予感     月桜可南子
 どうして気づいてしまったんだろう・・・僕は繰り返し思う。
 夕闇の公園で、僕を抱きしめた彼からは、仄かな香水の移り香がした。その時すぐに誰と会っていたのか訊けば良かったのだと思う。そうすれば、こんなに思い悩むこともなかったはずだ。


 彼と出会ったのは、15の時だった。無事、高校に合格して、長い春休みを日頃、お世話になっている伯父の会社でアルバイトする事にした。
 彼はそこの入社4年目の若手営業マンだった。気さくで面倒見が良く、とても頼り甲斐があった。早くに父親を亡くし、病気がちの母親と気丈な姉に囲まれて、周りの期待に押し潰されそうだった僕は、彼の優しさに安らぎを見出した。それが恋に変わるのに、たいして時間はかからなかったように思う。気がつくと、彼を目で追っていた。
 その頃すでに僕は、自分が男にしか興味を持てないことに気づいていたが、彼に抱かれたいと思っている自分に動揺した。彼に自分の気持ちを知られるのが怖くて、逃げてばかりいたけど、彼から真剣な眼差しで付き合って欲しいと掻き口説かれて、僕には拒む事なんてできなかった。
 彼も僕も、男同士のセックスなんて初めてだったから、最初はずいぶん苦労した。でも、初めての相手が彼で本当に良かったと思う。彼はいつだって、辛抱強く、優しく僕を抱いてくれたから。二人がひとつに溶け合えるのが嬉しくて、僕は半年もしないうちに彼を受け入れるコツを覚えた。
 夏休みや冬休みは、彼に会いたくて、当然のように伯父の会社でバイトした。娘しかいない伯父は、僕を実の息子のように可愛がってくれていた。僕たちは、厳格な伯父に二人の仲がバレないようすごく気を使ったけど、それすらも恋を盛り上げるスリリングな要素に過ぎなかった。会社の社員食堂でこっそり視線を交わしたり、昼下がりの資料室で我慢できなくてセックスしてしまったりなんてこともあった。
 17の時、母が亡くなった。淋しくて怖くて、僕は彼に縋り付いて泣いた。彼がいてくれたからこそ、悲しみを乗り越えられたのだと思う。
 伯父が僕達姉弟を心配して、一緒に暮らさないかと言ってくれたが、僕達は住み慣れた家を離れる気になれなかったし、大人の手を必要とするほどの子供でもなかったので、丁寧に断った。


 高校3年になってから、大学受験の勉強で、彼との逢瀬は月に一回か二回という状態が続いていた。僕達は会えない分、合格したらどこに行こうかとか、何を食べようだとか、電話で他愛のない話をして寂しさを埋め合わせていた。それでも、どちらかが我慢できなくなったときは、今日のように二人の自宅の中間地点となる小さな駅で待ち合わせた。
 僕は、勉強に集中できなくて、参考書を閉じた。あの後、久しぶりに彼の車の中でセックスしたけど、僕は女の残り香が気になって、なかなか身体に火がつかず、彼を苛つかせてしまった。おまけにインサートの時も上手く身体の力を抜けなくて少し出血してしまった。
 それでも終わった後、彼が丁寧に後始末しながら「無理させてごめんな」と言ってくれたのが嬉しくて、僕は夢中で彼にキスをした。こんなに大切にしてくれてるのに疑ってごめんね。彼には、2才年下の妹がいる。あの香りはきっと、彼の妹のものだと僕は結論づけると忘れることにした。


 一ヶ月ぶりのデートだった。僕達は映画を観て食事をし、ホテルで愛し合った。僕の餓えた身体は彼の愛撫でたちまち登り詰め、彼を受け入れる前に二回も達してしまったほどだ。彼が僕の中で快感のリズムを刻む。
 より深く彼を感じたくて、僕は両脚を彼の腰に巻き付けた。ズン!と最奥を突かれて電流のような快感が走る。反射的に彼を締め付けると、僕の中で彼のモノが一回り大きく育った。凄い……本当に大きい。
 キスして欲しくて、腕を伸ばすと彼がすぐに覆い被さってきた。彼の指が、僕の髪をゆっくりとかき回すのをうっとりと感じながら、僕はふと目をやった彼の首筋に釘付けになった。
 キスマーク!? 消えかかったそれは余程の至近距離で目を凝らさなくてはわからないほどのものだった。付けたのは僕じゃない……では誰が? 僕は混乱した。
 彼の動きが絶頂を求めて激しくなり、僕の思考は快楽の嵐の中に投げ込まれて停止した。遠くで彼の苦しげな息づかいと、僕の甘い嬌声が聞こえる。その一方で、僕の心は冷たく凍えていった。


「その首筋のキスマーク、誰に悪戯されたの? クラブのホステス? まさかソープなんて行ってないよね?」
  明るく笑って訊けばいい。彼はすぐに否定して、ちゃんと訳を話してくれるはず……。なのに僕は怖くて訊けなかった。万一、彼が「他に好きな人ができたんだ」と答えたら、どうしたらいいんだろう。
 苦しくて、涙が後から後から溢れて止まらない。こんなに泣いては、彼に変に思われる。いつも通りに振る舞わなくては。彼がバスルームから出てくる音がして、僕は慌てて涙を拭った。


 友達と受験会場の下見に行った帰り、僕は駅で彼が可愛らしい女の人と歩いているのに鉢合わせてしまった。彼は、慌てて彼女の腰に回していた腕を引っ込めたけど、彼女の甘えた目が二人の関係を物語っていた。僕達は言葉も交わさず、視線さえ合わせないようにして、すれ違った。
 その夜、深夜になって彼から電話があった。彼は逢いたいと言った。僕が黙っていると、これから車で来ると言う。僕は逃げ出してしまいたかったが、時間を決め、近くのスーパーの駐車場で会うことにした。


「ごめんな」
 僕が助手席に滑り込むと、開口一番、彼はそう言った。
「何が? こんな時間に呼び出したこと? それとも昼間の彼女のこと?」
 僕は声が震えないよう、小さな声でゆっくりと訊いた。
「来春、彼女と結婚するつもりだ。もう結納も終わった。本当は、君の受験が終わってから話すつもりだったんだ」
 僕は絶句し、彼の顔をじっと見つめた。心臓がドクドクとスピードを上げて高鳴る。僕は別れたくなかった。たとえ不倫になっても、彼と別れるなんて考えられなかった。
「……僕達の関係はどうなるの?」
 恐怖と期待の入り交じった声で僕は勇気を振り絞って訊いてみた。
「別れよう。彼女に隠し通せるほど俺は器用な男じゃないんだ」
 僕より、その女を愛してるんだね。僕に飽きたんだね。僕はもう要らないんだね。ぐるぐると頭の中で、様々な考えがよぎって、気がつくと僕はボロボロと泣いていた。
 彼が悲痛な顔で僕を見ている。どうしよう。彼を困らせたり傷付けたりしたくないのに。だって僕はまだ、彼を愛してるんだから。
 不意に、彼は僕を力強く抱きしめた。言葉を失った僕の唇に彼の唇が重ねられる。甘いキス。緩やかに官能の火を灯す優しいキス。互いの唾液を奪い合い、舌を絡め合う。僕は夢中になって彼の舌を貪った。
「抱いて……もう一度だけ」 
 これが最期、そんな想いが僕をいつもより大胆にした。
 僕達は安っぽいラブホテルのベッドで思いつく限りの体位で愛し合った。フェラチオも後始末のやり方も、コンドームの付け方さえ、僕は彼に教わった。前を弄られなくても後ろだけで射精できるようにしたのも彼だ。もう男を知らなかった頃の、うぶな自分には戻れない。それなのに彼と別れるなんて――。僕は怖くて不安で堪らなかった。


 夜明けに、家の近くの公園まで送ってもらった。
「さようなら」
 僕は彼と目を合わせないようにしながら、噛みしめるように言った。
「元気でな」
「もう行って。人に見られるよ」
 早朝の公園には犬の散歩に訪れる人が結構いる。彼は一瞬、淋しそうな顔をして、それから微笑んだ。僕は唇を噛みしめて、背を向けた。ゆっくりと歩き出す。背後で車の発進する気配がしたけど僕は振り返らなかった。
 初めて好きになったのが、彼で良かった。結婚後も関係を続けようなどと言う男じゃなく良かった。彼の婚約者にバレる前に別れられて良かった。僕は物事の良い面を見ることで立ち直ろうとしていた。
 きっとまた恋をしよう。始まりがあれば終わりがあるのは当然だ。そして、終わりは新しい始まりでもあるのだから。
                            END

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