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誰も泣かない・後編   月桜可南子
          act.9
 文弥が入院して一ヶ月、再三にわたる医師からの呼び出しに、瀬川はようやく重い腰を上げて病院を訪れた。成り行きとはいえ、文弥の入院の手続きを取り保証人になったのだから、入院費だけ振り込んで、いつまでも知らん顔というわけにはいかない。とはいえ医師との面会は気の重いものだった。
「うつ症状はかなり改善されてきていますが、まだ一人で暮らすのは危険だと思われます。伊豆にいい施設があるので、そちらに転院されてはどうでしょう?」
 険しい顔の瀬川に、初老の精神科医は、ゆったりとした口調で切り出した。
「文弥は何と?」
「一人でも大丈夫だと言い張っています。しかし未だに自殺の動機を話してくれませんし、カウンセリングもうまくいっているとは言えないので、一人は危険です」
 瀬川の眉間に深い皺が刻まれた。
「二十四時間、監視が必要ということですか?」
「そこまでは必要ありませんが、誰か側で見守る人間がいないと、また発作的に自殺を企てる危険性が高いのです。あなたが引き取って面倒を見て下さるのならいいが、お仕事がお忙しいようですし」
 医師は、仕事にかこつけて病院へ足を運ばなかった瀬川をちらりと皮肉ると微笑みながら続けた。
「ぜひ、あなたからも転院を勧めてみて下さい」
 医師の言葉に、瀬川は盛大な溜息を零した。
  

 文弥の病室には、大学のゼミ仲間である佐野武志と三上早紀が毎日のように見舞いに来ていた。大学の噂話やバイトの失敗談など、他愛のない佐野と早紀の会話をただ黙って聞いているだけの文弥だったが、その表情はどことなく楽しそうで、顔色も良かった。
「元気そうだな、文弥」
 大きな果物籠を下げて瀬川が現れると、文弥は驚きに目を瞠った。
「瀬川さん……」
 微かに掠れた語尾が、如実に文弥の動揺を物語っていた。
「いろいろと、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「伊豆にいい病院があるそうだ。来週にも転院するよう手続きしておく」
 瀬川は文弥の意見も希望も訊かなかった。すでに決まったこととして通知しただけだ。いつもそうしてきた。文弥がそれに異論を唱えたり、逆らったりしたことは一度もない。
「転院なんて、そんなっ! 留年することになるわ。小川くんは早く大学に復帰したいって言ってるのに!」
 早紀が抗議の声を上げた。
「身体を治すのが先決だ。大学は休学すればいい」
 冷ややかに告げた瀬川を、文弥は黙って見つめた。それから諦めたようにうなだれてシーツを握りしめる。
 気まずい沈黙に、佐野が咳払いして言った。
「そろそろ俺達、帰るな。瀬川さんと腹を割って話し合った方がいいと思うし」
「いや、その必要はない。仕事があるので私の方が失礼するよ」
 瀬川は、文弥のベッド脇にあるテーブルへ果物籠を置くと、さっさと病室を出て行こうとした。
「逃げないで、ちゃんと小川くんと向き合って下さい!」
 悲鳴のように叫んだのは早紀だった。
「小川くんの話を、もっときちんと聞いて下さい!!」
 懇願するように訴えた早紀に、瀬川はポーカーフェイスで振り返った。
「文弥は、ただの一度も、そんなことを望んだりしなかったよ」
 その瞬間、文弥は弾かれたように顔を上げた。愕然とした様子で、瀬川の真意を探ろうとするかのように凝視する。かつてないほど瀬川が怒っているのが感じられて、文弥は恐怖した。
「それに私は、弱い奴や利用価値のない奴に興味はないんだ」
 冷ややかに言い放つと、瀬川は静かに病室を後にした。
 文弥は、長い夢から覚めたような気分だった。瀬川が何に苛立ち、どうして自分を見捨てるのか、はっきりとわかったからだ。原因がわかれば対処はできる。それくらいの思考力はあるつもりだ。
 懸命に慰めを口にする佐野や早紀を笑顔で追い返し、文弥は自分がどうすればいいのか必死で考えた。瀬川に愛され、寄り添って生きるために、するべきことはなんなのか。


 車を自宅マンションの地下駐車場に入れると、瀬川は我知らず深い溜息を吐いていた。文弥を再び突き放してしまったという事実が、今さらながら重くのし掛かってくる。
 琴音が言ったように、瀬川が一言「愛している」と告げれば、文弥はそれに縋りついて生きようとするだろう。しかし、どんなに憎まれようとも、瀬川はその場しのぎに『愛』を口にするような卑劣な真似はしたくなかった。
 主体性もなく、ただ泣いて縋るだけの弱い人間の愛など欲しくはないし、これで文弥が絶望してまた自殺するのなら、それは仕方のないことだと考えていた。そういった脆い人間は、今、生き延びたとしても、いずれまた些細なことで躓いて結局、死ぬ運命なのだ。
 文弥を失うのは悲しくなかった。それが生きるためのルールで、ほんの少し怖いだけだ。瀬川は、自分の頬を伝った涙に呆れながら車を降りた。
「瀬川さん」
 車から数歩離れたところで声を掛けられて、瀬川は足を止めた。考え事をしていたので、中年の男が自分のすぐ側まで来ていたことに、全く気づいていなかった。そのため、腹部に激痛が走っても、瀬川は何が起こったのか理解できなかった。
「思い知れっ!」
 男は瀬川の耳元で低く叫ぶと、瀬川を突き飛ばした。尻餅をついた瀬川は、男の手に血だらけの出刃包丁が握られているのを見て、やっと自分が刺されたのだと認識した。



          act.10
 狂気に歪んだ男の顔には見覚えがあった。つい最近、藤井隆治が乗っ取った貿易会社の社長だった。常に護衛がついている隆治には手を出せないので、代わりに権利譲渡書類を作成した瀬川を狙ったのだろう。瀬川は、男が再び襲いかかってくるのでは、と身構えたが、男は何やらブツブツと呟きながら駐車場を出て行った。
 足下のコンクリートには血だまりができていた。瀬川は激痛と闘いながら、胸ポケットの携帯を取り出し119番通報をした。
 すぐに冷静な男の声が聞こえてきたが、相手が何を言っているのか聞き取れなかった。懸命にマンションの住所を伝えようとしたが、声が出ない。代わりに胃から逆流したらしい血液が、口元から零れた。
 瀬川は話すことを諦めて目を閉じた。夏だというのに酷く寒い。急速に薄れていく意識の中で、死を予感する。そして、あの走り書きを思い出した。

僕が死んでも、誰も泣かない
誰も泣かないから、
僕はここでひっそりと死んでいく

 誰も泣かない……まさにその通りだ。自分が死んでも泣く人間などひとりもいない。それが、これほどまでに孤独で惨めなことだったとは……。瀬川は自分の無神経な愚かしさに愕然とした。
 これは、文弥を見捨てた自分への天罰だ。汚れた自分を一途に愛し続けてくれた文弥を切り捨てた。刺されたのは腹なのに、今は胸の方が痛い。
 文弥を愛している。狡猾な臆病さで目を背けてきた事実に、瀬川はようやく向き合うことができた。
 藤井隆治が病院に駆けつけたとき、瀬川は緊急手術のため手術室に移されるところだった。
「瀬川さんっ!!」
 隆治が看護師を押しのけて枕元に駆け寄ると、瀬川はうっすらと目を開けた。その唇が微かに動くのを見て、隆治は急いで耳を寄せる。次の瞬間、隆治は凍り付き、瀬川を乗せたストレッチャーは手術室へと消えた。


 盛夏の厳しい暑さも病室までは届かない。院内に設けられた小さな図書室で、実務刑事法のレポートを書いていた文弥は、思いがけない見舞客に当惑した。
「具合はどうだ?」
 藤井隆治はやつれ果てた硬い表情のまま、文弥の向かい側の椅子に腰を下ろした。
「……もう大丈夫です」
「そうか……」
 それきり、どちらも口を開かず沈黙が訪れる。やがて隆治が思い出したように言った。
「何か必要なものはないか? 困ってることは? 遠慮せずに言え」
「あの……、僕はもう……」
「これから、おまえの面倒は俺が見てやる」
 文弥は驚きのあまり伏せていた顔を上げ、隆治を凝視した。隆治のきつく寄せられた眉が何かに耐えているようで、文弥は嫌な予感に襲われる。
「どういうことですか? 何か…あったんですか?」
「瀬川さんに頼まれたんだ。『文弥を頼む』って。だから……仕方ないじゃないか!」


 瀬川を刺した男は、家族に説得されて自首したが、瀬川は意識不明のまま、すでに二週間が過ぎようとしていた。
 文弥が、隆治に付き添われて集中治療室で対面した瀬川は、蝋人形のように生気のない顔で横たわっていた。死にたいと思った文弥が生きていて、これっぽっちも死を望んでいなかった瀬川が死の淵にある。何という運命の皮肉だろう。これは、たやすく死を望んだ自分への神の罰なのかもしれないと文弥は思った。
「瀬川さんは強引すぎるって反対だったのに、俺が無理に押し通したからだ……。だから…こんなことに……」
 手術は成功したのに、瀬川の意識は戻らなかった。医師からは、原因がわからず経過を見守るしかないと説明された。もしかしたら、このまま植物人間になる可能性もあると言われて、隆治は激しく動揺していた。
 二十六にもなる大の男が、人前でボロボロと泣くのを文弥は初めて見た。しかも隆治は、ただの男ではない。藤井組の組長だ。
 文弥は、隆治がいかに瀬川に惚れ込んでいるか、ひしひしと感じた。自分は瀬川を困らせることしかできないのに、隆治は忠実に瀬川の望みを遂行し、文弥の面倒を見てくれている。あれほど文弥を嫌っていたというのに。
 人を愛すということがどういうことなのか、文弥はやっと理解できた。
「あなたのせいじゃ、ありません。瀬川さんは今、疲れて眠っているだけ。きっと、もうすぐ目を醒ます……」
 隆治と違い、文弥には瀬川が植物人間になるなどとはどうしても考えられなかった。瀬川は人並みはずれて運の強い男だ。
 打ちひしがれている隆治の背中を優しくさすってやると、隆治は安堵したように何度も何度も肯いた。奇妙な連帯感がふたりを結びつけていた。


 文弥は、隆治の口利きで退院すると、まさに寝る暇も惜しんでという表現がぴったりなくらい、死にもの狂いで勉強した。出席日数がぎりぎりなうえ、講義にかなり遅れをとって留年寸前だった。隆治のように病院へ日参している暇などなかったし、瀬川がそれを望むはずもない。
 大学を卒業して大学院に進む、それから司法試験に挑む。瀬川のように一発で司法試験に受かるのは無理だとわかっていたし、進級さえ危うい文弥が合格するなど夢のまた夢かもしれない。
 それでも文弥は、石に囓りついてでも弁護士になりたかった。今のままでは、瀬川から憐れみを受けることはできても、愛されることはないと悟ったからだ。
 だから、藤井隆治から、瀬川が意識を取り戻したと連絡を受けても、文弥は見舞いに行かなかった。弁護士になって、瀬川の役に立つ人間になるまでは、瀬川に会わないと決めたのだ。



          act.11
 瞬く間に季節は冬へと変わった。文弥は月に一度、瀬川の様子を聞くために藤井隆治と昼食を摂る以外、朝から晩まで机に囓りついて猛勉強していた。
 バイトもコンパも無縁の生活だ。洗いざらしのトレーナーとジーンズの着たきり雀。髪は伸び放題で無造作に首の後で一つにくくられ、悲惨な食生活で肌はガサガサ。ゼミ仲間の三上早紀が、「ナスターシャ・キンスキーのような美貌が台無し」と嘆きまくるほどに、なりふり構わない生活だった。
 見かねた藤井隆治が、家政婦を手配しようとしたが、文弥は頑なに拒んだ。誰かの庇護がなくては生きられない人間に、瀬川は興味を持たない。だから自分の力で生きていける人間になりたかった。
 大学が冬休みに入った十二月の寒い朝、文弥が食パンを囓りながらノートパソコンでレポートの推敲をしていると、インターホンが鳴った。
「どうぞ、開いてます」
 常に藤井組の組員に見張られて生きてきた文弥は、ドアに鍵をかける習慣がない。押し売りや強盗が来ることなど考えも及ばないのだ。
 訪ねてくるのは三上早紀か、その恋人の佐野武志ぐらいだ。早紀から借りた裁判記録資料を返さなくてはと、文弥はベッドサイドに積み上げた本の山に視線を向けた。
「不用心だな、鍵ぐらいかけろよ」
 呆れたような瀬川の声に、文弥は固まった。ドアに背を向けたまま振り向くこともできず長い長い沈黙が流れる。やがてドアの閉まる音がした。文弥は瀬川が怒って出て行ってしまったのではないかと慌てて振り向いた。
 懐かしい瀬川のポーカーフェイスがそこにあった。バーバリーのコートに両手を入れたまま、静かに文弥を見つめている。いくぶん頬が痩けて、やつれた印象は否めないが、強い意志を持つクールな瞳の輝きはそのままだ。
「酷い格好だな。まるで野良猫だ」
 瀬川は微かに口元を綻ばせて苦笑した。それを見た途端、文弥は涙が溢れて赤面した。女々しいところを瀬川に見られたくなくて、急いでトレーナーの袖口で涙をぬぐう。その時、袖口がほつれていることに初めて気づいた。瀬川の言うとおり酷い格好だ。
「まず美容院だな。文弥、さっさと着替えろ。十分でここを出るぞ」
「……瀬川さん、どうして……」
「やっと退院できたから、おまえと飯でもと思ったんだが、野良猫と食事するのは楽しくないからな、まずは美容院だ」
「僕のこと……怒ってないんですか?」
「今さら何を怒るんだ? それより早く着替えろ。俺は忙しい」

 
 勉強があるからと渋る文弥を、瀬川は引き摺るように美容院へ連れて行き、その後、二人で昼食を摂った。素材から調味料まで厳選された、瀬川の好きな自然食レストランだ。それから、デパートで文弥の服とコートと靴を買い、それで瀬川はようやく気が済んだのか、小洒落たカフェに腰を落ち着けた。
 見ようによっては、ちょっとしたデートだが、瀬川は傷がまだ痛むのか終始仏頂面だったし、文弥の頭は大混乱だった。運ばれてきたカフェオレを一口飲んで、文弥はやっと平静心を取り戻した。
「あの……退院、おめでとうございます。いつ、退院されたんですか?」
 文弥が藤井隆治から聞いた話によると、瀬川の退院は年末の十二月二十八日だったはずだ。まだ一週間も先だ。
「今朝だ」
「え……、ええっ!?」
 事も無げに答えた瀬川は、背広の内ポケットからダンヒルを一箱取り出した。
「いいか?」
 文弥は露骨に眉を寄せると、黙って煙草の箱を見つめた。その無言の非難に、瀬川は渋々といった様子で煙草を内ポケットに戻した。
「大学はどうだ? 進級できそうか?」
「大丈夫です。頑張ってますから」
「家政婦を断ったそうだな」
「はい。ひとりの生活にも慣れました」
 淡々と交わされる会話は互いの腹の内の探り合いのようだった。どちらも間合いを詰めながら、相手の出方を窺っている。文弥は瀬川の意図が掴めず怯えており、瀬川は文弥の頑なな心を開かせようと必死だった。
「冬休みの間は、俺のマンションに来ないか? 勉強も見てやれるし、身の回りの世話もしてやれる」
 意を決して瀬川が提案すると、文弥は無言で瀬川を見つめた。何を言われたのか暫く理解できなかったのだ。
「僕は、もう子供ではありませんから、そんなに心配しないで下さい。ひとりで大丈夫ですから。瀬川さんは自宅療養に専念して下さい」
 文弥が当惑したように言うと、瀬川は酷く落胆した表情を浮かべた。それでようやく文弥は、瀬川が思いつきや社交辞令で「マンションに来い」と言ったのではないことがわかって驚いた。瀬川が自分を気にかけてくれているという事実に舞い上がらんばかりの幸福感を覚える。
「僕のこと、気にかけてけて下さって本当にありがとうございます。一生懸命、勉強して、瀬川さんのお役に立てるように頑張ります」
 頬を染めて健気な誓いを口にする文弥に、瀬川の心境は複雑だった。


 文弥の中にようやく芽生えた自立心を尊重しようと考えた瀬川は、週末に文弥を食事に誘い出す以外は、これといった干渉をしなかった。文弥はかなり根を詰めて勉強していたので、睡眠不足とストレスから、インフルエンザをこじらせて高熱を出した。運悪くそれは期末試験に重なって、出席日数が致命的に少なかった文弥は留年する羽目になった。
 留年という恐ろしい現実に、文弥は途方に暮れ、激しく落ち込んだ。懸命に励ましてくれる三上早紀を振り切ってバスに乗った。適当なバス停で降りて当てもなく歩き、目についたスナックに入る。
 文弥にとって、最も手っ取り早い現実逃避は酒だった。その店でバーボンを三杯飲んだあたりで、文弥の記憶は途絶えた。



          act.12
 乱暴に身体をまさぐられる不快感に、文弥が目を開けると、見知らぬ若い男の顔があった。いつの間にかベッドで男にのし掛かられていたのだ。
 冷水を浴びせられたようなショックに、文弥は悲鳴を上げて男を突き飛ばした。男が怯んだ隙にベッドから這いずり出すと、目についたドアへと走る。しかし、ドアを出たところで、男に腕を掴まれた。
「いやだっ!! 離せ!!」
「つれないこと言うなよ。おまえの飲み代、俺が払ってやったんだぜ」
「お金なら、ちゃんと返すから、その手を離せよ!! 僕に触るなっ!!」
 文弥は猛烈な嫌悪感に襲われて藻掻いた。かつて何人もの男に抱かれた時には全く感じなかったというのに。
 あの頃は仕方のないことと諦め、感覚が麻痺していたに違いない。だが、今は違う。
「勝手なこと、ぬかすんじゃねぇ!」
 かなり酒の入っているらしい男は、文弥の抵抗に苛ついていた。小鳥のように可憐な文弥に拒まれるなどとは、夢にも思わなかったのだ。
 男という点を差し引いても、滅多にお目にかかれない上玉を抱けると喜んで、気前よく酒代を払ったというのに、逃げられてはかなわない。おまけに騒ぎを聞きつけた周りの部屋の野次馬が、成り行きを見守っているとなれば、男も必死だ。乱暴に文弥の鳩尾を殴りつけ、ぐったりした文弥を室内へと引きずり込んだ。
「待ってな、これからこいつの喘ぎ声をたっぷり聞かせてやるぜ」
 野卑た笑い声と共にドアを閉める。文弥は、男が野次馬に気を取られている隙に、部屋の腰窓を開けてよじ登った。この部屋が何階なのか、そんなことはどうでもよかった。これ以上、男に身体を汚されるのが嫌だった。
「おいっ、何するんだ! ここは四階だぞ、死ぬ気か!?」
 男の言葉にも文弥は躊躇わなかった。身を切るような寒さの窓の外へと身を乗り出す。男が大声を上げて文弥の脚に取りすがり、文弥を窓から下ろそうと引っ張ったが、文弥は死にもの狂いで窓枠にしがみついて叫び続けた。
 そのため、ホテルの従業員が駆けつけ、警察まで呼ばれる大騒ぎになった。


 瀬川が警察署に駆けつけたとき、文弥は婦警に付き添われて、放心したように椅子に座っていた。青ざめた頬と小枝のように細い手足が目について、酷く痛々しい。
 名前も住所も話そうとしない文弥の身柄を、どうしたものかと署員が頭を抱えていたところ、刑事のひとりが文弥の顔を思い出して、藤井組に連絡した。連絡を受けた藤井隆治が瀬川に知らせ、瀬川が身柄を引き取りに飛んできたというわけだ。
「文弥、疲れただろう。さあ、帰ろう」
 労るように声を掛けられ、文弥は泣き濡れた瞳をゆっくりと瀬川に向けた。しかし、瀬川の顔を見た途端、悲壮な表情で俯いてしまった。
「今夜は、俺の部屋に泊まるといい」
「ご迷惑……おかけしました。ひとりで……大丈夫ですから……」
 瀬川は、深い溜息をこぼすと、文弥の腕を取った。
「とにかく、ここを出よう。話は後だ」
 瀬川に腕を引かれるまま立ち上がった文弥の身体が、ふらりと揺れた。慌てて文弥を抱きかかえた瀬川は、その身体が火のように熱いことに気がついた。
 すぐに文弥を夜間診療所へ連れて行き、脱水症を改善するための点滴をしてもらった。怠そうにされるがままになっている文弥に話しかけるのは躊躇われて、瀬川は黙って医師の処置を待っていた。
 瀬川が、文弥を自分のマンションに連れ帰ったのは深夜零時を回ってからだった。薬が効いたのか疲れが出たのか、車の助手席で寝入ってしまった文弥を抱き上げたとき、そのあまりの軽さに、瀬川は胸がキリキリと痛んだ。やはり文弥をひとりにすべきではなかったと、今さらながら強い後悔に襲われた。
 瀬川は退院後、司法研修時代の友人と共同で事務所を開くことになり、慌ただしい毎日を送っていた。文弥のために、できる限り藤井組とは距離をおいて、汚い仕事から手を引くためだ。仕事が軌道に乗ったら、文弥と暮らすつもりだった。
 週末ごとに文弥に電話をかけて様子を聞き、月に一度か二度は夕食に誘い出していたが、嬉しそうに文弥がはしゃぐ様に、瀬川はすっかり安心していた。今にして思えば、あれは文弥の虚勢だったのだ。瀬川に心配をかけまいと、健気にも明るく振る舞っていた文弥の気持ちを思うと、自分の鈍感さに腹が立った。


 翌朝、瀬川のベッドで目を醒ました文弥は、熱は下がったものの激しい自己嫌悪に苦しんでいた。男にホテルへ連れ込まれたことを瀬川に知られてしまった。瀬川はさぞかし呆れているだろう。
 大学も留年してしまい、弁護士になる夢もすっかり遠のいてしまった。何ひとつ瀬川の役に立てないてないばかりか、反対に迷惑ばかりかけている現実に、絶望と敗北を感じずにはいられなかった。
 これ以上、瀬川に迷惑をかける前に、瀬川の前から姿を消さなくては。文弥はそう決心した。
 ベッドを抜け出した文弥は、リビングのソファーで眠っている瀬川を見つけて申し訳なさと愛しさに涙が零れた。その寝顔をしばらく見つめた後、勇気を振り絞って頬にそっとキスをする。
 瀬川を起こさないよう、唇が触れるか触れないかの掠めるようなキスだったが、文弥はそれだけで胸が高鳴った。これで最後かと思うと名残惜しくて、なかなか瀬川の枕元を離れることができない。文弥はぎゅっと目を瞑って、未練を断ち切るように立ち上がった。



          act.13
「熱は下がったのか?」
 リビングを出ようとした時、突然、瀬川に声を掛けられて、文弥は立ち竦んだ。泣き出してしまいそうで振り向くこともできずにドアにしがみついていると、大股で歩み寄ってきた瀬川が、体温を確かめようと文弥の額に手を当ててきた。
「もう、平熱だな。良かった」
 瀬川は優しい声で呟くと、文弥の色素の薄い柔らかな髪をぐりぐりとかき回した。
「シャワーを浴びて、この寝癖をなんとかしてこい。バスルームは、そこを出た左だ」
 逆らうこともできず、文弥はシャワーを浴びて髪を洗った。バスルームを出ると、いつの間にか真新しい下着とブランド物の着替えが用意されていて驚く。それまで身につけていた服がどこにあるのかわからなくて、文弥は用意されていた服を身につけた。
 空調の効いたキッチンでは、瀬川がトーストとスクランブルエッグ、グリーンサラダという簡単な朝食を用意していた。ひとり暮らしの長い瀬川は、家事全般なんでもソツなくこなした。
「座れよ、朝食だ」
 身支度を調えた文弥を見て、瀬川が満足そうに微笑む。普段、クールで笑わない瀬川が、たまに笑顔を見せると、とても新鮮で思わず目が釘付けになってしまう。
 瀬川に対する狂おしいほどの恋慕は、刻一刻と膨らんで、今にも胸が張り裂けそうで苦しくてたまらない。こんな風に優しくなどしないで、愚かな失態を詰ってくれた方がどんなにいいか。
 ダイニングの入り口で固まったままの文弥に、瀬川はようやく不審を抱いて眉を顰めた。
「どうした? まだ具合が悪いのか?」
 心配そうに肩に手を置かれると、瀬川から身を引く決心が崩れそうで、文弥は怖くなった。
「さ、触らないで下さい……」
 訝しむように瀬川の目が細められた。文弥は、決まり悪さにどうしていいかわからず、唇を噛みしめる。
「そんな顔をするなよ。まるで俺が虐めているみたいじゃないか」
 瀬川の苛ついた口調に、文弥はますます身を固くした。
「おまえは俺が嫌いなのか? 慕われていると感じていたのは俺の自惚れだったのか?」
 瀬川の問いかけに、文弥は肩に置かれた瀬川の掌を両手で握りしめた。そして言葉にできない想いのありったけを込めて頬をすり寄せる。
 いじらしいまでに幼い表現に、瀬川が息を飲んだ。そして次の瞬間、力強い腕に抱きすくめられて、小柄な文弥の足先は宙に浮いた。
 そのまま寝室に連れて行かれ、ベッドへ投げ込まれる。いつも冷徹な瀬川からは想像できない性急さで、文弥は衣類を剥ぎ取られた。
 嵐の中に放り込まれたような激しい愛撫に、文弥は拒むことも忘れて喘いだ。もう、半年あまり誰にも抱かれていない身体は、瞬く間に上り詰めてしまう。
「っ…いやっ! ダメえッ……」
 熱い舌先で亀頭の先端をグリグリとこね回されて、文弥は悲鳴を上げた。このままでは、瀬川の口内で弾けてしまう。
「はな…してくだ……っく、アアッ!!」
 月に一度か二度、瀬川と食事をして部屋まで送り届けられた後、文弥は淋しさに堪えかねて自慰をした。そんなものとは比べものにならない強烈な快感。今、それが瀬川によって与えられているのだという事実に、文弥の理性は砕け散り、身体は貪欲に快楽を求めてのたうつ。そして、瀬川の長い指先が文弥の蕾に潜り込み、確信を持って曲げられたとき、遂に文弥は達した。
「や…あ、アァッ……!!」
 ガクガクと身体を震わせながら文弥が放ったものを、瀬川は残らず飲み干した。文弥は羞恥のあまり泣き出してしまった。
「文弥、泣いてないで協力しろよ。俺はまだ傷が完治してないんだ」
 困ったように訴えられて、文弥は驚いて起き上がった。瀬川の腹に残るケロイド状の紅い傷跡にそっと触れてみた。するとその下の叢で未だ目覚めていなかった分身がピクリと頭を擡げた。
「セックスは、もう少し治ってからにするつもりだったんだがな……おまえを見てたら我慢できなくなった」
 瀬川は苦笑し、文弥に自分の額をくっつけて囁いた。
「おまえの一番深いところで出したいんだ」
 文弥は赤面しながらも小さく頷き、瀬川の分身を銜えた。いわゆるシックスナインの体位で、互いを愛し合う。
 文弥が瀬川のペニスに触れるのは、初めて男同士のセックスを知ったとき以来だ。瀬川とは「本番」をしたこともない。ずっと自分の汚れた身体などには興味がないと思っていた瀬川から求められて、文弥は有頂天だった。たとえこれが最後の情事だとしても、体中で瀬川を感じさせたいと願う。
 男の弱点を知り尽くした文弥の舌技に、瀬川の楔はみるみる育っていく。瀬川もオイルを使って文弥の蕾を柔らかく解してやる。互いに惹かれあっていたというのに、出会って七年もの歳月を経て、二人は初めて結ばれるのだ。
 騎乗位で自ら腰を落としながら瀬川を迎え入れたとき、文弥はまるで破瓜する少女のように打ち震え嗚咽した。この時のために自分は生きてきたのだと思う。今、この瞬間が永遠になるなら――。
 しかし、そんな文弥の感傷などすぐに消し飛んでしまうほど強烈な快感が襲ってきた。瀬川が文弥の前立腺を狙って、下から打ち込み始めたからだ。
「ひっ……、あぁ、ぁ……」
 内壁が愛しい男の分身に甘く吸い付くのを感じながら、文弥は夢中で瀬川に合わせて腰を使った。ほどなく文弥は二度目の絶頂を迎えて、自らの腹だけでなく瀬川の腹も白濁で汚してしまう。
 リズミカルに腰を揺らしていた瀬川が、その白濁を指先にすくい取り、文弥の口元に運んだ。文弥は、親鳥からエサをもらう雛鳥のように躊躇いもなくその指先に吸い付いた。独特の苦みが口内に広がったが、瀬川の与えてくれるものなら、みな蜜のように甘い。
 その時、文弥は体内で暴れていた瀬川の分身がグンと容積を増したのを感じた。瀬川は身体を起こして文弥を押し倒し、両脚を胸につくほど折り曲げると激しい抜挿を始めた。文弥はより深く瀬川と繋がろうと、腰を浮かし大きく脚を開いて瀬川の腰に巻き付ける。
「……ください、もっと……もっと奥までっ」
 文弥が息も絶え絶えに訴えると、瀬川は薄く笑った。
「若いな…本当に……」
 肉のぶつかる音と結合部の淫靡な水音に、瀬川の荒い呼吸が重なる。文弥の白い肌は快楽に上気し、瀬川にさんざん弄られた胸の飾りが紅く色づいて、匂い立つような艶を放っていた。
「あ…瀬川さ……もう……」
「心配するな、ちゃんと合わせてやる」
 戸惑いながら三度目の射精を迎えようとしている文弥に、瀬川は優しく囁いた。文弥のペニスを袋ごと揉み扱きながら、打ち込んでいたモノを抉るように突き入れる。快楽の中枢を二度、三度と直撃されて、文弥が細い悲鳴を上げて達すると、瀬川も文弥の中に熱い飛沫を放った。 



          act.14
 瀬川が情事の後の気怠い疲労感にたゆたっていると、文弥がそろりと身を起こした。
「……シャワーを使っていいですか?」
「ああ、中を洗わないとな。いや、その前にタオルを持ってこないとまずいな。零れて気持ち悪いだろう」
 瀬川は起き上がると、ベッドの足下にあるチェストからタオルを取り出した。文弥は改めて瀬川の均整の取れた体躯に感嘆する。今まで何人もの男と寝たが、瀬川ほど美しい男を文弥は知らない。惚れた欲目を差し引いたとしても、瀬川は申し分のない美丈夫だった。
 それに引き換え、自分の貧相な身体ときたら……肉付きの薄い胸はあばら骨が浮き出している始末だ。藤井の愛人だった頃は、それなりに金を掛け手入れをされてきたが、今では痩せぎすのハーフに過ぎない。同じ男に生まれて、どうしてここまで骨格が違うのだろうと、文弥は不思議でたまらなかった。
「ありがとうございます」
 瀬川からタオルを受け取ると、文弥は簡単に残滓を拭い、逃げるようにバスルームへ入った。瀬川が身体の奥深くで放った精液が、ゆっくりと内股を伝って流れていく。自分にできることは、こうして男の欲望を受け止めることくらいしかないのかと思うと悲しくなる。
 かなり贅沢に作られたサニタリーの大きな鏡で、文弥は普段見ないようにしている背中の入れ墨を食い入るように見た。まるで舐めとろうとするかのように瀬川が丹念に舌を這わせたのを思い出し、居たたまれなくなる。
 バスルームを出ると、文弥は寝室へは戻らず、そのまま瀬川のマンションを出た。行く当てなどないが、瀬川の負担になるくらいなら、どこか知らない街でのたれ死にした方がマシだと思った。


 うとうと眠ってしまった瀬川は、昼近くに目を醒まし、文弥がいないことに気づいて仰天した。あれほど濃厚に愛し合ったばかりだというのに、黙って帰ってしまうなどおかしいと考え、急いで文弥の部屋へと駆けつける。
 文弥は、相変わらず玄関に鍵をかけていなかった。いつもなら不用心だと説教の一つもするところだが、文弥がボストンバッグに荷造りしているのを見て、瀬川は血相を変えた。
「どこへ行くつもりだ?」
 努めて冷静を装って質問したが、声は掠れていた。文弥は、瀬川の問いかけに驚いて顔を上げたが、すぐに唇を噛みしめて俯いた。瀬川は文弥の側に歩み寄ると、その細い身体をしっかりと抱きしめる。
「文弥、今度こそ、お互い逃げないで、きちんと話し合おう。ちゃんと俺の目をみてくれよ。何を考えているのか教えてくれ」
「……ごめんな…さい」
 真摯に語りかけられ、文弥は観念したように声を絞り出した。
「何を謝っているんだ?」
「あなたに……たくさん迷惑を…かけてしまったことです」
「そんなことはいいんだ。おまえは、我慢と忍耐が必要な扱いづらい子供だが、俺は面倒を見る覚悟を決めたんだ」
 瀬川は、ゆっくりと文弥の頬に掌を滑らせながら言った。文弥は呆けたように瀬川を見つめた。
「どうして……?」
 瀬川は少し躊躇った後、照れくさそうに口にした。
「どうしても言わないとダメか? 愛してるって。刺されて死ぬかもしれないと思ったとき、おまえの顔が浮かんだ。面倒ばかりおこすガキだと思っていたのに、その面倒を見ずにはいられなかった自分に気づいた。その時、おまえにどうしようもなく惚れているとわかったんだ」
 瀬川はドライな男だが、愛を振りかざしたりする卑劣な男ではない。それがわかっているだけに、文弥は目の眩むような思いだった。
「もう、充分です……もう、思い残すことはありません。今まで、本当にありがとうございました」
「文弥っ、何を言ってるんだ!?」
 驚愕のあまり瀬川は叫んでいた。愛していると告白したのに、文弥は別れるというのだ。瀬川は激しく混乱した。強烈な挫折感に打ちのめされながらも、文弥が逃げられないように懸命にかき抱いた。
「これは、俺に対する復讐なのか? おまえから真っ当な人生を奪った俺への……。確かに俺は、藤井からおまえを逃がしてやることだってできた。だが俺は、離婚した妻に多額の慰謝料を払うために、藤井との友好関係を壊したくなかった。離婚したことで再び俺との肉体関係を迫り始めた藤井の気を逸らすために、新しい人形が必要だった。だから……おまえを人身御供に選んだ」
 長年、文弥に対して抱いてきた罪悪感がマグマのように噴き出して、瀬川は自分でも何を口走っているのかわからなくなっていた。文弥は、肩越しに聞く瀬川の声が震えているのに気づいて戸惑った。
「おまえは、心の底ではずっと俺を憎んでいたんじゃないのか?」
 いつも冷静で取り乱したことのない瀬川が泣いている? そんなはずはない、そんなことはあり得ない。文弥は狼狽しながらも、弁解のように呟いた。
「僕は…留年してしまって……弁護士になって、あなたのお手伝いをしたかったのに……。もう、お役に立てません。僕はあなたの重荷になるくらいなら……お別れしたいんです」
「俺は、ただおまえが側にいてくれればいいんだ。それだけで満足なんだ」
「でも……僕は嫌です。また愛人のように囲われて生きるのは」
 ペットのように男に飼われる生き方は、自尊心の芽生え始めた文弥には、もうできなかった。
「僕は、あなたの愛人ではなく、恋人になりたかったんです」
 涙を堪えて訴える文弥の唇に、瀬川は微笑んでキスをした。
「俺は、おまえを愛人にするつもりはない。おまえさえ承知してくれるなら、養子縁組したいんだ」
 文弥の瞳が、信じられないというように見開かれた。瀬川は、その小さな顔の至る所にキスの雨を降らす。
「その前に、僕にチャンスを下さい。あなたに愛されるチャンスを……」
 瀬川は端正な顔をくしゃりと歪ませて囁いた。
「文弥、愛してる。俺を捨てないでくれ」
 文弥は両腕で男の頭を引き寄せると、返事の代わりに甘いキスをした。



          act.15
 小鳥のさえずりを聴きながら、文弥は用心深くフライパンに卵を割り入れた。ジュッという小気味良い油の音がして、黄身がつぶれた卵がフライパンの中に広がっる。
「あっ、あぁ……」
 我知らず落胆の声が零れて、文弥は目玉焼きひとつ満足に作れない自分に落ち込んだ。しかし、すぐに気を取り直して次の作業にかかる。軽く塩こしょうをして、コップの水をフライパンに注ぎ入れるのだ。ジュワッという派手な音がして、文弥は慌てて飛び退った。フライパンの蓋を遠くから投げるように置くと、水の蒸発する音が少し静かになった。
「文弥、換気扇を回すのを忘れてるぞ」
 ホッとしたのも束の間、いつの間にか起き出してきていた瀬川に指摘されて、急いでスイッチを入れる。
「おはようございます、瀬川さん」
「おはよう」
 軽く啄むようなキスを交わして、瀬川は洗面のためキッチンを出て行った。文弥は胸に広がる幸福感に酔いながら、朝食の準備を整えていく。朝食は文弥が、昼食はそれぞれで、夕食は瀬川が作るか、馴染みの店で待ち合わせて、というのが日々のパターンになっていた。
 

 大学を留年したものの、文弥は順調に法学院へ進み、司法試験に向けて勉強に励んでいる。瀬川との同棲は、かれこれ三年になるが、「司法試験に受かるまでは養子縁組しない」という文弥の決意を尊重して、二人はまだ恋人同士のままだ。
 痩せぎすだった文弥の身体は、瀬川の作る夕食のお陰で肉付きも良くななった。掃除、洗濯といった自分の身の回りのことも一通りこなせるようになった。かつての、生気のない人形のような顔は、今、たっぷりと愛情を注がれ、希望に満ちて、生き生きと輝いている。
 瀬川は、友人の弁護士と共同で、離婚協議や遺言の執行を主に扱う事務所を開いていた。今では全く藤井組との付き合いはない。組との関係が切れたことで、瀬川にはテレビ出演まで舞い込むようになった。ダンディで独身(バツイチ)の瀬川は、女性にたいそう人気なのだそうだ。
 一度、文弥が「再婚したい女性ができたら僕には遠慮しないでください」と申し立てたら、瀬川は渋面で一言「わかった」と答えた。しかし、その後すぐ、文弥はベッドで朝まで啼かされた。瀬川なりの抗議だったらしい。以来、文弥は、瀬川の再婚に一切触れないことにした。


 瀬川に教えて貰ったとおり、文弥がトマトを湯煎にかけて皮を剥き、レタス、キュウリと一緒に目玉焼きに添えると、ちょうど瀬川が洗面を終えてキッチンに戻って来た。
「もうすぐ、できますから。新聞でも読んでいて下さい」
「文弥、今日は日曜なんだ。ゆっくりしよう」
 瀬川は、日曜でも仕事がらみのゴルフや釣りに出掛けることがほとんどで、日曜だからと二人でどこかに出掛けたりのんびりしたことなどない。文弥が怪訝そうに瀬川を見つめると、瀬川は照れくさそうに微笑んだ。
「もう一ヶ月近くおまえを抱いてない。さすがの俺も限界だ」
 二人は寝室こそ一緒だが、勉強に集中できるようにと、瀬川が個室を与えてくれたお陰で、文弥はいつもそこに籠もりっぱなしだった。キングサイズのベッドに文弥が潜り込むのは明け方近くで、瀬川は文弥の細い身体を胸に抱きしめながら、朝までのわずかな時間を過ごす。
 むろん瀬川も男だから、それだけで我慢できるはずもなく、時折、文弥の目を盗んで若いホステスを摘み食いしているのだが。文弥の方も、瀬川の浮気に何となく勘づいても、恨み言を口にすることはなかった。瀬川が遊びと本気の区別をきちんとつけて、決して朝まで女と過ごさず、必ず自分のいるマンションに帰ってくるからだ。
「今日は、一日ベッドで過ごそう」
 甘く囁かれて、文弥は嬉しそうに小さく頷いた。
 文弥の身体はどんな女より具合がいい、と瀬川は思う。背後から緩く突き上げながら前を弄ってやると、内壁はキユウキュウと瀬川の分身を締め上げてくる。目の前に広がる大輪の牡丹は、しっとりと汗ばんで芳しい艶を放っている。
「うっ……ああっ、も…イクぅ……!」
 若い牡がビクビクと震えて精を迸らせると、内部が激しく収縮し痙攣する。瀬川も堪らず、引き摺られるように達した。
 呼吸を整えながら、瀬川が優しく文弥の髪を撫でてやっていると、文弥がポツリと呟いた。
「昨日、清水琴音さんという女性にお会いしました」
「……どこで会ったんだ?」
 瀬川は内心の動揺を押し隠して訊いた。琴音とは、彼女が夫の転勤に付いていって以来、一度も会ってはいないが、今さら何のよう用だったのかと考える。まさか文弥に嫌がらせをするとも思えないが……。
「ここに訪ねてみえたんです。小さな男の子と一緒でした」
 一瞬、瀬川の心臓がドキリと跳ねた。
「それで?」
「『久しぶりに顔を見に来たけれど、留守ならいい。来たことも伝えなくていい』とおっしゃって、すぐにお帰りになりました」
「そうか……」
 瀬川は安心すると同時に、酷く不安になった。琴音が小さな子供を連れていたというのが、ひっかかる。その不安を察したかのように文弥が言った。
「男の子は、あなたに……よく似ていました。琴音さんは、あなたに子供を見せたかったのだと思います」
「ああ、俺の子供かもしれないな。彼女は絶対に認めないだろうが」
 諦めたように告白した瀬川に、文弥は表情を曇らせた。
「文弥、俺は愚かでどうしようもない男だが、おまえさえ傍らにいてくれれば生きていける。何があっても俺と別れようなんて考えるなよ。俺はおまえとだけは絶対に……絶対に別れたりしないからな!」
 珍しく激昂した瀬川の様子に、文弥は瀬川が琴音に捨てられたのだと悟った。そしてそのことで、瀬川が酷く傷ついたことも……。
「愛しています。僕にはあなただけです」
 文弥は慰めるように瀬川に寄り添った。救いを求めるように瀬川の腕が文弥をかき抱く。
「愛情だけで、おまえを繋ぎとめておけたら、どんなにいいだろうな」
「僕にはそれで充分です。充分過ぎるほどです」
 瀬川は心底、嬉しそうに笑った。その少年のような笑顔に、文弥は思わず見惚れた。その笑顔が自分だけに向けられるものだという喜びに、深い感動を覚える。
 この笑顔が自分に向けられる限り、文弥は瀬川の側を離れまいと思う。誰にも愛されないと泣いていた自分を拾い上げ、愛してくれた男の、この笑顔を守れるようになりたいと、そのために生きようと思う。
 しかし、それを口にする前に、文弥は瀬川の猛ったものに貫かれ、快楽の海に投げ込まれた。せめて身体で心を伝えたいと、懸命に脚を開く。
「もっと…奥まで……ください。……あなたと……ひとつになれるように」
 文弥の訴えに、わかったというように律動が激しくなる。いつになく感じ過ぎて、文弥は身体が宙に浮いているような錯覚に襲われた。
「ひっ…あ、アアッ――!!」
 放埒に声を上げながら、文弥は再び上り詰めた。タイミングを合わせるように瀬川も弾け、身体の奥深くに熱い迸りが叩きつけられる。
「愛してる」
 瀬川に囁かれ、文弥はうっとりと微笑んだ。今夜は寝かせてもらえないかもしれない。しかし、それで瀬川に想いを伝えられるなら、それも悪くない。文弥は、甘える子猫のように瀬川の胸に頬をすり寄せた。
                       終
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