったからだ。 「それはそうだが…そういうのは苦手なんだ」 足音を忍ばせて、書斎の椅子で話し込む大河内を覗き見た。いつになく上機嫌で、口元を綻ばせた大河内は、精悍さがなりを潜めて子供のように無邪気に見える。 「おまえだって知ってるだろう? 頼むよ」 普段、クールで自信家な男がちらつかせる弱さに、庇護欲を刺激されない女はいない。奈々衣が溜息を吐きながらも、男のワガママを受け入れるのが容易に想像できる。 優は苦いものがこみ上げるのを耐えながら、そっとその場を離れた。 アパートに戻って片付けをするという優に、大河内は唖然とした。固い表情で「帰ります」と告げる優が、まるで宇宙人のように感じられる。優が何を考えているのか解らなくて、大河内は苛立った。 「荷解きなんかしなくていい。反対に荷物をまとめてここに引っ越して来い」 「でも、先生は自分のテリトリーに他人が踏み込むのが、なによりお嫌いでしょう?」 優は、やんわりと大河内の思いつきを諭した。 「おまえは、俺の秘書だからいいんだ」 「奈々衣さんに、どう説明されるおつもりですか?」 「……」 大河内は、優の問いに絶句した。奈々衣は自分を信頼して優を預けてくれたのに、あろうことか優と一線を越えてしまったのだ。一体、どんな言い訳ができるというのか……。 答えない大河内に、優は酷く傷ついた。そして大河内の沈黙は、二人の関係が遊びに他ならないからだと思った。覚悟していたはずなのに、胸が張り裂けるように辛い。苦しくて悲しくて、優は逃げるように大河内のマンションを後にした。 |
|
act.25 アパートに戻ると、優は薬が切れた麻薬中毒者ように、引っ越しの段ボール箱から油絵の画材を引っ張り出した。 ギリギリまで研ぎ澄まされた神経が、馴染んだテンビン油の匂いにゆっくりと溶け出していく。混乱の極地にあった精神が筆先へと集中し、優はようやく平静を取り戻すことに成功した。諦めにも似た悟りが全身に満ちていく。 優は悲しい時、不安な時、辛い時、絵を描くことによって自分を保ってきた。心の中のやり場のない感情を描くことによって昇華するのだ。正気を保つために、それは大切な儀式でもあった。 「しばらく見ないうちに坊やはずいぶんと色っぽくなったじゃないか。何があったのか教えろよ」 優がコーヒーを置いて出て行くと、田所は待ちかねたように身を乗り出した。しかし大河内は邪険な一瞥を与えただけで、口を開こうとはしない。 毎晩のように身体を繋いでも、優は一向に心を開いてはくれなかった。むしろ身体の関係ができる前の方が、心が通じ合っていたと思う。 優は憑き物が落ちたように大河内に対して冷静になっていた。自分の立場をわきまえて多くを望まなければ、泣くことも苦しむこともないのだと考えていた。 だが、大河内は優の心から閉め出されたような気分だった。キスひとつするのも躊躇われるような余所余所しさに、砂を噛む思いだった。こんなにも心乱される恋愛は初めてだった。 昨夜などあまりの苛立たしさに、つい乱暴に抱いてしまい、優を酷く怯えさせてしまった。華奢な背中に残る虐待の傷痕を見て我に返らなければ、どうなっていたことか……。それでも優は、朝になれば何もなかったかのように静かに微笑むのだ。 優には、守ってやりたいという庇護欲をそそる何かがある。それは同時に、泣かせてみたいという加虐心と対になるものだった。ベッドの外では、慈愛に満ちた母親であり、ベッドの中ではたっぷりと泣かせてみたくなるか弱い存在。相反する不思議な二面性。大河内は、優の養父が虐待をエスカレートさせていった気持ちがわかるような気がした。 気を取り直すかのようにコーヒーを一口啜って、大河内はようやく口を開いた。 「来週から一ヶ月ほど、ニースでのんびりしてこようと思う」 「へぇ、坊やと新婚旅行か」 田所は揶揄するように頬を緩めたが、大河内の表情は硬いままだ。 「いや、優は置いていく」 「なんだよ、もう飽きたのか?」 「反対だ。俺の方が飽きられたんだ」 大河内は自嘲気味に笑ってみせた。田所は心底、驚いて親友を凝視した。 「らしくないな…本気になるなんて」 「とにかく、しばらく一人になりたいんだ。仕事はメールで送るから後は宜しく頼む」 ニースには、大河内の伯母が住んでいる。彼女は、自分の甥よりも妻だった奈々衣を可愛がっていた。大河内と離婚した後も、奈々衣は頻繁に彼女の家を訪れている。 優は、大河内を成田空港で見送った後、奈々衣が見せてくれたふくよかな女性の写真を思い出していた。親の反対を押し切ってフランス人と結婚した激しさなど微塵も感じさせない穏やかな印象の女性だった。 奈々衣は、年末から仕事を兼ねてニースへ行っている。彼女の家で、大河内は奈々衣と落ち合うのだろうか……。 いつものように上手く描くことに没頭できなくて、二人が寄り添うのを想像してしまい、優は苦しくて堪らなかった。もう限界だと思った。しかし、死にたかったわけではない。ただ偶然、そこにあったカッターナイフが目についてしまっただけだ。 act.26 ビジネスシートでの空の旅は、快適なはずだった。客室乗務員はよく訓練されており、申し分のないサービスをしてくれた。それなのに、優の与えてくれる心地良さに慣れきった大河内には、すべてが癇に障った。 優はいつも、大河内の心の中を読み取っているかのように絶妙なタイミングで声をかけ、大河内の望む物を与えてくれた。コーヒーも食事も笑顔も何もかも、優の与えてくれる物は大河内を完璧に満足させてくれた。 惜しげもなく差し出される献身に怯えて、優から逃げ出しておいて、何を今さらと戸惑った。しかしたった一日、離れていただけで、優が恋しくてたまらないのも事実だった。 大河内が日本を発って3日目、優は思いがけない訪問者に目を瞠った。 「明けましておめでとう。と言っても、もう一月も終わりね」 奈々衣は、小さく肩をすくめて笑った。12月のあの朝、気まずい顔合わせをして以来だ。 「おめでとうございます。…ニースじゃなかったんですか?」 「10日ほど前に帰国したわ。仕事も無事、片づいたしね。お邪魔してもいいかしら?」 「ええ、どうぞ…散らかっていますけど」 優がドアを大きく開けると、室内に充満していたテンビン油の匂いがした。 「油絵を描いてるの?」 どんなに勧めても筆を執ろうとしなかった優が、自主的に油絵を描いているのは驚きだった。 「はい……」 「完成したら、うちの店に置かせてね。松村様や高岡様が大喜びで買って下るわ」 優は小さく頷くと、奈々衣のコートをハンガーに掛けた。 「アールグレイを切らしているんですけど、ダージリンでもいいですか?」 「ええ、優くんの淹れてくれる紅茶ならなんでも好きよ」 奈々衣は朗らかに言うと二人がけのダイニングテーブルに腰を下ろした。そして世間話のように切り出した。 「昌代さんが電話をくれたの。あなたの様子がおかしいって」 大河内が留守の間も、優と家政婦の昌代はマンションで平常通り仕事をすることになっていた。昌代は、大河内がいない分、優の世話を焼くのに熱心だった。そのため、優の手首に巻かれたサポーターに血が滲んでいるのにも、すぐに気がついた。勘のよい彼女は、それが自傷行為によるものだと推測し、奈々衣に連絡したのだ。 「何があったの? お願いだから話してちょうだい」 一瞬、優の瞳に動揺が走ったが、すぐに落ち着きを取り戻した。 「僕は、大丈夫ですから……」 消え入るような声で呟く。 「私くしが、遠野画伯の虐待に気づいて問い質した時も、あなたはそう言ったわ」 奈々衣の苛立ちに、優は怯えたように目を伏せた。それを見て、奈々衣は怒りを静めようと、大きく息を吐き出し額を押さえた。 「紅茶を頂ける?」 優は黙って二人分の紅茶を淹れると、奈々衣の向かい側の椅子に腰を下ろした。奈々衣は紅茶を一口飲むと、ようやく気分が静まったらしく穏やかな口調で言った。 「大河内を愛しているのね」 act.27 それは、質問ではなく確認だった。聡明な彼女は、すでに二人が一線を越えてしまったことを確信していた。凍り付いたまま自分を見つめる優を哀れむように、奈々衣は微笑んだ。 「あなたを責めている訳じゃないの。心配なだけなの」 「ごめんなさい……」 優は、触れられてもいないのに、サポーターの下の傷が疼くように痛んだ。奈々衣を悲しませ、困らせている自分が情けなかった。 「何があったのか話してくれるわね?」 たたみ込むように問われて、優は途方に暮れた。大河内に愛されている奈々衣に嫉妬しているなどと、当の本人に話せるはずもない。 「ごめんなさい…本当に大丈夫ですから……」 頑なな優の態度に、奈々衣は大きな溜息を吐いた。長い沈黙が流れ、居たたまれずに優が身じろぎした時、奈々衣は意を決したように話し始めた。 「大河内はね、白馬に乗った王子様だったわ」 まるで昔話のように奈々衣は語った。 「実家は羽振りのいい東北の旧家で、次男坊。その上、ハンサムで頭も切れた。彼に夢中にならない女なんていなかったわ。私くしもそう、出会ってすぐに恋に落ちた。気が付いたら結婚していたわ。幸せだったわ、本当に。でも、長くは続かなかった。私くしが妊娠してしまったから」 奈々衣は、苦しげに美しい眉を顰めた。優は、息を詰めて奈々衣を凝視していた。 「大河内は、赤ん坊に遺伝的難病があるとわかっても、産んでくれと言ったわ。だけど私くしは怖かった。16才の若さで亡くなった弟と同じ病気だったから。母が、どんなに苦労したか間近で見てきた私くしには、どうしても赤ん坊を育てる勇気が持てなかった。だから……」 大河内の反対を押し切って、奈々衣は堕胎した。それは二人の間に修復不可能な亀裂を生んだ。 「千紗ちゃんは、若くて健康だった。彼女なら大河内の子供を産んでくれると思ったから、黙って離婚したわ。でも千紗ちゃんが亡くなって、もう一度、大河内とやり直したいと思ったの。たとえ、あなたを傷付けることになっても」 挑むように見つめられ、優は怯えたように目を伏せた。 「だけど、駄目だったわ。だってあの男、イク時、あなたの名前を呼んだのよ。『優』って……。最低でしょう?」 奈々衣の白い頬を一筋の涙がこぼれ落ちた。優はただ呆然と、言葉もなくそれを見ていることしかできなかった。 act.28 奈々衣が帰った後、優はようやく冷静に考えることができた。大河内との関係がぎくしゃくし、疎まれた挙げ句、日本に置き去りにされたのは、自分がつまらない嫉妬や猜疑心から、大河内に心を開かなかったからだと気づいた。 大河内は、報われない想いに疲れ果ててしまったのだ。日本から逃げ出したくなるほど追いつめてしまったのは、他ならぬ自分自身なのだと、やっとわかった。 優は唇を噛みしめると、上着から携帯電話を取り出して奈々衣にダイヤルした。 三年ぶりに会った伯母は、髪を紫色に染め藤色のドレスを上品に着こなして、空港で大河内を出迎えてくれた。一人息子は結婚してパリに住んでおり、老夫婦水入らずの静かな暮らしは退屈で堪らないのだと、大河内の滞在を喜んでくれた。 伯母夫婦は、大河内の執筆の邪魔をしないよう細心の気配りをし暖かくもてなしてくれたが、苛立ちと淋しさは日に日に募る一方だった。かつて寝食を忘れてデビュー作を書き上げた客間で、大河内はただの一文字も書くことができず愕然とした。 もう何日もまともに眠っていないので、さすがに限界だった。疲労のあまり身体がふわふわと宙に浮いているような奇妙な感覚の中で、ベッドに横たわって目を閉じる。指一本動かすのも億劫なのに、神経だけは冴え渡って眠ることを許さない。 ふと、人の気配を感じた。しかし瞼は鉛のように重く、どうしても目を開けることができない。すると羽根のように優しく髪を撫でられた。ゆったりとした慈しむようなその動きに、大河内は安堵した。そして次の瞬間、深い眠りの闇へと引き込まれていった。 早朝の薄闇の中、大河内は久し振りに気持ちよく目覚めた。枕元の水差しに手を伸ばしかけて、その横に黒縁眼鏡が置かれているのに気づいた。優をベッドに押し倒す時、いつも大河内が外してやる眼鏡だ。驚いて飛び起きると、壁際のカウチで優が毛布にくるまって眠っていた。 優に残したのは、緊急連絡用の電話番号だけだ。敢えてここの住所は教えなかった。それなのに、心の奥底では追いかけてきて欲しいなどと身勝手な願いを抱いていた。大人しく控えめで、自己主張のカケラもしない優の性格では、そんなことは有り得ないと十二分にわかっていながら……。 恋しさが募って幻でも見ているのだろうかと訝しみながら、大河内は足音を忍ばせてカウチに近づいた。優は毛布に鼻先を押しつけて、ぐっすりと眠り込んでいた。長旅で疲れたのだろう。 優が、どんな想いで自分を追いかけてきたのかと考えると、愛おしさに胸が熱くなった。優を起こしてしまうという懸念も何処へやら、大河内は堪えきれずに唇を重ねた。 小さく身じろぎすると、優は眠そうに目を開けた。そして大河内を見て、甘く微笑んだ。自分を置き去りにした男を責めもせず詰りもせず、ただ一途に想いを寄せるその汚れなき笑顔に、大河内は文字通り心臓を鷲掴みにされた。 「僕は、あなたに愛されなくてもいいと思っていました。側に居られるだけでいいと。でも今は、どうしても聞きたいんです。僕を愛していますか?」 深い湖のように澄んだ瞳が大河内を見つめていた。大河内は一瞬、今さらどうしてそんなことをと思ったが、ただの一度も優に愛していると伝えたことがないと気づいて慌てた。 「愛してる、怖くて逃げだしてしまうほどにな」 それを聞いて、優は泣きそうな顔をした。 「あなたの愛情を信じられなかったんです。ごめんなさい…あなたを苦しめてしまった」 「もういい、おまえがここまで追いかけてきてくれた。それで充分、報われたさ」 大河内は力強く優を抱き寄せると、なおも謝罪を紡ごうとする唇を、自らの唇で情熱的に塞いだ。 act.29 激しいセックスで、優が自傷行為で傷付けた傷が開いてしまった。手首のサポーターに滲んだ血を見て、大河内は驚愕した。傷は、どれも縫うほどのものではなかったし、すでに瘡蓋ができかけていたが、大河内はかなりショックを受けた。 「二度と自分を傷付けるんじゃないぞ」 大河内は、何度も優の手首に唇を押し当てて唸った。優はそれに頷き、しばらく躊躇った後、消え入りそうな声で訊いた。 「奈々衣さんとは再婚されないんですか?」 「あぁ…奈々衣か……。やっぱり気にしていたんだな……」 大河内は、きまり悪そうに呟いた。 「白状すると、酔った勢いでだったんだ」 「奈々衣さんを愛してらっしゃるんでしょう?」 「以前はな…だからこそ結婚した。だけど、あいつが子供を堕胎して、俺達の関係は変わってしまったんだ。互いの中に相容れないものがあることに気づいてしまった」 悲しみに耐えるかのように大河内は眉を寄せた。 「ちょうどその頃、俺は千紗に出会った。風俗で働きながら哲学書を読み、小説を書く千紗に、俺は夢中になった。千紗の若さと才能に救いを求めたんだ。奈々衣は、黙って離婚届を置いて出て行った。俺と千紗はしばらく同棲したが、千紗はすぐに俺に愛想を尽かして去って行った」 大河内は左腕で頬杖を付くと、苦笑した。 「俺は、おまえが考えているような立派な男じゃないんだ。浮気して女房に逃げられた挙げ句、愛人にも捨てられた馬鹿な男だ」 優は慰めるように、そっと大河内の手に自分の掌を重ねた。 「それでも、あなたが好きです」 囁くように告げられた言葉は、大河内の心の傷に深く滲み込んだ。傷口が、ひたひたと癒されていく。大河内は救いの神に縋るかのように、優を掻き抱いた。 二人が日本に戻ってすぐ、奈々衣がマンションにやって来た。彼女は、大河内の顔を見るなり思いっきり平手打ちした。 「奈々衣さんっ!」 驚いて優が駆け寄ると、奈々衣は極上の微笑みを浮かべた。 「これが大人のケジメというものよ。優くんは気にしなくていいの」 「例のものを持ってきてくれたのか?」 大河内が、怒った風でもなく訊いた。 「ええ、そう」 奈々衣は、エルメスのバッグから細長い小さな包みを取り出すと、大河内へと手渡した。それから、これ見よがしに優をふくよかな胸に抱き寄せる。 「私との約束を忘れないで。困ったときは、必ず電話するのよ」 「はい」 優は、大河内の突き刺さるような視線を感じ、首まで真っ赤になって返事をした。 奈々衣を見送った後、大河内が照れ臭そうに差し出した小さな包みを、優は怪訝そうに開いた。中には、一目で芸術品とわかる腕時計が入っていた。 「少し遅くなったが成人祝いだ。俺が初めての原稿料をはたいて、特注で作らせた腕時計と同じデザインだ。奈々衣の知り合いの工房で作った」 奈々衣の知り合いの工房と聞いて優は青ざめた。これだけの細工ができるのは、パリのセルドア工房しかない。美術界の審美眼に優れた、ごく少数の顧客だけを相手にしている老舗の工房だ。その工房の特注品となれば、恐らく一千万は下らないだろう。 「こんな高価な物は頂けません!」 優はすっかり狼狽えて叫んだ。 「おまえには、それだけの価値がある。それとも、ダイヤの指輪の方が良かったか?」 大河内がからかうように笑った。優は、高価な時計の意味をようやく悟り、絶句した。驚きに開かれた唇はやがて、はにかむような微笑みに変わり、優は大河内の胸に飛び込んだ。 END |