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恋人の条件     月桜可南子 
          act.1
 窓越しに降り注ぐ晩秋の陽光をブラインドで調節する。取引先から送られてきたデータを確認しながら、発注書をさばいていると、いつの間にか俺の肩越しにすり寄って来ていた滝本が、感心したような顔で覗き込んでいた。
「さすが白藤先輩、処理が早いっすね」
「さぼってないで、自分の仕事しろ」
 俺は顔も上げずに言ってやった。ちょっと目を離すとこいつは、すぐサボるのだ。
「今夜、空いてます?」
 その言葉の意味を計りかねて振り返ると、子犬のような目とぶつかった。
「割り勘なら付き合ってやってもいい」
「とんでもない! おごりますよ」
 滝本は、満面の笑みを浮かべて言った。それはつまり、俺がベッドまで付き合うことを期待してるってことだよな。
「割り勘がいい」
 俺は強く主張した。滝本がしゅんとして口をへの字に曲げる。子供っぽい奴。俺は週末以外、セックスはしないと決めてるんだ。それはもちろん、ウイークデーのセックスは仕事に響くからで、社会人の常識ってもんだ。
 社会人一年生の滝本は、まだたいした仕事を任されていないからいいが、俺みたいな中堅社員ともなると、そう簡単に休むこともできない。第一、仕事に穴を空けるなんて、俺のプライドが許さなかった。
「遊びは週末までお預けだ」
 俺の言葉に滝本の顔が不満そうに曇る。それを無視して再びパソコンの画面に向き合うと、俺は仕事に没頭した。


 飲んだ後、律儀にマンションのドアまで送ってくれた滝本に、俺は礼を言ってドアを開けた。
「コーヒーぐらい飲ませて下さいよ」
「やだ!! おまえ、先週そう言って上がり込んで、俺を押し倒したじゃないか!」
「あれは、哲也がバスローブ姿で俺の前をフラフラしたからじゃないですか!!」
「哲也って呼ぶな! 俺はおまえより年上なんだぞ!!」
「わかりました、白藤先輩。今夜は何もしませんから、もう少しだけ一緒にいさせて下さい」
 しおらしい態度に俺はちょっとだけ同情して、ちょっとだけ部屋に上げてやることにした。「コーヒー飲んだら、すぐ帰るんだぞ」と念を押すのも忘れない。
「大丈夫です。心配ありません」
 滝本はコクコクと嬉しそうに何度も頷いた。俺はなんだかいいことをしたみたいで、いい気分になった。
 キッチンに行くと、上着を脱いで手際よくコーヒーを淹れる。もちろんドリップを待つ間、マグカップを温めておくのも忘れない。俺は、けっこうマメなんだ。
 コーヒーを持ってリビングに行くと、滝本が上着どころかネクタイまで緩めて、ソファーに沈み込んでいた。
「おい、なにくつろいでんだよ! これを飲んでとっとと失せろ!」
 声を荒げて叱咤すると、滝本は慌てて居住まいを正した。「いただきます」と行儀良く言ってから、コーヒーに口を付ける。
 こいつとこういう関係になって、かれこれ4ヶ月になる。前の男と別れるのにすったもんだしてるのを滝本に見られて、なし崩し的に関係を持った。
 初めはぎこちなかった滝本のセックスも、回数を重ねるうちに上達して、今では充分過ぎるほど俺を楽しませてくれる。けど俺は、滝本との間にきっちり線を引いて、絶対馴れ合わないようにしていた。今までの経験で懲りたからだ。
 身体だけの割り切った関係が一番、楽だ。裏切られたり、捨てられたりといった辛い思いをしなくて済む。静かに始まって、いつの間にか終わる、それがベストだ。身を裂かれるような哀しみも苦しみも、二度とごめんだった。
 俺は滝本が帰った後、一抹の淋しさを覚えながらも持ち帰った書類を開いた。先月、取引先の大手メーカーが倒産して、事後処理や取り付けに大わらわだった。あおりを食らって連鎖倒産する会社もいくつかあったと聞いてゾッとした。
 取引先の倒産は、うちの会社のように商事会社に毛の生えたような弱小商社には、大きな痛手であるのは確かだ。社内では近いうち、大規模なリストラが行われるのではないかと囁かれている。
 今年、三十の大台に乗る俺が、リストラや倒産で職を失ったら、再就職はかなり厳しいだろう。かといって、田舎に帰って家業の漬物屋を手伝うのは真っ平だった。


 金曜の夜、会社から電車で30分の滝本のマンションを訪れる。残業を拒否して定時で退社した滝本が、神経質な俺のために部屋の掃除をして、ベッドのシーツを取り替えて待っていた。
 それにしても豪勢なマンションだ。海外赴任中の姉夫婦のマンションを借りているという話だが、5LDKに一人で住むのは贅沢すぎると思う。しかもリビングなんて24畳もあってルーフバルコニーまで付いているんだ。滝本の姉さんは一体、どんな金持ちと結婚したんだ?
「風呂を先にします? それとも飯にします?」
 大理石のリビングテーブルには、滝本が頼んだらしいピザとサラダ、缶ビールなどが並べられていた。ウキウキと訊いてくる滝本に俺は上着を渡しながら、まるで女房みたいだなと苦笑した。
「まず風呂にする。おまえ、先に食べてていいから」
「だったら俺も一緒に入ります」
「そういうのは嫌いだって、いつも言ってるだろ!」
 俺は軽く滝本の頭をはたいてやった。このバカは、何回言っても浴室に乱入しようとするのだ。俺は他人に、手術痕の残る身体を見られるのが大嫌いだった。だからベッドでは絶対、蛍光灯はつけさせないし、明るい場所では抱かれない。
 しっかり鍵をかけてから、シャワーを浴びる。本当はジャグジーバスで、ゆっくりしたかったが、俺が出るまで滝本が食事を待っているのがわかっていたから、シャワーだけにする。湯船なんかに浸かったら眠ってしまいそうなくらい、俺は連日の残業で疲れ果てていた。


「哲也!! 哲也!!」
 滝本の呼ぶ声にぼんやりと目を開ける。
「ん……名前で呼ぶな。図々しい」
 どうやら、さんざん焦らされ過ぎて、意識を飛ばしてしまったようだ。
「キツかったですか? どこか痛いところや苦しいところは?」
 心配そうな滝本の顔が次第にはっきりと像を結んでいく。
「早く抜け!」
 俺は、思いっきり冷めた声で言ってやった。それを聞いて、滝本が真っ赤になりながら、あたふたと繋がりを解く。ズルリと抜き出される感触に俺は眉を顰めた。滝本がコンドームの口を縛ってゴミ箱に投げ入れるのを横目に見ながら、ふと思いついて尋ねる。
「今、何時だ?」
「0時40分です。泊まるんじゃないんですか? もう終電間に合いませんよ」
「じゃあ泊まる。けど、目覚ましは7時半にセットしておいてくれ。会社にやり残した仕事があるから片づけたい」
「休日出勤ですか? そんなに仕事してどうするんです。今に身体を壊しますよ? 今だって少し熱っぽいし」
「うるさいなぁ。おまえ、俺の女房か!? 俺の仕事に口出しするな!!」
 俺は自分のやることに口出しされると無性に腹が立つ。滝本の言う通り、このところ微熱が続いていたが、仕事は山のように溜まっていて、とても休める状態ではなかった。3ヶ月前まで、3人でやっていた仕事を定年で一人辞めて、補充もないまま2人で処理しているのだ。
「じゃあ、俺も手伝います」
 イライラと爪を噛む俺の指をやんわり口元から外すと、滝本は俺の顔を覗き込むようにして言った。
「結構だ! ミスされると困るしな」
 俺の言葉に滝本が悲しそうに目を伏せる。それを見て見ぬ振りで、俺はシーツを首もとまで引き寄せた。
「もう寝る。起きなかったら起こせよ」
「はい」
 滝本の返事を聞くと、俺はそのまま吸い込まれるように眠りに落ちていった。


          act.2
 滝本が用意してくれたコーンフレークと野菜ジュースで軽く朝食を摂ると、俺は午前10時に出社した。人気のないオフィスは、無人島にいるように孤独だ。提出期限が迫っているものから優先的に片づけていき、気が付くと午後1時を回っていた。
 微かに空腹を覚えたが、オフィス街のこのあたりは、サラリーマンやOLに合わせて飲食店は軒並み休業だ。一番近いコンビニまで、歩いて15分もかかるのを思い出し、俺は3時まで頑張ってケリを付けてから、どこかで昼食を取って帰宅する事にした。
「やっぱり、食事もしないで頑張ってる」
 仕事に没頭していた俺は、滝本がすぐ隣に立つまで、全く気づかなかった。
「はい、差し入れ。サンドイッチです。ここのは美味しいんですよ。これを食べて、キリが付いたら一緒に帰りましょう。親切な後輩に、夕食ぐらい付き合ってくれますよね?」
 ポロシャツ姿の滝本が、ニコニコして言った。目の前にサンドイッチを差し出された途端、俺は急激に空腹を感じて欠食児童のようにそれに飛びついた。
 結局、滝本にもできる簡単な仕事をよりだして手伝ってもらい、2時半には仕事をおおむね片づけることができた。滝本には褒美に夕食を奢ってやることにする。
「でも、夕食にはまだ時間があるな。どうする?」
「うちでゴロゴロしながらビデオでも観ませんか? お薦めのがあるんです」
 俺はビデオなんてどうでもよかったが、人目を気にせずゴロゴロできるというのが気に入った。しかし、スーツでゴロゴロしてもあまりくつろげそうにない。
「だけど俺、着替えがないし、一度うちに戻りたいな」
「あ、着替えなら俺がスウエットを用意しておきました。下着もちゃんと買ってあります」
「なんか……用意がいいな。まさかおまえ、またヤろうなんて考えてないだろうな」
「へへっ、バレました?」
 やっぱり、そうきたか。こいつが俺を大人しくゴロゴロさせてくれたことなんて滅多にないもんな。俺の隙を突いては、すぐにあらぬ所に手を伸ばしてくる奴なんだから。俺はわざと盛大な溜息をついてやった。
「まぁ、おまえはまだ若いもんな。今夜だけだぞ。それで物足りないなら、他で遊べ」
「そんなことできるわけないじゃないですかっ!! 俺は白藤先輩一筋です!!」
 顔色を変えて懸命に言い募る滝本は、子供みたいにきれいな目をしていた。そう言えば俺、こいつの目に惚れたんだっけ。一重なんだけど、くりくりして可愛い感じが、初恋の男に似てる。
「気持ち悪い奴。男女の恋愛でもあるまいし」
 内心ドキドキしながら、照れ隠しに悪態をついてやる。滝本は、困ったような顔をして黙って俺を見ていた。


 なんだかんだ言いつつも、俺は滝本秘蔵のゲイ・ビデオを見せられて、画面の中そっくりの手順と体位で抱かれた。ちょっと興奮したのは事実だけど、未だかつて経験したことのないアクロバットな体位に俺の身体はしっかり筋肉痛になった。
 やっぱ、6つも年下のヤリたい盛りの男なんかと付き合うもんじゃないな。こっちの身が持たない。
「はい、ビール」
 滝本から冷えた缶ビールを手渡されて、喉に流し込んだ。派手にキスマークの散った身体を隠すため、トレーナーを足下から引き寄せる。それを頭からかぶりながら、滝本の視線が俺の腹部の傷跡に張り付いているのに気づいた。
「夕食、何にする? 出かけてもいいし、出前で寿司とか鰻でも取るか?」
 滝本の関心を他に向けようと、俺が話しかけると案の定、滝本は夕食のメニューに頭を捻りだした。単純な奴……。
 結局、滝本が和食を食べたいと言うので、俺達は歩いて10分の駅前の居酒屋へ出かけた。混み合う寸前の時間帯で、何とか待たされずに席に着くことができて、ホッとする。店内は休日ということもあって、家族連れが多かった。
「白藤先輩は家族にカミングアウトしてるんですか?」
 酔った滝本が、俺に訊いてきた。
「んなわけねーだろ! 俺がなんで実家から遠く離れた東京で就職したんだと思う? 親にバレずに男とヤリまくるためだ。都会なら、いい年した男が独り身でいても、とやかく言う奴が少ないしな。カミングアウトなんて、小心者の俺には一生できないなぁ……」
 つらつらと考えていると、だんだん落ち込んできた。人がせっかくいい気持ちで飲んでるのに、なんてこと訊くんだよ!!
「俺、白藤先輩なら家族に自信を持って紹介できます。仕事はできるし、美人だし、セックスも最高だし、それから……」
「おい、俺はおまえの家族なんかに会わないからな。天地がひっくり返ったって絶対に! ああもう、こんなつまらん話は止めよう。俺はひっそりと静かに生きていくのが好きなんだ」
 俺がつまみのほっけをつつき回すのを見て、滝本が丁寧に骨を外してくれる。こいつの箸使いは今時の若者と思えないほどきれいだ。俺は酔いの回った頭で、滝本の母親はきっと良妻賢母のしっかりした女性なんだろうな、そんな母親に男の恋人なんて理解できるわけがないよなと考えていた。


          act.3
 日曜の昼過ぎに自宅マンションに戻った俺は、玄関に揃えられたパンプスに仰天した。
「哲也! どこへ行ってたの!? 携帯も繋がらないし、母さんどんなに心配したか」
「ご、ゴメン!! 友達の所に泊まったんだ。それより、いつ来たんだよ」
「土曜の朝よ。奈美さんと喧嘩して、うちを飛び出して来ちゃった」
 お袋は、同居している兄嫁と仲が悪くて、しょっちゅう言い争っている。それでも大抵は、奈美さんの方が折れてくれるから、何とか丸く収まってるんだが。
「母さん、頼むよ。何日も居座られると迷惑なんだよ」
「嫌な子ねっ!! ホコリだらけの部屋をきれいに掃除してあげたのに!」
「来る前に、電話ぐらいしろよな」と、ぶつくさ言いながら、俺は寝室に逃げ込んだ。
 ラフな格好に着替えてキッチンに行くと、お袋が忙しく立ち働いていた。俺のために手の込んだ夕食を作ってくれるつもりらしい。
「ねえ、哲也。あんた、この間、振られたって言ってたけど、新しい彼女はまだできないの?」
 お袋が手を休めることなく背中越しに訊いてきた。
「ん……まだだよ」
 新しい男はできたけどね。俺は追求を怖れて、わざと素っ気なく答えた。
「今は晩婚化が進んで、30過ぎても独りって人が増えたけど、実智也の所はもうすぐ二人目が生まれるんだよ」
「そっか、おめでとう。今度は男が生まれるといいな」
「なに呑気なこと言ってるの、あんたも頑張らないと。この際、できちゃった結婚でも構わないわよ」
 俺はどんなに頑張っても、子供は作れないぞ。女に突っ込むより男に突っ込まれるのが好きなんだから。
「無責任なこと言うなよ。あんな田舎で、できちゃった結婚なんて陰で何を言われるかわかんないだろ!」
 俺の苛立ちを感じ取ったお袋が口を噤む。
 閉鎖的で排他的で、時代遅れな田舎町が大嫌いで、俺はどうしても東京の大学に行きたいと言い張って上京し、卒業したら地元で就職するという約束を蹴り飛ばして今の会社に就職した。あそこに帰りたくない一心で――。
「ちょっと、コンビニ行って来るから」
 俺はお袋にそう言うと、その場を逃げるように離れた。


「白藤くん、クマができてるじゃない。きれいな顔が台無しよ」
 ふらふらと廊下を歩いていた俺に、同期の尾関美香が話しかけてきた。
「ちょっと寝不足でさ」
「まっ、一晩中、励んじゃったってこと?」
 美香は恥じらいもなくそんなことを言って笑った。俺は、土曜の激しいセックスを思い出して口籠もる。
「ほどほどにしときなさいよ」
 ケラケラと笑いながら歩き去る美香を黙って見送った俺は大きく息を吐き出した。これだから年増の人妻は嫌なんだ。それから俺は、自分の席で簡単な資料作りを始めたが、頭がボーとしてなかなかはかどらない。
「白藤先輩、応接室で少し休んできたらどうです? どうせもうすぐ昼休みだしそのまま寝ちゃってもいいですから」
 チームを組んでる一年後輩の山田が心配そうに言った。
「ああ、そうさせてもらう」
 俺は素直に山田の好意に甘えることにした。何だか悪寒がして座っているのも苦痛だったからだ。山田、おまえっていい奴だな。耳年増の美香とはえらい違いだよ。
 普段は滅多に使われない第三応接室に行くと、俺は合成皮の長椅子に横になった。しかし疲れすぎた神経は、俺に熟睡を許さなかった。ウトウトしながら夢の中で資料作りに格闘するという情けない夢を見て、人の気配に目覚めた時は、前よりもっと疲れた気分だった。
「あ、起こしちゃいましたか? すみません」
 覆い被さるようにして俺の顔を覗き込んでいた滝本と目が合って、俺は少し驚いた。
「おまえ、またサボってる……」
 呆れたように言うと、滝本はしゅんとした。
「だって、山田さんから白藤先輩がしんどそうだって聞いて、いても立ってもいられなくなったんです」
「もう大丈夫だ。俺も仕事に戻るからおまえも戻れ」
 本当はもう少し横になっていたかったが、滝本の手前、ダラダラしている訳にもいかず、俺は気力を振り絞って起き上がった。腕時計で時間を確認すると午後1時を少し回っていた。2時間近く眠った計算だ。上掛け代わりにかけていた背広の上着に袖を通そうとすると、滝本が手を貸してくれた。
「なんか熱いですよ? 熱があるんじゃありませんか?」
「そうかな? ちょっと怠い感じはするけど……。疲れるとよく微熱が出るんだ。今夜ゆっくり眠れば治るさ」
 俺は額に伸びてきた滝本の手を、邪険に払い落として仕事に戻った。
 

 2時間ほどサービス残業をしてマンションに戻ると、お袋は妹の昌子叔母さんの家に行くと書き置きを残して消えていた。俺の態度が冷たかったのが堪えたらしい。ちょっと罪悪感を覚えたが、ほっとしたのも事実だ。俺はお袋のかしましさが大嫌いだったから。
 お袋が用意しておいてくれた惣菜を暖め直して夕食を摂ると、俺は早々にベッドに潜り込んだ。おかげで翌朝は、このところ続いていた微熱も治まって、気分良く目覚めることができた。
 しかしその週末、滝本は俺を抱かなかった。正確には挿入をしなかった。手や口で俺を達かせただけで、後は抱き人形のように俺を抱き締めていただけだ。
「たまには、こういうのもいいでしょう?」
 滝本が、にこにこ笑いながら余裕で言うので、俺は頭に来て、滅多にしないフェラチオで奴からさんざん搾り取ってやった。ザマアミロ。俺を年寄り扱いしようなんて百年早いんだよっ!


          act.4
 木枯らしの吹く日曜の夕方、俺は滝本のマンションで車雑誌をパラパラとめくりながら、スーパーへ買い物に行った滝本を待っていた。滝本が、俺の体調を気遣って、精の付く夕食を作ると張り切っていたからだ。
 滝本の料理は大雑把だが、けっこう旨い。自分のマンションに戻って、一人分の夕食を作るのも面倒なので、俺は滝本の好意に甘えることにした。
 いつの間にか、うたた寝していた俺は、巧みなキスで目を覚ました。そのキスに応えて、しばらく舌を絡ませていたものの、意識がはっきりしてくるにつれて、相手の身体が滝本より二周りも大きいことに気づいて驚愕した。あたりはすっかり闇に閉ざされていて顔はよく見えないが、とにかく俺は渾身の力を振り絞って暴れた。空き巣にレイプされるなんて冗談じゃないっ!
「離せっ!! 畜生、何すんだよっ!!」
 怒鳴りつけると男はクスクスと笑い出した。
「なんだ、もう目が覚めたのか」
 つまらなそうに言って、男はやっと俺を解放した。速攻で廊下へと逃げ出した俺は、
「逃げなくてもいいよ、白藤哲也くん」
 と、いう声に固まった。
「なんで…俺の名前を……」
「真路(まさみち)の恋人なんだろう? ちょっとからかっただけだよ」
 とても楽しそうな口調で男が言った。ようやく暗闇に慣れてきた目で、俺は男を睨み付けてやった。
「あんた、誰なんだ?」
「私は真路の義兄で、服部剛(はっとり・つよし)だ。一応、インターフォンは押したんだが、応答がなかったので合い鍵で入らせてもらったよ」


 滝本が買い物から帰って来た時、俺はダイニングテーブルで服部につき合わされてコーヒーを飲んでいた。といっても、会話などあるわけもなく、気まずい沈黙の中でひたすら耐えていただけだ。
「じゃ、俺、帰るから」
 滝本の顔を見るなりそう言うと、俺は一目散に逃げ出した。いくら滝本の義兄だからって、あんなことを冗談でするような奴とは、そうそう仲良くしてなどいられない。
 あれだけのマンションを所有しているのだから、かなりの金持ちなのだろうが、エリート然とした尊大な態度はいただけないし、俺を値踏みするような視線は本当に腹立たしかった。できれば二度とお目にかかりたくない相手だ。
 服部は、日本の本社へ業務報告するため、2週間だけ一時帰国したと言っていた。だから俺は2週間、滝本のマンションには近づかないと固く決意した。


 しかし月曜日の夜、俺は赤坂の料亭で、服部と顔を突き合わせていた。もちろん滝本も一緒だ。本当は来たくなかったのだが、服部と親しい専務の命令で、夕食を付き合うハメになったのだ。
「真路に、手取足取り仕事を教えてくれたそうだね、礼を言うよ」
「いえ、後輩を育てるのも仕事のうちですから」
 俺は、不機嫌さを前面に出して答えた。どうもこの男は虫が好かない。俺より二歳年上という話だが、やけに貫禄がある。貫禄と言っても別に親爺臭いのではなく、妙に落ち着きがあるのだ。その上、申し分のない男前で、ゴルフ焼けに間違いない浅黒い肌と綺麗に筋肉の付いた精悍な身体をしていた。正に、キザを絵に描いたような男だ。
 それにしても服部は、義弟の滝本と俺の関係をどう思っているのだろう?
「白藤先輩、この日本酒いけますね」
 滝本は呑気にへらへらと笑っていた。なんかムカつく。
「あんまり飲むと明日の仕事に響くぞ」
「はい、気をつけます」
 しおらしく応えた滝本は、しかし目一杯酔い潰れた。こ、こいつ・・・なんてアホなんだっ!
「泊まっていけばいいのに」
 滝本を寝室に運び込んで帰ろうとした俺に、服部が言った。
「帰ります。まだ電車もありますから」
「じゃあ送るよ」
「大丈夫です。どうぞご心配なく」
 素っ気なく言って背を向けた途端、俺は猛烈な勢いで腕を引っ張られた。アッという間に壁に押さえつけられ、唇を奪われる。抗おうとして腕を突っ張ったが、巧みなキスに煽られて――。
 情けないことに我に返ったのは、情事が終わって服部が俺を抱き寄せてきた時だった。まずい……絶対に拙すぎる!!
 後悔先に立たずなんて言葉があるけど、これはそんなレベルを遙かに超えている。あまりの失態に俺は、パニックになった。どうしよう、どうしよう、どうしよう!!
 服部は滝本に今夜の事を話すだろうか? まさかそんな残酷な真似はしないと信じたいが、もし滝本に今夜のことがバレたら、きっと殴られる。いや、別れることになるだろう。だって俺は、滝本だけでなく、服部の妻である滝本のお姉さんまで裏切ったことになるのだから。
 俺は服部の下から這いずり出すと、リビングに散らばった自分の衣服を慌てて身に着けた。そんな俺を服部は気怠そうに眺めていたが、リビングを飛び出す前にチラリと振り返ると、眠そうな声で「おやすみ」と言った。
 俺は、脱兎のごとく逃げ出した。今さらどんな言い訳もできないが、あれは、その……弾みだったんだ。堪え性のない自分の淫乱な身体を呪いながら、俺は激しい後悔に怯えていた。


          act.5
 翌日、滝本は何一つ気づいていないらしく、ひたすら二日酔いに苦しんでいた。身体から後悔と懺悔が溢れそうになっていた俺は、滝本にポカリを差し入れしてやった。
「うわぁ、先輩が気遣ってくれるなんて感激だなぁ。てっきり叱られるかと思ってたのに」
 滝本の嬉しそうな顔を見て、俺はますます良心の呵責に苦しんだ。しかし服部がバラさないことをわざわざ自分から白状して、つまらない騒ぎを起こすほど俺は馬鹿じゃない。このまま、すべてなかったことにしてしまおう。俺は、そう決心していた。
 

『やあ、今夜は何時に会える?』
 服部がかけてきた外線電話に、俺は飛び上がりそうな位、驚愕した。なんて神経してるんだよっ!! 義弟の恋人に手を出しておいて、その落ち着きと図々しさは一体何なんだ!? それにどうして俺の内線番号を知ってるんだ?
「どちらへお掛けでしょう? おかけ間違いではありませんか?」
 俺はバクバクいう心臓を宥め賺して、冷淡な声音で言った。
『つれないな。もう昨夜のことを忘れたのか?』
「番号をもう一度お確かめ下さい。では、失礼します」
 受話器を置いた俺は、平静を装って周囲を見渡した。皆、自分の仕事に没頭していて何も気づいていない。ホッとして、俺は仕事を再開した。


 残業でクタクタになって戻ると、留守電のランプが点滅していた。
『哲也、母さんはそっち行ってないか? もしいたら迎えに行くから連絡してくれ。じゃあな』
 兄貴の脳天気なメッセージに俺は舌打ちした。遅いんだよっ! お袋はとっくに妹の昌子叔母さんの家に行ったんだから。それを伝えるため、受話器を取ったその時、ドアホンが鳴った。
 げっ、兄貴の奴、確かめもせず迎えに来たのかよ。俺は慌てて玄関に走った。
 ドアを開けたそこにいたのは、服部だった。俺が驚きで立ちすくんでいると、服部は無言でずかずかと入り込んできた。どうして俺の自宅まで知ってるんだ?
「忘れ物だ」
 差し出されたそれは、俺のネクタイ。パニックになってて、忘れたことさえ今の今まで気が付いていなかった。
「あ、どうも……」
 俺は間抜けにもそれを受け取ろうと手を伸ばし、その手を掴まれて服部の胸の中に抱き込まれた。
「ちょっ、服部さん!! 俺は滝本と付き合ってるんですよ!?」
「だったら、なぜ抱かれたんだ?」
「あれは……酔ってて……ほんの弾みで……」
 ごにょごにょ言い訳してるうちに、唇を塞がれた。熱い舌が暴力的に差し込まれてくる。拙いっ、昨夜もこのキスに煽られたんだ。俺はありったけの力を振り絞って、服部を突き飛ばした。
「帰って下さい!! こんなことして奥さんに知れたらどうするんです!」
「妻は知ってるよ。私達は偽装結婚だからな。お互いゲイだってことを隠すための」
 服部が、楽しそうにニヤリと笑った。
「彼女は自分もゲイなのに、溺愛してる弟の恋人が男だと知ってカンカンに怒ってた。君のことを随分、調べ上げてたよ。彼女が持ってた君の調査書を見て、言ったんだ、こいつは私が貰うって」
 俺はぞっとした。滝本のお姉さんが俺の過去を知っているなんて――。
「坊やと別れて、私に乗り換えないか? 不自由のない暮らしを約束するよ」
「お断りします!」
 俺は、きっぱり、はっきり言ってやった。おそらく、服部は金に飽かせて何人も愛人を囲っているはずだ。そんな大勢の中のひとりになるなんて真っ平だ。
「真路を愛してるなんて言わせないぞ。君は、愛なんかより快楽を選ぶ男だからな。昨夜のセックスは良かっただろう?」
 甘く囁かれて、身体の奥が疼いた。確かに服部のセックスは凄かった。経験と場数の違いをはっきりと感じるほどに。
「俺は……」
 何か拒絶の言葉を口にしなくてはと思うのに思いつかない。服部の指がからかうように俺の股間を撫で上げている。服部の言う通り俺は、愛なんて不確かで信じられないものより、強くて激しい快感が好きだ。服部の顔がゆっくりと近づいてくるのを見て、俺は考えることを放棄して目を閉じた。


          act.6
 身体が怠い……。俺は得意先回りから戻ると、机の上に突っ伏した。
 昨夜は、服部に死ぬほど焦らされて、滝本と別れると約束するまで達かせてもらえなかったからだ。しかし服部の愛人になるのは願い下げだ。いくら妻の公認とはいえ、『元恋人の義兄の愛人』というシュールな設定は、俺の趣味ではない。もっと気楽で割り切った関係を持てる相手を見つけよう。
 けど、その前に滝本にどうやって別れ話を持ち出すか考えないとなぁ。あいつが泣くのは目に見えてるが、元はと言えば、あいつが家族に俺のことを打ち明けたりするのがいけないんだ。
「白藤くん、昨日渡した見積書には目を通してくれた?」
 同期の尾関美香に話しかけられて、俺はのろのろと顔を上げた。
「ご免、これからすぐ目を通すから……」
「今日中にお願いね」
 美香は何か他にも言いたそうに口を開きかけたが、俺の顔を見て思いとどまったらしく、そのまま静かに立ち去ってくれた。俺、そんなに酷い顔をしてるのかな。
「白藤先輩、昼飯一緒に行きませんか?」
 美香と入れ違いにやってきた滝本が、明るく言った。別れたら、もうこんな風に優しく笑いかけてくれないだろうな。そう考えたら胸がチクリと痛んだ。
「食欲ないから、蓬莱軒の粥を食べに行くつもりなんだけど?」
「じゃ、俺はそこのランチにします」
 屈託なく笑う滝本の顔を見ながら、俺はいつ、どこで、どんな風に別れを切り出したものかと思案していた。


「酷い顔色してる。残業のし過ぎですよ」
 蓬莱軒の席に着くなり、滝本が言った。余計なお世話だと言ってやりたいが、浮気(?)が原因だから我慢する。
 滝本とは別れるが、服部と寝たことは絶対に秘密にしておくつもりだった。滝本を必要以上に傷つけることはないし、俺と別れても滝本は姉の夫である服部とは、この先もずっとつき合って行かなくてはならないのだから。
「なあ、週末はどうする? お義兄さんがいるだろ? 俺んとこ来るか?」
「義兄なら、週末は接待ゴルフでいないから大丈夫ですよ。土曜から一泊二日で出かけるんです」
「そっか、じゃあ土曜の昼過ぎに行く」
 別れ話で万一、修羅場になっても、滝本の(正確には服部の名義だが)マンションなら人に見られる心配はないし、防音も完璧だ。俺はそこで話をすることにした。


 土曜日、さすがに緊張で朝から何も食べられず、俺は滝本のマンションへ昼過ぎに行った。
「昼飯は食べました? ピザを取ったんで一緒に食べませんか?」
「途中で軽く食べて来たからいい」
 俺の嘘に滝本はこれっぽっちも気づかず、キスを仕掛けてきた。ピザの味はしないところをみると、俺と一緒に食べるつもりで待っててくれたんだ。沸き上がる罪悪感を振り払うように俺は言った。
「シャワーを浴びてくるから、おまえ、早くピザを食べちゃえよ」
「朝が遅かったから、そんなに腹減ってないんです。それより俺、早く哲也が食べたい」
 滝本は上機嫌で俺のシャツのボタンに手を掛ける。俺がセックスの後で、別れを告げるつもりだって知ったら、どんな顔をするだろう?
「がっつくなよ、シャワーを済ませてからだ」
 すげなく滝本の手を払い除けて、俺は勝手知ったるバスルームへ逃げ込んだ。洗面台の大きな鏡で、服部がつけたキスマークが残っていないか確認する。内股に消えかかったキスマークが二つ残っていたが、これだけ薄ければ、照明を落としたベッドルームではわからないと判断してホッとする。
 バスローブ姿で寝室へ行くと、滝本が慌てて遮光カーテンを閉めた。脇腹に大きな手術痕がある俺は、絶対に明るい場所で抱かれないと知っているからだ。
 つきあい始めてかれこれ5ヶ月になる滝本の、すっかり馴染みになった愛撫に、俺はゆっくりと登りつめて行く。俺が滝本に教えた俺の好きな愛撫、体位、動き、何もかもが心地いい。
 服部みたいな貪るような激しさはないけれど、滝本の穏やかで優しいセックスは俺の乾いた心を潤してくれる。最奥で滝本が弾けるのを感じて俺は苦笑した。若いな……。
 一度、吐精しても充分な堅さを保ったままの滝本のソレが、息が整うのを待って再び動き出す。そう、ソコが俺の好きな、俺が一番感じるトコロ……いいよ、凄くいい。俺の出来のいい生徒は、俺が教えたテクニックで巧みに俺を絶頂へと追い込んで行く。
 初めて身体を繋いだ夜はさんざんだったのに、おまえ、ほんとに上手くなったよ。泣いたり笑ったり怒ったり、おまえと過ごした夜は、ほんとに楽しかった。


          act.7
 シャワーで汗を流して寝室に戻ると、滝本はまだベッドの中でだらだらしていた。
「あれ、泊まっていかないんですか?」
 しっかり服を着込んだ俺を見て、滝本が不満そうに言う。
「ああ、仕事を持ち帰ってるから、うちに戻ってやらないとな。帰る前に少し話があるんだけどいいか?」
「ええ、いいですよ」
 俺が親指でリビングの方を指すと、滝本は素直にベッドから這い出してきた。
「俺達、明日からはただの先輩と後輩に戻ろう」
 リビングのソファーで向かい合うと、俺は別れ話を切り出した。滝本は俺の言葉に、絶句して馬鹿みたいにポカンと口を開けたまま俺を凝視している。それをいいことに俺は作り笑顔で話を続けた。
「俺はもうおまえとは寝ないし、この部屋にも来ない。けど、会社では今まで通り仲良くやりたいと思ってる」
 なおも絶句したまま固まっている滝本に、俺はできる限り優しく笑いかけた。
「YESと言ってくれるよな?」
 しかし滝本は相変わらず固まったままだ。ショックはわかるけど、そのリアクションは何なんだよ。男なんだから、もっとシャツキリしろ。
「じゃ、俺の話はこれで終わりだ。帰るからな」
 俺がソファーから腰を浮かすと、やっと滝本が身じろいで口を開いた。
「別れるってことですか?」
 滝本はとても苦しそうに言った。
「ああ、そうだ」
「……どうしてですか?」
「これ以上、深入りしないうちに別れた方がお互いのためだからだ。おまえは女を抱けるんだから、可愛い彼女を作って結婚して、幸せでまっとうな人生を生きろよ。な?」
 案の定、滝本の目には涙がてんこ盛りになって、俺は暗い気分になった。
「俺は、哲也が好きなんだ。可愛い彼女なんて要らない。哲也の側にいるって、一生側を離れないって決めたんだ」
「それで家族に俺の事を話したんだ」
 俺が大きな溜息と共に呟くと、滝本はハッとしたように俺を見た。
「服部さんに何か言われたんですか!?」
 俺は曖昧に笑った。服部との事は口が裂けても話さない覚悟だった。
「おまえには悪いけど、俺はおまえと遊び以上の関係になりたいと思わない。それなのにおまえとつき合うことで、誰かに恨まれたり、憎まれたりするのは真っ平なんだ。だからもう終わりにしよう」
「俺は……」
 滝本は何か言おうと口を開きかけ、そのまま黙り込んだ。俺はそれを見て、滝本が不承不承、別れることに同意したと判断した。
「いい思い出をありがとう。じゃあ、また会社でな」
 俺はコートを掴むと足早にマンションを後にした。滝本はソファーに座り込んだまま動かなかった。泣いていたのかもしれない。
 だが、新しい恋人ができれば俺のことはすぐに忘れるはずだ。社内には、あいつを狙っている女の子が何人もいると、おしゃべりな美香が言っていたから、それはそう遠い日のことではないだろう。


 月曜日、思いっきり落ち込んでいる滝本が連発したミスの尻拭いにヘトヘトになって、自宅マンションに戻ると、エントランスで服部が俺を待っていた。軽く俺の給料一ヶ月分はしそうな高価なカシミアのコートが見事に様になっている。
「真路と別れたそうだね」
 服部の唇の右端だけを引き上げる笑い方は、女達が見ればふるい付きたくなるほど男臭くてかっこいいのだろうが、俺は好きじゃない。なんだか見下されてる気分になるからだ。
「だからって、あなたの愛人の一人になる気はありませんから」
 仕事の疲れで思いっきり不機嫌だった俺は、怒りを孕んだ声音で服部を牽制した。
「君が私のものになってくれるなら、他の奴とは別れてもいい」
「お断りします!! 俺はあなたが嫌いなんです。他人を踏みつけにして平気で生きていけるあなたが!」
「それは君も同じだろう? その脇腹の刺し傷は誰にやられたんだっけ?」
 俺はカッとして服部に力一杯、殴りかかった。が、あっさり交わされて服部の胸に抱き込まれてしまう。ジタバタと藻掻いて逃れようとしたが、強引に唇を奪われて、俺はすぐに立っていられなくなった。 


          act.8
 赤坂プリンスホテルのスゥイートは暖房が行き届いていて、快適だった。俺は中出ししやがった服部を呪いながら、バスルームで後始末をすると、ゲスト用のベッドに潜り込んで始発の時間まで仮眠を取ることにした。
 滝本は俺が一から躾けたので、きちんとコンドームを付けて、中出しなんて一度もしなかった。ゴムがない時は、俺を達かせてから抜き出して、手で終わらせた。
 いつも俺を気遣って、自分の快感より俺の快感を優先してくれた。だから俺は終わった後、滝本に抱き締められて眠るのが大好きだった。
 気が付くと俺は泣いていた。ついさっきまで服部の下で、本能の命じるまま獣さながらに乱れ狂っていたのに……。この淋しさは一体、何だろう?
 結局、一睡もできないまま、俺はくそ寒い早朝、ホテルを抜け出して自宅に戻り、着替えてすぐに出社した。過労と睡眠不足で、足下がふわふわして身体が怠くて堪らない。それをドリンク剤で奮い立たせて、何とか火曜日を乗り切った。
 自宅に戻ると、ベッドに倒れ込むようにして眠った。喉の渇きを覚えて目を覚ますと、真夜中の2時だった。6時間ほど眠った計算なのに疲れは取れず、俺はぐっすり眠るためウイスキーを煽って再びベッドに潜り込んだ。
 10時間の睡眠で、俺の頭はすっきりしたが、相変わらず身体が怠かった。熱を計ると37.2度あった。それでも俺は、朝食代わりのカフェオレで風邪薬を飲んで、いつものように出社した。


「白藤先輩、この報告書のチェックをお願いします」
 滝本がいくぶん強張った口調で言ってきた。とはいえ、あからさまに俺を避けたり、反対に俺を付け回したりもせず、ごく普通に接してくれる滝本の態度は立派だった。俺は険悪なムードになるのを覚悟していたから、ちょっと拍子抜けしたほどだ。
「期限はいつまでなんだ?」
「明日の午後2時です」
「わかった」
「よろしくお願いします」
 滝本は軽く一礼すると自分の席に戻って行く。それをぼんやり目で追いながら、結構あいつも大人だなと感心した。


 微熱が続いているので、早めに寝ようとベッドに入った途端、電話が鳴った。無視を決め込んで頭まで布団を被ったが、あんまりしつこく鳴るので仕方なく出た。
『居留守は良くないな』
 男らしいバリトンが不愉快そうに言った。服部だ。
「体調が悪いので早めに休もうと思ったんですよ。何の用です?」
『土曜の朝、成田を発つ。次に帰国するのは来年の3月だ』
「それで?」
 俺はできるだけ素っ気なく冷淡な声で訊いてやった。
『金曜の夜は一緒に過ごさないか?』
「嫌です。あなたとはもう二度と会いたくない!」
 言って、電話を叩き切ると、俺はすかさずジャックも抜いてやった。ザマアミロ! そうそう何もかもが自分の思い通りになると思うなよっ!
 俺は、すっかり冷え切ってしまった身体を引きずって再びベッドに潜り込んだ。


 畜生!! 何だってこんな事になったんだ? 金曜の夜、またしても服部にマンションのエントランスで拉致された俺は、ホテルに連れ込まれてベッドに押し倒された。
 さんざん俺の欲望を煽り立てておいて、いざ挿入すると、服部は余裕の笑みで俺を見下ろすばかりで一向に動こうとしない。俺は、達かせて欲しくて、服部に腰を擦り付けた。
「私のものになれ」
 服部が耳元で甘く囁いた。
「他の奴とは、きれいに別れる。君が逆恨みされることのないようにな。心配いらない。欲しいものは何でも買ってやるし、もっと楽でペイのいい仕事も用意してやる。役職が欲しければそれも用意しよう。後悔なんて絶対にさせない。必ず幸せにしてやる」
 俺は、服部の長ったらしい口説き文句の半分も聞いちゃいなかった。身体の中で出口を求めて暴れ回っている熱を早く解き放ちたくて、そのためなら何だってできた。
「はやく……ね、欲しい……。お願い…はやくっ」
 うわごとのように繰り返す俺を服部は呆れたように見た。
「まったく、なんて淫乱なんだ。クウッ…! そんなに締め付けるんじゃない」
 服部が深呼吸を繰り返す。その微かな刺激が俺の内部に伝わって、むず痒いような快感が襲ってくる。
「突いてっ、抉ってっ……お願い!」
 悲鳴のような懇願に、服部の顔が辛そうに歪んだ。俺の内部が浅ましく服部のモノに絡みついて蠢動するのが自分でもわかる。
「凄い…なんて具合がいいんだ……。信じられない、この私が…溺れそうだ」
 服部はいきなり俺の両脚を肩に担ぎ上げると、猛烈な勢いで挿送を始めた。馬鹿野郎!! なんて乱暴なんだ、裂けるじゃないかっ! 苦しい、うまく息ができないっ!
「やアァッ、……ダメ、壊れるゥッ!」
 俺は懸命に服部の動きに合わせて腰を使った。息ができなくて頭がボーとしてくる。やがて視界が霞んで何も見えなくなり、俺は意識を失った。


          act.9
 気が付くと湯船の中で服部に横抱きにされていた。骨張った大きな掌が丁寧に俺の肌の汗を落としていく。心地よさにホッと身体の力を抜いたその時、身体の奥を精液が伝う感触に鳥肌が立った。ああ! こいつ、また中出ししやがったんだ。ムカつく!
「気絶するほど、良かったんだな?」
 服部がニヤニヤしながら言った台詞に、俺は叫びだしたいほどの怒りを覚えた。大バカ野郎!! おまえが無理な体位で好き勝手やるから、酸欠で気を失ったんだよっ!
 俺が無言でジロリと睨み付けると、服部は少しバツが悪そうに目を伏せた。そうだ、猿だって反省するんだから、おまえも少しは反省しろっ! 内心、毒づきながら服部のゴリラのような腕の中から逃れると、俺は服部に冷ややかな視線を向けて言ってやった。
「自分で、後始末するから出てけ!」
 服部は俺の命令に唖然とした。普段、命令する事はあっても、命令される事は決してない男にとって、俺の高飛車な物言いはショックだったに違いない。しかし服部は、しばらく逡巡した後、黙ってバスルームを出て行った。


「なんだって君はそんなに、つれないんだ?」
 風呂から上がって、ゲストベッドに横になった俺に、服部が恨めしそうに言った。
「やることやったんだから、後はゆっくり眠らせてくれたっていいじゃないか!」
 俺は不機嫌さ全開で言い放った。
「私は明日の朝、日本を発って、当分帰ってこないんだから、朝まで側にいてくれたって」
「おやすみ」
 俺は泣き言めいてきた服部の話を最後まで聞かずに、毛布を首元まで引き寄せると、服部に背を向けた。連日の残業でクタクタなのに、ハードで身勝手なセックスにつき合わされて、俺の疲労と怒りは頂点に達していた。これ以上、ゴチャゴチャぬかすなら、殴ってやろうと思っていたが、服部は諦めたように大きな溜息をつくと、やっと静かになった。
 俺が無視していると、服部の手が伸びてきて悪戯を仕掛けてきた。何すんだよっ、このエロゴリラっ!! 俺は乱暴にその手を払い除けると、眠るのを諦めて自分の服を身に着け始めた。
「帰るのか?」
「そうだよ」
 クタクタなのに、これ以上されたら身体が保たないからな。
「怒ったのか?」
 それには答えず、俺はコートを羽織った。ただでさえ体調が悪いのに、湯冷めして風邪をひくのは拙い。
「さよなら。滝本の姉さんに宜しく伝えて下さい。俺は滝本とはきれいに別れましたってね。あなたとも二度と会いません。俺はこれ以上、滝本を傷付けたくないんです。わかってくれますよね?」
 俺は、服部の目を真っ直ぐ見据えて言った。服部の目に微かな当惑が浮かぶ。
「まさか……真路を愛しているのか?」
「俺は、愛なんて知りません」
 俺が肩を竦めて苦笑すると、服部は俺を憐れむように見た。それが無性に腹立たしくて、俺は踵を返して部屋を出た。


 きっと、間が悪いっていうのは、こういうのを言うんだ。服部の部屋を飛び出した俺は、ドアの所で滝本と文字通り鉢合わせした。
 こうなるともう、言い訳のしようもない。俺の髪は、シャンプーの後でまだ半乾きだったし、マフラーをしていないネクタイを緩めたままの首筋はキスマークが丸見えだ。時間だって、とうに深夜の11時を回ってるんだから。


          act.10
「滝本…なんで……」
 よりによって、どうしてこんな時間に、こんな所に来るんだよっ!?
「俺の義兄と寝るなんて、どうしてそんな嫌がらせをするんですか?」
 怒りに燃えた目が、俺を食い入るように見つめていた。俺はあまりの展開に、頭を抱えてその場に座り込みたい気分だった。こんな修羅場は久しぶりで、どうしていいかわからない。とにかく逃げよう!
 滝本の脇をすり抜けて、廊下へ出ようとした俺は、しかしあっけなく滝本の腕に捕らえられて室内に引きずり込まれた。拙いよ、これは。どう考えたって拙いっ!!
「やあ、真路くん。こんな時間にどうしたんだい?」
 服部が、ニヒルな笑いを浮かべて現れた。動じた様子のないのはさすがと言うか、心臓に毛が生えてると言うべきか……たいしたもんだ。
「滝本、ごめん。もうこれきりにするから。身体が淋しくて、つい流されたんだ。悪かった、謝るよ」
 パン!と音がして、左頬が焼けた。身体がふらついて、よろけた俺を服部が抱き留める。
「君たちは別れたんだろう? だったら白藤くんが誰と遊ぼうと自由だと思うが?」
 服部が、きつい口調で滝本を咎めた。
「姉さんを裏切っておいて、その言い草かよっ!」
「彼女は今、恋人と旅行中だ。私が誰と遊んでも文句を言う権利はないんだよ」
「えっ!?」
 ショックで滝本が固まっている隙に、服部は俺をソファーに連れて行って座らせた。
「口の中は切れてないかい? やはり今夜はここに泊まりなさい」
「大丈夫です。帰りたいんです」
「俺に……送らせて下さい」
 滝本が、恐る恐る言った。こいつ、俺を殴ったくせに何考えてんだ!?
「一人で帰れる」
 俺は憮然として言うと立ち上がった。
「そうだな。一人になってよく考えるといい」
 服部の声は、その場に不釣り合いなほど優しくて慈愛に満ちていた。
「私は、君を愛しているし、大切にする。それを忘れないでくれ」
「失礼します」
 俺は事務的に軽く一礼すると、二人を残して、今度こそ部屋を出た。


 翌日の土曜日、俺は本格的な熱を出して起き上がれなかった。悪寒と頭痛に耐えながら、何とか薬だけ飲んで一日、ベッドの中でウトウトしていた。
 そして浅い眠りの中で、ぼんやりと考えていた。自分が何を求め、どう生きていきたいと考えているのか。
 これまで、俺の恋愛はどれも悲惨な最後だった。憎み合い、罵り合い、時には殴り合ったりもしたし、大学生の時の刃傷沙汰は辛くて思い出すのも嫌だ。
 だから滝本と別れた時は、あまりにあっさりしていて拍子抜けしたほどだった。まあ、俺が学習して無意識のうちに問題を起こさない相手を選んだって事かもしれないが。
 実際、滝本は育ちがいいのか、素直でおっとりした性格で、優柔不断なところと楽天的なところが苛ついたが、扱いやすいタイプだった。
 一方、服部はセックスが上手くて、経済力があり、頼りがいはあるが、アクが強くて強引で、こちらを引きずり回すタイプだ。
 もし、どちらを恋人にしたいかと問われれば、滝本と答えたいが、口うるさそうな姉さんのことを考えると、厄介事が大嫌いな俺は敬遠してしまう。かといって、服部は好きモノだから、絶対に俺ひとりでなんか満足できない奴だ。複数の愛人の中の一人にされるのは、俺のプライドが許さない。その点、滝本は一途だから、絶対に浮気できない律儀なタイプだ。
 二人を足して2で割って、美味しいところだけ選りだした男がいたらいいのになぁ。まあ、世の中そんなに甘くないってことだよな。


 次の日、まだ微熱があったが頭痛は治っていたので、持ち帰った仕事をとろとろと進めた。夕方になって一区切りつくと、俺は冷え込んでくる前にコンビニで弁当を買って来ることにした。
 玄関のドアを開けると、廊下の突き当たりで黒い影がサッと動いた。柱の影から微かに見える、見覚えのあるコートの色に、俺は盛大な溜息を付いた。
「滝本、そんなところで何やってる? おまえはストーカーか?」
 俺が声を掛けると、柱の影からバツの悪そうな顔をした滝本が出て来た。寒さで唇が紫色になっているところをから察するに、かなり前からそこにいたらしい。
「何か用か?」
 俺が近づくと、滝本は意を決したように叫んだ。
「俺ともう一度、つき合って下さい!!」
 バッ、馬鹿野郎! そんなこと大声で言うんじゃないっ!! 今日は日曜でマンションに在宅している人間は大勢いるんだぞっ!!
 俺はくるりと背を向けて、自分のマンションの玄関に戻ると、大急ぎで鍵を開けて中に逃げ込もうとした。しかし、ドアを開けた途端、滝本の太い腕が俺の肩を掴んで、荒々しく俺を玄関の中に押し込むとドアを閉め、ご丁寧にドアチェーンまで――て、おまえ、何してんだよっ! どこ触ってる!?
「滝本、やめろっ!! 離すんだ!!」
 ようやく滝本のキスから逃れて、俺は抗議の声を上げた。滝本は勝手知ったるなんとやらで、俺の弱いところを巧みに責めてくる。鎖骨に吸い付かれ、遂に俺は崩折れた。


          act.11 
 俺は自分で自分を殴りつけてやりたいくらい落ち込んでいた。反対に滝本は、鼻歌でも歌い出しかねないほどの上機嫌で、俺の身体を濡れタオルで清めている。明日は月曜なのに、俺が自力で動けないほどヤリまくりやがって、どうしてくれるんだっ!!
「滝本、おまえ、もう帰れよ」
「嫌です。白藤先輩がもう一度、恋人としてつき合うって言ってくれるまで帰りません!」
 いつからそんなに頑固になったんだ。前は、俺の言うことなら何でも素直にハイハイって聞いてたじゃないか。
「だから、たまにセックスする程度なら、つき合ってもいいって言ってるだろ。恋人は別に作れよ。そんで絶対、俺のことはバラすな」
「家族に話したことは謝ります。けど、姉以外は皆、許してくれました」
「甘いな。今は黙認してても、おまえが結婚適齢期になれば話は別だ。どうしたって俺は憎まれる。おまえ、俺が前の奴と、どうして別れたか忘れたのか?」
「奥さんに不倫がバレたから」
 滝本は、ちょっと暗い顔をした。
「そうだよ、あいつ、離婚手続きを進めてるなんて大嘘つきやがって。奥さんが乗り込んできて、マンションまで引っ越すハメになったんだ」
 さんざん罵られて、ズタズタに傷ついた俺は、自分を立て直すために、俺のことを好きだと言ってくれた滝本とつき合ったんだ。
「姉は、ここに乗り込んで来たりしませんよ」
 宥めるように滝本が言った。
「そう願いたいね」
 俺は、滝本に背を向けると毛布を引き寄せた。
「もう寝る。おまえ、シャワー使ったら帰れよ」
 返事はなかった。俺の背中をじっと見つめる滝本の視線を痛いほどに感じて、俺は身じろぎ一つできないまま、息を詰めてじっとしていた。
「先輩……俺、これでも学生時代は女の子に結構もてたんですよ。告白されて、デートして、セックスだってしたけど、今思えばママゴト見たいな恋愛でした。こんなに人を好きになったのは先輩が初めてです。自分より大切な人は、先輩が初めてなんです。俺、先輩のためなら死ねます。先輩を泣かせたり苦しませたりするくらいなら、死んだ方がマシです。だから先輩が別れようって言った時、黙って同意したんです」
 滝本は、そっと俺の肩に手を掛けて、俺の顔を自分の方へ向けさせると、優しく俺の頬に掌を当てた。俺は、大粒の涙がぽろぽろと伝い落ちる滝本の顔を強い感動と共に、じっと見た。
「もう、我が儘は言いません。だからせめて、俺が一生、先輩を思い続けることだけは許して下さい」
 ひたむきで、純粋で、一途な滝本。俺なんかより、もっと相応しい女の子がいるだろうに、なんで俺なんだ?
「馬鹿なヤツ……」
 俺は溜息と共に呟いた。
「いいよ、泊めてやる。俺の隣で眠ってもいい。その代わり、何があっても俺の手を離すなよ」
 その途端、滝本は欲しかったオモチャをやっと手にした子供のように笑った。嬉しそうに、幸せそうに――。この笑顔を覚えておこう。いつか滝本が俺の元を巣立っていったとしても、この輝くような笑顔は俺だけのものだ。
 昨日、熱に浮かされながら考えていた恋人の条件が、今はっきりとわかった。
 俺は滝本と一緒にいると、安らげる。もちろん不安や心配がなくなる訳じゃないが、自分のすべてを認められているようで、ホッとするんだ。節操なしでゲイで、自分勝手で救いようのない俺だけど、そんな欠点すらひっくるめて愛してくれる滝本は、最高の恋人だと俺は思った。
                                END        
続編の予告

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