祈り     月桜可南子
 その時オレは、雷に打たれたようなショックを受けて、動けなかった。
 誰もいないシャワールームで、槇村は泣いていた。降り注ぐシャワーの水で彼は頭からぐしょ濡れで、その両手首は躊躇い傷で血だらけだった。額に張り付いた黒髪と、前髪の間から覗くつぶらな瞳。オレを見てビックリしたように身体を震わせた槇村は、オレと同じ高2とは思えないほど幼く見えた。
「待ってろ、今、先生を呼んでくるから!」
 オレが人を呼びに駆け出そうとすると、槇村が悲鳴のような声でオレを呼び止めた。
「やだっ! 行かないで!!」
 振り返ると槇村がカミソリを自分の首筋に当てていた。引き結ばれた唇は、血の気を失って震えている。
「槇村・・・危ないよ、それをオレに渡してくれ」
 オレは中腰になって、槇村を刺激しないよう細心の注意を払って近づいた。オレの身体も興奮と恐怖で震えていた。
「・・・来ないで・・・」
 掠れた声がオレを拒絶した。
「誰にも言わない。絶対、秘密にするから、馬鹿なことは止めるんだ」
「いや・・・」
 大粒の涙が、槇村の頬をポロポロと零れ落ちた。血の気を失った蒼白な頬。一体、どれくらい出血したのだろう。槇村はすでに意識が朦朧としているらしく、オレを見つめる瞳には力がない。
 オレは自分のハンカチを裂いて、止血のために再び槇村にそろそろと近づいた。そして槇村はもう話す気力もないのだと気づいて慌てた。
 槇村の手からカミソリを注意して取り上げると、手早くハンカチで手首を縛り上げる。校医の宮下先生がまだ残っていてくれることを祈りながら、オレは自分の上着で槇村をくるんで、保健室に運んだ。
 槇村は、すぐに宮下先生の車で近くの個人病院へ運ばれた。そこの院長は校長と同窓で、こういったことには口が堅いかららしい。
 オレは、校長と教頭から槇村を発見した時のことを2時間にも渡って、あれこれ聞かれて、うんざりした。絶対に誰にも話さないよう固く口止めされて、やっと解放されたのは夜の7時近くのことだった。


 オレが通う白帝高等学院は、良家の子弟が通う、いわゆるお坊ちゃん学校だ。学費の高さは半端じゃない。そんな学校に庶民のオレが入学できたのは、剣道の特待生として学費を免除されることになったからだった。
 彼、槇村望(まきむら・のぞむ)は、中等部からの持ち上がり組だった。そういう奴は大抵、同じ中等部からの仲間とつるんでいるのだが、彼には友達らしい友達はいなかった。
 同じ剣道部のクラスメートが、こっそり教えてくれた話によると、槇村はさる大金持ちの愛人で、そいつが学校に目の飛び出るような寄付をして、槇村に悪い虫が付かないよう頼んだので、槇村は教師や学校関係者にがっちりガードされていて、素行の悪い生徒は近づけないのだということだった。
 生徒会の役員が交代で、まるで腫れ物に触るように、槇村の面倒をみているのを時折、見かけた。槇村は、感情のない人形のように、いつも淡々とそれを受け止めていた。その綺麗な横顔は、どんなに大勢のお守り役に取り囲まれていても、いつも淋しげだった。

 
 当然と言えば当然だが、槇村は翌日から学校を休んだ。もともと、しょっちゅう学校を休む奴だったので、皆、たいして気に留めなかった。期末試験が近くて、人の心配どころじゃないというのもあった。
 オレは宮下先生から、槇村が退院したと聞いて、日曜日に見舞いに行った。試験が近いから、ノートのコピーを渡してやろうと思ったんだ。
 庶民のオレは、豪邸という言葉がピッタリのモダンな屋敷に驚いた。クラスにもお坊ちゃんは何人もいるけど、これだけの金持ちはいなかった。執事までいるんだから、恐れ入る。
 槇村は、年輩の看護婦に付き添われて、ベッドで英語の教科書を開いていた。試験を気にしてるというのは、前向きでいいことだ。
 オレがノートのコピーを差し出すと嬉しそうに受け取った。その手首にはまだサポーターがあったけど、オレは見て見ぬフリをした。
「迷惑掛けて、ごめんね」
 家政婦さんが、寝室の続きになっている勉強部屋のモダンなミニテーブルに、マフィンと紅茶を置いて下がると、槇村は恥ずかしそうにポツリと言った。
「気にすんな。オレは全部忘れるから、槇村も早く忘れちまえよ」
「・・・うん」
 紺色のナイトガウンを羽織った槇村は、秋の明るい午後の日差しの中にいても、どこか淫靡な匂いがした。たぶん首筋に浮いているのは、キスマークだ。紅茶のカップを口に運ぶ動きは物憂げで、槇村は酷く疲れた様子だった。
「この一緒に写ってる女、誰? 美人だな」
 気まずくて、目に付いた写真のことを尋ねてみる。
「家庭教師のいずみさん。僕、英語が苦手だから・・・」
「へえ、家庭教師までつけて貰ってるんだ。いいなぁ」
 この勉強部屋は、20畳くらいあって床暖房だ。勉強机以外にも、壁掛け液晶テレビに、ゲーム機3台、カウチにミニテーブルがある。奥の寝室はダブルサイズのベッドとオーディオセット、クローゼットがあって、おそらく12畳はある。こんな贅沢な暮らしをさせてもらっていて、槇村は何が不満で自殺未遂なんてしたんだろう。
 オレは、しばらく他愛ない話をして、マフィンを平らげると、槇村を疲れさせないよう帰ることにした。しかしオレが廊下に出るのを待ちかまえていたように足早に執事さんがやってきた。
「主人が少しお話ししたいと申しておりますが、お時間は宜しいでしょうか?」
 心臓がドキンと鳴った。主人て、槇村を囲ってる男のことだよな。
「はい、かまいません」
 声が震える。オレは、バクバクする心臓を必死で宥め賺した。
 案内されて行った部屋は、書斎らしく壁一面に書架が造り付けられていた。大きな書斎机の周りにはパリッとビジネススーツを着込んだ男が二人立っている。その二人とは対照的に、くだけたカジュアルな服で、恐ろしく端正な顔立ちの男が、書斎机に座って書類を読んでいた。
「君たち、少し外してくれないか」
 オレを見て、カジュアルな服の男が言うと、ビジネススーツの二人はすぐに部屋を出て行った。
「斉藤幸広(さいとう・ゆきひろ)くんだね? 私は槇村望の保護者の大沢孝明だ。宜しく」
 書斎机を離れて、オレに歩み寄った彼は、人懐っこい笑みを浮かべて、右手を差し出した。オレがおずおずとその手を握ると、彼は嬉しそうに目を細めた。
 オレは、どうして彼がホモで、槇村を抱いているのだろうかと不思議に思った。だって、これだけ金持ちでハンサムなんだから、どんな美女でも望むまま手に入るだろうに・・・。確かに、槇村は女の子みたいに可愛くて、きれいな肌をしているけど、男の愛人なんて、こういった社会的地位のある男にはマイナスになるはずだ。
「どうぞ、掛けて」
 オレ達は、書斎机の脇にある応接セットに向かい合って座った。
「あの子は、動機について何か君に話したかい?」
 穏やかで柔らかい声が訊いてきた。
「いいえ、ぜんぜん・・・。オレもあえて訊かなかったし」
「君は何か思い当たることはないかな? イジメとか、誰かと喧嘩したとか、勉強についていけないとか」
「あの・・・オレ・・・槇村とは、そんなに親しくないんです」
 実際、槇村は親しい友人なんて一人もいないはずだ。無口で大人しく、自分の意見を言ったところなんて見たことない。 
「君は何が原因だと思う?」
「・・・わかりません。お力になれなくてすみません」
 彼の口から、大きな落胆の溜息が漏れた。オレは、彼を落胆させたことが酷く残念で悔しくて、しょんぼりと肩を落とした。
「君には感謝しているよ。君が見つけてくれなかったらと思うと、ぞっとする。あの子は私の生き甲斐なんだ」
 さっきまでの自信に満ちた輝きはなりを潜め、彼は恋人の心が掴めない不安に苦悩していた。彼がどんなに槇村のことを愛し大切に想っているか、初対面のオレにだって、はっきりとわかった。オレは槇村の首根っこを捕まえて、何が不満なんだと訊いてやりたい気分だった。


 結局、槇村は一週間休んで、ようやく学校に出てきた。左手首の傷は時計で、右手首はサポーターで隠れて、誰も槇村の傷に気づかなかった。
 オレ達はクラスが違うので、時々、廊下ですれ違うくらいで、特に言葉らしい言葉は交わさなかった。オレは約束通り、槇村の自殺未遂はすべて忘れたふりをしてやった。
 冬休みが終わり、久しぶりに登校したオレは、突然、槇村に呼び出されて面食らった。待ち合わせの学食で、槇村は俺の前に傷跡の消えた両手首を見せてくれた。
「冬休みに、アメリカで手術を受けたんだ」
 小さく笑う槇村は、淡々としていた。
「すごい、全然わかんないな」
 オレが素直に驚嘆すると、槇村はきれいな顔をくしゃりと歪めて、とても辛そうな顔をした。
「あの人は、こんな風に何もかも、なかったことにしてしまえるんだ」
「え・・・?」
 オレは訳が解らず、槇村の顔をポカンと見つめた。何が言いたいんだろう? とても大切なことのように思うんだが、よく意味がわからない。
「何が不満なんだ? これ以上ないくらい愛されて大切にされてるのに」
 恐る恐るオレは訊いた。
「ばぁか、愛されてなんかないよ」
 槇村の瞳には、強い怒りと憎しみの炎が宿っていた。そのあまりの禍々しさに、オレは凍り付いた。これがあの大人しくて可憐な槇村だろうか・・・。
「まさか・・・あの人に無理矢理・・・されてるのか?」
「そんな風に見えるの?」
 槇村はひどく心外な顔をした。
「いや、見えない」
 オレが応えると、槇村は満足そうに微笑んだ。それから思いついたように
「斉藤くんは彼女、いるの?」と訊いてきた。
「ああ、いるよ。中学卒業する時、告られて、つき合うことになったんだ」
 オレはちょっと胸を張って答えた。オレの彼女はミス・桜中だったんだと言いたかったが、これは謙虚にグッと我慢した。
「へぇ、モテるんだ」
 槇村が少し羨ましそうにオレを見たので、オレの自尊心はいたく満足した。槇村は、一旦、目を伏せて、それから意を決したように口を開いた。
「彼女と一緒に遊びに来てくれないかな」
「えっ?」
「週末に、ちょっとしたパーティーがあるんだ。生徒会長や生徒会の役員も何人か来る。斉藤くんが他に誘いたい奴がいるなら誘ってもいいよ」


 ガールフレンドの真理亜は、パーティーと聞いて大喜びした。何を着ていこうかと頭を悩ませていたが、結局、パステルピンクのワンピースにした。オレは、スーツなんて持ってないから制服だ。
 パーティーは、全部で30人位の客が招かれていた。最近、プロデビューしたという女性バイオリニストのミニ・コンサート後、立食パーティーとなり、オレは滅多に食べられない豪華な食材に舌鼓を打っていた。
「ユキくん、そんなにがっつかないでよ、恥ずかしい」
 真理亜が、ふくれっ面で文句を言う。
「ごめん、食べてないと落ち着かなくてさ」
「お友達に紹介してよ」
「オレ、生徒会の奴らは苦手なんだよ」
 オレ達が、コソコソ話していると、クスクスと笑い声が聞こえてきた。
「庭に出てみるといい。西の方に温室があって、恋人同士が過ごすにはもってこいだよ」
 そう言った男は30代の知的な紳士で、真理亜の目が途端にハートマークになった。なんだよ、ちょっと美形だからって、なに赤くなってんだよっ!!
「あと一時間もすれば、デザートが出るから、それまでには戻っておいで」
 にこやかに笑う男は、どこかで会ったことがあるような・・・。
「ノブ、望を見かけなかったか?」
 突然、現れたのは、パーティーの主催者、大沢孝明(おおさわ・たかあき)氏だった。
「あの子なら、さっき頭痛がするから部屋で休むって言ってたよ」
「部屋には、いないんだ。どこに行ったんだろう」
 大沢さんは、心配そうに眉を寄せる。
「過保護だなぁ。もう小学生じゃないんだから、そんなに心配しなくても大丈夫さ」
 槇村が、自殺未遂をするほど情緒不安定だと知らない男は、呑気に笑っていたが、オレは不安になった。
「オレ、探してきます」
「いや、大丈夫だ。私の秘書が探してるから、じき見つかるだろう」
「君たちは、温室でも行って遊んどいで」
 意味深にウインクされて、オレは真っ赤になった。真理亜は、相変わらず男の二枚目ぶりにうっとりとしている。オレは真理亜を男から引き離したくて、温室へ行くことにした。


 温室の中は、軽く25度はあった。小さな噴水を囲む形で様々な南国の植物が植えられている。その中でもひときわ目を引く大きな椰子の下に置かれた長椅子で、槇村が眠っていた。
「あらあら、こんなところにいたのね」
 真理亜が、呆れたように呟いた。
「シッ! せっかく眠ってるんだ、起こすなよ」
「わかってるわ。早く戻って教えてあげましょう」


 広間に戻ると、大沢さんはいなかった。家政婦さんに聞くと、書斎だと言うので、オレは真理亜を残して、書斎へ知らせに行った。以前、来たことがあるので、書斎はすぐにわかった。
 ノックをしようとして、オレは中から聞こえるくぐもった喘ぎ声に固まった。それが、アノ時の声だってことは、すぐにわかった。中にいるのは、大沢さんだ。そして、相手は・・・?
 オレは好奇心に勝てず、そっとドアを開けた。目に入ったのは、床に落ちたブルーグレーのジャケットだった。それは、さっきの男が着ていたものだ。
 大沢さんが、「ノブ」と呼んでいた男。どこかで会ったことがあると感じたのも道理だ。あの男と槇村は、顔立ちがそこはかとなく似ている。ようやくオレは、槇村の絶望と怒りがわかった。
 大沢さんは、槇村を通して他の男を見ていたのだ。それがどんなに残酷で辛いことでも、身寄りのない槇村は耐えるしかないのだ。大沢さんをなじることも責めることもできず、槇村は・・・。
 
 
 気がつくとオレは、温室に戻ってきていた。槇村はまだ眠っていた。彼は今、どんな夢を見ているのだろう。槇村の上に屈み込んだオレは、その時初めて槇村の異変に気づいた。
 息をしていない!? オレはショックと恐怖でその場にへたり込んだ。そして長椅子の下に転がっている薬瓶を見つけた。これを全部、飲んだのか?
 オレはじっと槇村の顔を見つめた。恐る恐る探った首筋の動脈は弱々しく脈を打っていた。このまま、逝かせてやる方が彼のためだろうか。そうして、槇村を死ぬほど苦しめたあいつらを後悔させてやるんだ。
 だけど槇村は、本当にこんな風に死にたかったんだろうか。まだ、17才なのに。生きてさえいれば、いつか本当に槇村を愛してくれる人と出会えるはずだ。
 オレは、弾かれたように立ち上がると、散水用のホースを引きずってきて、槇村の口に強引に突っ込んで水を飲ませた。意識を取り戻した槇村が咳き込んだのに乗じて、薬を吐かせるために口の中に指を突っ込む。
「きゃあああっ!!」
 背後で、悲鳴が上がり振り返ると、髪を引っ詰めてスーツを着た女が立っていた。大沢さんの秘書だ。
「救急車を呼んで下さいっ!! 槇村が薬を飲んだんです!!」
 オレの説明に秘書は慌てて携帯を取り出して、救急車を呼んだ。その間も懸命に薬を吐かせようとするオレに、槇村は歯を立てて抵抗した。
「頼むよ、薬を吐くんだ!! 槇村っ!!」
 力任せに指を突っ込んで、オレは薬を僅かばかり吐かせることに成功した。しかし救急車が到着した時には、すでに槇村の意識はなかった。
「大丈夫よ、きっと助かる!」
 ガタガタと震えるオレの身体を真理亜が、抱き締めてくれた。その温もりにオレは心底、ほっとした。
「ああ、きっとそうだ。きっと助かる・・・」
 神様、どうか槇村を助けて下さい。オレは槇村が辛い時、苦しい時、これからはきっとこうして抱き締めてやります。槇村が幸せになるまで、根気強く励まして、見守ります。
 だから神様、どうか槇村をオレの元に帰して下さい。槇村にもう一度、生きるチャンスを下さい。オレはあいつと友達になりたいんです。神様、どうか・・・。
 それは、子供だったオレが、厳しい現実への第一歩を踏み出した最初の瞬間だった。
                             END  
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