抜けない棘 月桜可南子 |
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『頼みがある。俺の恋人のふりをして欲しい。』 正木幸宏は、そのメールをゆうに百回は読み返した。メールの差出人、坂本省吾とはセックスフレンドで、ベッドの誘い以外のメールをもらったのは、これが初めてだった。 正木は、坂本の真意を測りかね、かれこれ3時間、仕事そっちのけで考えあぐねていた。『恋人になって欲しい』なら告白メールだが、『恋人のふりをして欲しい』とはいったいどういう意味なのだろう? アメリカで生まれ、12歳になるまでアメリカで育ったという坂本は、恐ろしくドライな男だった。間違ってもセフレの正木に本気になるような男ではない。 正木にしてみても、身体の相性は良いが、坂本を愛しているかと問われたら答えはNOだ。別れた元彼を今でも未練タラタラで想っているのだから。 考えれば考えるほど謎は深まるばかりで、時間だけが刻々と過ぎていく。考え疲れた正木は、ぼんやりと坂本との出会いを思い返し始めた。 『深海』と名付けられたクラブは、一見さんお断りのクラブだった。さる富豪が、同性愛者ために趣味で経営しているというのが、もっぱらの噂だが真偽のほどは定かではない。 置いてある酒は世界各国の名酒ばかりで、バーテンダーやウエイターも一流ホテル並の教育がされていて居心地が良い。その分、ドリンクの価格もかなり高めに設定されており、財布にゆとりのある者でなければ来店できないため、いわゆるハッテン場とは一線を画する。 つまり『深海』は、周囲の目を気にせず、同性の恋人とイチャつきながら、うまい酒を飲めるという貴重な空間だった。 その夜の客はほとんどがカップルで、ボックス席で親密そうに話し込んでいたが、正木は一人で飲んでいた。7年間付き合った恋人と2ヶ月前に別れたばかりだったからだ。 バーテンダーは、愛想良く振る舞ってくれるが、こちらが話しかけない限り余計なことは一切話しかけてこない。正木は、程良い孤独感に浸りながら、日常からの解放感を味わっていた。 文具メーカーに勤める正木は、制作部門から総務に移ったばかりだ。現場を離れるのは抵抗があったが、体調を崩して何度も仕事に穴を開けてしまったので、いたしかたない。クビにならなかっただけマシと割り切った。 「セブンスヘブンです。あちらのお客様からです」 バーテンダーが静かに正木の前にカクテルを置いた。『セブンスヘブン』は、イスラム教で最高位の天使が住むとされている7番目の天国を意味する。なかなか粋な誘いだと感心しながら、正木はバーテンが示した方向に視線を向けた。 巨大な水槽の前に設けられたカウンター席に、中肉中背の地味なスーツを着た男が座っていた。歳は正木より少し上のようだ。 「ボックス席に移られますか?」 バーテンダーが柔らかな笑みを浮かべて正木に訊いた。それは、誘いを受けて男と話してみるか? という意味だ。正木は迷ったが、男の地味な服装からして、危ない相手ではないと判断した。 「いや、僕が向こうへ移動するよ」 グラスを手に、正木は男の座るカウンターに歩み寄った。 「隣、いいですか?」 正木が声をかけると、男は人当たりの良い笑みを浮かべた。 「どうぞ」 会話はそれだけだった。男は無言で水槽の熱帯魚たちに目を向けたまま、手にしたバーボンを味わっていた。やがて、正木がカクテルを飲み終わるのを見計らったように、男はゆっくりと席を立った。 「行こうか?」 どこへ? などと野暮なことは訊くまでもない。正木は促されるまま黙って立ち上がった。 男は手慣れていた。瞬く間に正木の服をはぎ取りベッドに押し倒す。ひどく即物的なセックスだったが悪くはない、というか巧い部類に入ると感じた。 行為の後、正木が脱力感に手足を投げ出していると、自分のビジネスバッグを探っていた男が不意に訊いてきた。 「いいか?」 「え?」 間抜けに聞き返してからそれが煙草のことだと気づいた正木は赤くなった。 「あ、どうぞ……」 「悪いな、癖なんだ」 「癖?」 「セックスの後の一服」 「ふぅん」 男が窓際のテーブルで煙草を吸い始めたので、正木はだるさの残る体を叱咤して、シャワーを浴びるためにベッドを抜け出した。 セックスでは男がきちんとスキンを付けてくれたから、後始末の必要もなく、ざっと汗を流しただけでバスルームを出る。濡れた髪を拭きながらベッドルームに戻ると、男は電話中だった。 「とにかく、すぐ行くからそのまま待っててくれ」 どうやら正木に聞かれたくない話らしく、男は正木を視界に捕らえるやいなや、すぐに携帯電話を切った。そして、手早く服を身につけ始めた。 正木が戸惑って見ていると、ネクタイを締め終わった男が思い出したように正木を振り返った。 「俺は急用ができたんで帰るが、おまえはゆっくりしていけよ。これ、俺の分の宿泊代」 男は札入れから万札を二枚抜き取ると、ナイトテーブルの上に置き、正木の返事も待たずに部屋を飛び出していった。 正木はそれから週末ごとに『深海』に通い、男を見繕ってはセックスするようになった。ちょうど仕事の山が一段落して時間ができたことも理由の一つだが、あの『セブンスヘブン』の男とのセックスが呼び水になって、消えかけていた性欲に再び火が灯ったというのが正直な理由だ。 あの男とも何回か『深海』で顔を合わせた。毎回、違った相手を連れていて、どうやら『深海』では常連らしい。 『深海』の客は比較的カップルが多かった。それも同性同士の恋人だ。正木自身も付き合っていた恋人と記念日に数度来た。人目をはばからずキスしたり手を繋いだり、ずいぶん大胆なことをしたものだと、今更ながら恥ずかしくなる。 しかし、あの時は相手の男に夢中で、嬉しくて楽しくてたまらなかった。腰を引き寄せられただけでその気になり、男に笑われたこともある。 正木と違ってバイだったその男が、今、女と付き合っていると人伝に聞いたのは昨日のことだ。あの人なつっこい笑顔を今、その女に向け、ジムで鍛えた逞しい胸にその女を抱いているのかと考えると、嫉妬で胃がムカムカしてきた。 正木が、悪酔いする前に帰ろうと、飲みかけのグラスを置いて立ち上がったその時――。 「もう帰るのか?」 声を掛けてきたのは先日、『セブンスヘブン』を奢ってくれたあの男だった。 「いい男が、いないから」 正木が冗談めかして微笑むと、男はいたずらっぽく唇を引き上げた。 「いい男なら、ここにいるぞ。俺のセックス、良かっただろう?」 正木は目を見開いて絶句し、それから呆れたように呟いた。 「ずいぶん自信家なんだな」 「あっ、く……うぅ……」 背後から激しく打ち込まれて、正木は背を撓らせた。そのまま前後に揺すりたてるように腰を使われ、シーツを握る指先にさらに力が入る。 「そこっ、いいっ! もっと…!!」 正木が絶頂に駆け上がる寸前、男は絶妙のタイミングで砲身を引き抜いた。唖然と振り返った正木に、男は楽しそうに命じる。 「自分で膝を抱えて、俺に尻を突き出せ」 「そんな……無理……」 正木は羞恥のあまり、子どものようにイヤイヤと首を振って拒んだ。すると男は正木の右足首を掴み、見せつけるように正木の足の親指にねっとりと舌を這わせた。 「ひゃっ…やぁあ――っ!!」 得体の知れない快感が下腹を直撃し、正木は悲鳴を上げた。 「さあ、見せろよ。おまえの秘密の場所を」 優しい声音で囁かれ、正木は催眠術にかかったように自分で脚を抱えて秘められた場所を男の目の前に晒した。さっきまで男を銜え込んでいた秘孔が物欲しげにひくつくのをどうすることもできず、正木は羞恥に耐えながら消え入れそうな声で訴えた。 「はやく……」 男はゆっくりと蕾の周りの襞を指先で嬲ると、ようやく正木の内部に侵入してきた。 「可愛いよ、顔だけじゃなく内部もね」 驚いたことに、男は正木とたった一度、それも一ヶ月も前に肌を合わせただけなのに、正木の感じる場所をすべて覚えていて、抜かりなくそこを責め立てる。正木は堪えきれずに恥ずかしい言葉をさんざん言わされて達した。 行為の後、正木はそんなつもりは毛頭なかったのに、言葉巧みに男に請われるまま、気がつけばメアド交換までしていた。それからは、月に一度か二度、その男・坂本省吾と逢ってセックスするようになった。 いっさいの感情を読み取れない冷めた目で、坂本から傲慢に命じられると、正木はどんな恥知らずなこともしてしまう。セックスに対してどちらかと言えば保守的だった正木には、坂本との奔放なセックスはひどく新鮮だった。 坂本が、正木以外にもセフレを持っていることはすぐにわかった。坂本は最初からそれを隠さなかったし、正木もその方が気楽だった。 たとえ最中であったとしても、坂本から甘い言葉を囁かれたりしたら、正木は二度と坂本に会わないだろう。それほどまでに正木は、別れた恋人に未練があった。自分から別れを切り出したというのに……。 坂本は、クールでドライだが頭の良い男で人当たりもソフト、一緒にいて疲れなかった。なにより、お互い身体だけの関係だと割り切っていたからこそ、一年あまりも続いてきたのだと思う。 コーヒーの芳香に顔を上げると時計は午後三時を示していた。同じ課の女性陣がたむろして、おやつを摘みながら休憩を取っている。 正木は坂本のメールに「詳しく事情を説明して欲しい」と返信すると、頭を切り替えるためにコーヒーを煎れることにした。 待ち合わせ場所の居酒屋に、坂本は30分も遅れて来た。文句の一つも言ってやろうと待ちかまえていた正木だが、普段はクールな男が息を切らせて店に駆け込んできたので、驚いて文句を言うのはやめた。 「走って来たんだ……」 「ああ、地下鉄の駅からな。待たせて悪かった」 坂本は悪びれた様子もなく言ったが、そもそも彼が謝罪の言葉を口にするのは初めてで、またしても正木は面食らってしまった。 「まあ、座れば?」 怒っているふりをして、正木が素っ気なく言うと、坂本はコートを脱いで店のハンガーに掛けてから席に着いた。相変わらず几帳面な男だと、改めて感心する。 「それで、あのメールのことだが、どういうことなんだ?」 坂本がオーダーを済ませると、正木は躊躇いがちに質問した。 「俺の恋人のふりをして、ある人物と食事をしてもらいたいんだ。これ以上詳しいことは、イエスの返事をもらってからでないと話せない」 「恋人のふりなんて、事情をきちんと説明してもらってからでないと、俺もイエスなんて言えないよ」 わざと突き放すように言うと、坂本は正木の真意を探るように正木の顔をじっと見つめた。それは、正木の一番苦手な冷徹な目だった。 「困ったな」 口にした言葉とは裏腹に、坂本がこれっぽっちも困っていないことは一目瞭然だった。この話を正木が断れば、別の男に話を持っていくだけのことだと、聡い正木はすぐに感づいた。 「わかった、引き受ける。返事はイエスだ!」 やけくそで叫ぶと、坂本が満足そうに口元を引き上げた。 「それじゃ、店を替えよう。人に聞かれたくないんだ」 連れて行かれたのは『深海』で、それも一番奥のボックス席だった。坂本は、イエスの返事に気を良くしたらしく、豪勢なフルーツの盛り合わせまでオーダーした。 「食事の相手は、高柳笙っていうミュージシャンだ。知ってるか?」 「もちろん知ってるさ。『ワンダーランド』の作曲家で、まだ高校生だって、ネットでもずいぶん騒がれてたしな」 「高柳笙は、俺がマネージメントしている天野大聖の恋人だ。で、大聖と俺ができてるんじゃないかって、疑ってる」 「天野大聖って、あのチャラそうな俳優だろ? 高柳笙があいつの恋人? ていうか、あんた、芸能事務所なんかに勤めてるんだ。俺はてっきり銀行マンか公務員だと思ってた」 坂本は、正木の驚きを冷めた目でスルーすると、さっさと話を進めた。 「確かに大聖はバカで単純だが、純粋に笙くんを愛してるよ。だから、誤解を解いてやりたいんだ」 嘘だ。即座に正木はそう直感した。坂本は、そんなお人好しではない。彼が『誤解を解きたい』と考えるのは『実際に大聖と寝た』からだ。 「それで、僕の出番ってわけか。あんた、狡い男だな」 本当は大聖とヤったくせに――。正木が精一杯の皮肉を込めて言ってやると、坂本は大袈裟に肩を竦めて笑った。 「そんなことは百も承知で俺と寝てるくせに、今さら何だって言うんだ」 それもそうだと正木は自嘲した。坂本はセックスフレンドなのだ。セックス以外に、誠実さや節操といった他の何かを期待するのは筋違いというものだ。 「なら、今夜はあんたの部屋に行きたいな。恋人の部屋に一度も行ったことがないなんて変だろう?」 正木は情欲に濡れた声で甘く囁いた。 その夜、正木はベッドで徹底的に坂本の趣味やライフスタイルを叩き込まれた。家族構成や甥姪の名前や年齢にいたるまで、すべて暗記するまで達かせてもらえなかったのだ。 その後は、今度は正木の仕事や趣味、家族構成などを事細かに聞かれた。薄々気づいてはいたが、坂本は本当に頭が良く記憶力も抜群だった。一度聞いただけで九割を暗記できていた。芸能事務所のマネージャーは、こんなに頭が切れないと務まらないものなのだろうかと正木は驚いてしまった。 待ち合わせの中華料理店に現れた高柳笙は、恐ろしく質素な服装だった。『ワンダーランド』の全米ヒットで、彼には目の飛び出るような金が入ったはずなのに、ブランド品など何一つ身につけていない。 大学受験に専念するため、芸能活動は休止しているとはいえ、ココア色のダッフルコートに濃紺のトレーナー、ジーンズにスニーカーというのは、あまりに子どもじみている。それとも今時の18歳は、こんなものなのだろうかと29歳の正木は頭を傾げた。 坂本がわざわざ椅子を引いて着席を促すまで、まごついていたことからも、機転の利くタイプではないことが伺えた。 坂本の話では、内気で人見知りが激しいということだったが、笙はいくぶん物怖じしながらも、坂本と正木の出会いや第一印象など事細かに訊いてくる。正木は、坂本と打ち合わせたとおりに、互いに一目惚れした相思相愛のカップルを演じた。 席について30分ほどで、天野大聖から坂本に連絡が入った。 「笙くん、ドアはどうする? 開けておくかい?」 大聖を大通りまで迎えに行くため、席を外す坂本が訊いた。 「はい、お願いします」 せっかく個室を押さえたのにと、正木は怪訝な顔をする。 「笙くんは、密室で知らない奴と二人きりになると落ち着かないんだ」 坂本はドアが閉まらないよう椅子で固定すると、笑って正木に説明した。 「すみません。正木さんとはまだ会ったばかりだから……」 気まずそうに笙が目を伏せた。なるほど、人見知りが激しいとはこういうことかと、正木はやっと合点がいった。 坂本の姿が見えなくなったのを確認すると、正木は、ずっと疑問に思っていたことを口にした。 「ねえ、高柳くんは女の子とはダメなの? 年上の綺麗で優しいお姉さんとか嫌い?」 世間話のようにさりげなく正木が訊くと、笙は何のてらいもなく答えた。 「ママが、きちんと責任を取れる年齢になるまで、女の子とお付き合いしてはダメだって」 笙の返事に正木は自分の耳を疑った。いったい、いつの時代の話だ。 「もう君は、ママにあれこれ指図される年齢ではないだろう?」 「そうなんですか?」 笙は不思議そうに首を傾げる。 「まあ、普通は親離れ子離れする年齢だよ」 「そうですね」 笙が決まり悪そうな顔をしたので、正木は慌てて話題を変えることにした。 「ところで、天野くんのどこが好きなの?」 「……全部です。特に僕と正反対なところが好きです」 「なるほどね。自分にないものって憧れるよね。隣の芝生は青く見えるってヤツ。で、優しくされちゃったりするとイチコロだよね」 正木の指摘は的を得ていたらしく、笙は頬を赤らめた。どうやら、この少年はまだ恋に恋しているお子様に過ぎないようだ。 「ああ、そうだ――君にプレゼントがあるんだ」 正木は坂本に言われて用意していたプレゼントの包みを鞄から取り出した。 「これ、良かったら使ってみて。僕のお気に入りなんだ」 それは正木のお気に入りの潤滑クリームだった。サラッとしているが、とても保湿性が高く、インサートに時間がかかっても乾かないし、体温で暖まるとさらに滑りが良くなる。18にもなって、未だにセックスを怖がっているという初心な少年には、ピッタリのプレゼントだ。 「ありがとうございます。正木さんのお気に入りって何ですか?」 「それはね、セックスするときに使う潤滑剤。滑りがいいと快感を得やすくなるから潤滑剤は大切なアイテムだよ。君もいろいろ試してこだわったほうがいい」 正木が説明してやると、プレゼントの袋を開けようとしていた笙の手がピタリ止まった。ゆっくりと顔を上げた少年は、酷く怯えていて、何かを探るように正木の顔を凝視した。 「前に付き合ってた彼は、女の子としかセックスしたことなくてさ、僕も男とは初めてで、なかなか気持ち良くなれなかったんだ。それで、彼がネットでそれを見つけて、試してみたら凄く良かったんだ」 それは、坂本にもまだ話していないことだったが、笙に見つめられた正木は、なぜか口を滑らせてしまった。 「その彼とは、どうして別れたんですか?」 笙の疑問はもっともだった。それほど尽くしてくれた恋人となぜ別れる必要があったのか。 「……彼が優し過ぎたから……かな?」 まるで腫れ物に触れるかのように自分を扱う男に、正木は追い詰められていたのだ。恋人が優しければ優しいほど、自分の存在を否定されているような錯覚に囚われた。情緒不安定になって当たり散らす正木をそれでも恋人は支えようとしてくれた。 「これ以上、惨めになりたくないんだ。別れて欲しい」 気がついたら自分からそう口にしていた。荷物をまとめる正木を恋人は呆然と見ていたが、遂に引き留めることはしなかった。あの時は、自由になれた気がしたが、それは淋しさと引き替えの自由でもあった。 正木が、つらつらと物思いに耽っていると、坂本が天野大聖を連れて戻ってきた。 「こんばんは、天野大聖です。坂本さんには、いつもお世話になっています」 大聖は、礼儀正しく正木に頭を下げる。 「正木幸宏です。よろしく」 芸能人らしい華やかな笑顔に気圧されながらも、正木はそっと坂本に視線を走らせた。坂本はポーカーフェイスの微笑を浮かべて笙を見ていた。笙は決まり悪そうに目を伏せたままだ。奇妙な緊張感がみなぎるなか、その緊張を解いたのは大聖の一言だった。 「笙、試験はどうだった?」 大聖は何の気負いもなく、その質問を口にした。 「……まあまあ、できたと…思うけど」 自信なさげな様子に正木は不安になったが、大聖はにっこり微笑んで言った。 「笙が『まあまあ』って言うなら、受かったも同然だな。よし! 今夜は合格の前祝いってことで、飲むぞ〜!」 大聖は、脳天気だが、底抜けの明るさで周囲の人を和ませることに長けていた。大聖を見る坂本の目は、大聖が可愛くてたまらないというように細められている。そんな坂本を見るのは初めてで、正木は驚きとも怒りともしれないものを感じた。そして、それが嫉妬だと気づいて戸惑った。 視線を感じて正木が振り返ると、笙が今にも泣きそうな目で自分をじっと見ていた。 「ほら、笙くん、天野くんに注いであげて」 正木は、慌てて笙にビール瓶を渡した。朗らかで人なつっこい大聖とは真逆な少年は、恋人のはしゃぎぶりに困惑しながらもビールを注ぐ。 大聖は、ご主人様にかまわれて嬉しくて堪らない犬のように、笙にじゃれついていた。他人の視線などまるで頓着していない天真爛漫ぶりだ。 その様子は、かつて正木もそんな風に恋人に甘えていた記憶を呼び覚ました。唐突に、正木は淋しさを感じた。 「幸宏もほら、もっと飲めよ」 不意に、坂本からビールを勧められて、正木は赤面した。下の名前で呼ばれたのは初めてだったからだ。 「なに、赤くなってんだ?」 「いや、別に……」 たかが名前を呼ばれたくらいで赤くなってしまった自分が腹立たしい。思わず眉を寄せると、坂本に耳元で囁かれた。 「しかめっ面なんかするな。俺を見て笑えよ。笙くんに疑われたら元も子もない」 正木は仕方なく顔を上げ、作り笑いで微笑んでやった。 男達の荒い息、下卑た笑い。汗と精液の匂いに混じって血の匂いもする。激しい悪寒に身体がガタガタと震えて止まらない。正木は、苦痛のあまり地面の固い土に爪を立てた。 「なあ、二輪挿しやってみないか?」 興奮した声が言った。 「いいな、それ。おまえ、そっちから挿れてみろよ」 「暴れないよう押さえてろよ」 恐怖に喉がひきつれてうまく声がでなかった。正木は必死で首を横に振って拒んだが、聞き入れられるわけもなく――。 「ひっ……いぃっ!」 息をするのも忘れて全身を強ばらせた正木は、激しく肩を揺すられて現実に引き戻された。ゼイゼイと酸素を貪る正木を、坂本が驚いた顔で見ていた。 あれから3年余りが過ぎたのに、もう忘れたと思ったのに、どうして今さらあの時の夢など見てしまったのかと考えて、高柳笙に昔話をしたのが原因だと気が付いた。忌まわしい暴行は、今も正木の胸に抜けない棘のように突き刺さったままなのだ。 「大丈夫か? 」 いつも冷静な坂本にしては珍しく心配そうな顔をしている。 「あ……うん、平気だから……」 悪夢を振り払うかのように、正木は上半身を起こして頭を振った。 食事の後、門限が午後10時だという高柳笙と彼を送る天野大聖と別れたのが、午後8時半のことだ。正木は、ボロを出す前にお開きになって心底ほっとした。 それから坂本とふたり、坂本の部屋で飲み直すことになった。むろん、セックス込みでだ。坂本と一戦交えた正木は、付け焼き刃の恋人役を無事、果たし終えた緊張が解けて眠り込んでしまった。 「ちっとも平気には見えないぞ。今夜は泊まっていけよ」 いつもドライな、およそ坂本らしくない労りの言葉をかけられて、正木は戸惑った。 「いや、明日も出勤なんだ。帰らないと」 「じゃあ、一眠りしてからにしろ。後でタクシーで送ってやる」 少し苛立った口調で命じられ、正木は逆らう気力もなく肯いた。軽くシャワーで汗を流して部屋に戻ると、シーツを取り替え、ヘッドボードに凭れてiPadを操作していた坂本が、当然のように自分の隣の空いたスペースを指さした。 1DKの坂本の部屋には身体を横たえられるソファーなどないので、正木はおとなしくそこへ横になる。 「とにかく、少し眠れよ」 坂本が、正木の髪を指で梳きながら言った。こんな風に優しくされるのは慣れていなくて、正木は落ち着かない。 「わかった。2時間したら起こしてくれ」 わざと素っ気なく言った正木は、清潔なシーツの石鹸の匂いにほっとしながら目を閉じた。 それから、ぐっすり眠った正木は気分も良くなっていた。起きたのはぎりぎり終電に間に合う時間だったが、坂本の好意に甘えてタクシーで自分のマンションまで送ってもらった。 「今夜は、幸宏が俺の恋人だからな」 坂本が、皮肉とも冗談ともわからない口調で言ったからだ。ご丁寧に、正木が部屋の明かりを点けるところまで確認して帰っていったのには驚いたが。 正木は、以前の恋人から大切にされていた思い出が蘇って胸が熱くなった。今、彼はどうしているだろう? 恨んでいるだろうか? それともまだ自分を想ってくれているのだろうか? 翌日、高柳笙からメールが届いた。 『昨日はお忙しい中、会ってくださりありがとうございました。大聖さんと仲直りしました。』 今時の高校生にしては珍しく、絵文字のひとつもない短いメールだが、正木はいかにもあの少年らしいと思った。 おそらく彼は、仲直りのきっかけが欲しかったのだ。恋人の浮気に気づいてショックを受けても、とっくに許していた……いや、諦めていたはずだ。 正木自身、かつてはそんな風に盲目的に人を愛したことがあった。だから、笙の気持ちは手に取るようにわかる。 正木は、少年の幼く不器用な恋が少しでも幸福なものであって欲しいと、祈らずにはいられなかった。 |
END |